第五章第七話  遥かなる戦い

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 どうか、どうか、翼をください。
 もがれてもふたたび飛び立てる翼を。いのちと共に朽ち果てることのない翼を。

 どこを見渡しても光のない場所で、少年は誰かを捜していた。道かどうかも分からないところを、それでも怖じることなく歩いていく。それは随分と無謀なことだった。光がなければ誰かを捜すにも見つけようがないのだから。それでも少年は引き返そうとはしなかった。ただ曲がることなくまっすぐ歩き続けた。今まで辿ってきた『道』にも、もちろん光は灯っていない。それならば引き返すだけ無駄だ、と考えたのだろう。
 それからしばらく歩いて、少年はとうとう走り始めた。先の見えない闇に恐れをなしたのではない。捜していた人がこの先にいる。そう思ったのだ。
 不意に立ち止まる。ゆっくりと視線を上げて、その瞳が大きく見開かれた。
 視線の先には、光があった。そしてその光の中央に、遮るように黒い影が立っていた。背丈は少年と同じか、少し高い。少し走れば詰まるが、手を伸ばしても届かない距離。影は手をぴんと伸ばし、大きく振っている。あちらも少年を捜していたらしい。微笑んでいる。少年も微笑み返そうとして――不意に眼を閉じた。
 微笑んでは、手を振ってはいけない。あの影は、もういないのだ。
 影は少年の心情の変化に気づいていないのか、ずっと手を振ったままだ。腕を左右に大きく振るだけの操り人形のようだった。気味が悪いほどに、手の高さもタイミングも先ほどからずっと変わっていない。
 今まで何を期待していたのだろう。何を捜してここに来たのだろう。あの影は確かに捜していた人のものだけど、本当にその人ではない。その人を形作っている影に過ぎないのだ。
 あの影は、もういない。再度自分に言い聞かせて、少年は影に背を向けようとした。
「   」
 自分を呼ぶ声がした。懐かしい、あの時のままの声で。
 少年は恐れた。喜びよりも先に、恐怖が先立った。ここで振り返ったらどうなるのか。もしかすればあの影はもう真後ろに立っていて、振り返った瞬間引きずり込もうとするのではないか。――この世ではない場所へ。
 気がつけば走り出していた。無我夢中で、必死になってありもしない出口を探していた。あれとは違う光が欲しい。あの光はいわば誘蛾灯。偽りのない、真実を照らす光が欲しい。
 影は追って来なかった。少年を呼ぶ声だけがいつまでも追いかけてきた。

 嫌な汗。乱れる呼吸。込み上げる吐き気。
 何度苦しみを味わえばいいのだろう。何度同じ夢を見ればいいのだろう。あの世界から抜け出して、忘れようとした。それなのに、意識の奥底にある記憶は、そう簡単には消去できない。させてくれない。
 周りを見渡すと、皆がまだ眠っていた。静かに寝息を立てている者ばかりだ。ふと、少し前に別れた弟分たちを思い出す。いびきこそ掻かなかったが寝言は酷かった。どんな悪夢を見ても、彼らを見ると高ぶる感情も落ち着いたものだった。
 だが――今はいない。執行猶予期間中だ。どんな刑が下るか、見当も付かない。それでも、絶対に死罪はないと確信しているのだが。
 絶対に取り返す。もう何も失いたくない。
 ベッドの脇に立て掛けてある剣を手に取り、イチカは仲間を起こさないよう、細心の注意を払って部屋を出た。皮肉なことだが、悪夢のせいで早起きが日課になってしまっているのだ。仲間たちが起きるには少し早い。ただ一人だけ、狸寝入りをしている者がいることにイチカは気づかなかった。
 そこで見た光景は凄まじいものだった。人が変わったように――何かが取り憑いたように、木を斬りつけ草を刈り地面をえぐり取る。見方によっては八つ当たりのように見えなくもない。否、八つ当たりの方が可愛らしいだろう。狂ったように剣を振り回すイチカから感じ取れるのは、罪悪と後悔。何に対する『罪悪』と『後悔』なのかは分からなかったが、同時に深い悲しみも溢れ出していた。苦しそうだ。その様子を木の陰から見つめていた碧は、そう思った。胸の前で手を組む。どんなに悲しい夢を見たのだろう。苦しくても辛くても、それを表現する方法を忘れてしまっているから、ただ剣を握って耐えることしかできないのかもしれない。
(ずっと、そうやって紛らわせていたんだね……)
 今はただ、黙って見ているしかできない。彼は自分を必要としていないから。だから、開きかけた唇を閉じて、イチカの邪魔にならないよう帰る。それが最善の方法だ。
「ハルカ……っ」
 ずべっ。
 思わぬ不意打ちを食らった碧は、驚きのあまり足下への注意が散漫になり石にけつまずき派手に転んでしまった。雨上がりの地面は特に湿っている。例によって宿で借りた、柔らかいベージュ色のネグリジェは、木の葉と泥と雨水とで悲惨な状態になっていた。しかし、そればかりに眼を向けてはいられない。足音が聞こえた。何故か慌てて死んだふりをするが、イチカが気づかないはずはなく。
 恐る恐る頭を動かすと、呆れた眼差しでこちらを見るイチカ。おかげさまで大分、イチカの表情が分かるようになったと思う。呆れたような視線を送ってくる時は、何か言いたいときだ、と碧は即座に判断した。
「あっ、あの……なんか外の空気吸いたいな〜〜なんて思って、ついでに散歩してたらぐーぜん、ここに辿り着いちゃったんだー……みたいな……」
 ウソをついた。苦し紛れのウソだということは誰にでも分かっただろう。自分の感情を出さない分、特にイチカは分かっているはずだ。
 倒れ伏した状態で、首だけを上に向けたまま静止する。ただでさえ首が痛いだろうに、沈黙が長い分余計に首への負担が大きく感じられるのだ。イチカもずっと碧を見下ろしたまま、動かない。不意にその表情が――銀色の瞳が悲しく揺らいだ、ように見えた。確信はない。何しろ彼はポーカーフェイス。表情を読み取ることはよほどの超人でなければ無理であろう。確信はないが――絶対に違うとも思えなかった。だとしたら何に対しての憂いだったのだろう。そう言えば彼は、誰かの名前を呼ばなかったか。確か、『ハルカ』と。名前からして女性だろう。どういう間柄だったのだろう。姉か、妹か、まさか初恋の人か。碧の想像、否、妄想は果てしなく広がっていく。生き別れ、死に別れ、無理矢理引き離された、などなど。名前を呟いたということはよほど大事な人だったに違いない。そこまで考えて、碧はさらなる自己嫌悪に陥った。あたしってばなんて場面に出くわしてしまったんだろう、イチカは大好きだった人との思い出に浸っていたかもしれないのにそんな大事なところを見てしまって。はっ、まさか……と、だんだん本題から逸れていっていることにも気づかず、勢いは止まらない。無論、イチカがそれを放っておくわけがない。
「……おい」
 静かに、しかし強くその二言を呟く。はっ、と妄想から覚めた碧は、イチカに焦点を合わせて。
「だ、大丈夫だよ! きっとそのコもイチカのこと好きだから! いいなあ美人でキレイなんだろうなぁ! どんな人かなぁ〜〜! ラニアみたいな人?」
「……何を言っている。まさか『ハルカ』のことか」
 少し苛立ったような声。碧はびくりと肩を震わせた。そして、すぐさま後悔の念にかられる。なんてことを言ってしまったんだろう。声を掛けられた途端、堰を切ったように考えていた言葉が口をついて出てしまった。なんて汚いのだろう。なんて醜いのだろう。何かどす黒い感情が、自分の心を支配し尽くしていったのを感じた。しかしそれを止められなかった。むしろ、どんどん喰らい尽くしてしまえとすら思っていた。今この時ほど、自分を嫌いになったことがあっただろうか。
 一方のイチカは、碧の表情が強張っているのを見て、まただと思った。また自分は、気づかないうちに彼女を傷つけてしまったらしい。ただ、今回は何が原因なのかおぼろげに推測できた。わけの分からないことを長々と言うものだから、ついつい苛立ちが先立ってしまっていた。それが結果的に、棘のある言葉になってしまったようだ。ならば、次の言葉は柔らかくすれば、少しは気持ちが和らぐのではないか。
 まったく、話すことにこれだけ労力を使ったことがあっただろうか。別に、こういう性分なのだからわざわざ考えて話さなくても良いだろうに。だが、何故だか彼女の怯えたような表情を見ると、自分が悪いと全面的に認めてしまう。ついでに罪悪感も覚えてしまう。ともすれば、一種の催眠術ではないかと思うほどだ。
 とにかく、口調を柔らかくすればいいのだ。柔らかく。柔らかく。そう考えながら、自然と溜め息が出る。これがまた碧を怯えさせる原因になるのだが、当然イチカは気づいていない。
「……話が読めないんだが……唯一言えるのは、あいつは女じゃない」
 碧の顔に、動揺が走った。
「……女のコじゃ、ない?」
「ああ。正確には“女じゃなかった”か。『ハルカ』は、おれが七、いや八歳のときに死んだ――おれの兄だ」
 碧の表情から、緊張感と怯えが引いていく。次から次へと語られる衝撃的な事実に、今度は驚きを隠せないでいた。しかし、そんな重大なことを語っているイチカ自身が、自嘲気味な口調であることに一番驚いていた。まるで自分のせいだ、とでも言わんばかりに。もはや自嘲は彼の表現手段になっているのではないか、とさえ思いながら、碧は悲しく聞いていた。
良香(はるか)は、おれと違って甘やかされて育った。それなのに虐待されるおれを庇ってくれた。……今思えばあいつの自己満足だったんだろうけどな。
 それでも、おれはあいつに救われていた。あいつがいなかったら、おれは今生きてはいないだろう。そう思えるほど、あいつは特別だったんだ」
 そこで一旦言葉を切るイチカ。今まで彼の口から語られた『向こうの世界』でのことは、全てが憎悪に満ちていた。思い出話と言うよりは、皮肉めいた話ばかりだった。それが今はどうだろう。恐らくたった一人の――唯一の理解者だったであろう兄のことに関しては、ことのほか懐かしげに語っている。それがあちらでの、ただ一つ許せる記憶であるかのようだった。
 それなのに、どうしてこうも自虐的なのだろうか?
 碧のその問いに答えるように、彼は今度はいつも通りの、静かな口調で言った。
「おれのせいで、良香は死んだ」

 不自然な死体があった。
 男であろう。確固とした論拠はない。ただ、不格好に折れ曲がった腕の筋肉などから判断すると、男と見るのが妥当だからだ。さらにその遺体には、腕だけでなく四肢や顔面に至るまで、意図的に折られたような痕が見受けられた。一瞬見ただけでは、性別も年齢も判別しかねるような、無惨な状態だ。それはさながら、使い古して用済みになったマリオネット。そして――それを『捨てた』者は、すぐ側にいた。
「無駄なことをせずおれの質問に答えろ」
「だぁって絡んできたんだものぉ〜〜……ってそんなに殺気出さないでくれる? 心配しなくてもすぐ遊べるわよ」
 宥めるようにクラスタシアが言う。それでも依然殺気を収めようとしないソーディアスに、とうとう彼は折れた。
「だからー、アタシはそーゆー探査能力ってゆーか、ヒトの強さを測るだとか、よく分かんないのよ〜〜! なんかノアちゃんが言ってた気はするけどー」
 それを聞いて、ようやくソーディアスは殺気を収めた。
「最初からそう言え。何と(おっしゃ)っていた?」
「えーと……“あなたが来なくても私が止めなくても、彼らは生きていなかったわ”って。可能性は保障できないらしいわよぉ」
「いや、事実だろうな。何にしても()ってみなければ分からないが。……本当にお前は何も感じなかったのか?」
 訊ねてから、ソーディアスは視線を一点に留めた。クラスタシアの方ではない。その眼はまるで、獲物の姿を捉えた猛獣そのものだ。それに気づいていないらしく「顔はカワイイ」だの「食べちゃいたくなるくらい」だのと、その時『感じた』ことをありのまま話すクラスタシア。
 腕が鳴るとはこのような状況を指すのだろう。長年時を待った甲斐があったというものだ。そうだ。今こそ、借りを返すとき。
「奴は近いぞ……クラスタシア」
 相槌を打つわけでもなく、クラスタシアからすれば全く無関係な言葉がソーディアスから発せられた。ハナシ聞きなさいよ、と文句が出そうになって、止めた。そのあまりにも悦楽に満ちた笑みを見て、どうしようもないことを悟ったからだ。クラスタシアはやれやれと肩を落とす。本当に、闘いのこととなるとただの獣に成り下がるのねと思いながら。

「……そ……そんなの……イチカのせいじゃないよ」
 長いようで、短い沈黙の後。答えに窮していた碧は、やっとのことで声を絞り出した。彼は自分を責めすぎている。どうしてそこまで自分を責める必要があるだろう。どこまで自分を追いつめる気なのだろう。どうして、楽になろうとしないのだろう。
 目線を下げていたイチカが、碧を見た。その眼が示す表情は読み取ることができない。碧は多少怯みながら、両手を広げて説明する。
「だ……だってさ、そうじゃない。人が死ぬのは当然なんだよ? ちょっとズレはあるかもしれないけど、いつかはみんな死んじゃうんだから、イチカが背負うことじゃ――」
「またか」
 呆れたような口調。うんざりだと言いたげな眼差し。何かイチカの勘に障るようなことを言っただろうかと、内心心配になる碧。何も思い浮かばない。少なくとも彼女は、自分なりに言葉を選んで言ったつもりだ。
「あんたはいつも知ったような口を利く」
 こじつけだ、と叫びたくなった。しかし言葉が出なかった。心とは裏腹に、唇が震えて動かなかった。何よりも冷たい銀色の眼が、それ以上碧が口を開くことを拒んでいた。
「おれの何を知った気でいる? 良香の何を知った気でいる? 何も知らない奴が、知っているような素振りを見せるな。腹が立つ」
 突き放したような態度。碧はそれだけで涙が溢れそうになった。どうして、どうしていつも嫌われるのか。近付こうとしても、離れていってしまう。いつだって、この距離を埋めることはままならない。
 ――どうしたらいい? どうしたら心を開いてくれる?
 もう涙が出たって構わない。言われっぱなしじゃ納得できない。そう思い、碧が口を開けた――その時。
「……っ!?」
 何かが、身体にのし掛かるような感覚を覚えた。それも半端ではない、大勢の大人に頭を押さえ付けられているような重さ。息苦しく、立っていることすら困難だ。今までにない重圧を感じ、冷静さを保てなくなる。だが、どこかでこれに似たモノを感じ取ったことがある。そうイチカは思った。同時に、碧にも思い当たるモノがあった。
(これってもしかして……殺気?! 今までのとは全然……!!)
(あり得ない。桁違いの殺気だ……)
 重圧に耐えながら、イチカは腰の剣に手を掛ける。手が震えて、柄がまともに握れない。明らかに動揺していた。
「……逃げろ。死ぬぞ」
 それは碧に向けて言った言葉だったが、同時にイチカが自分自身に向けて言った言葉でもあった。こんな殺気は今まで感じたこともない。戦うだけ無駄だ。間違いなく、殺される。いつになく弱気だった。今回ばかりは碧のことは無論、自分の身も守れないような気がしたのだ。
「……や……やだよ……」
 それは精一杯の抵抗だった。言われっぱなしだった少女の、なけなしの反抗だった。
 今感じているこの殺気がどんなに強大なものか、分からないわけではない。彼の言うとおり、逃げるが勝ちというものだろう。だがそれでも、碧は譲りたくなかった。あっさりとイチカの言うことを聞くのは、今回ばかりは無性に嫌だったのだ。
「あたしも一緒に……戦う……!」
「聞け」
 冷酷なほど強い言葉と、決して振り向かない背中。
「足手まといだと言っている」
 そしてその言葉は、はっきりと紡がれた。何の躊躇いもなく、気遣いもなく。碧は大きく眼を見開いた。見開いて、涙が流れそうになるのを堪えて、大きく頭を振って。
「……そう、だよね。ごめんなさい」
 できるだけ笑顔で言っているように、明るく返した。実際はどんな表情をしていたのか見当も付かない。自分でも考えたくなかったし、見られたくなかったから、すぐに走り出した。
 完全に碧の気配が消えてから、イチカは深々と溜め息を吐く。
「……どいつもこいつも、どうしてそう簡単に謝る……?」
 そうだ、違うのだ。本当に謝らなければいけないのは、彼女らではない。真に謝るべきなのは――。
 突如、殺気が軌跡を描いた。イチカの手が反射的に持ち上がり、向かってきた橙色の軌跡を剣で受け止める。
 相手は見知らぬ青年だった。鱗の鎧と、癖の強い長い黒髪を細めに白い布で束ねた姿は、どことなく『中華』を思わせる。だがこの奥底の気配は、今まで何度も感じ、戦ってきたものだ。ただ一点、真っ向から向かってきたということを除いては。イチカは青年の動向を注意深く確認しながら、内心驚愕していた。青年は右手で剣を持ち、しかもその片手一本で攻撃してきた。以前戦ったガイラオ騎士団員とは違い剣の大きさは通常ぐらいだというのに、力は同等かそれ以上だ。両手で対応しているにもかかわらず、押され気味なのが分かる。それを片手で、と早くも相手の実力に舌を巻くイチカ。彼はこのあと、力の理由を知ることになる。
 青年は狂喜に満ちた笑みを浮かべ、微量たりとも力を抜かぬまま、左の鞘からもう一本剣を抜き取った。
 ――二本目だと……?! 二刀流か!
 そうイチカが気づいたときには、青年の左手に煌めく黒い軌跡が彼を切り裂こうとしていて。
 イチカは咄嗟に身を引くが、短時間で全て避けられるはずがない。地面まで振り下ろされた剣が土を砕き岩を砕き、その激しさを象徴するように轟音が響いた。砂煙が上がり、景色が霞む。
 青年――ソーディアス・シレインは、舞い上がる砂埃に瞬き一つせず煙の向こうを見つめていた。ふと左腕に小さな痛みを感じて、そちらに目を遣る。二の腕に真新しい切り傷があった。だがソーディアスは、そちらよりも鎧の側面に注意がいった。僅かに掠ったような痕。それは遠目で見ればほとんど気にする必要もないほどの、小さな傷であった。唇が驚喜に歪む。
 ――この鎧を傷つけたとは。
 彼の鱗の鎧は、鱗故に普通の鎧よりも防御力が高い。無論それだけではない。特殊な魔法を使って防御力を格段に向上させた鎧で、二流剣士では剣の方が折れてしまうほどだという。彼の仲間であり破壊的な腕力を誇るクラスタシアでさえも、鎧に傷を付けるのに二十数年を費やした。それほどに、この鎧を傷物にするのは困難なのだ。
「どうやらおれは、退屈せずに済みそうだな」
 霧が晴れていく。視線の先には、おぼろげに人影が見える。
 地面に紅い斑点が描かれては染み込んでいく。まともに喰らった分、相手にも一撃与えた。浅すぎる攻撃ではあったが、全く歯が立たないというわけではないことも証明された。イチカは意外にしっかりした思考を張り巡らす。頭部から胸部にかけて傷を負っており、軽傷とは言えない状態だ。透き通るような銀髪も、ところどころ赤色に染まっている。だが腕や足は問題なく動くし、意識も思いのほかはっきりしている。少し呼吸が乱れる程度だ。
 ソーディアスもそれを分かっていたのか、すぐには動かなかった。よほどのことがない限り、自分よりも弱い相手を殺すつもりはない。殺すよりは情けを掛ける男だ。それにまだ、相手(イチカ)が弱いと決まったわけではない。そう考えると、彼は口元が歪むのを抑えられなかった。やっと、この時が来たのだ。
「魔星を統べる四天王の一、グレイブ・ソーク・フルーレンス直属部隊『フィーア・フォース』所属及び同隊指揮! ソーディアス・シレインだ」
「……イチカ」
 互いに名乗り合って、再び武器を構える。双方が走り出したのは、その次の瞬間だった。

 先ほどから響く爆発音。多分、イチカが誰かと戦い始めたのだろう。はっきりと『イチカ』だと断定できるのは、何故か分からない。ただ、イチカの気配らしき物を自分自身で感じ取れたからだろう。碧はそう考えた。本当に理由は分からないのだ。
「たぶん……こっち!」
「急いだ方がいいわねっ!」
 宿へ戻り、ラニアとミリタムを見つけた。白兎は何故かいなくなっていたので、二人だけ連れてきたのだった。ミリタムが探査系魔法を駆使し、ラニアは三人の先頭に立って走る。そんな二人の雄姿に感動しながらも、碧は心のどこかで不安だった。イチカが例外なく強いのは分かっている。今までどんな魔族に出会っても、逃げ出さずに立ち向かっていっていた。弟分たちのことだって、身を挺してまで戦った結果、元の彼らが戻ってきた。それなのに何故、こんなにも胸が締め付けられるのだろう。
 否――本当は分かっていた。原因はあの殺気だ。今まで背負った物の中で一番重かった。殺気でここまで重圧を加えることができるのかと、ただただ驚くことしかできなかった。自分は戦わずに逃げてきたからまだいい。イチカは。イチカは大丈夫なのか。あんな殺気を間近で受ければ、精神が崩壊してしまうのではないか。考えても考えても浮かぶのはイチカと、それに関する悪い予感ばかり。やはりどんなに責められようと嫌われようと、彼を嫌いにはなれない。一目惚れもあるけれど、今は『同情』に近い感情が支配していた。何とかしてイチカの力になりたいと思ってしまうのだ。彼にとって迷惑だということは分かっているのだが。
 この世界に来て何度祈っただろう。地球にいたときは全くと言っていいほど縁のなかった祈りのポーズ。何でも良いから、無事でいてくださいと。
 碧たちが走っている場所からおよそ三キロ先の木の上。見下ろした先には二匹の魔族。どちらも見覚えがある。たぶん、今までのどの敵よりも厄介な相手だろう。短時間だったが、実力を測るだけの時間はあった。だからこそこの手を選んだ。本当は最下位候補だったのだが、やむを得ない。こんな汚い手口、里の連中が見たら失望するだろう。その光景を思い浮かべて苦笑しながら、白兎は気配を消して兎使法の構えを取る。
(気づいてンのか気づいてねェのか知らねえがここは一つ……)
 片方を攻撃するか、両方を攻撃するか。片方に痛手を負わせれば、一対一になり多少戦いやすくなる。だがそれは普通の魔物レベルの話だ。この二匹は相当な実力者には違いない。片方への攻撃が届いた時点でもう片方が気づき、こちらが移動する間もなく殺される可能性だってあるだろう。ならば、威力は落ちるが危険の少ない方法で。白い光の球を、両手を合わせて潰す。すると、エネルギー球が分裂し二つになった。これを振りかぶって投げる。曰く【兎使法白ノ発第二弾・白砲二波(びゃくほうには)】である。大きさは頼りないながら、二球は剛速球のごとき勢いで魔族へと向かっていった。
『弔い合戦』は始まったばかり。
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