第五章第六話 オカマと美少年
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時は残酷なほど緩やかに流れていく。
鞭のように打ち付ける雨。それは容赦なく、人なる者と人ならざる者を叩きつけた。だが痛みを、冷たさを感じているのはおそらく人だけであったろう。
目前の魔族は悠長に自己紹介をして、まるで謁見するような姿勢で見上げてきた。そう――
滑稽なほど、律儀な姿だ。互いに敵同士であるはずなのに、たった今地位が生まれたような配置。魔族は静かに、しかし艶やかな眼差しで彼を捉えている。王と対峙する時のような、畏敬のそれではない。下位の者を見下すような、侮蔑のそれでもない。
――闘いに誘っている。
イチカは迷うことなく、その答えに行き着いた。同時に、その『誘い』を断ろうという考えも浮かばなかった。視線は外さぬまま、銀色の柄に手を掛ける。いつもより剣が重たく感じて、抜き放つタイミングが少し遅れた。額から滑り落ちる雫に気がつかなかったわけではない。動揺したのだろう、柄を握る手がカタカタと震えだす。隠そうとしても、汗ばんだ手は今すぐにでも剣を落としそうだった。募った焦りが心と、反対の手を動かす。
――畏れるな。
今までも闘ってきたではないか。魔族や、暗殺騎士。そう、人間が遙か及ばないとされてきた存在にさえ打ち勝った。彼らにはほとんど問題なく勝っていたはずだ。たとえ直接的には闘っていなくても、もしあの時自分が闘っていたなら勝てていたのだ――。
『今までの魔族とはレベルが違いすぎる』
イチカの心のどこかで、相反する意見が叫びを上げた。確かにそれは彼自身、意識はしていないが考えていたことだ。今までの相手とは決定的な何かが違っていた。それはレベルかもしれない。だが具体的には。具体的には何が違うというのか。脳裏を過ぎったのは、ほんの少し前。人工的にその魔族が作って見せた、あの地割れだった。
違うのは、力。半端ではない圧倒的な力が、それを誇示していた。そんな強大とも言える差を前にして、打ち勝つことなどできるのか――。
「イチカ……」
背後から躊躇いがちに声が掛かった。眼をそちらに向ければ、彼の予想通り、懸念を抱いた碧がいた。
「下がっていろ。あいつと闘いながらお前を守り抜ける自信はない」
言葉も少なく、視線を魔族に戻す。碧の顔は驚きを表していた。ただし、それは「下がっていろ」などと言われたことに関してではなく、イチカの顔が冷や汗で濡れていたこと。そして第二に――これが碧にとっての重要事項になる――「守り抜く」という言葉が彼女の心を動かしたのである。初めて『仕方なく』ではなく『義務』としてその言葉を聞いたような気がしたのだろう。小躍りしたい衝動に駆られたが、この状況でそれはあまりに痛い。後で小躍りでも何でもしよう、と碧は密かに心に決めたのであった。
無論、今が切羽詰まっている状況だということも忘れて。
「ンフフ……。腕が鳴るわぁ」
地面と接していた手のひらを僅かに離し、ゆらりと、しかし不気味さを感じさせない足取りで立ち上がる。いつしか雨は止んでいた。だが一時前の降雨の激しさが嘘だったかのように、彼の身体に濡れた形跡はない。それが人ならざる者だからこその異質さなのか、考える余地もなかった。頭をどこかに打ち付けたように、感覚が麻痺しているのだ。ただ一つ、唯一感じられるのは――邪気とも鬼気とも言い難い、周囲に充ち満ちた空気のみ。だが恐怖に苛まれている時間も余裕もあるはずがなかった。ここで自分が立ち向かわなければ、誰が立ち向かうというのか。イチカは自分に言い聞かせた。襲いかかる恐怖を紛らわす方法など、それくらいだったからだ。
クラスタシアが疾り出した。イチカが剣を構える。距離が詰まっていく――。
ごっ、と何かの当たる音がした。今の状況にはあまりにも不釣り合いな、あまりにも浮いたような音。両者は今まさに武力を衝突させようとした状態で止まっていた。他には何も動体はない。否――クラスタシアの背後に、静かに佇む影があって。
イチカや他の者はそちらに目を奪われ、クラスタシアはまるで何かに怯えたような表情すら浮かべていた。紛うことなく、してはいけないことをしてしまった子供の図である。やや躊躇いがちに、ぎこちなく首を背後に回す。そこには怒りが頂点に達した母――ではなく、描いてみたくなるほど無表情のサイノア。右手は握り拳のままで、据わった眼差しのまま外さない。何か言いたそうな表情にも見えるのは気のせいか。その答えはクラスタシアが持っているのだろう。
「……ノ、ノアちゃ……」
「ぎゃふっ!」とクラスタシアが奇声を上げたのはその直後。サイノアがまた『お仕置き』を始めたのだ。
「ちょっ、落ち着いて話しあ、ぐぇっ! だからあの、これには事情、がへっ! そうよ、話せば分か……あギャーー!!」
最後にはほとんど悲鳴しか聞こえてこなかった。「聞く耳持たぬ」と言わんばかりに殴り付け、あるいは蹴りつけ踏みにじるサイノア。ただしそのいずれの動作も凍り付くような無表情。先ほどまでの世界を一変させるような、とてつもなく禍々しいクラスタシアの瘴気と怪しさはどこへ消えたのか。イチカも一行も唖然として、ただただその光景を眺めているしかなかった。
やがて『お仕置き』の音が止み、差し障りにならないよう密かに群れたのは噂好きの女性陣。
(あれだけやって、全然表情変わってないよ)
(そりゃそーよ、女の子の腹殴ったのよ? 責任は重大ね)
(さっきあのヘンな奴が非情だなんだって言ってたけど、あっちの方が非情だぜ……)
ただしその噂話は、自他称地獄耳のイチカには届いていたらしく。
「……まだやりたりないらしいぞ」
「え゛っ?!」
慌てて振り向いたその先には、まるで憎き者の姿を焼き付けておこうとせんばかりに――倒れたクラスタシアから寸分も目線を外さず、右手に魔力を収束し始めるサイノアの姿。まさか殺してしまうのではないか、という一行の妙な不安も無理はない。そこに生まれ始めた瘴気はクラスタシアのものと同等か、あるいはそれ以上に強力だったのだ。
「【来たれ
焔王】」
彼女の緋色の瞳が輝きを増す。ほどなくして目映いまでに神々しい光がサイノアを包み込んだ。それが炎だと分かったのは、熱気が充満してからだった。拳を掲げて跳び上がる姿は、さながら『火の鳥』。繰り出された拳圧に炎が混じり、クラスタシアを中心に燃え広がる。その熱波が届かぬよう、皆に瞬時に結界を張る碧。クラスタシアの姿は当然のごとく見えない。もはや敵だのなんだのと言っていられないくらい気の毒に思えてきた一行。「ホントにやっちゃった……」と碧が目を丸くしている。イチカは熱と煙に包まれた中心地を見つめていた。その結末を探ろうとするかのように。
数秒を待たずして煙の奥に人影が見えた。中心の温度は数百度にもなり得るなかで、ひどくゆっくりと歩を進める影。
「……
義兄さまから【
思考送信】を受けたわ。『彼』が来ているんですってね。確かに『彼』がいては義兄さまも計画を中止せざるを得ない。けれど、これ程の好機を逃さなくても良かったでしょうに。
――ねえ? クラスタシア」
「そぉね」
ひどく冷たい口調で、語りかけるように地面に眼を向けるサイノア。だが攻撃を受けたクラスタシアの方は、やはりあまり緊張感のない声で応答した。身体中に傷を負ってはいるが、艶やかな笑みはなお健在である。余裕とも取れるその表情を見て、イチカらは驚愕するばかりだった。これが、魔族の実体。突然の仲間内での(一方的な)戦闘。手加減した様子は見られないが、口を利けるほどの体力はある。彼らに秘められた能力は、人知を遙かに超えるもののようだ。
サイノアはまだ言い足りない――もしくは仕置きし足りない――様子だったが、不意に彼から目をそらした。
「……まあいいわ。義兄さまの命とあれば長居は無用……早々に退くとするわ」
その言葉通り、一行には目もくれず、反対方向に歩き出す。もはや敵のことなど眼中にないのか――そう皆が考えた矢先だった。その歩みがふと止まったのだ。
「命拾いしたわね、『結界女』。
けれどその命、永くは続かないわよ」
予言ではなく、断定。予定の域ではない。確実に実行するという確定事項。もう決まったことを告げるように淡々とした口調。碧は、振り向きざまに見据えてきた瞳と眼が合った。冷たい色だった。血が凍るとはこういうことを言うのだろうか。見た者の血を凍らせるような眼。あるいは、その瞳自体血が凝り固まったものなのか。いずれにしろ、異質なことこの上ない。碧をイチカを皆を取り巻いて、しばし絶句させる。
一度眼を細め、空気に溶け込むように彼女は消えた。
『永くは続かないわよ』
どうして、冷静でいられるだろう。いずれ、近い将来、自分を殺しに来ると分かって、どうして動揺せずにいられるだろうか。碧は全身から血の気が引いていくのを感じた。
――怖い……!
サイノアが消えてしばらくの間、得体の知れない恐怖だけが彼女を包み込んでいた。
「……お前、災難だったな」
敵という存在に同情したのはこれが初めてだろう。イチカは鼻血を垂らしながら立ち上がるクラスタシアを見て言った。災難だったと言われているのに、やはりクラスタシアは嬉しそうにンフフ、と誇らしげに笑う。
「イチカに心配されるなんて、アタシってばなんて幸せ者なのかしら」
もはや論点がズレすぎている。そう判断したイチカは、それ以上何も聞かないことにした。
「ねえ」
声は別の方向から届いた。それが誰に向けられたものなのか分からず、皆がそちらを一斉に振り向く。日射病で倒れていたミリタムだった。クラスタシアはどこかゆっくりと振り返り、彼を見つめる。
「貴方たちがアオイやイチカを狙う理由は何なの?」
クラスタシアは答えない。ただミリタムの言葉に耳を傾けているだけのようだ。相手にすらされていないのだろう。だがそんなことに構わず訊ね続ける。
「“邪魔だから”? 二人が貴方たちの脅威になるというの?」
彼はやはり答えない。ただ穴が開くほどまじまじと見つめ続けているだけだ。ミリタムはいよいよ焦れてきた。もしかしたらこの魔族の耳には、最初から何も入っていないのではないか。都合の悪い言葉は聞こえないような便利な構造になっているのではないか。などと良からぬ考えがぐるぐると駆け巡り、多少の苛立ちを含んだ声で再び訊ねた。
「そろそろ理由を言ったらど」
「かーわーいーい〜〜!!」
うなの、と続くはずの唇は、しかしぽかんと開け放たれたまま動かなかった。その言葉を発するのに何秒かかったのか。いやこの際秒数などどうでもいい。何故、どこをどう聞いたらそんな結論に思い至るのか。突飛というか、話が飛躍しているというか、全く不可解な発想だとミリタムは思う。否、さりげなく彼の言葉を聞いていた一行とて同じ感想を抱いたことだろう。ともすれば魔族はみんなこのようにいい加減な者たちばかりなのか、という間違った見解も生まれかねない。とりあえず分かっていることは、少なくともこのドレスを着た奇妙な魔族は『変』な部類に入るということだろう。誰の目で見ても彼の目は輝いているとしか言いようのないものだった。
「アンタが例の魔法士?! そーよね魔力がビンビンするもの!! もおおソーちゃんたらもったいぶっちゃってえこんなコなら大歓迎よアタシ!!」
「ビンビン……?」と心の底で突っ込む一行。突っ込みどころは満載と言ったところか。しかしその突っ込みすらする余裕もなく、何やら自己完結してしまったようだ。「も〜〜可愛すぎて抱きつきたくなっちゃう〜〜!!」と叫び、宣言通り抱きつく始末。先ほど仕置きされたとは思えないほど体力が有り余っているらしい。加えて人工的に地割れを起こすほどの腕力だ。抱きつかれているミリタムは相当に苦しそうである。否、苦しそうどころではなく、白目を剥いている。だがそんな彼の苦労も、仲間にはあまり理解されていないようだった。むしろ、別の感情すら覚えた者もいるようで。
ぽん、とその肩が叩かれる。同時に彼女を中心に沸き上がっていた何かがふわっと、昇華するように消えた。
「大丈夫だよ、白兎」
「……あ? 何がだ?」
「あのひと……たぶん男のひとだし、ミリタムを取られる心配はないよ」
碧の言葉に反応してか、ぼっ、と何かが燃えたような音を立てて、白兎の頬が赤く染まる。
「あ、あたいは別に、ミリタムの野郎が取られるとかそーゆーことを心配してるワケじゃねェよっっ!!」
「ふーん……」
素直じゃないなあ、と小さく呟いたつもりだったらしいが、白兎が獣人だということを失念していた碧。「聞こえてンだよ!!」と照れ隠しか何かのような白兎の突っ込みに倒れる運命となったのであった。
あの絶体絶命とも言えた事態から、どうしてこんな漫才のような風景になってしまったのか。冷静に考えればおかしな話だ。だが実際に冷静でいられた者は、今やたった二人のみ。イチカとラニアである。片や会話に参加できずに見守るしかできない者、片や恐怖心から一歩たりとも近付きたくない者。ラニアは少し離れた木陰から、イチカはその場を動くことなく、馬鹿馬鹿しい光景を見守っていた。馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、お陰で誰の血も見ていない。自分たちの命を狙っているはずの魔族に生かされている、と言ってもおかしくはないのだ。皮肉なことである。
「いいの? 魔族ほっといて」
堪えかねたようにラニアが問うた。彼女にしては弱気な発言だ。いつだったか、大芋虫の胃袋の中で最初に行動を起こしたのはラニアだった。無論それ以前にも、先に行動を起こすのはラニアだという方式ができあがっていたのだ。どんな状況に陥っても、果敢に立ち向かっていた。それが今回は、木陰から足を動かそうともしない。完全にイチカに任せる気でいるのだ。先刻最初に狙われたのは彼女だったのだから無理もないと、イチカは考えた。それから小さく頷く。
「さっきの女は“長居は無用”と言っていた。あれよりも強い存在が、理由あって命令したんだろう。ここに留まりこそすれ、おれたちにまた向かってくることはないはずだ」
「“あれよりも強い存在”って……まさか」
「魔王、か」
「だといいけど……間にまだ何かいたんじゃ、こっちの身がもたないわ。あの子でさえすごい殺気だったじゃない。あっという間に殺されてもおかしくないくらい」
「実際そのつもりで奴らは来たんだろうからな」
それにしては一匹を置いてあっさりと退いていった魔族。魔族内の事情でもあるのだろうか。そんなことがイチカの脳裏を掠めたが、あまり関心はなかった。取りあえず言えるのは、どうやら自分たちは僅かな幸運に恵まれたらしいということ。どんなに小さかろうと、どんなに短かろうと、保障された命だ。そこは『神』にでも感謝しなければならないだろう。最近は今までの一連の出来事から、神頼みも遠慮したい二人だったが。
「あ〜〜楽しかったぁ〜!! じゃあねイチカ、魔法士! また会いに来るわぁ」
投げキッスをして――それがまた不思議なことに様になっている――クラスタシアは瞬時にその場から消えた。後に残されたのは、紙切れに等しくなったミリタムらしき物体。過剰に抱き締められ、髪もローブもくしゃくしゃになってしまっている。ちなみにやはり白目を剥いたままで、気絶している。白兎が棒でつついていたりするが、何の反応も示さない。
戦いにならなくて良かった、とイチカは思う。途中からやや緊張感に欠ける攻撃が続いていたが、それが幸いした。人ならざる者たちが現れたときも、消えた今も、両手は震えていた。汗ばんだ手で剣を握りしめるのがやっとだった。とても応戦などできたものではない。今までだって、隙はいくらでもあった。それなのに、手は柄に添えたまま、抜き放つことはできなかったのだ。もしあのとき、あのまま戦いが続いていたらどうなっていただろう。
――考えるまでもない。おれの一瞬の油断で、あいつは死んでいた。
銀色の双眸が、安心したように友人と話している異世界の少女を映した。
瓦礫と
蔦ばかりを集めて造ったような粗末な城へ、ひとつの存在が消えるように入っていく。酷くゆったりとした足取りなのに、冷血を思わせる緋色の瞳は瞬きをしない。それはあたかも、怒りを象徴しているようだった。昼でも光の届かない城内で、二つの赤い光はただまっすぐ目指す。仲間が待つ広間へと。
前方の平野を臨めるパノラマが広がり、黒の長髪を束ねた青年――と言っても、見た目と実年齢が一致しているとは限らない――が振り返った。その前には王座に座す、腹違いの兄。先に口を開いたのは、黒髪の青年だった。
「サイノア嬢」
「サイノア。……済まないな、手間を掛けさせた」
言葉通り、申し訳なさそうに魔王が言った。どうしたらそのような感情のこもった謝罪ができるのか、彼女には分からない。だが謝られているのは分かったので、おもむろに首を振る。彼に謝られる理由など、別にないのだ。
「義兄さまの命ですから。それよりも、」
ただ唯一謝られるとするならばと、考えるよりも先に瞳が動いた。気配を探り、その原因を捉えるつもりでいた。だがその必要は皆無だった。相手の方から――実に親切なことに――気配をさらけ出していたのだ。サイノアは眼を細める。『原因』は、先ほど彼女が入ってきた入り口のすぐ側で、壁に寄りかかっていた。見つけられるのを待っていたかのように、その口元には笑みが浮かんでいる。
「彼の真意が気になるわ。正気の沙汰かしら?」
「これは心外ですねぇ。治権者殿に併せて伝えてくださるよう申し上げたはずですが」
わざとらしく肩を竦めて『彼』は言った。
「聞いたわ、“今は時期尚早だ”と。けれど“時期尚早”の具体的な内容は、全く聞き憶えがないわね」
「まあ説明したいのは山々なんですがねぇ……貴女の価値観と、僕の価値観とは相容れないモノがあると睨んだ末の」
「御託は必要ないわ。話してご覧なさい。
但し、内容次第では――
治権所有者恐喝・及び星家法違反重科により貴方を葬り去る必要性が生じる」
すらすらと、実際にその書類を読み上げているように滑舌の良い口調。さらに言うなら彼女は今、魔星における最高刑を言い渡したのだ。まだ確定したわけではないが、彼の言うことがサイノアにとって納得のいかないものであれば、間違いなくその通りになろう。絶対王政の魔星において、治権者でない者に他人を裁く権限はない。しかし治権者と同等の地位を持つ彼女ならば、不可能なことではない。首を刎ねられるのか、焼き尽くされるのか、同族の餌になるのか。最高刑ゆえ、なんであろうと死罪は確定的だ。想像しただけで普通ならば震え上がるところであろうが、『彼』はやれやれ、といったふうに再び肩を竦めた。
「貴女こそ正気の沙汰ではありませんねえ。『情報局長』名だたる僕を滅ぼそうものなら、最大幹部が黙っていないでしょう。貴女のお友達もおられることですし」
「……あの子は状況を理解できるわ」
サイノアは初めて少しだけ沈黙した。まるで虚を突かれて返答に困ったかのように。
『彼』はその様子を愉快そうに眺めて、言った。
「どうでしょう? いずれにしろ、貴女のお兄さまは僕の味方であってくださるようですがね」
馬鹿な、と嘲笑を含めた言葉を浴びせるつもりだった。兄がお前などの下らない策略に乗るはずがないと。
反射的に魔王を見た。自分のことが会話に上ってきたせいか、少し間の抜けたような顔。まさか、と思いつつ義兄の顔を見つめた。視線を合わすことは容易だった。程なくしてかち合う眼と眼。蒼と朱の、正反対の瞳。しかし紅い瞳の方は、紺碧の瞳により暗い影が差したのを見逃さなかった。やがて居たたまれなくなり、先に視線を反らしたのは。
「ほら、ね」
「……義兄さま……」
『彼』は屈託なく笑った。そらみろと勝ち誇ったような笑みだった。
驚き。怒り。悲しみ。今のサイノアに当てはまる感情はなかった。否、元来感情を持つことなく育ってきたのだ。どれにも形容しがたいことは当然だろう。だがあえて表現できる感情があるならば、それは『呆れ』に近かった。兄に対する幻滅だ。『情報局長』とはいえ自分より立場の弱い者に易々と従うその態度。――皮肉にも、己の身体の半分を占める人間と重なって。
真っ先に思い浮かんだのは、兄が魔王になってそう経っていない頃、人間界から連れてきたという少女。自分たちから見れば赤子同然のその娘を、彼は魔族にすると言い放った。
サイノアは思った。あの時から我が兄は、既に魔族ではなくなっていたのではないかと。
「人間などの側にいることで魔族としての判断力が鈍ってしまったのね、義兄さま。――残念だわ」
「サイノア嬢っ?!」
ソーディアスが非難の声を上げた。右手に魔力を込める合間にそちらを一瞥するだけで、彼女は微動だにしない。感情のこもらない瞳に気圧され、ソーディアスは主に近付くことも叶わなかった。動かないのか、動けないのか、魔王も驚きを露わにしたまま王座を退く気配はない。ただ、一人だけは微笑みを浮かべたまま崩さなかった。
「だ〜か〜らぁ〜、やめなさいってば〜〜」
呆れつつも愉しげな声がどこからともなく響いた。同時に溜めていたはずの魔力が急激に衰えたことに気付き、右手に目を遣る。一回りほど大きな手が、彼女の手首を掴んでいた。この手に捕らえられれば、もう、振りほどけない。
「クラスタシア」
戦いの最中。ほとんどその時しか感情を表すことのない魔族だが、ソーディアスは素直にこの状況に驚いた。まさかこの絶妙なタイミングで、彼が来るとは思いもしなかったのだ。普段なら頼んでも見られない表情が見られたせいだろう――クラスタシアは露骨に意外そうな顔をして、「ソーちゃんが驚いてる〜〜!!」とはしゃいだ。これによりソーディアスは、一瞬でも驚きを表したことを後悔したのだった。
「どおも〜〜情報局長サンっ」
「どうも、クラスタシア君」
サイノアの手を掴みながら、ぴょこっ、という効果音が聞こえそうな軽い礼をするクラスタシア。いかに魔族の本拠地と言っても過言ではないこの城内でも、彼がいれば途端に明るい雰囲気に変わる。
「このとーりノアちゃんは【封じ】とくから、どうぞお話ししてちょーだい」
証明するようにサイノアの手を持ち上げる。サイノアはと言うと、クラスタシアが来た時点で何をしようと無駄と悟ったのか、大人しくそっぽを向いていた。案外物分かりのいい性格なのかもしれない。
情報局長と名乗る魔族は何か考え込むように眼を細め、言った。
「……ところでクラスタシア君。君から【視て】、彼らの戦力はどうだった?」
「んん? 戦力……?」
クラスタシアの【千里眼】は、何も遠方を見るためだけに備え付けられた能力ではない。例えば今回のように敵と
見えた場合。接触が長ければ長いほど、敵の戦力はもちろんのこと細かなクセや性格までも読み取ってしまう。直接関わったのは、相手の主戦力とも言うべき『裏切り者』と魔法士。これが全て正確に読み取られていれば、彼らには
微塵の勝機も残されないだろう。彼の言葉次第で、イチカらの命運が決まると言っても過言ではない。魔族である彼らにとって重大な情報だ。それを十分に認識しているのかしていないのか、クラスタシアは眉間に皺を寄せて呻いた。ぴかっと電球が頭上で輝くように、ぱっとその表情も輝いて。
「イチカがメラメラしてて、魔法士がビンビンしてた!!」
――なんだそれは?!
魔王とソーディアスが、心の奥底で同時に突っ込んだ。どちらも表情には出していない。冷徹なまでに無表情だ。だが気づく者は気づいていた。魔王の頬を、隠れるように一滴の雫が滑っていったことに。ソーディアスもソーディアスで、普段よりは複雑な表情を浮かべている。人間のように易々と感情を表に出さないために、意表を突かれたときの対処には不慣れなのだろう。
そんな彼の仲間及び上司の苦労は、果たして理解されているのか。情報局長は困惑も怒りも顔に出さず、ただふぅん、と頷くだけだった。
「分かった、ありがとう。
愉しくなりそうだね」
今の不可解な説明で何が分かったというのか。情報局長はそれだけ言うと元の暗闇に溶け込んで、消えてしまった。言葉通り、愉しげな表情を浮かべて。
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