第五章第五話  原始への変換者

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 我らはそれを弄ぶ
 力という秤の上で 苦しみもがく魚のごとく
 我らとそれに壁はない
 ただ己を遺す 我らの存在を刻み付けるかのごとく

 時間が止まるとは、こういうことなのだろうか。
 確かにそこにある事態は深刻なものだというのに、碧は酷く冷静でいられた。未だに灰龍の死骸から発せられる悪臭が鼻を突き、居心地の悪さだけはピカイチだ。それが、目の前の光景を――先ほど以上に増した瘴気を、僅かながら紛らわしているのかもしれない。彼女の隣りに立つイチカも例外ではなかった。眼前に自分たちの命を狙っている魔族がいる。それも二匹だ。うち一匹はたった今、現れた。音もなく、風も引き連れず。おかげで最初からそこにいたような錯覚さえ覚えたが、確かに『今』姿を見せたのだ。思えば以前闘った魔族もそんな特性を持っていた。だがあれとは違う。姿が違うし、何よりあの魔族は倒したのだ。生きているはずはない。それに、と彼は、新たに現れた魔族を見据える。
 以前、どこかで感じたことのある気配だ。
 獣配士ヴァーストと相まみえる少し前に、烏翼使忍者という女がいた。彼女は同士討ちに遭い、命を落とした。その時もう一つ気配があったことに、イチカは気付いていたのだ。獣配士のものではない。烏翼使忍者のものでもない。しかし、間違いなく魔族の気配だった。
 その気配と、今現れた気配が、彼の中で寸分の狂いなく一致した。
「……クラスタシア」
 最初に現れた少女――恐らく、そう見えるだけであろう――の魔族は振り向き、感情のない声でその名を呼んだ。呆れのような、咎めのような声に聞こえたのは、気のせいではないだろう。非難するような緋色の瞳。だがその眼で見据えられた方は、怖じ気もなくやや明るめに言い放った。
 ハートマークを多用して。
「お久しぶりぃ〜〜ノアちゃん」
 頬に片手を当ててウインクを返すその姿は、典型的なぶりっ子体勢だ。イチカたち一行の脳裏に、揃って「ぶりっ子」という言葉が浮かぶ。それでも不思議と気持ち悪く思わないのは、彼が男だと知らないからか。
「ふざけていないでこの手を離しなさい。今がどんな状況か分からないわけではないでしょう?」
「そーは言ってもねぇ……今殺してもらっちゃあ困るのよね〜〜」
 誰にとっても予想外の口論が始まり、周囲は動揺の渦に呑まれる。ただ一人、イチカは冷静に「油断するな」と碧に言った。彼女は無論、そのつもりでいた。まさかとは思うが、芝居をやっているかもしれないのだ。慌てて止めに行き殺されては身も蓋もない。というより、なんだか情けない話になりそうではないか。
「いいから離しなさい」
「だぁめ」
 変わらない言い分。これは芝居ではなく本当の口論であろう。誰もがそう思い出したその時、空気が再び凍てついた。少女の瞳が暗く染まる。
「――命令よ。この手を離しなさい」
 ここで片方の魔族が従わなければ、間違いなく殺戮(さつりく)の場と化すだろう。こうも簡単に同士討ちは始まるものなのか。意見が少し食い違っただけ。それだけで片方が命を落とす羽目になるのか。到底理解できない話だ。だが、このアスラントの空気は徐々に瘴気に侵されていく。このままでは巻き添えを食らう、そこから逃げろと一人一人の本能が叫び、脳が警鐘を鳴らした。圧倒的な力がそこにあった。
 少女の魔族は命令できるほどであるから、権威があるのだろう。さすがにまずいと思ったか、ドレス姿の魔族は小さく「しょうがないなァ」と呟いた。主張を諦めたようだ。おもむろに、重ねていた手を離す。少女は無表情にそれを見つめ、同時にイチカは剣を構えた。
 ――しかし、その姿勢は俄に崩れた。
 えっ、という驚きの声。なっ、という呆けた声。イチカも、碧も、ラニアも、白兎も、ミリタムも。ただただ、双眸を見開いて、その光景を目の当たりにした。
 鈍い音がした。どすっ、と。他に例えようのない、鈍い音だった。
 少女の魔族の腹に、ドレス姿の魔族の左手が食い込んでいた。少女は愕きを表すように、血色の瞳を見開いて。ドレスの魔族は、離したはずの少女の腕を掴んだまま、無表情だった。程なくして倒れる少女を待つかのように。
 その唇が「ごめんね」と動いたように見えたのは、碧の思い込みであったのか。それとも――。今となっては知る由もないことである。
「……どういう、ことだ……?」
 どのくらい時間が過ぎただろう。大分経ってから、動揺を隠せない口調で問いかけたのはイチカだった。その相手は言うまでもなく、倒れた少女を両手で支えた魔族だ。
「お前からは、魔族の気配がする……そいつの……仲間だろう……? なのに何故……!」
 動悸が止まらない。それはイチカだけでなく、皆がそうだった。
 恐らく、彼がしたのは『同士討ち』の中には含まれないことであろう。殺したわけではない。鳩尾に一撃加え、気絶させただけだ。だがそれでも、彼らには信じられるはずがなかった。理解できるはずもなかった。そう、人間には。
「ふぅん……近くで見るとホントそっくりねぇ……。まぁ前よりも可愛さが増えた分、人間っぽさも二割増しってトコだけど」
 質問したこととはかけ離れた答えが返ってくる。否、答えにもなっていない。何やら意味の分からないことを口走っていて、イチカは混乱する。そんな彼の混乱をよそに、ドレス姿の魔族はぽつりと、耳を澄ましてようやく聞こえるほどの声で言った。
「この()はね、こうでもしないとハナシ聞いてくんないのよ……」
 少女の両肩を優しく掴み、見下ろす。気絶していて、話の内容など聞こえてはいないだろう。むしろドレスの魔族は、この状況が好都合だと言わんばかりの声色だ。その言葉がどういうことを意味するのか――。
「――それともなぁに?」
 その深読みをさせまいとするような、おどけた口調。
「まさか人間ってゆーのは、この程度のコトを『非情』だと、そうおっしゃるのかしら?」
 艶やかな瞳が、まっすぐにイチカを射抜いた。舌なめずりをするような視線だ。寒気が、悪寒が彼を襲う。表情が知らずと強張った。それを肯定と取ったのか、ドレス姿の魔族は麗しいほどの微笑みを浮かべて。
「残念、極まりないわ」
 ――それを合図とするかのように、近辺で雷鳴が轟いた。
 ドレス姿の魔族が現れてからは、空に充満していた瘴気が晴れ、蒸し暑い空気が僅かに戻っていた。それが今、また崩れた。誰もが冬だと思いたかった。だが今は夏だ。入道雲も見えぬ、澄み渡った空だったのだ。しかし異常はそれだけでは終わらなかった。それまでの蒸し暑さが嘘のように冷え込んできた。分厚い鎧を着たイチカやローブのミリタムでさえ、肌寒さを感じる。光を失った向日葵は枯れ果て、地面は獣が通った後のように(えぐ)られた。尋常でない地面のひび割れが起きた。無論、地震などではない。全ての元凶は今、目の前にいる魔族なのだ。
「それじゃあアタシはどうすりゃいーのかしら。ちょーっと人間界に降りて気を放っただけで自然ともオトモダチになれない、この能力(チカラ)
 地震のように、地面が脈打った。大規模な崖崩れか、地盤沈下か、天変地異か。この辺りが、何も知らない者の意見であろう。状況はそれらよりも悪い、とイチカは思う。見た目は専ら人間のそれだというのに、強大すぎる力が、周囲を一変させたのだから。
 ――僅かな気の放出すらも、天地を原始と化す。
「これが……全魔族中、最少にして最強の攻撃力を持つ種族……文献でしか、読んだことなかったけど……」
 魔族の存在は全くの架空とされていたわけではない。現に四百年前、このアスラントに魔王軍が攻め入った。そのことは当時の人間によって書記、増刷され、王立図書館などに保管されている。階級の高い貴族――ミリタムの実家・ステイジョニス家にもそれは保存されており、ミリタムはそれを読んだことがあった。
『――巫女様は四匹の魔族を御眼にされた。一に、彼らを統べる王。(しかし、それは何匹かいるうちの一人だという)二に、数々の魔物を自らの躰の内に飼う者。三に、百の軍勢を刹那のうちに斬り殺す者。そして四に、繰り出す一打で深く大地を抉り取る者。我々にしてみればそのどれもが未知の存在であった。(中略)巫女様は四の者を、「僅かな気の放出すらも、天地を原始と化す」と表現された。そして、おそらくその者こそが、魔星(彼らが住まう星だという)において最強の攻撃力を持つ者だと。――』
 巫女様、とはヤレンのことだ。それは分かっていた。だが彼らと闘った短期間で、それだけのことを聞き出したのだろうか。それがミリタムにとっての疑問であった。もしや、魔族と内通していたのではないか。実を言えばその通りなのだが、ヤレンが以前イチカに話した内容を聞いていない彼は当然知らない。
「改めて、名乗っておきましょうか」
 雷と共に耳に響く轟音。それが、ドレスの魔族から発せられる圧力だと気付くのは果たして何人だろうか。
「魔星第一区治権者『グレイブ・ソーク・フルーレンス』直属部隊『フィーア・フォース』所属。並びに、魔星において高攻撃力を誇る『剛種』の一 ――」
 地が、一層激しく震え、誰もが声を失った。ただ一点を凝視したまま、行動も起こさない。否、起こせなかったのだ。あまりの恐怖。あまりの戦慄。唇が、腕が、足が震えた。一行の視線の先には、地面に手をつくドレス姿の魔族。そして、その手を境に底知れぬ奈落が続いていた。通常の地割れの比ではない。ひとたびその中へ落ちてしまえば、二度と這い上がれないであろう永遠の闇が広がっている。魔族はともすれば娼婦のような目つきで、銀髪の少年を見据えた。
「クラスタシア・アナザント。名前で呼んでくれると嬉しいわ、イチカ」
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