第五章第四話 刹那の咆哮
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「あー……」
どんな状況でも
鬱陶しい時はある。その鬱陶しさを象徴するのが主に、寒さや暑さといった『季節』だ。ただ、『寒さ』はどちらかというと鬱陶しさには入らないだろう。じめじめと湿潤な『梅雨』の季節ならまだしも、秋・冬ともなればそれはストレスに変わる。
「……あーー……」
もっとも秋冬の間は、季節の変化が面白いほど分かり退屈しない。秋が深まれば紅葉し、質素な風景を鮮やかに彩る。多少、肌寒くはなるが、そこは多欲の秋。気がつけば通り過ぎていた、というのは良くある話だ。冬は冬で、冬の風物詩雪が降る。積もれば、子供心にはたまらない季節であろう。
しかし前述の通り、鬱陶しい季節は『梅雨』。もしくは夏が主流であって――
「……なァ……今一番言いたいこと言っていいか……?」
「言うな。余計鬱陶しくなる」
「ンなこと言ったってよォ……我慢ならねェぞこれは……」
「……一番涼しそうな奴が何を言う」
率直に、暑いのであった。
その人その人に合わせた気候、というのがアスラントの特徴的な気象なのだが、この季節ばかりはそうもいかないらしい。やはり、暑い者には暑いのである。特にイチカは重装備とまではいかないまでも、一般の騎士と同じくらいの丈夫な鎧を着ている。それでも軽鎧の部類に入るというのだから、王国騎士などはどうなるのか。この『夏』という時期は彼らにとって天敵になりうるであろう。鎧はそう簡単には外せない。汗を掻こうがムレようが痒かろうがどうにもならないのである。その点では、鎧なるものを着ているイチカと碧は我慢している方であった。
「兎族はなァ……年中涼しいトコに住んでンだ……そりゃ普通の平地に比べりゃ寒いかもしれねェけどな……アレだ……雪が好きなんだよ……ガキなんかは毎年雪が降ると……外で騒ぎやがンだ……要するによォ……寒いのが好きってことだ……」
「……逆にうっとーしいと思うのはあたしだけかしら?」
イチカは答えない。だが彼を除き、皆がそう思った。素直に「暑い」と言わせればよかったのだ。もっとも、どちらにしろ士気は下がっただろうが。
「ミリタムを見ろ。お前よりはるかに厚着をしているのに、文句一つ言わない。少しは見習え」
イチカの後ろ、碧の前。ミリタムはただ黙々と歩いていた。上から下まで太陽の熱を吸収する濃紺のローブ。当人の髪型もお世辞にも短いとは言えないものだ。光合成でもしているような緑の髪は、規則正しく左右に揺れている。垂れ下がった前髪のため、表情を見ることはできない。碧が見た限りでは、「よく頑張るなぁ」と思えるほど真面目な表情だったらしい。白兎に言わせれば「クソ暑苦しい格好」ではある。
力強く、力強く地面を踏みしめる。今ここを歩いているぞと言わんばかりの、力強い足取りだ。頼もしい限りだ。誰もがそう思い、期待した。直後――突然その重心がぐらつき、つんのめって、頼りなげに地面に伏した。ぴくりとも動かない。ただ、それがあまりにも突然の出来事であったため、皆すぐには気付かなかった。白兎が倒れたミリタムのローブを踏んづけて、ようやく理解されたのである。
勇者は倒れた。『真夏の直射日光』という大敵によって、戦闘不能に陥ったのだ。
「ミリタムがぶっ倒れたーー!!」
「どっ、どどどどーしようっ?!」
「運べ! とにかく近くの日陰に運べ!!」
それまで水気の無かった渇いた地面に、程なくしてできた小さな水溜まり。どうやら有名魔法士一家のご子息は、やせ我慢をしていたらしい。皆が―― 一部、例外もあったが――弱音を吐くことなく堪えている。そんな中で、自分だけ音を上げてしまっては悪い。そう思い、あくまで平静を装ったのだろう。じりじりと刺すような熱気は今、ほんの少し前に出てきたものではない。かれこれ二、三時間は歩き続けていただろう。よく今まで堪えたものである。それが本当にただのやせ我慢なのか、貴族の意地なのかは知る由もない。
「そりゃ、あれだけ分厚いローブ着て長時間歩いてれば、そうもなるわよ」
あたふたしている他の三人を涼しい眼で眺めつつ、ラニアはそう呟いた。実際はここまで冷静になれるほどの気温ではない。優に三十度は超えているであろう、蒸し暑い空気。肩に掛かる金髪を
億劫そうに手で避け、熱を放出するように溜め息を吐く。それまでの動作の最中でも、容赦なく噴き出し、流れる汗。気持ち悪いといったらない。
一応、気は張っている。それは他の仲間も同様だろう。だが倒れた魔法士に動揺し、普段ほど警戒しきれていないはずだ。だからこそ、いつも最低一人は冷静であり続けることが必要なのだ。ともすればイチカは常時冷静だが、最近はようやく人間臭くなったせいかあまり期待もできない。あれほど感情を露わにする姿は、三年前ならば想像もつかなかったのだ。誰のおかげか。大体は目星がついているが、それを言うと本人に殺されるかもしれない。あえて黙っておく。
今のところ、魔族特有の瘴気も、殺気もない。とは言え、聖域にすら侵入できる魔族である。いつ現れてもおかしくはない。それでもひとたび瘴気を感じ取れば、一発くれてやるくらいはできる。彼女にはそれくらいの自信があった。亡き父に教え込まれた射撃は、今や自分の誇りであった。そう――
優しく、身体的にも精神的にも強かった父母。
剣士になるという志を貫こうとしていた弟。
彼らの敵を討つために、自分は存在しているのだ。魔族は、碧とイチカだけの敵ではない。あの日、家族を殺されたあの時から、自身の敵でもあるのだ。
「何か困っているみたいね?」
「――っ!?」
真後ろで声がした。疑問形だというのに感情のこもらない静かな声質。振り向かなければ、という覚悟と、振り向いてはいけない、という叫び。全く異なる二つの決意が共存していた。
瘴気もなかった。殺気も、人の気配すらもしなかった。それなのに、その声は聴覚を経由して脳に直接響いた。あれだけ警戒していたのに。あれだけ自信を持っていたのに。
まだ魔族だという確証はなかった。大層鍛えられ、気配を無くすことのできる人間がいてもおかしくはない。
「……連れが日射病で倒れちゃったのよ」
「あら。それはお気の毒に」
その声に感情は皆無だった。ただの『作られた』声。事実を述べているだけの声が、これほど恐ろしいと感じたことはなかった。感情がないとは、こういうことなのだ。真夏でも雪上に立っているような恐怖。ラニアの身体から溢れる汗は、いつの間にか冷や汗になっていた。
「良いところ、教えてあげましょうか」
ぽつりと少女――声の高さと口調から判断して――が言った。良いところ、と言う割には、あまりにもその声色は冷たい。
「……へえ? どんな?」
挑戦的に訊ねた。おそらく自分の後ろの少女は魔族であろう。確信めいた思考が
過ぎる。二言ほど話しただけだ。それだけで決めつけるのはあんまりだとも思ったが、この勘は捨てがたかった。ちらりと腰に備えた銃を確認する。そして、意を決して、振り向いた。
血のような赤色が、最初に映った。暑さを象徴するような色なのに、感じたのは雪山にいるような戦慄。
「みんなで一緒に行けるところよ」
初めて殺気を感じた。反射的に身構え、距離を取る。間に合わない。誰かが囁いた。闇はもう、ラニアを絡め取っていた。
「【願わくば、汝の力此処に】」
冷酷な言葉を放った唇が、薄く弧を描いた。極暑の空が黒い波に呑まれ、消えていく。そこから現れたのが灰色をした龍だと分かったときには、鋭利な牙が目前に迫っていて――
「【
塞】!!」
来るべき衝撃に備え、反射的に閉じた瞼を、ゆっくりと開く。引き裂かれたような痛みはない。むしろ、温かな何かに包まれているような感覚を覚えた。毛布みたい、と一瞬だけ筋違いなことを考える。先ほどまで眼前にいた灰龍は弾き飛ばされたのか、あまり離れていない所で横たわっていた。
こんなことはあり得ない。魔法か、結界か。眼を動かすと、両手を突き出して神術の構えを取る少女がいた。焦げ茶色の髪、漆黒の瞳。かつて相まみえた『結界女』の生まれ変わり。
――余計な事を。
「……貴方が『結界女』ね」
冷気を纏った少女が呟いた。訊ねる、というよりは自分で確かめるような口調だ。
「成る程生まれ変わりだけあって【神力】は絶大ね。その若さでよくやる――と褒めてあげたいところだけど」
ごく普通の言葉。その一つ一つから例えようのない重圧が伝わってくる。言葉だけで相手を威圧する人間など、碧は見たことも聞いたこともなかった。だが負けるわけにはいかない。灰龍を操った。それは以前戦った獣配士が放った黒龍よりはやや小振りだったが、少女が魔族であることを意味する。それも、高レベルの。
「その結界じゃあ私の龍を防ぎきることは出来ないわよ」
少女の双眸が妖しく輝き、再び周囲が凍てつく。ラニアを護る結界に亀裂が入ったのも、それと同時だった。ぴしり、と耳障りな音が響く。空が黒く渦巻き、今度は五つの影が垣間見えた。風を纏って一斉に降りてくる。結界が砕け、無防備となったラニアへと。
「ラニア!!」
「任せな! 【兎使法・白ノ発】!!」
碧の横から白い影が飛び出す。両手に溜めたエネルギーを引き延ばし、力任せにぶつけた。魔族に通用するのか疑問ではあったが、鳴き声を上げのたうち回っているところからすると、効果はあったようだ。
「っしゃあ! 次来い次ィ!!」
ぐっと拳を握りしめ、二匹、三匹と打ち倒していく白兎。どうやらかなり好調なようだ。
「白兎すごーい!」
「コイツら見てると無性に腹が立ってくるからな!」
対ヴァースト戦での話であろう。そう思考が行き着いた碧はなんだか申し訳なく思い、それ以上褒めることはなかった。表向き有頂天な白兎は、難なく灰龍を片付けていった――ように思えたが。
すぐ真後ろに巨大な黒い影があった。白兎は未だ気付かない。仲間に迫った二度目の危険に、碧は結界を張ろうと試みる。だがそれよりも先に、銀の軌跡が弧を描いた。イチカだ。間近に聞こえた断末魔でようやく気づき、白兎は驚きを隠せないでいた。
「……あらあら」
灰龍が倒れても眉一つ動かさなかった少女が、その光景を見て呆れたように呟いた。
「いいのかしら、あの子の側を離れて?」
それが何を意味するのか、一瞬理解できなかった。
短い悲鳴が聞こえ、しまったと内心歯がみする。碧の周りに二匹の灰龍。五匹だと思い込んでいたのが間違いだった。空にはまだ黒い渦がある。あれが魔星と繋がっているのであれば、何匹出てきてもおかしくはない。
ラニアのときと同じだった。結界が頼りなげに割れる。酷く微かな音。唾液を垂らした灰龍がその身に牙をむく。咄嗟に走った。間に合わない。自らの中に浮かんだ考えを必死に取り消す。必死に、必死に――。
【なんでそんなに必死になる?】
誰のものかも分からぬ声が、突然響いた。少なくともイチカは、一度も聞いたことのない声だ。
否。一度だけ、聞いたことがあった。
【お前にとって、あのコは何だ?】
自分にとって?
護れと言われた。だから護っている。そういう存在だ。
【そう決めたってか? 護れ、って言われてイヤイヤやってんだろ?】
そうかもしれない。確かに、「護れ」と命令に近いことを言われた。それも小さな子供に。今思えば何故そう決めたのだろう。どこか絶対的なものを感じたからかもしれない。
【単なる自己満足じゃねえか。やめちまえよ、そんなモン】
吐き捨てるようにその声は言った。馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの口調だ。
自己満足。ただの、正義感。そうだと言われれば、きっとそうだろう。今自分がやっていることに使命感があるかと聞かれれば、ないと答えるだろう。そんなものに意味はない。これは、本当にただの自己満足なのだ。だが、それでも。
――おれは。
多くの時間は要らなかった。気付けば己の手が、標的を葬っていた。凶暴な口を切り落とすように、刃を振るう。
少女は目を見張った。あの距離から灰龍へ駆けたとて、間に合わなかったはずだ。明らかに灰龍が、碧を食い殺す方が早いと思われた。だがあの少年は、人間とは思えぬ速さで灰龍を斬りつけた。そう。まるでその瞬間だけ、人格が入れ替わったような。
「おれは、」
赤黒い血が顔に吹き付ける。碧は今起こった事態が理解できていないようで、怯えた眼差しでイチカと灰龍を見比べていた。
「誰かの意見に従って自分の考えを変えるほど、まだ自分を見失っちゃいない」
景色が霞み、頭がくらくらする。そんな中でミリタムは、イチカの決意だけを聞いた。正直そんなに責任感があるとは思わなかった。彼自身嫌っている人間だ。成り行きで護っているだけだと思っていた。
「……小癪な」
少女は、ともすれば舌打ちしそうなほど、感情のこもらない声で忌々しげに言った。
「つくづく勘に障る生き物ね。……いいわ、回りくどいことは終わりにしてあげましょうか!!」
皆が手に力を入れる。壮絶な戦いが始まる。誰もがそう予感していた。少女の殺気は今までの比ではない。異常な瘴気が満ち溢れ、世界を覆い尽くす。灰龍か、いや、灰龍以上の殺気や瘴気が襲いかかる。少女の後ろに異形の幻影を見た、ような気がした。来る。誰もがそう思い、構え。
突如、その瘴気は跡形もなく消えた。
イチカも、碧も、ラニアも、白兎もミリタムも目を疑った。だが一番動揺したのは、おそらく少女であっただろう。その右手の甲に、もう一つ、別の手が重なっていたのだから。
「ふー……。ギリギリセーフみたいね」
少女の手をそのまま後ろへ引きながら、クラスタシアは緊張感のない口調で言った。
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