第五章第三話  闇の胎動

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 そもそも心を全て吐き出すというのは、不可能なことである。
 吐き出すならばそれ相応の感情表現が必要だ。すなわち――泣くか怒るか。普段と変わらぬまま、不満や苦しみを外に出せというのはなかなかに難しいことであろう。もっともそれほど強い負の感情があるとすれば、相当何かによって溜められたストレスが大きいとも考えられる。そこまで溜め込んでいるとしたら、心はそれどころではないだろう。
 吐き出せないのだとすれば、それは何か大きな理由があるからだ。大っぴらにするには躊躇われるような何か、大きな問題。
 ――例えば、感情を表せないほどのことが長期間あった、など。
「あっはははははは!! はっ、は……」
「はははっ、はぁっ、はぁっ……」
「……いつまで笑っている」
「安心して。もう笑い疲れたわ」
「色々と突っ込みたい所だがあえて何も言わないでおく」
 そう、これは休息の時間。これだけ笑えるような時間はこの先数秒もあるか分からない。大切な仲間たちが笑い合っていられるこの瞬間。これが素晴らしいものなのだ。まさに青春、友情の証。かけがえのない思い出。――とイチカはできるだけ自分に言い聞かせた。途中あまり考えたことのない事柄もあったが、それはそれである。『大切な仲間』というフレーズは間違ってはいないのだ。一応は。
「だからね、何か理由があるんだと思うの。二人も同じ夢を見たんだよ? それにヤレンが出てきてるし……。何か、言いたいことがあるんだよ、きっと」
 同じ夢、の部分で何人かが吹き出しそうにしているのを視界の隅で捉えたイチカ。言いたいことはある。だがそれは眼力で示した。直後、その辺りの者が一瞬で固まったのは言うまでもない。
 碧の言葉に賛同し、言葉の一つ一つに頷く者もいた。そのうちの一人、ラニアが挙手する。ただし、あまり真剣な顔ではなかったが。
「二人でもう一回寝てみたらいいと思いまーす」
「!? らっ、ららら……!!」
「夢の続きを見られればいいんでしょ? ちょーどそこにベッドもあるし、気が合う者同士で言うことなし!」
「〜〜ラニアっ!! 真面目に考えてくれてるの?!」
 顔を赤くしながら反発する碧の言葉に、あら〜、と心外そうなラニア。
「あたしはいつだってマジメでけじめのある人よ」
 どこが、とラニア以外が心の中でつっこむ。不思議な団結力である。
 人の気持ちを知っていてからかうのだからタチが悪い。碧は真っ赤になっておろおろしながら、ちらりとイチカを見る。いつもの涼しい顔。碧のように抗議するわけでもなければ、恥ずかしそうに頬を染めるはずもない。そのどちらにも当てはまらない、彼が言いそうな言葉で言うなら「くだらん」で終わりそうである。碧はいいなぁポーカーフェイスってと、何か別の方向で感動しつつ、ひとり落胆するのであった。
「イチカ、そのままでいて」
 どこへ行く素振りもなかったが、引き留めるように立ち上がったのはミリタム。そのまま彼の所へ歩み寄り、右手をイチカの右腕にかざす。骨折した部分だ。真剣そうな顔からどこか深刻そうな表情になり、仲間たちは心配そうにその様子を見守る。だが彼が呟いたのは、全く逆の言葉で。
「腕……もう完治したんだね」
「嘘っ?!」
 どよめきと喜びが入り交じったような声が沸き上がる。視線は一気に張本人へと――イチカへと注がれる。一斉に幾つもの視線を受け、彼にしてはいつになく気まずそうに口を開いた。
「……実は昨日、暇で……悪いとは思ったんだが素振りをしていた。その時にはもう支障はなかった」
「……へぇ。“暇で素振り”? ふぅ〜〜んそう」
 オウム返しするミリタム。その眼は誰から見ても据わっている。「怪我人は絶対安静だって言ったでしょ」と碧色の眼は語っていた。それを理解したから、イチカは少しばつの悪そうな表情を浮かべ、一言「すまん」と呟いた。
「まあ別にいいよ。貴方が怪我をして悲しいのは僕じゃないし」
 ね、と微笑み視線を碧に向ける。向けられた視線の意味を察し、また顔が熱くなる碧。
「み、みんな心配してたよ!」
 あまりイジメると可哀想だ。イチカ以外の全員はそう考え、からかい過ぎないことにした。やはりイチカはそれまでのやりとりの意味が分からないまま、蚊帳の外であった。
 例によって話は変わり、出発の日程について話し合う。カイズとジラーは執行猶予期間のため、共に旅には出られない。それを悔しく思う一行だったが、悲しくはなかった。きっとまた、七人で旅ができる日が来ると信じていたから。
 再旅立ちは翌朝。彼らの力強い見送りを受け、レクターンを発つ。もう後戻りはできない。あの笑顔は大切にしまっておかなければならない。行く末には、残りの魔族との戦いが待っているのだ。
「兄貴、みんな。もし死刑になったら、オレらの武器形見に持っててくれな」
「お願いします」
「なーにバカなこと言ってるの! 死刑になんかならないわよ!」
「そうだよ! みんなちゃんと分かってくれてたよ! だから……そんな悲しいこと言わないでよ……っ」
「ほら見なさい! あんたたちが弱気だからアオイが泣いちゃったじゃない」
「ぅえっ?! わ、わりいアオイ、そんなつもりじゃねえんだよ!!」
「カイズが全面的に悪いなぁ。あんまりリアルな話持ち出すから」
「ちょっと待てジラーお前なあ! お前だって“お願いします”とか深刻そーに言ってたじゃねーかっ!!」
「カイズのバカもう知らない……!!」
「やっぱオレのせいなのーー!?」
 泣きそうだった。でも今は、そんな気持ちはどこかへ飛んでいってしまった。今はただ、こんな朗らかな空気の中にいたい。みんなの笑顔が満ちていて、楽しい。まるでずっと前からの親友のように、笑い合える空間が大好きだ。
「なんだアオイ、笑ってるじゃないか」
 ジラーの言葉に「嘘?」と慌てて碧の顔をのぞき込むカイズ。
「えへへ、ごめん。ちょっとお芝居しちゃった」
「むっちゃくちゃ心臓に悪かったんですけど……」
 これから判決下るのにさぁ、といじけたように呟いて。笑う、笑う。数日前には無かった笑顔がそこにあった。心の底から笑えることがこんなに嬉しいなんて。まるでずっと笑うことを忘れていたかのような、久しぶりに笑ったような、そんな気分だった。
「骨ぐらいは拾ってやる」
「えええーーー?!」
 それまで黙って傍観していたイチカまでもがからかい調子。ただ、「冗談だ」と言う彼の場合は、冗談を言うような人柄ではなかったために皆ワンテンポ遅れていたが。笑いこそしなかったが、イチカも本当に穏やかな眼をしてその風景を眺めていた。
「万が一死刑になったら……おれが土下座する」
「兄貴ぃ〜〜……」「師匠ぉ〜〜……」
 じぃぃぃん、と感動する二人。そんな二人に微笑みかけながら、宿を後にする一行。次にはカイズもジラーもぴんと手を挙げて、元気よく手を振っていた。

 ――これと言って理由はない。
 ただ、どうしても暇なときはついつい手が伸びてしまう。手を伸ばし、気付けば時間が経つのも忘れて夢中になっている。趣味とはそういうものだ。知らず知らずのうちにどっぷりとはまり込み、抜け出せなくなってしまう。たとえそれが、自分自身嫌っているものだとしても。
「これで本当に男なのか、甚だ疑問だな」
「ほっといてちょーだい」
 不機嫌な声で返す。だが鏡の前で、かつ真剣にポニーテールを結う姿は、彼が嫌う女そのものだ。
「で、何か用事(ワケ)あり? ――ソーちゃん」
 彼は――クラスタシアは振り向きもせず訊ねた。鏡に鱗の鎧が映っているからでもある。だがそれ以前に、ソーディアスの気配を感じ取っていた。彼らにとって神出鬼没というのは、まさに日常茶飯事なのだから。
「臨時集会を行う。半刻後には集合していろ。グレイブ殿からの伝言だ」
「はぁ? 臨時集会って、いつも臨時みたいなモンじゃない」
 依然まとまらない髪に苛立ちながら、クラスタシアが文句を垂れる。彼らフィーア・フォースのようにまとまって行動する魔族はあまりいない。魔族は基本、単体で行動するのだ。無論、一つのまとまりではあるが、フィーア・フォースの者たちもその傾向が強い。故に魔王は、部下たちの一人を【思考送信(テレパシー)】で呼びつけ、伝言を伝えさせる。いつどこで、何をしているか分からない。その意味も含めて、『定例』とは言わず『臨時』で通しているのだ。
「とにかく半刻後だ、今回は遅れるなよ。久しぶりの召集なんだからな。敗戦続きで気が立っておられる時に、火に油を注ぐようなことだけは避けておくべきだ」
「はいはい心得てますー」
 あまり心得てなさそうに返事をする。ここまでの会話からすると、クラスタシアは遅刻の常習犯なのだろう。だとすれば、その理由の大半は今回の通り髪型に時間をかけているからか。どこか絶対的なものにはルーズである。
 ソーディアスはそれだけ告げると、くるりと踵を返した。用事は本当にそれだけだったらしい。
 否、
「――それと、」
 空気が一変する。立ちこめるそれは、紛れもない殺気。その部屋の物、空気にさえ亀裂が入り、中途半端な殺気ではないことを物語っている。
 二つの軌跡が、瞬間とも言える速さで弧を描いた。それに相対するように、研ぎ澄まされた刃のような直線が迎え撃ち、かち合う。
 冷たい霧が、ゆっくりと事実を晒していく。
「……腕は鈍ってないな」
「おあいにく様。何のために毎日ダンベル運動してると思ってんのよ?」
 全てが純銀に覆い尽くされた刀と、二股に割れた紅の刀。片方は身だしなみを整えるための鏡に突き刺さり、もう片方はすんでの所で止められていた。素手で、手のひらに乗せるように。
 フッと、龍のごとき青年は笑う。
「そのセリフもその姿で言うと似合わないぞ」
「さっきから喧嘩売ってんのアンタ」
 人の外見にいちいち茶々入れて、と不機嫌極まりない口調。くっくっ、と楽しそうにソーディアスは笑む。
「そんなお前に朗報だ。今回の臨時会は、大方クラスタシアが喜びそうな部類の会だそうだ。ストレスの発散にはもってこいだろうな」
「……へぇ?」
 興味深そうにその話に聞き入るクラスタシア。ソーディアスの、否、魔王の読みは正しかったようだ。
「折角与えられた機会だ。存分に楽しませてもらえ」
 そう告げて、ソーディアスは今度こそそこから消えた。
「……存分に楽しませてもらえ、ねぇ」
 あとに残されたクラスタシアは、ただ微笑を浮かべる。闇のように黒い存在が消えた方向をじっと見据えて。あるいは、舐め回すように。
「そーゆー本人が、いっちばん楽しそうな顔してんじゃないの」
 消えていく瞬間の表情を、彼はしっかりと見ていた。それまでは伝言役に徹し、自らの感情を押し殺したような、機械的な声質。それが去り際には、微妙な違いではあるが喜悦に変わり、抑えきれなくなった喜びが口元へ。狂気とも形容できるその笑みは、ただひたすら、純粋に「楽しそう」であった。
 結局は戦いたいだけなのだ。自分も、彼も。欲求不満が解消される日を待ち望んでいたのだ。そうして隠すこともなく悦びを露わにする。それを理解したときには、ただの戦い好きへと成り下がるのだ。
「さってと……後はこのどーしよーもない髪をきっちり整えて……」
 年頃の娘のような独り言。その呟きが、はたりと止まる。目線は鏡。本来ならば自分の姿が映っているはずのそれは、全面がひび割れて使い物にならなくなっていた。先ほどの『試し切り』で放出された殺気が、物にすら影響を及ぼしたようだ。ちなみに、鏡だけではなくその側に置いてあったローションその他も粉々になっていて。
「……ソーちゃんのどアホ。慰謝料たっぷり請求してやる」

 それから半刻後。王座のある一室に、クラスタシアとソーディアスの姿があった。なお、クラスタシアが本当に慰謝料を請求したかどうかは定かではない。王座には魔王が、無表情に座している。彼の心には、最早迷いなど無かった。『彼女』の事は、頑強に封をして心の底に押し込めたのだ。もう心を乱したりはしない。目的はただ一つ。自分たちの脅威となる二人の生まれ変わりを殺すこと。主導者である自分が最も冷静でなければならない。余計な感情は不必要なのである。
「来たな」
 ぐっ、と身を乗り出す魔王。眼で頷く二人の部下。
「細かな戦況を言えば――この通り、結果的にオレたちは敗戦の一途を辿っている。何せ奴らは剣技・魔法・神術の全てを兼ね備えているからな。知っているだろうが、ヴァーストやエグロイはオレの軍に首席で入ってきた奴らだ。それが負けたとなると、正直お前たちには荷が重いとオレは考えた」
 そこで一旦言葉を切る。理解を促すように。まるでこれからが本当の作戦だ、と言わんばかりに。
「肉弾戦ならば圧倒的にお前たちに分がある。だが魔法や神術の穴は埋めようがない。
 そこで、だ。そのどちらも埋め得る助っ人を、向こうから呼んでおいた」
義妹(いもうと)君、ですね」
 ソーディアスが魔王の言葉に繋げるように言った。
「ホント?! ホントにノアちゃんが来るの魔王サマ!?」
 それこそ掴み掛かるような勢いで、嬉しそうに訊ねるクラスタシア。甲高い声に魔王が迷惑そうな顔をする。ソーディアスは呆れたように溜め息を吐き、もっともな事を言った。
「……あのな、クラスタシア。サイノア嬢も立派な女だぞ」
 何だその違いは、と据わった目つきで問う。実を言うと彼の差別は、今に始まったことではない。何故か魔王の義理の妹には、あまり嫌悪感を示さないのだ。そこまで違いがあれば好意がある故に、と取れるだろう。だがそれは絶対にない、とクラスタシアは言う。しかしその根拠は未だ話されていない。
「ノアちゃんは別モンよ」
 それが彼の毎度の答えであった。
「……とにかく。サイノアはオレよりも高い魔力を持っている。あいつには残り物の相手をさせることになった。どうせお前のことだから、手柄を横取りされるとか何とかと喚くだろうからな。主役はあくまでオレの部下であるお前たちだ」
「魔王サマよーーっく分かってる〜〜!! じゃあアタシが男の相手するから、ソーちゃんは結界女の方お願いね」
 語尾にハートマークを付けて可愛らしく微笑むクラスタシア。普通の、何も知らない男ならばすぐさま首を立てに振るだろう。しかしソーディアスは、当然のことだが興味を持った素振りもなく一言。
「断る」
「なんでよお?!」
「奴の相手はおれだ。女の相手なんてできるか」
 ぎゃあぎゃあと喚き叫び――喚き叫んでいるのはクラスタシアの方であるが――作戦会議はどこへ消えたのか。まるで雰囲気のない部下たちへの感情は、怒りどころか呆れ、悲しみであった。なんでもいい、というのが実際の所の魔王の本音である。
「お前は魔法士の相手をしろ、クラスタシア」
 うんざりとした口調で相手を命じる魔王。慣れてはいるが、いい加減疲れているのが現状だ。クラスタシアは「え〜〜……うーん、まぁいっか……」と生返事。それを承諾と取り、魔王はソーディアス、と声を掛ける。
「お前とクラスタシアに、これを。『生命の石(リターンライフストーン)』だ」
 さっと、ソーディアスの表情が困惑のそれに変わった。少し前に聞いた話だ。魔王が『裏切り者』一行に、小手調べのつもりで太古の魔物『セルフィトラビス』を差し向けた。思いの外あっさりと敗れ、その石は持ち主の元へ戻った。魔王はそれを、最愛の恋人にして部下である烏翼使忍者・烏女に譲ることに決めたそうだ。但しそれは、『裏切り者』たちの抹殺という交換条件の下での約束であった。結果彼女は敗れ、ヴァーストらが同士討ちを行った、と。
 いわばこの『生命の石』は形見。そんなものを易々と受け取って良いのか――。
「……案ずるな。オレはもう、割り切った」
 そんなソーディアスの心を読み取ったのか、自嘲気味に呟く魔王。
 ――この方は。
 何か底知れぬ不安を感じた。それが何かは分からない。だが何か、とんでもないことをしでかすのではないかと、彼は言いしれぬ予感を覚えた。
「じゃあさあ、魔王サマ? アタシたち、もう出ちゃってもいいのよね?」
 妖艶とすら言える笑みを浮かべ、クラスタシアは魔王に問うた。「出る」とはこの古城から出ること。『裏切り者』たちと闘うということ。
「ああ。弔い合戦だ」
 あまり時間をおかず、魔王は承諾した。ふ、と心の底で笑いたくなる。誰のための弔い合戦か、やはり未練が残っているではないか、と。
 クラスタシアが丁寧に会釈したのを視界の隅に捉え、遅れて会釈するソーディアス。何かがおかしい。魔王に対して浅からぬ危険を覚えたが、それはまた後日に回すことにした。今は、彼の命令は絶対だ。逆らうなど、ましてや疑うなどあり得ないことだ。たった一時の迷いだ。何も気にすることはない。クラスタシアと顔を見合わせ、標的の元へ行こうとして――
「それは困りますねェ」
 唐突、だった。
 あまりにも唐突すぎて、三つの存在はどれも皆驚愕に目を見開く。
 馬鹿な、と叫びたくなった。たった今まで、その声が聞こえるまで、常にここには三つの気配しか無かったはず。第三者は、彼らの意識外から突然割って入ってきたのだ。確信した。その声の主は、自分たちと同等の、否、それ以上の力を持っている。現にその者は、三人に気付かれることなく風のように入り込んできたのである。
 彼らの(おどろ)きを面白そうに眺め、にんまりと『彼』は微笑んで言った。
「それでは多少、僕の予定が狂ってしまう。何とかなりませんか、魔星第一区治権者殿?」
 魔王が、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
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