第五章第二話  追憶の彼方

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 愛などという言葉では足りない想いがあった。身体中の細胞が音を立て、硝子細工のような心は脆くも崩れ去る。何者も、取り替えられない。それほどに。

「申し上げます。我らが同胞ヴァースト・マレイが、『結界女』一行に敗れました」
 野生の獣が好むような陰湿な空気。漆黒の闇と言えども負けてしまいそうな暗然とした部屋に、二つの存在があった。姿形は人間のそれだというのに、彼らから発せられる気は禍々しい魔族のものである。否――建てられた日も、目的も、全てにおいて不詳なこの古城自体が、いかにも怪しげな雰囲気を漂わせているのだ。まるで彼らの為に建てられた城であるかのごとく。
 この城、やはり古城とでも言うべきか、普通の住居にはない特徴がある。例を挙げれば、『窓』。雨をしのぎ風を吹き入れる一般的な民家によく見られる窓ではなく、壁の一部分を四角く切り取ったような窓である。建造された当時の物資に限りがあったのではないかと言われているが、やはり明確な年紀は謎のままである。
 近すぎず、遠すぎず、影同士の距離は保たれていた。一つは切り取られた『窓』に背を向けて金地の王座に座し、目前に立つ部下の報告を聞いている。年齢は二十代半ばほどのように見えるが、はっきりと特定することはできない。その髪は物憂げな表情を引き立てるような、緩いカーブのかかった金色。深い、紺碧の瞳はどことなく沈み、どこかやつれているようにも見える。それがその齢にヴェールを掛ける原因なのだろう。様々な点から見れば年老いても若くもなる。髑髏(どくろ)の鎧に身を固めたその男は、俗世間の人間が恐れる、いわゆる魔王である。
「……そうか……」
 魔王は短く、遺憾の意を表した。戦いの様子を【()て】いた部下によれば「どー見ても油断しすぎ。デレデレしてて気色悪かったわぁ〜」だったそうだが、それにしても彼の死を信じられずにいたのだ。
「聖域に侵入する、というのは姿と気配を無にできるヴァーストならではの作戦だ。敵を二分し、雑魚(ざこ)を先に片付ける。獣人がいたというのは予想外だとしても、奴らはかなり苦戦したはず。何故()けたのか……」
 魔王は両手を組み、その上に額を乗せて項垂れる。
「聖域には『裏切り者』『結界女』の双方を封印してあると聞きます。それが逆に、我々の気配を敏感に感じ取る要因となったのではないでしょうか」
 相対するもう一つが、冷静に分析する。腰まで届く闇色の髪を白布で無造作に束ね、鱗の鎧を身に纏った男である。左右に一本ずつ計二本の剣を帯刀しているその姿は、一見すれば普通の人間とさして変わらないだろう。だが人間界では無名であっても、彼らが住まう魔星において、その男は『二刀流』の使い手として名を馳せている。
「済まないな、ソーディアス。手間を掛けさせた」
 いえ、と黒髪の男――ソーディアスは短く否定した。
「いずれにしても不慮の事故です。ヴァーストの作戦はほぼ完璧だった。条件が合えば二つ分の首を持ち帰っていたでしょう」
「そうとも限らないわよ〜〜?」
 唐突に響く、その場の空気にはそぐわぬひょうきんな声。それまでいなかった者が急に出てこれば驚くのは普通であろう。だが魔王もソーディアスも、ただゆっくりと声の主に目をやっただけであった。
「……クラスタシア」
 ソーディアスが呆れたように仲間の名を呼ぶ。女のような風貌と名前に惑わされた者は、魔星でも人間界でも後を絶たないらしい。女そのものの仕草で彼女――否、彼はいかにも不服そうな表情を浮かべた。
「予想通りのリアクションでガッカリだわ。たまには驚いてくれたっていいんじゃないのぉ? 『わぁ! びっくりしたなぁ!』とか」
「あいにくとおれたちはそれに慣れてしまってる。今更驚けるはずがない」
 人間じゃあるまいし、と皮肉混じりに言うソーディアス。クラスタシアはちぇっ、といじけたように舌打ちし、思い出したように魔王に軽く一礼した。
「クラスタシア……先ほど“そうとも限らない”と言ったな。それはどういうことだ?」
 真剣な眼差しでクラスタシアを見つめる。
「んー……そう言えば、まだ魔王サマとソーちゃんに話してないことがあったのよねぇ。ヴァーストを【千里眼】で見てたんだけど、途中で銃弾受けて。そしたら、信じらんないんだけど……アイツの顔を護ってた闇蜥蜴(ヤミトカゲ)が死んじゃったのよ〜」
 世間話でもしているような軽い口調ではあるが、魔王もソーディアスも目を見張った。
 闇蜥蜴とは、魔星に住まう生き物である。以前ヴァーストがミリタムにけしかけた黒龍の配下にあたり、魔族の階級で言ってもまずまずのランクに属する。
「『結界女』も『裏切り者』も、以前と全く同じだと聞く。仲間内にそのような手強い銃士がいるとは……」
 これ以上無いほどの大きな溜め息を吐く魔王。人間相手に手こずっているという事実が、焦りとも苛立ちともつかぬ感情を生み出したのだ。魔王はまた頭を抱えた。
「そいつの外見は?」
「知らなぁい」
「……要するに女か。ならばまだ勝算はあるな」
 そっぽを向いてしまったクラスタシアに呆れた眼差しを向け、ソーディアスは作戦を練り始めた。そんな部下を後目に、魔王は新たな感慨にふける。
 こちらの世界では、あと半年も経たないうちに雪が降る。それまでにこの遠征が終われば、想いを断ち切ることができるだろう。終わらなければまた、自らの選択を悔やみ、『彼女』を想い続けるのだろう。
 自己満足ではない。だが善心でもない。本当に、気まぐれだった。それがこんなにも大きな存在になるなど、思いも寄らなかったから。

 ――それは、忘れもしないあの雪の日のこと。
 もう何百年前になるだろうか。魔星では見ることのできない自然の一つ。その日は何をするわけでもなく、ただその雪を見たいが為に人間界へ降り立ったのだ。自分たちから見れば力無き存在が住む世界。だがその世界で唯一、雪だけは好きだった。空の遙か彼方から舞い降りる白は、無彩色ながら美しい。
 例えるならそう、天女のような。
 その思考が浮かび上がった瞬間、もう笑うしかなかった。魔星の頂点に立つ魔族の王ともあろう者が、全く正反対の立場にあるものを例えに使うとは。
 どうにかしている。この、空からの贈り物を見ることができる季節にしかここに来ることはない。それなのに、もはや人間界の情でも移ってしまったのだろうか。
 だとしたら、少々厄介だな。
 くっくっと喉の奥で笑い、足早に魔星へと帰るべく、名残惜しげに向きを変えて――
 そこに、何かがいた。
 無意識に身構えたが、すぐにそれを解いた。『何か』は、うっすらと積もり始めた雪の上に倒れ伏していた。その小さな背中すらも、白に塗り替えられようとしている。『天女』がその存在を隠そうとしている。
 どうすべきか迷った。『何か』は恐らく、いや、間違いなく人間で、しかもまだ幼い。遠目で見ても、折れるのではないかと思うほど痩せ細っている。幼いとはいえ、それはあまりにも小さかった。艶のない、短い黒髪が所々白く染まっている。
 また悩んだ。悩みながら、一歩ずつ、近付いていった。本来ならばそれを気に留めてはいけないのに、明らかに介抱しようとしている。
 一歩。何度もこの世界の土を踏んだ。何度も今のような人間を見た。だが興味を示したのは今回が初めてで、近付いたのも初めてだ。何に惹きつけられたのかは分からない。ただ――『何か』が持つ特異な色素の髪が、目について離れなかったからかもしれない。
 躊躇いがちに手を伸ばし、そっと壊れ物のように抱きかかえる。その身体は驚くほど冷たかった。一体いつから倒れていたのか。その小さな口元に耳を寄せると、僅かではあるが息があった。しかしこのままでいては時間の問題であろう。未だ心は迷う。だがそのとき、予想外の事が起きた。
「あたし……死ぬの……?」
 腕の中から声がして、咄嗟にそちらを向いた。光のない漆黒の瞳が開いていた。目の焦点が合っておらず、どこか関係のない方向に向かって話している。しかし予想に反してしっかりとした口調に、何故か安心感を覚え、同時に、答えを戸惑う。答えが返ってこないのを肯定と取ったのか、少女は小さく笑った。
「そっかぁ……ザンネン……だなぁ……」
 本当に残念そうに微笑む少女を見て、胸が痛くなった。なんとか救ってやりたい。何か方法はないのか――。程なくしてある考えが脳裏をよぎった。すぐさま頭を振る。駄目だ、それを言ってしまっては。それを言ってしまえば、誇りも何もかも失ってしまうのは確定的だった。だが体温がどんどん下がり、腕の中で弱り切っていく少女を見捨てるなど、できない。できるはずがなかった。
「――生きたいか?」
 少女が僅かに顔を上げ、ようやく視線が交わった。やつれた表情に、少しだけ光が差している。だが喜びよりも驚きの方が、大部分を占めているようだった。双眸が見開かれている。
「生きたいのか、そのまま死ぬのか、どっちだ?」
 凝視する瞳に答えるように、同じように蒼黒の瞳で見つめ返す。少女は明らかに戸惑っていた。突然そんなことを聞かれて、戸惑うなという方が無理な話だ。だがこれは決して生半可な気持ちではない。本気だった。
「……生き……たい……」
 その本気を感じ取ったのか、少女は小さい声ながらはっきりと言った。
「生きる……の……死に……たくない……っ……生きられる……なら……なんでも……!」
 決して手放すまいとするように服を掴み、涙を流しながら訴える少女。どんなに過酷な人生を歩んできたのだろう。何かの奴隷だったのか、衣服は布の真ん中に穴を開けただけの極めて簡素なもの。握ってもすき間が空きそうなほどか細い手足には数え切れないほどの古傷。もう少し早く見つけていたなら、こんな姿を見ることはなかったかもしれないのに。
「魔族になれば、永遠に近い時を生きることができる。人間にはもう戻れないが、それでも生きたいか?」
「なる……!!」
 少女の決意の大きさは、衣服を一層強く握ったその手が物語っていた。

 それから幾百年経ち、少女は魔族になった。そして年月を重ね、少女は女性になった。彼女はやがて、命の恩人である魔王に忠誠とは違う感情を抱くようになる。魔王もまた、彼女が少女だった頃に抱いたものよりも確かな愛情を感じるようになる。
 ――しかし、互いに愛し合った二人を魔王の部下は赦さなかった。彼らにとって人間と恋仲になるなど言語道断であった。それは全て、四百年前の戦が原因だ。その時烏女はまだ幼く、訓練も受けていなかった。四百年前のことなど、知るはずもなかった。だがヴァーストらは厳重に警戒していた。もしあの時と同じような事が起これば、魔王はもちろんのこと、直属の部下である自分たちフィーア・フォースも誇りを失う。否、魔族としての何もかもを失ってしまう、と。同士討ちはやむを得ない、ようやく手に入れた地位を無に帰すつもりかと問われ、魔王は渋々承諾したのだ。
 ――救いようもない!! なんて馬鹿なんだ!!
 地位など誰にでもくれてやれば良かった。誇りなど、烏女を拾ったその時にもう捨ててしまっていた。何を畏れていたのか。ただ一つ畏れていたのは、烏女が死ぬこと。それだけだったのではないのか。
 視界の端に作戦会議を続ける部下の姿が映る。
 もし、結界女と裏切り者を始末してしまったら?
 魔族全体にとっては喜ばしいことであろう。だがたとえそうなったとしても、この心の霧は決して晴れることはない。大団円には、ならない。
 どうすれば、いい?
 愛しい(ひと)の名を胸に刻み、魔王は悩み続けた。
「ねぇねぇソーちゃん。魔王サマ、すっごくオイシイんだけど」
「妙な言い方をするな。負の気を纏っておられるからだろう」
「そんなになってまで何を悩んでいらっしゃるのかしらね〜〜?」
「大方烏翼使忍者のことだろう。相当に愛されていたようだからな」
「まぁ〜〜たあの女ぁ? 人間の女のどこがいいワケ?」
 顔なら誰にも負ける気しないわ、と胸を張って言うクラスタシア。ソーディアスはふぅ、と溜め息を吐く。
「お前と同じだ。グレイブ殿は人間を愛したが、お前は好かない。個々の好みというものだ」
 おれにも良くはわからん、と両手を広げて肩を竦める。元からあまり分かっていないクラスタシアも意味が分からないという表情をしたが、無理矢理に納得することにしたらしい。あっそ、と素っ気なく返事をした。

 その頃レクターン王国の近隣にある宿では、イチカが碧に迫っていた(ように見えた)ことにより、あらゆる意味で緊張が走っているところであった。
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