異能力者

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 目の前には、悲しい光景が広がっていた。
 おそらくどこかの病院であろう。室内には幼い少女と看護婦と医師、そしてもう一人、ベッドに横たわる女性がいた。見舞いにしてはその風景は深刻すぎるし、かと言って臨終した訳でもなさそうである。少女はただ、見舞い客用の椅子に正座し、じっとその女性を見つめていた。無表情ではないが、今にも泣き出しそうな弱々しさはその表情にはない。ただ黙って、女性の手を握りしめていた。
「……おかあ、さん」
 返事はない。女性は口元に人工呼吸器を付けたまま、静かに眠っているだけだ。それでも少女はめげずに、再び女性を――母を、呼んだ。
「……おかあ……さん」
 やや覇気のない少女の声が涙声であることは、看護婦も医師も気づいていただろう。だがどちらも顔を上げることなく項垂(うなだ)れている。少女の願いに応えてやることは出来ないからだ。少女は今度こそ、泣き叫ぶ勢いで母にしがみついた。
「おかあさん……っ!!」
 少女の母はある意味、死よりも悲しい事実に直面していた。
――
「……!!」
 飛び起きた人影。空はまだ薄暗く、本来の起床時間ではないことを物語っていた。荒い息をする口元に、額から滴り落ちてきた汗が伝う。
「……っ……!」
 また、見てしまった。
 見たくもないのに夢は――というか『彼女』の特性は、現実を『彼女』に突きつける。どうしようもない上に、酷く質が悪い。
 実のところ『彼女』はここ数日縁起の悪い夢ばかり見ていた。なにか、自分の身に悪いことでも起きるのか。別にそれはそれで構わない。夢の影響が自分に及ぶ分、夢に出た人々は辛い思いをしなくて済む。
 全て自分で背負うと決めた。自他も、善悪も。それが『彼女』のモットーなのだ。とはいえ――
「三時半か……」
 それはあまりにも早い起床だった。あと四時間後には完全に起きなければならないが、かと言ってこれは早起き過ぎるというものだ。中途半端な時間に起きてしまった、と『彼女』は思う。まぁ、三十分くらいなら寝過ごしてもいいだろう。幸い高校は徒歩でも二十分弱だ。自転車で行けばなんとかなる。そう思い、『彼女』は再びベッドに横になったのだった。
 ――その考えが甘すぎた事も知らずに。

 ジジジジジジジジ…………
「ん〜〜〜〜〜……」
 ジリリリリリリリリリイ…………
「んん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
 じじじじカチャッ
「……ふぁ〜〜〜あ」
 けたたましいベルの音が、部屋中に鳴り響く。それにも関わらずすぴーすぴーと寝ていたのだから、割と寝付きは良いのだろう。むしろ良すぎるようだが。
 寝ぼけまなこで――起きるのも面倒なのか、手探りで時計を探している――時計を見る。
「……?」
 視界が霞んでいるせいか、時計の針がよく見えない。眼をごしごしとこすり、もう一度時計の針の指す位置を見た。長針は「2」と「3」の間、短針は「8」と「9」の間を指している。ということは、今現在の時刻は八時十二、三分。ちなみに『彼女』の通う高校の始業時刻は八時三十分きっかりである。それより一分、否、一秒遅れたら廊下に立たされる。他の高校に比べれば厳しい部類の学校だ。『彼女』は今年で三年目になる。当然そんな校則には慣れていたが――
「……八時……十三分!?」
 布団を跳ね上げる勢いで飛び起き、眼にも止まらぬ速さで着替えと朝食の用意をし出す。実を言えば『彼女』の座右の銘は「いついかなる時でも十分前行動」である。常に余裕を持つことで平常心を保つ修行にもなったわけだ。故に目覚ましはいつも七時というこれまた余裕のありすぎる時刻にセットしてあったのだが、どうやらうまく働かなかったらしい。百均で買った時計である。いつ壊れてもおかしくはない。
「早く……っ……!!」
 尚、今『彼女』はトースト待ちである。(じき)にできることは分かっているが、なにせ自分の格言を自分の失敗で崩されそうなのだ。これほどもどかしく苛立つ事はない。それに――
「……早くしなさいよこのポンコツ!! 信号に負けたら遅刻すんのよ!?」
 高校までの通学路にはひとつ、どうしようもない信号がある。どう「どうしようもない」のかと言うと、待ち時間が恐ろしく長いのだ。最長で五分待ち。更に不幸なことに、その信号がある交差点は朝だというのに車の交通量が多く、信号無視できるものでもない。とてもではないが遅刻せずに行ける可能性は低い。
『彼女』の訴えが届いたのか、単に時間が来ただけか。二枚のパンが飛び出したのは次の瞬間であった。無理はあるがふたつの食パンを一気に口に放り込み、鞄と自転車の鍵と家の鍵を持って家を飛び出す。長年の経験の賜物であろう――開かれたドアの横には『彼女』の愛用する自転車が、出発方向に向けられていた。
「行くわよ【サクラ54LOVELYキューティクル】二号!!」
 どういうネーミングセンスなのかはさておき、自転車――もとい【サクラ54LOVELYキューティクル】(マウンテンバイク)は勢いよく走り出した。二号ということは、一号は壊れたか無くしたかのどちらかであろう。名前の通り鮮やかなピンクとシルバーの【サクラ54LOVELYキューティクル】。マウンテンバイクにはおよそ不似合いな、無理矢理取り付けられたようにも見えるカゴに、何かが投げ入れられたのは八時二十分。『彼女』が何事かと事態を把握する前に、今度は後ろの荷台と肩に重心が掛かる。
「やっほー奴隷さん。悪いけど乗せてってくんない?」
「はっ?! あ、あんた昨日の……っていうか訊く前に乗ってんじゃん!!」
 気楽すぎる声と共に乗ってきたのは、奴隷――否、五月(さつき)が昨夜『桜紅(さくれ)』として仕事を終えたあとにいきなり現れた、あの少年だった。紛れもない茶髪に、顔半分隠すように垂れ下がっている前髪。それ以前に、彼女の事を「奴隷」と呼んだのはこの少年だけである。声だけで分かった。正直五月は、今朝見た夢のことで「奴隷」にされた事など忘れていた。一瞬驚いたが、少なくともタダ乗りさせてやる気はない。なにせ五月はセコイのだ。
「……乗車料五百円払って」
「奴隷さんにそんな請求する権利ないっしょ?」
「何様っ!?」
 全速力でペダルを回しているため顔は見えないが、少年の言い方はどことなく嘲笑っているように思えた。
「大体高校生がこんな子供みたいなチャリで登校するかねー。カゴ付いてんのも不自然だし」
「子供みたいで悪うございましたね! それにチャリじゃなくて【サクラ54LOVELYキューティクル】よ!」
「……変な名前」
「るっさいっ! ……ってああっ! もう二十五分じゃん!!」
 暫(しば)し会話をしていたせいか、時間感覚が狂ってしまったらしい。当初の五月の予定では二、三分で例の交差点に来るはずだったのだが、少し遅れた。その上目の前には“魔の信号”と異名を取る信号。たった今変わったらしく、五分待ちは確実だった。高校は何百メートルか先に見えているのに、身動きが取れない。
「あああああ!! も〜〜〜!!」
 悩み苦しみ、半ば諦めかけている五月とは裏腹に、少年は落ち着いた様子だった。
「……奴隷さん」
「何よ!?」
「乗車料と始業ギリギリに着くのと、どっちがいい?」
「なっ……」
 どっちも捨てがたい、と五月は心の中で叫んだ。
 無論、稼ぎは『本業』で十分間に合っているし、それほど困っているわけではない。だがやはり家庭の事情で貧乏である事に変わりはない。たかが五百円、されど五百円。しかし遅刻は、五月の今までの功績を台無しにしてしまう。『無遅刻・無欠席』は彼女にとって必要不可欠な称号なのだ。
「……始業ギリギリ」
 言ってから気づく。コイツに言って何か意味があるのか、と。
 だがそれは大いに意味があった。
「じゃあそこどいて。俺が動かすから、あんたは後ろに乗って」
「……なっ……何言って……」
 そう言いながらも渋々降りる五月。入れ替わるように少年がサドルに腰掛ける。五月が荷台に乗ったのを確認した少年は、あろうことか赤信号のままの横断歩道に背を向けて走り出す。何か、とてつもなくイヤな予感がした。
「ねぇ、ちょっと……何しようとしてんの……?」
「見て分かんねえ?」
 少年は言うやいなや、さらに加速する。分かんないから訊いてんのよ、と言う前にそちらの方が衝撃的で、五月は言葉を無くした。確かこの先に小高い坂があったのは覚えているが、そうなると五月の予想は悲しくも当たってしまう。
「ちょっ、これスケボーじゃない! 自転車よこれ!!」
「うっさいなぁ、ちょっと黙ってな。舌噛むよ」
 間違いない。コイツは下り坂の勢いで向こう岸に渡る気だ。この時点で既に三分が経過している。それを考えれば、まあ遅刻せずに済むかもしれない。問題は軽々と言ってのけたこの少年の技能だ。自分から言い出したのだからそれなりに自信はあるのだろうが、万が一失敗したら学校どころの話ではなくなる。
 そうこう考えている間に、少年と五月は坂の頂点にいた。有無を言わせず急降下する【サクラ54LOVELYキューティクル】。
「いいやああああああああああああ!!!!」
 ジェットコースターよりも恐ろしいであろう。あれはシートベルトという支えがあるが、こちらは何も無いに等しい。掴まるものと言えば、平然と自転車をこいでいるクソ生意気な少年だけ。激しく不本意だが――五月は無意識に、というか反射的に少年にしがみついていた。
 ふわりと宙に浮かぶような感覚。下方では車の騒音が聞こえる。空を飛ぶってこんな感じなのかなぁ、などと状況に反した考えを巡らす五月。このまま学校までひとっ飛びで行ければいいのに。
「――ん?」
 よくよく考えれば、そう良いことばかり連鎖するはずがない。跳んだのはいいが、着地はどうなるのか。少なくとも地面から三メートルは離れているはずだから、衝撃はとんでもなく大きいのではないか。五月はきたるべき衝撃に備えて、強く眼を瞑った。
 だが、いつまで経っても痛みは来ない。助走もそんなに長くはなかったはずだ。もしかしたら、本当に空を飛んでいるだろうか?
「……奴隷さん」
「な、何よ……」
 思わずその呼び名に反応してしまう。不本意ではあるが――こういう、何がいつ起こるか分からない状況だと少なからず嬉しい。
生憎(あいにく)俺そーゆー趣味ないんだよね、悪いけど」
「……“そーゆー趣味”?」
 何のことかさっぱり分からない。そう言いたげな五月に、少年は自分の言葉を補足するように自らの腰の辺りを指さした。そちらへと目線を下げて――硬直した。五月の両腕が、少年の腰を抱き締めるように――要するに抱きつく格好になっていたのだ。慌てて手を離すが、何故か熱くなった顔の火照りは取れそうにない。
「ほら、着いたから降りな」
 促されるままに荷台から降りる五月。いつの間に地面に降りていたのか疑問ではあるが、八時二十九分。なんとか間に合ったものの、走らなければ授業に遅れる。しかし、その前にしておかなければいけないことがある。
「あ、あのね!」
 気怠げに振り返り、五月を見る少年。急ぐ素振りも見せないのだから、真面目に授業を受ける気はないのだろう。
「さっきのは事故! あんたの言う趣味とか、そういうことじゃないから! 勘違いしないでよ!?」
 少年の返事も待たずに、五月は生徒玄関へと走り出した。授業が始まってしまう。それだけ言えば誤解は解けると思ったのだ。
 そんな五月の後ろ姿を見届けながら、少年は彼女とは正反対にグラウンドへ向かった。一限目は何であろうと授業を受ける気分にはなれない。それが、彼が授業をサボる理由のひとつだ。
 始鈴が鳴り響く。少年はそんな音などお構いなしに、いつもの特等席――グラウンドの隅にある樹の下に座り込んでため息をついた。
「……予言者……ねぇ」
 誰に向けた言葉だったのかは、知る由もなく。
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