第五条 頑固すぎるのが難点

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 どうして。どうしてどうしてどうして。
 広い邸内を、親とはぐれた子供のように必死に走り回る。元々それほど多くはない人々の中を、それでも彼女は無我夢中で捜し回った。何度同じ人と会っても、何度同じ答えを返されても、彼女は諦めない。諦めたくなかったのだ。
 部屋の前に置かれた中身のない食器群。主のいない室内。取り残された円テーブルの上に、書いた本人の性格を思わせるような質素な紙にメモ書きのように一言。
“さようなら 愛らしき主”

「どういう事なの、お父様っ?!」
 ミーラス邸においては珍しいほど広くない書斎に、ランテの困惑した声が響く。今からほんの数十秒――否、数秒前だろう――に、息せき切って入ってきた娘に、ミーラス邸の真の主であるブラッシュ・ジャック・ミーラスは半ば驚きを隠せないようだった。勲章のように後ろへ流された白髪に、細めの眼鏡が目元を飾り立てている。奢りすぎず、かといって抑えるわけでもない荘厳とした雰囲気は、まさに伯爵に相応しい。彼は一瞬、娘が何のことを言っているのか理解できなかった。だが切羽詰まったような彼女の顔に何かを見たのか、深刻そうに眉間の皺を深くする。一方、ランテの方は父の返答を待ちきれないのか、目前の机を手のひらで勢いよく叩いた。
「サイファが! サイファが居なくなったのよ!! 昨日まで、体調は優れないようだったけれどいつも通りだったあの人が!! ねえどうして?! どうして急に……っ」
 言葉が詰まったのだろう。ランテは一旦言葉を切ると、机に置いてあった手を顔に持っていき、覆い隠す。程なくして小さく嗚咽が聞こえた。手で隠しきれなくなった涙が頬を伝い、顎を通り抜けて地面に落ちていく。そんな娘の姿を、ブラッシュは複雑な面もちで眺めていた。
「……今朝方早く、サイファレル君が私の元へ来た」
 暫く言葉を紡げないだろうランテに背を向けて、ブラッシュが言った。息を呑む音が確かに聞こえ、密かに苦笑する。
「『条例に背いたので護衛の件を破棄して頂きたい』と。あまりにも唐突だったものだから、どんな条例だと聞いたのだよ。そうしたらなんて答えたと思う?」
 涙の跡が残る顔を上げて、ランテは父の話に熱心に耳を傾けていた。すると突然話を振られ、思わず首を横に振ってしまう。勿論分かるはずがなかったから、当然と言えば当然の行動だ。ブラッシュは微笑みながら、こう言った。あたかも彼がそこにいるような調子で。
「『騎士たる者、特に護衛騎士である我々は、主に特別な感情を抱いてはいけない』」
 ランテの双眸が大きく見開かれた。まさか、彼がそんなことを。一瞬冗談かと思った。だが普段滅多に冗談を言わない上、真摯な表情でこちらを見る父が、嘘をついているはずはない。じわりと目元に再び込み上げてくるものを必死に押さえながら、確かめるように訊ねる。
「ほ……んとう……に……?」
 ブラッシュは大きく頷き、「ああ、私も俄には信じられなかったが……彼の表情を見る限り本当らしい」と呆れとも驚きともつかぬ表情をした。
「本当にいいのか、と一応は訊ねてみたが、返答は同じだったよ。下手をすればこちらにも被害が及ぶかもしれない、それだけは避けたいと」
 それがランテにとっては意外だった。サイファの言葉ではなく、父の言葉に引っかかるものがあったのだ。
「お父様は……サイファに対して怒りを感じなかったの? その……私に対する特別な感情を抱いていることに……」
 父は一瞬、きょとんとした。年の割に幼い表情は、まさしくランテに譲られたものだろう。その子供のような表情を笑顔に変え、ブラッシュは当然、というように言った。
「怒りなどないよ。彼は護衛騎士としての役割を十分に担ってくれた。それに、娘の想い人だからね」
 しんみりと語る父の言葉は子守歌のようで、ランテの心は澄み渡っていく。だが最後に聞こえた不意打ちの一言で、彼女の思考は一旦停止した。身体中の血液の循環が早まり、顔が熱くなるのを感じる。
「……なっ……! ななな何を、お父様っっ?!」
「違うのかね? あんな形相で飛び込んでくれば、さすがの私も察しが付くさ」
 そりゃ、顔は良いと思っていたけど。声も、ちょっといいなぁと思っていたけど。
 どんな髪型もばっちりと決まってしまうサラサラとした金色の髪。ちょっと垂れた、それでも真っ直ぐな碧色の瞳。意地悪で、誘惑するような言葉を紡ぐ唇。固い胸板。力強い腕。そしていつも唐突な口付け……。
「……ランテ。若いのは良いが、そういうことは心の中で言いたまえ」
「えっ?! わ、私ったらなんて事を……!!」
 心の中で喋っていたつもりのようだが、途中から全部口に出てしまっていた。そうか、私はこんなにもサイファのことが好きだったのだと、今さらながらに気づく。顔が熱い。それは鞘が顔面に刺さった時よりも、サイファに抱き寄せられた時よりも、ずっと熱かった。目の前が真っ暗になりそうだ。
「サイファが、」
「うん?」
 大分顔の熱さは引いてきたけれど、きっとまだ顔は赤いままだろう。それでも、言わなければならないことがある。ようやく絞り出した声だったが、父はちゃんと聞き取ってくれた。
「決闘を引き受けてくれたの。私のためとその時は言っていたのだけど、本心だとは思わなかったわ。今も……」
「……その決闘は、いつに?」
「四日後、サントラカン侯爵領ダントン闘技場で」
 侯爵の名を聞いた瞬間、ブラッシュの表情が僅かに変化した。もちろんランテもそれを見ていた。そうか、と呟き、深々と溜め息を吐く彼に、何か問題でもあるのだろうか、とランテは不安になる。両手を机の上で組み、難しい顔をして考え込んでいた父が、おもむろに顔を上げた。
「ランテ、よく聴きなさい。もしサイファレル君がまだお前のことを想っているなら、解雇処分になっていてもその決闘には来るはず。――サントラカンは、彼の因縁の相手なのだから」
「……? どういうこと?」
「言葉通りの意味だよ。彼はランテ、お前の護衛に就く前にサントラカン侯爵邸の護衛をしていたそうだ。といっても、サントラカン夫妻やその令嬢と直接会ったことはほとんどなかったようだがね。サントラカン夫妻、特にその娘であるヨーネルティ様はいたく彼を気に入られ、彼の飼っている鷹を利用して手紙を送りつけてくるそうだ」
 ランテの脳裏に、いつかの光景が甦ってきた。国からの手紙を待っている。サイファはそう言って、真摯に真っ青な空の向こうを眺めていたものだ。てっきり伝書鳩か何かだと思っていて、巨大な大鷹が現れた途端意識を失ってしまった。その後は覚えていない。だが、もしあの手紙が国ではなくサントラカンから送られてきたものだとすれば。
 確認するようにブラッシュの顔を見る。彼は優しい眼差しで微笑んでいた。
「行きなさい、ランテ。四日後の決闘で、彼に会いなさい。お前が彼と変わらぬ気持ちでいるのなら」
「……はいっ!」

 決闘の日はあっという間にやって来た。護衛する主がいなくなっても、サイファは決闘を受ける気でいた。護衛とは言え騎士たる者、売られた喧嘩――もとい、決闘を買わずに逃げるなど騎士の風上にも置けない。それに、あのサントラカンの執事。彼には何か釈然としない疑念を抱いていた。その疑念を解決するために、訊きたいことがあったのだ。
 顔を上げれば、白い大理石で囲まれた闘技場が見える。ダントン闘技場――別名『死の闘技場』。あの執事良い趣味をしている、とサイファは軽く唇をつり上げた。ここで戦った両者のうち一人は必ず死ぬという、曰わく付きの闘技場である。現在までここで戦ってきた者たちは、いずれも死闘を選び、かなりの高確率で片方が死んでいた。それが『死の闘技場』と名付けられた由縁だ。故に戦う者はそれなりの覚悟でここに来るし、どこで聞き付けたのか観戦する客も、祟り殺されるのではないかという恐怖を持ちながら訪れる。実際相打ちや和解もあったのだが、前述のような例が圧倒的に多かったためだ。死ぬのはオレかもな、などと感慨に耽りながら、ふと手が鞘に当たった。そう言えば最近、投げつけた記憶がない。相手がいないからだ。
 ……相手。あのじゃじゃ馬お嬢様か。
 妙に懐かしく思える。つい四日ほど前に別れたばかりなのに、もう一年以上会っていないような錯覚すら覚えた。思えばこの剣も、あの女のために振るっていたのだ。そして、今からも。
「……未練がましい」
 呟いて、笑わずにはいられない。自分はどうしてこんなに丸くなってしまったのだろう。あれほど忌み嫌っていたのに、たった一人の女をどうしてすぐに忘れられないのか。
「ぁアくそ。うぜェな」
 どうせすぐ忘れる。忘れなかったとしても、決して叶わぬ想い。想ってはいけない相手なのだから。
 闘技場の入り口が目前に迫っていた。奥から耳障りなほどの大音響。観客の歓声がほとんどだろう。ヒマな連中だな、とぼやき、闇から光へと移ったとき、その歓声が一段と高くなった。席を埋め尽くす人々が眼に入った。思わず舌打ちする。どこまで仕事のない連中なのだ。
「迷惑そうな顔は止めませんか。我々の決闘を好きで見に来てくださった方々ですし」
 前方から聞き慣れた声がして、目線だけをそちらにやる。予想通り、これから決闘、と言うには程遠い執事の恰好をした老人がいた。セバスだ。一週間前、ミーラス邸に来たときと、全く同じ衣装だ。武器らしきものも持っていない。フン、とサイファは鼻を鳴らす。
「これから決闘というのに武器も持たないのですか? どうやら私は甘く見られている様ですね。それとも……それ自体がパフォーマンスなのか」
 セバスは何も言わず口元だけで微笑んでいる。是とも非とも取れる様子に、サイファはさらに核心へと歩を進めた。
「貴方は本当にサントラカン侯爵邸執事のセバス・チェンダル殿ですか? 失礼ながら私は非と捉えます」
 サイファは彼に対する疑問を解けなかった。どうしても本名だとは思えない。そして、ただの執事とも思えない。何よりただの執事が、騎士である自分に戦いを挑むはずがないのだ。よほど無謀で世間知らずか、あるいは――自らも騎士であるか。確信はないが、直感が閃いたのである。
 サングラスの向こうの表情は読めない。だが、彼の纏う“気”が僅かに変化した。まるで、今まで被っていた衣を脱ぎ捨てた蛹のような。
 『セバス』が短く息を吐いた。
「貴方には本当に感嘆させられます。さすがは王国騎士隊長殿……失礼。元、でしたね」
 先ほどまでのしわがれた声とは違う、若々しい声。何故かサイファはその声に聞き覚えがあった。だが、どこで聞いたのか思い出せない。間違いなく、どこかで会話したはずなのに。
「……何モンだ。そのことを知ってるってことは王国のヤツか?」
「悲しいな、忘れられるとは。貴方の下で勤めていたドルチェ・マークスです」
 そう言って、彼はサングラスと丈の長いシルクハットを静かに持ち上げた。
「憶えていらっしゃいませんか?」
 シルクハットの下から現れた長く艶やかな銀髪と、サングラスの下の深緑の瞳を見て、サイファは息を呑んだ。ドルチェ・マークス。サイファが王国の騎士隊長であった頃、確かに彼は隊員の中にいた。とは言えそれほど階級も高くなく、会話をしたこともほとんどない。だからといって決して名前だけの騎士隊員などではなかった。むしろ、権力だけで入ってきた隊員よりは遥かに強い男だった。騎士隊とは言ってもほとんどが王侯貴族の寄せ集めのような中でただ一人、ドルチェだけは一般国民であったのだ。最初のうちは当然のように蔑まれ、見向きもされていなかった。しかし、徐々に彼の実力を知った者たちは別の意味で次第に距離を置くようになっていったのである。一時は副隊長すら凌駕するとさえ言われていたのだ。それが何故。
 サイファの心の動揺を読み取ったのか、ドルチェは柔らかく微笑んで見せた。
「思い出されたようですね。光栄です」
「ちょっと待て……順を追って説明しやがれ。まず騎士隊は辞めたのか? もしそうなら何故サントラカンの護衛をしてる……? そしてなんで、わざわざ執事の真似事をしていた?」
 サントラカンに対する敬語を使うのも忘れて、サイファはドルチェに問いただした。分からないことだらけだ。あまり考えることが好きではないサイファの脳は、破裂寸前であった。その様子を、ドルチェは面白そうに眺めている。
「そう言えば貴方は、深慮するのは不慣れだったそうですね」
「……余計な世話だ。今すぐぶった切られてぇか」
「いやだなぁ、本気にならないでくださいよ。ええ、騎士隊は辞めました。そうだな……単刀直入に言えば、私があの方を好きだからですよ」
「……何?」
 殺気だったサイファの毒気を抜くには、その一言で十分だった。確かに全てはそれで片づく。恐らくドルチェは自分の後にサントラカンの護衛騎士となったのだろう。そしてそこで出会ったヨーネルティに見惚れた。しかし騎士たる者は主に想いを寄せてはいけない。だから彼はわざわざ騎士隊を辞め、書類上ではサントラカンの護衛を辞める。そして彼は執事として偽名を使い、再びサントラカンに仕えた――。
「手間の掛かることをする野郎だ……そこまでしてあの女に仕えたかったか」
「恋情を抱くことに、制約が必要ですか?」
 依然として柔和な笑みを浮かべつつドルチェが言った言葉に、言葉が詰まる。自分がもう少し真っ直ぐな人間であったなら、この男と同じ事をしていただろうと思ったからだ。
「さて、お喋りはこの辺にしましょうか。観客の方々が痺れを切らしているようですし」
 彼の言うとおり、頭上からはブーイングとも取れる声。観客たちの不協和音、挙げ句の果てには彼らが飲み食いしたごみまでが降り注ぐ始末だ。そんな事態になっても涼しげな顔をしているドルチェ。いっそのこと執事のままで十分ではないか、とサイファは思う。おもむろに、ドルチェの手が、執事として持っていたステッキに伸びる。
「貴方とは騎士隊に所属していた頃より手合わせ願いたいと思っていました。サイファレル・ドゥレス・ブラックキッド殿。いえ――『ブラックキッド』という名は称号であるということも、聞き及んでいます。一国の騎士隊長でありながら、子供のように気まぐれな一面を持った貴方を象徴しているとか」
 徐々にステッキの中から現れるそれは、紛れもなく銀色に輝く剣だ。だが多少、普通のものよりも年紀が入っているように見受けられる。
「申し遅れましたが、私の剣は亡き父より譲り受けたもの。それ故多少錆び付いてはいますが、騎士隊長であった彼の剣は何よりも誇りです」
「待て、本気か? てめぇはこんなことに、わざわざ命まで懸ける気か」
 悠長に自分の剣の紹介をするドルチェに、サイファがもっともなことを言う。ドルチェは一瞬、それこそ自分を形容して言った『子供』のようにきょとんとした後、やんわりと微笑んだ。
「私にとっては、『こんなこと』でも一大事ですから。我が主がお決めになったことです。私が敗けた時は、死を以てサントラカンに詫びなさい、と」
 終始微笑むドルチェ。とても微笑んで言える内容ではないことなど百も承知だろう。サイファは強く心を打たれた。同時に、ここまで真摯に主を想い続けるドルチェの心を踏みにじるような令嬢に、怒りを覚えた。無論、彼女が命令したのは執事『セバス・チェンダル』に対してであろうが、それにしても忠義を盾にして何という言い分か。
「……あのクソ女はどこだ」
「ヨーネルティ様を殺すつもりなら、私を殺してからにしてください」
 サイファの眉間に、普段以上に深い皺が寄る。垂れ眼気味の眼も吊り上がり、彼が真に憤慨していることを示しているようだ。そんな姿を見ても、ドルチェは仕方なさそうに微笑んで、言い放った。足を上下に大きく開き、剣を持った右手を突き出すように、構える。
「ドルチェ・マークス、参る」
 ステッキの柄の部分を捨て去り、本来の姿が現れる。よく使い古された、しかし手入れも行き届いた良剣だ。代替わりしても尚、手入れを欠かさない緻密さ。自分よりよほど騎士隊長に向いている、とサイファは思う。剣を構えながら、向かってくる気配のないドルチェ。そのことに対して一瞬不審に思ったが、すぐに気づかされた。よくよく考えれば未だ剣を持っていなかった。あまりにも明かされた事実が衝撃的すぎて、頭が対応できていなかったのだ。それともう一つ、決闘において最も重要なこと。
 小さく溜め息を吐き、背中に装備した剣を引き抜く。ゆらりと剣を振り、ドルチェの構えた剣と刃先が触れ合うほど腕を伸ばす。サイファにはこれといって決まった構えはない。むしろ下手な構え方をするよりも突っ立っている方が楽なのだ。あくまでも彼の意見だが。
「サイファレル・ドゥレス・ブラックキッド、参る」
 本名を名乗るつもりはなかった。どちらかというと入隊してから与えられた『ブラックキッド』の称号が好みだし、国にいる家族の所在がそう簡単に知られることもない。彼の家族に対する愛情は、女性に対するそれとは比べものにならないほど深いのだ。
「頑固な方だ」
 ドルチェは今度は笑わなかった。それは、本当に笑っていられる時間は過ぎ去ったのだという諦めの表情にも似ていた。
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