第六条 好きで仕えているのですよ

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 闘技場に辿り着いたとき、そこではもう壮絶な戦いが始まっていた。
 四日後の決闘に間に合うためには、すぐにでも出立の準備をしなければならない。ダントン闘技場といえば、サントラカン侯爵領の最西端。国二つ跨ぐ上、その西端だ。国と言っても小国なのでそれほど時間は掛からないが、天候が悪ければ最悪一週間は掛かる。天候が悪化しないよう祈りながら、ランテは馬車から流れゆく景色を眺めていた。一応は伯爵令嬢である。堂々と街中を通るわけにはいかないので、カーテン越しに僅かなすき間から外を窺う程度だった。急斜面や、獣道を走ったりもした。幸い天候に見放されることはなかったが、それでも多少道ならぬ道を走る必要があったのだ。到着したものの、決闘は終わりサイファにも会えずじまいでは意味がない。
 そういえば、とランテははたと気づいた。決闘は一週間後、としか聞いていない。正確な時間が分からなければ、先ほど考えた通りになってしまうかもしれないのだ。
「ねえっ、タフマ! 決闘って普通いつ頃からするものなの?」
 ランテはすかさず、馬車を走らせるミーラス邸の執事タフマに訊ねた。あまり喋らない無口な男だが、決して無愛想なのではなく、人と話すことを苦手としているだけなのだ。だからこうやって、自分から話しかける必要がある。その代わり、短い言葉ではあるがタフマは間違いなく答えてくれる。
「妥当な時間帯は正午かと」
「正午か……あとどれくらいで……っ?!」
「到着です」
 言葉の途中で大きな揺れが来た。最後の最後に一体どんな所を通ったのか不思議ではあったが、それよりも到着の喜びが大きくランテは自分から馬車を降りた。その瞬間、聞こえた大歓声に思わず身を竦める。そちらへと視線を移せば、白く巨大な建造物が眼に映った。日はそれほど高い位置にない。ということは、まだ正午ではないのだろう。正確な時間帯が分かればいいが、この周囲に時計はない。どうしようかとランテが迷っていると、目の前に午前十時を指す懐中時計が現れた。タフマが手早く時計を取り出したのだ。
「急ぎましょうっ!」
 答える代わりに、ランテの手を取り走り出すタフマ。一般の執事よりは多少若い彼を、ランテは頼もしく思うのだった。
「あら、ミーラスのお嬢さん」
 闘技場に入る直前、後方から聞き覚えのある声がして、ランテは振り返った。桃色の髪を高々と結い上げた令嬢――ヨーネルティがそこにいた。横には護衛らしき男が控えている。
「今お着き? 随分とのんびりしておられたのね。もう決闘は始まってますわよ」
「……そうですか。教えてくださってありがとうございます」
 彼女と悠長に話をしている暇はない。ヨーネルティの口調に皮肉がたっぷり含まれているのが分かったが、相手をしている時間もないのだ。早口で礼を述べると、タフマを連れて走り出そうとした。
「サイファレル様に、勝ち目はなくてよ」
 嘲笑うように、ヨーネルティが言った。走り出そうとしたランテの足が止まり、タフマも聞き捨てならないというような視線を向ける。眼を細めながらも、ヨーネルティの美しい容貌が憎悪に歪んだ。
「我が侯爵家の執事でありながら、卑怯な男。自分に勝ち目がないと悟ってわざわざ国の護衛騎士を身代わりに差し出したようね。そうして自らはどこかに身を潜める……お陰であのサイファレル様がかつてないほど圧されているようだから、わたくしにとっては良い展開だけど」
「――サイファは負けないわ」
 予想外の反論だったのか、ヨーネルティの眉間に皺が寄る。
「思うのは自由よ。だけどあの状況を見て、まだそんなことが言えるかしら?」
「サイファは絶対に負けない! 負けるはずがないわ!!」
 ランテはタフマの手を引く。
「行きましょう、タフマ」
 タフマは主の突然の反撃に多少驚いたようだったが、揺るぎない瞳を見て大きく頷いた。
 一瞬目の前が真っ黒に染まり、すぐまた視界が開けた。同時に上方から左右から、耳をつんざくような観客の声。そして目前には、この四日間、ずっと逢いたくて探し求めた人の姿があった。サイファ、と歓喜の声と同時に飛び出そうとして、目の前に現れた手のひらに遮られる。驚いて手の主を見れば、ランテの顔を見て静かに首を振っていた。もう一度顔を正面に戻すと、見知らぬ誰か――先ほどヨーネルティが言っていた身代わりの護衛騎士だろう――とサイファが剣を交え、微動だにしていない。注意深く見れば、彼は簡素な鎧を着てはいるが、その下の衣服はところどころ裂け、紅く染まっている。対する相手の方は、漆黒の執事服のせいで見えにくいが、あまり手傷を負ってはいないようだ。ヨーネルティの言葉が脳裏を掠める。すぐさま頭を振り、目の前の現実を注視した。まだ分からない。いいえ、負けるはずがない。そう自分に言い聞かせるしかなかった。それにしてもあの相手、執事の服を着て決闘とはどういうことだろうか。
 ランテたちは入場門からそのまま入ってしまったため、どの観客よりもリングの近くにいた。そのせいか、彼らの会話がここでははっきりと聞こえる。
「やるじゃねえか……そんなにあのお嬢様が好きか? 高飛車でしつこいストーカー女が」
「貴方には分からないでしょう。あの方はそれだけ真摯であり、脆くもあるということを」
 サイファの皮肉混じりの物言いに、しかしドルチェは冷静に答える。はっ、とサイファは鼻で笑った。戦況は不利だと言っても過言ではない。それでも笑わずにはいられなかった。噛み合った剣が一瞬離れ、また互いにぶつけ合う。
「“脆い”か。確かにオレには分からない。どこにでもいる女の典型としか思えねえし、面倒なだけだ」
「それにしてはミーラス邸のランテ嬢を、随分と気に入られていたようですが?」
 サイファの動きが僅かに鈍る。突然自分の名前が出てきて、ランテは戸惑いを隠せない。無論、鈍った相手の動きを見逃すようなドルチェではない。僅かな隙を狙い、腹部に突きを繰り出すが、すんでの所でサイファの剣が持ち上がりそれを阻止した。
「……確かに些か傲慢で物分かりが悪い上に口うるさいモンだから塞いでやった時もあったが」
(なっ、ななななにを……!!?? 何言ってるのよサイファっ)
 人前でさらりと物騒なことを言うサイファに、真っ赤になりながらも心の中で抗議の声を上げるランテ。
「それでも他の女に比べりゃ、何倍かマシな奴だった」
 だがその怒りも、サイファのこの言葉でどこかへ昇華してしまった。ひどくぶっきらぼうだけれども、これは褒め言葉と受け取れるもの。
「素直じゃありませんね」
 苦笑しながらドルチェが攻撃を仕掛ける。すくい上げるような斬りを、上から振り下ろして止める。ほっとけ、という言葉と共に。
 その後も幾度か攻撃を仕掛け、防御する姿勢が続いた。
 相手の鋭い突きがサイファの頬を掠め、血と共に金糸が宙を舞う。負けじと振るったサイファの横薙ぎが命中し、黒い執事衣装から鮮血が飛んだ。これで五分五分、と言ったところか。しかし余裕があるのはドルチェの方であろう。かつての王国騎士隊長と、副隊長すら凌駕すると言われた騎士隊員。年齢の違いから、どちらが長く実戦から遠退いていたかは明らかだ。サイファが騎士隊から脱退し、安穏とした護衛騎士生活を送っていたその時、ドルチェは未だ騎士隊員であっただろう。護衛騎士とはいえ、現役時代のように命がけの戦いはほとんどなかった。平和ボケしてしまったサイファと脱退してから日の浅いドルチェでは、実戦経験の差も生じてしまう。
 それらの裏の事情を知らないランテは、両手を組み合わせて祈るしかない。互いを傷つけ合い、血を流す決闘。血すら見慣れない彼女は戦慄に両足が震えていた。だが、ここで自分が見ていなければ誰がサイファの雄姿を見つめるのか。いっそ声でも張り上げて応援したいところだったが、唇が震えて開きすらしなかった。サイファがこちらに背を向け、対峙する相手の男の姿が分かる。見覚えのない顔だが、何故か既視感を覚えた。どこかで会ったことがある、と。相手もランテの視線に気づいたのか、眼が合う。どこか哀しげな表情すら浮かべて、相手が微笑んだ。
「ではあのお嬢様を殺して、貴方を自害させるという作戦に出ましょうか」
「?!」
 サイファもランテも、その言葉の意味を測りかねた。だがサイファの横を通り抜け、まっすぐランテの方へ向かってくる相手。走っていくドルチェを目で追い、ランテに気づくサイファ。
「……あの野郎ッ!!」
 それは誰に向けた怒りだったのか。思考が追いつかず立ち尽くしているランテの前に、彼女を庇うようにしてタフマが歩み出る。伯爵令嬢の命を守るためであれば、自分の命すら惜しまない。普段は冷静なタフマの顔に、うっすらと汗が滲み出ていた。恐怖はあるだろうに、それでも彼は両手を広げてその場から動こうとしなかった。このままではミーラス邸の令嬢も執事も危険だ。
「くそッ……!」
 切羽詰まった表情を浮かべ、サイファは狂ったように手元の長剣を槍のように投げつけた。当たらなくていい、せめてドルチェの動きを止めるだけでも。万が一ランテやタフマに当たった場合は、それこそ自害するつもりでいた。
 執事姿の男が間近に迫る。手には長剣。もはや逃げられる距離ではない。逃げるつもりなど最初からない。タフマは強い意志でそこに居続けた。しっかりと地面に足をつけたタフマの肩越しから、ランテはドルチェの表情を見た。長剣を引き、突き出す瞬間――場違いなほど柔らかく微笑みかけてきた。
 どすっ、と鈍い音が響く。ランテは強く眼を瞑った。無口だが信頼できる執事を犠牲にしてしまったのだろうか。そんな後悔の念が、彼女に事実を確認することを躊躇わせた。だが上方と左右から上がるのは勝利を称える大歓声。一執事が殺されたのなら、こんな非常識な声援はない。恐る恐る、ランテは眼を開けた。
 タフマは未だ、ランテの目の前に立っていた。背中を見る限り怪我はなさそうだし、広げられた両手は小さく上下している。
「お嬢様。決闘の決着は着いた模様です」
 たった今危殆に瀕していたというのに、酷く冷静にタフマが告げた。決着が着いたということは、どちらかが負けを認めたか、あるいは――死んだのか。
「……どういう、ことだ……」
 サイファの渇いた声がすぐ側で聞こえて、ランテはタフマの背後から駆け出た。そこにはリングの側で片膝を付くサイファと、背中から長剣が生えた銀髪の男。
「なんで避けなかった……? てめえなら、あれくらい避けられたはずだ」
 長剣が刺さった箇所から血が止めどなく流れ、傷が深いということが嫌でも分かる。傷口に障らないよう抱き起こしながら、サイファは訊ねた。そんな状況でも、ドルチェは口の端から血を流しながらも微笑んで言う。
「野暮な方だ……こうでもしなければ貴方は……私を、殺そうとしなかったでしょう?」
 サイファが息を呑む。その通りだった。元から彼には、決闘だからといってドルチェを殺めるつもりなどなかった。たとえこの場所が曰わく付きの闘技場であっても、互いに生き残ってその悪評を取り除こうとすら思っていた。まさか渦中の令嬢がここまで来るなど考えてもいなかったから。
「最初から……死ぬつもりでした……ランテ嬢が来られたのは想定外でしたが……私にとっては死に方を決める上で好都合でした……」
「てめえ……さっき自分が言ったことを忘れたのか? 恋情を抱くことに制約が必要かと訊いたのは誰だ? なんでここで死ぬ必要が……」
「私は貴方と闘いたかった……それだけなんです……ヨーネルティ様のことは……最初から叶わぬ夢……」
 ごぼりと血を吐くドルチェ。もう長くはないだろう。それでもサイファは納得がいかない表情を浮かべ、周囲を見渡した。この決闘を見ていないのか、桃色の髪の持ち主は見当たらない。
「ヨーネルティ様は……いらっしゃいません……」
「もういい、喋るな」
「本当、耳障りだわ」
 その場の全員が眼を見開いた。ドルチェが嬉しそうに表情を緩める。それとは対照的な険しい表情で、サイファはその女を睨みつけた。
「セバスも身代わりも役立たずね。もう少しまともな働きをすれば、褒美くらいは差し上げたのに……サイファレル様もさぞ退屈なさったことでしょう」
 闘技場の外にいたときとはまるで反対のことを言うヨーネルティ。サイファの気を引こうとしているのだろう。先ほどの彼女の発言を聞いているランテとタフマはそのことに気づいていた。だが、サイファから発せられる怒りとも悲哀とも形容しがたい気が、何も喋るなと物語る。
「約束は約束だ。オレに二度と関知するな」
 ヨーネルティの形の良い眉が跳ね上がる。
「お言葉ですがサイファレル様。貴方が戦われた相手はセバスではありませんわ。それどころかあの男、身代わりを置いて行方を眩ましました。よってあの契約は無効――」
「まだ分からねえのか!! こいつが『セバス・チェンダル』だ! どこがいいのかてめえみてぇなクソ女に惚れて、騎士隊を抜けて執事になってでもてめえの側に仕えたいと願っていたこいつの想いが、まだ理解できねえのか!?」
 侯爵令嬢に向かって数々の暴言。許されるはずのない愚行だが、ヨーネルティにはそのことを気にする余裕などなかった。サイファの手の中にいる青年を見る。黒一色の執事服で分からないが、よく見れば背中から胸にかけて赤い血が迸っていた。滝のように流れ出る血は、留まることを知らすアスファルトの地面に染みを作る。色素の薄い銀色の髪はところどころ血に濡れ、雪のように白い顔は徐々に青ざめていく。あの執事との共通点は髪の色くらいだ。
「……お戯れを……」
「信じていただけなくても構いません……」
 ドルチェが口を挟んだ。顔面蒼白だというのに、笑顔はいつまでも絶えない。
「ただ……私の名だけ憶えておいていただければ幸いです……私の名は……ドルチェ・セバスチャン・マーク……ス……」
 名乗り終えたと同時に、ドルチェは息絶えた。最期の最期まで、口元には笑みが浮かんでいた。ランテは堪らず涙を流す。タフマは静かに主の娘を見守っている。サイファは彼の胸に耳を押し当てた後、悔しそうに舌打ちした。そしてヨーネルティは、ふらふらとおぼつかない足取りでドルチェの元へ歩み寄り、その前に跪いた。その青年を『セバス・チェンダル』と認めたかどうかは定かではないが――その白い額にそっと唇を寄せた。ドルチェの勇姿を称えるように。

「……それで、何故貴女がここにおられるのですか」
「逢いたかったからです」
 決闘の後。ドルチェの遺体はヨーネルティ付きの護衛により近場の街へ送られた。当然のようについていくヨーネルティは、「わたくしの為に散った命を悼むのは当然のことですわ」と自嘲気味に言った。馬車に乗って隣町へと走っていくサントラカンの令嬢を見送り、その後どことなく気まずい雰囲気が流れたのは――無理もないと言うべきか。そのままランテとタフマが乗ってきた馬車にサイファも同乗し、現在に至る。運転手はタフマ。ランテの隣にはサイファが座っている。何か話をしなければとランテが声を掛けようとしたとき、サイファからそう問われた。動揺や戸惑いなく、自然に答えられたのは幸いだっただろう。逆にサイファが言葉に詰まったらしい。それ以上の追究はなく、再び無言が続いた。居心地が悪くて、ランテは何とか言葉を探そうとする。
「それではいけないの? あんな恋文じみた言葉を残して行かれたら、追いたくもなるわ。それに、」
「……“それに”?」
 ――言えるはずがないじゃない!
 たった今といい先ほどといい、よくよく考えれば自分は相当恥ずかしいことを言っているのではないかと気づく。サイファの声色が事務的なものから好奇心のそれに変わったのも、きっとそのせいだ。あのまま先を続けていたらどうなったのか。「私も貴方を愛しています」などと穴があったら入りたいほどのことを言っていたに違いない。この先は言えない、言えるはずがない。
「……そ、それより、あの人は誰だったの? どこかで会った気はするのだけど、思い出せなくて」
 ああ、とサイファは意外にもあっさり興味を捨てた。
「あれは私が騎士隊長であった頃、隊員だった男です。何らかの任務に赴いた際ヨーネルティ様と出会い、恋情を抱いて騎士隊に留まることが困難になった……そして騎士を捨て、執事になりすましていたのです。たしかその節は、サントラカンの令嬢に伝えていたはずですが」
「あ、ああそう、そうだったわね。すっかり忘れてしまっていたわ」
「時にランテ様」
 唐突に名で呼ばれ、心臓が跳ね上がる。なんで、まさかサイファの方はそういうつもりでいるのかと妄想しそうになって、はたと思い出す。彼は、曰く「条例に背いた」ためランテの護衛騎士を辞したのだ。故に今は「主」ではなく「一伯爵の娘」と接していることになる。呼び名が敬称になるのは当たり前のことだった。
「先ほどの続きを是非お聞かせ願いたい」
「つっ……続き? なんのこと?」
 シラを切ってみせるが、それが表情に出ていることにランテ自身は気づいていない。分かりやすい、とサイファは内心で思う。ここまで分かりやすいと、意地でも聞き出したくなる。
「恋文じみた言葉を残して行かれたら追いたくもなると。その続きです」
 やはりサイファには通用しない。それどころかランテの台詞をそのまま抜き出してきた。顔が熱くなるのを感じながら、なおもしらばくれる。サイファがまっすぐ見つめている。視線を合わさないようにした。合わせれば言ってしまいそうだったから。
「そんなこと言ったかしら? ごめんなさい、全然覚えていないわ」
「ランテ様」
 呼ばないで、と心の中で叫んだ。どうせ貴方とはもうすぐお別れなのだから、臆病な私は貴方に想いを伝えられないだろうから、と。だから彼女は、敢えて突き放すのだ。最後までシラを切り通すのだ。
「……っ知らな――」
 だがその声は、突然の抱擁で遮られた。力強く抱き締められ、満足に身体を動かすこともできない。離して、と抗議の声を上げようとして、衣服に点々と付いた赤い染みに気づく。思わずそれに見とれていると、頭上から声が掛かった。
「白を切りたいならそれで構いません……ですが、せめて一つだけ教えて頂きたい。その『恋文じみた言葉』に対する答えを、私に下さい」
 答え――つまり、告白に対する返事。答える内容はさほど変わらないのに、不思議と抵抗感はなかった。唇が勝手に開いて、言葉を紡いでいく。
「私は……四日前、貴方がいなくなって悲しかった。お父様に聞いたら、私に恋情を抱いたために護衛騎士を止めたと言ったわ。それがとても嬉しかったの。お父様は反対なさらなかった。了承してくださったから、私はここへ来たの。貴方の言葉に応えるために、返事をするために来たのよ」
 ゆっくりと顔を上げる。サイファの端正な顔が、ランテを見下ろしていた。
「それが答えでは、駄目かしら?」
「……十分だ」
 語尾を改めるという考えは出てこなかった。そのまま顔を傾ける。令嬢もそれに合わせて、緩く眼を瞑る。
 馬車揺れが起きても、二つはしばらく離れることはなかった。

 数日の後。ランテの強い推薦もあって、サイファは一度解雇された身でありながら再びミーラス邸の土を踏むことができた。ブラッシュ伯爵のみ知ることだが――全騎士粛正協会によると、サイファとランテのような事例は後を絶たず、近く見直しを行うという。令嬢や主側が、愛する騎士を失った苦しみから自害する例が多いためだ。将来は身分差のある恋愛が急増するのではないか、と唱える学者もいるほどで、人知れずブラッシュ伯爵は胸を撫で下ろしたのだった。
 ただ――窓の外を眺めながら伯爵は思う――愛情と暴力は紙一重なのか、そうでないのかははっきりさせておきたいものだ。名を呼ぶたびに鞘を投げつけられる娘を見ると、自分の判断に自信が持てなくなってくる。以前よりスキンシップが過激になっているという話もちらほらと聞くが、どちらが本当の姿なのやら。
 いずれにしても、娘が幸せならばそれでよい。最愛の娘を目で追いながら、ブラッシュ伯爵は紅茶を静かにすすった。

 ――この癖が抜けるまでには相当な時間が掛かるかもしれない。その間に貴方のオレに対する愛想が尽きても構わない。好きで仕えているのだから
 ――……私だって、好きで名前を呼んでるのよ。愛想なんか尽きないわ

 騎士たる者の五箇条――第四条(改訂)
 主を守護する護衛騎士において、騎士は主に対する親愛の情を忘れてはならない。親愛を逸脱した場合、主に許しを乞うこと。主から拒否されたにも拘わらず求愛した場合、その騎士は解雇処分となり、対象となった主に二度仕えることは極刑を意味するものとする。
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