第四条 騎士失格
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ヨーネルティと、その執事セバスがミーラス邸を去って三日後。
雷雨は過ぎ去り、今はただしとしとと降っている。さながら戦いの序曲のように、あるいは、戦後傷を負った人々を労るように。
幸い争い事にはならなかったが、果たし合いという形の戦いが待ち受けている。それも、ランテにとっては微妙に嬉しいことに、半ば自分を懸けた勝負になりそうなのである。今までそんな修羅場に出くわしたことがない――彼女の場合、自覚がないだけで学生時代にはあったようだ――ランテにとって、それは喜ばしいことであった。そこまでは良かったのだ。景気づけにと、メキナが腕によりを掛けて豪華な料理を作った。いざ食べようとしたところ、肝心のサイファがいない。メキナによれば、ちらっと食事はいらない、といったふうなことを伝えていたらしい。それでなくとも、ランテは三日前から今日までサイファの顔を見た覚えがない。護衛騎士が主を護衛しないなど、前代未聞だ。気になって何度も彼の部屋を尋ねたが、応答がないのである。
「ダメよ、そんな身勝手な!! 誰のためにメキナが作ってくれたと思っているの」
不思議なことにそのことに対して憤怒したのはランテだけで、あとの者は若いからしょうがない、などと口々に言っていた。それもそれで気に入らなくて、結果、ランテはサイファを自主的に呼びに行くことになったのだった。
中央の階段を駆け上がり、右へ曲がって突き当たり。そこがサイファに宛われた部屋である。護衛騎士ということもあって、ランテの部屋のすぐ真横でもある。ランテは彼の部屋の前で立ち止まると、ノックはせずに大声で叫んだ。その前に、きっちり防護用マスクを付けて。
「サイファっ!! 貴方のためにメキナが作ったのよ食べなさい食べなきゃ決闘なんて勝てやしないわよ!!」
言ってからサッと身構えて、鞘が飛んでくるのを待つ。だが予想に反して、鞘は飛んでこなかった。不審に思うランテ。まさか上?! 影に隠れて?! などとあちこちを見渡すが、それらしき人影はない。何か飛んでくる気配もない。さすがにランテは心配になって、今度は先ほどよりも穏やかな口調で問いかけた。
「……どうしたの? 具合でも悪いの?」
サイファ、と小さく呟いてみても、当然のように反応はない。暫し迷う。今まで彼の名前を呼んで、モノが飛んでこなかった日があっただろうか。――いや、ない。今日を除いては。そもそもサイファは、あの二人がやって来た頃から様子が変だった。サイファが決闘を受け入れたとき、そして今。彼女は尚迷う。もしかすれば、彼は元々決闘が嫌だったのではないか? もしくは何か事情があって、思わず引き受けてしまったけれど断る方法が思い浮かばないとか。想像だけ逞しくさせて、ランテは戸惑う。とにかくもしそうなら、一緒に考えてあげなくちゃ――。
「……入ります」
やはり返事はない。心配だから、と自分に言い聞かせ、そっとドアノブを引く。最初は覗きながらおそるおそる開けていく。中の様子を知り、警戒を解いて扉を開けた。
サイファは寝ていた。それも部屋に入ってすぐに寝たのか、普段着のままうつ伏せに倒れて。僅かに見える双眸は緩く閉じられ、普段の彼からは想像もできないほど幼い表情。思わずランテの心臓が高鳴る。
「あれだけ大声で言ったのに……そんなに疲れているのかしら」
起こさないように静かにドアを閉め、できるだけ音を立てないように慎重にサイファへと歩み寄る。ベッドの側に座り込み、間近でその端正な顔を見つめた。できものなど一つもない、綺麗な顔。後ろに流してあった金色の髪は頬に触れ、その顔を一層引き立たせる。
――私、こんな王子様みたいな人に護ってもらっていたのね
自然に頭の中に出てきた“王子様”という単語に驚いて、思わず一人で赤面する。そしてあり得ない、と激しく首を振る。確かに見た目は王子様かもしれないが、中身は意地悪でどこか黒い、キザったるくて口がうまい、そんな護衛騎士。そうよ私はこの人が苦手、嫌い、大嫌い……。
と、ハッキリ言うことはできない。実際気になってはいたのだ。真剣みを帯びた碧色の瞳で見つめられると、もう何も言えなくなってしまう。見つめていたくなる。
――私……この人のことが好きなの……?
たとえ性格が悪くても、名前で呼ばせてもらえなくても、彼の中の対象にはなっていなくても。
穏やかな表情で眠るサイファ。その口元に眼がいく。この唇が、今まで何度も自分を黙らせた。憎たらしい。けれど、嫌だとは思わなかった。むしろ本当の恋人同士みたいで、嬉しかったのだ。
そっとサイファの頬に手のひらを滑らせ、おもむろにキスをする。ぱっと離れるまで、実に〇.一秒。あまりにも短い口付けだ。だがランテとしては満足だった。いつも奪われている分、たった一つだが取り返した。そうして上機嫌で部屋を出ていこうとして――
「貴女からして下さるとは珍しい」
「え……っ!」
下から手首を掴まれている感覚。驚いて振り返れば、予想通り、いつもの表情でこちらを見つめるサイファ。ただ、まだうつ伏せの状態である。
「お、起きていたの?!」
「愛しき姫君の口付けで目覚めました」
いつも以上に歯の浮く台詞を吐く。これにはさすがに呆れて、驚いて、不安になってきた。
「貴方……何か異常のある物でも食べたの?」
「存外ですね。私はいつもこうだと思いますが」
「違う、あり得ないわ。そんな真顔で『愛しき姫君』だなんて言われたことなかったもの。何かの病気かも……」
「我が主」
強く腕を引き、そのタイミングに合わせてサイファが起き上がり、ランテを受け止める。彼女が非難の声を上げる間もなく、ランテの顔を上に向かせ、深く口付けた。今までとは違う濃厚で情熱的な口付けに、ランテは困惑する。
(何……これ……? おかしくなりそう……)
ようやく唇が離れ、息苦しさに意図せずサイファの胸にもたれかかる。そんな彼女を労るように、ゆっくりと腕が回され優しく抱き締められる。ランテにはもう何が何だかさっぱり分からない。
「我が主……」
「や……」
うわごとのように呟かれた言葉には酷く熱がこもっていて、ランテはびくりと体を震わせた。普段と同じ表情で、何かが違うまま、端正な顔が近付いてくる。首筋に顔を埋め、強く吸われる。
「ちょ……サイっ、ふぁ……」
言ってからきつく眼を瞑って痛みを待ったが、痛みなど来なかった。代わりに、頬に柔らかい何かが押し当てられる。サイファの唇だった。たまらず彼の胸板を押して、僅かな距離を取る。
「待って……本当に……どうしたというの? いつもの貴方らしくないわ」
「常日頃と何ら変わりないと思いますが」
「変わってる! いつもの貴方はこんなことするような人じゃないもの! 本当に貴方はサイファなの? 私の護衛騎士なの……?」
これだけ名前を呼んで無傷だったことがあっただろうか。確認するようにランテは彼の顔を両手で包み、しっかり自分の目線と合わせた。いつもの顔――ではない。きっと邸内の者はこの小さな異変に気づかないだろう。前髪以外は後ろに流してある彼の髪型は崩れ、王族のような碧眼の下にはうっすらと隈ができている。見えているのか、いないのか、元々垂れ目気味の彼の眼はさらに垂れている。寝ていたのではないのか、と疑って、眠れていないのだと考え直した。
「決闘……そんなに嫌だったの?」
そうして何故か、そんな答えに行き着く。他に考えられることがない。確かに今までのサイファなら「何故我が主ごときのために決闘などしなくてはならないのですか」とでも言いそうなものだ。実際彼は、ランテのことを嫌いと言った。いくらサントラカンの令嬢を出し抜くためとは言え、ランテのために戦うなど有り得ないはずなのだ。もちろん、先ほどの行為のことは理解できていない。嫌いな相手に、あんなことをするだろうか。サイファの矛盾した行動に、彼女の頭はこんがらがりそうだ。
「……決闘など、何の意味もない」
ああ、やっぱり嫌だったのかとランテは少し罪悪感を覚える。虚ろな瞳は何も映していないようにも思えた。だが突然、サイファが行動を起こす。頬に触れていたランテの両手を掴み、そのまま彼女に覆い被さるように寝台へと押し倒した。顔の横でか細い手首を押さえ付けられ、苦渋の表情を浮かべるランテ。途端に、自分を見下ろしてくるサイファがとても恐ろしく思えた。いつもと変わらない表情のはずなのに、影が差して顔がよく見えないせいなのか、別人のように見える。
「貴女が手に入らない決闘など、意味がない……!!」
ランテが双眸を見開く。今、彼は何と言った?
「……嘘……」
驚きと言うよりは疑いに近かった。そんなはずはないと、喉まで出そうになった声を必死に押さえる。確かに社交辞令程度のキスは交わした。けれどそれは全て冗談で、その証拠に名を呼んだ瞬間制裁と言わんばかりに鞘をぶつけられた。その次には「嫌いだ」と。そう、あれは全部お芝居だったのだ。ただサイファが楽しいだけの演劇。令嬢に見せつけるようにしたのだって、令嬢に諦めてもらうよう仕向けただけなのだ。実際には『決闘』という思わぬ形でそれは叶わなかったが、ランテはそう信じて疑わなかった。
サイファの中に、自分に対する愛など無いと思っていた。
「だって貴方……私のことが嫌い、なのでしょ……お父様に頼まれて、仕方なく私の護衛を請け負っているだけなのでしょ……?!」
言葉を放った瞬間、それまで以上に手首を強く掴まれ、ランテは呻き声を上げる。見上げた先にあるサイファの顔。ランテが今まで見たこともないような、険しく静かな怒りをたたえた表情だった。
「……本当にそうお思いなのですか……?」
不安げな声に、いつものような余裕は感じられない。むしろ小さな子供のようで、ますますわけが分からなくなる。一体、何がどうしたというのか。この三日間、しばらく会わない間に何があったのだろう。
サイファはランテを見下ろしたまま、ランテはサイファを見上げたまま、どちらも動きを見せない。重苦しい沈黙が二人を包む。どちらからともなく口を開こうとして――
「サイファレルの坊ちゃん? ランテお嬢様はそちらにおられませんか?」
控えめなノック音とともに、メキナの声が届く。あなたを呼びに行ったきり戻らないのですが、と続く声は、心配性な彼女の性格を反映したように早口だった。
突然の事態に驚いたのはランテである。せっかちな彼女のことだ、この部屋の主であるサイファが何か答えなければ、容赦なく扉を開け放つだろう。そしてこの光景を見られてしまえば、サイファは文句なく解雇されるだろう。たとえ彼にその気はなくても、己の主に手を出そうとした罰として。
ちらりとサイファの顔色を窺うが、彼はそんな不測の事態にも冷静だった。一瞬ランテの顔を見、本当に愛おしそうに彼女の頬を撫でる。そしていつもの顔、いつもの声で、扉の向こう側にいる家政婦に答えた。
「残念ながら我が主はこの部屋には不在です。ですが先ほどまでいらしたので、すぐに向かわれるかと」
「そうですか……坊ちゃん、体調はどうなの? お嬢様も心配しておられるのだから、そろそろ出てこられない?」
「お気持ちは大変嬉しいのですが、どうも厄介な病気にかかってしまったようです。外に出ればあなた方に移ってしまうかもしれない。暫くは結構です」
「そう……食事はここに置いておきますから。お大事にね」
「ありがとうございます」
サイファの返事を聞いて、メキナがぱたぱたと去っていく気配がした。その足音と気配が完全に遠くなり、ようやくサイファはランテの上からどいた。何事もなかったかのように、ランテには目もくれない。代わりに、平生の事務的な口調で彼女から背を向けたまま言い放った。
「聞いたとおりです、我が主。貴女は私の言葉に従いすぐに向かわなければならない。即座にこの部屋から退出下さい」
「え……? でも、サイファ……うぎゅっ!!」
「呼ぶんじゃねえこのガキが」
酷く懐かしい痛みが彼女を襲う。この、顔面にのめり込むような独特の痛み。そして主を主と思わない乱暴な口調。鞘は実際のめり込んでいるのだが、筋違いな感動をしているランテは気づかない。
――ああ、サイファが私に鞘を投げた。いつものサイファだわ……
痛がるより涙すら流して感激している様子の主を見て、Mの気質があるのではないかとうっかり思ってしまうサイファ。すると何か言いたそうにしているランテと眼が合う。サイファは暫し考えたのち、ああ、と不敵で冷徹な笑みを浮かべる。
「まさか本気にされたのですか? 私が貴女に気があると? 冗談は主だけにしていただきたい。貴女ごとき童女の相手を私がするとお思いですか」
「童女っ……あ、貴方まで私を馬鹿にするつもりっ?!」
「“つもり”? これは失敬、元からそうしていたのですが」
「〜〜っ……サイ――」
「お静かに。メキナ様方に所在がバレてもよろしいのですか」
ランテの顔面ギリギリまで鞘を近付けたあと、余裕しゃくしゃくの表情で彼女に微笑みかける。先ほどまでの余裕の無さは本当に演技だったのか、まるで面影がない。心配して損したわ、とランテがむっつりしていると、ぽん、と頭に何かが置かれる。それはサイファの大きな手のひらだった。
「我が主。貴女様には感謝しております。お陰で迷いはありません」
「……? はぁ」
感謝? 迷い? 何の迷いかしら、と訝しげに眉をひそめるランテ。だがその思考も、突然身体の向きを返されたことで中断された。彼女の視線の先にはドアがある。
「そろそろ時間切れです。いくら何でも用足しでこれだけ時間が掛かっていてはメキナ様も心配なさるでしょうし」
「なんで理由がトイレなのよっ?! 他にいくらでもあるでしょう!?」
「いい加減叫ぶのはお止め下さい。私が何のためにあんな嘘をついたと思っているのですか」
「あ……すみません、つい……」
調子が戻ってくれるのは嬉しいのだが、その変わり様が凄まじすぎる。よってランテはまだ彼についていけずにいた。加えて自分の短慮さ加減に呆れたのか、元々眉間に刻まれた皺をさらに深くするサイファ。とにかくもう叫ぶのはやめよう、と胸に誓った。背中を押されるままに廊下に出る。では、と短く挨拶をし部屋へ引っ込んでいこうとするサイファを見て、ランテはあ、と声を上げた。
「お食事、ちゃんと食べなきゃ駄目よ? ただでさえ、やつれているのだから……心配事があるなら私か誰かに」
「ご心配なく。身体だけは丈夫ですので」
「ちょっ、そんな、勝手よ! ちゃんと食べなさいサイファぐっ!!」
「うるせえちょっと黙ってろ」
久しぶりに顔面で鞘を二回も受け、そう簡単には痛みも引きそうにない。堪らず部屋の前でしゃがみ込む。自業自得だ、と言わんばかりにサイファはランテを冷たい眼差しで見下ろし、静かに後ろ手でドアを閉めた。
ふと顔を上げれば、そこには見慣れた部屋が広がっていた。一年。長いようで短い期間だった。本当の任務期間はあともう一年なのだけれど、「規則を破った」彼に、今の主に仕える資格はない。
手を添えた扉の向こう側。痛みは治まったのか、主の気配は無くなっていた。ふっ、と鼻で笑う。全く、本当に面白い主だった。たった一年で、女に対する見方が一変してしまった。
彼の家庭は女だらけだ。母を始め、姉が三人、妹が二人。祖母もいる。若い女が五人もいれば、当然のように恋愛話や嫉妬話に花が咲く。何故かサイファは、彼女たちの真ん中に生まれた。上からも下からも、彼からすれば醜い女の争いごとばかり。思春期を迎えた頃には、女に対する興味などほとんど消えていた。むしろ鬱陶しく感じるばかりであった。それが彼女はどうだろう。年不相応の幼稚さを持ち、好奇心旺盛な、まるで幼児を相手にしているかのようだった。彼の周りにいた、色香を武器に言い寄ってくる女たちとは雲泥の差であった。もちろん、ランテもどちらかと言えば美人の部類に入る。だが極端な化粧もせず、そこにいるだけで魅力を発揮するような、そんな少女だ。事実、五つ年下のランテは彼にとってみれば幼児同然だったろうが。
いつの間にこんなに、自分の中に入ってきていたのか。三日間考えた末、その感情に気づいた。そのとき、彼は酷く驚愕した。同時に、それは一つの別れをも意味していたのだ。
――さよならだ。幼い主様
騎士たる者の五箇条――第四条、
主を守護する護衛騎士において、騎士は主に恋情を抱いてはならない。任務に感情を移入してはならない。もしこの条例に背いた場合、その騎士は解雇処分となり、対象となった主に二度仕えることは極刑を意味するものとする。
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