第二条 我が身を犠牲にしても
前へ|トップへ|次へ
その日、一人の青年が空を見上げていた。
全てを悟り尽くしたような物憂げな表情は、睨みつけるように遙か彼方を見つめていた。金髪碧眼という、一般的な王族のような容姿。だが、彼はそれとはかけ離れた地位の人間である。青年は王国より雇われた護衛騎士で、名をサイファレル・ドゥレス・ブラックキッドと言った。とある伯爵を護衛する目的でこの地に赴いたのだが、どういう手違いか護衛するのはその娘であった。
女という生き物は嫌いだった。元々は高くもなく低くもない中階級の貴族だった故に、舞踏会なるものに参加したことは数多くある。会場を歩くと、当然のごとく女は寄ってきた。それが自分の容姿のせいだという自覚は――自信過剰とはいえあった。
自分を省いたとしてもだ。醜い女同士の争いは嫌でも目に付いた。下らない。全くもって下らない事で、彼女らの抗争は繰り広げられる。実に馬鹿馬鹿しく、呆れるほどだ。相手を決める権利は自分にだけあると思っているのだろう。根本的な部分からして間違っている。その相手にも勿論相手を決める権利があることすら忘れてしまっている。それを取り上げもしないで男を取った取らないと獣のように騒ぎ立てる連中に、嫌気が差した。
故に彼は女を護衛することを、騎士になった時から拒んでいた。どんなに報酬のある依頼でも、頑なに断り続けた。連日続く醜い修羅場。そんな空間に放り込まれれば、一日で気がおかしくなるだろう。そう思ったからだ。
誰が仕組んだのか――ともすれば伯爵が噂を聞き付けて護衛を依頼したのかもしれないが、他の騎士たちよりは大分隠密に行動していたのだ。普通ならば自分など目に留まるはずがない。何故この存在が暴かれたのか。考えられるとすれば、誰かが意図的に伯爵に教えたとしか思えない。
一体誰が――?
「何をしているの?」
「国からの調査書を待っています」
突然の女の声の介入にも、事務的に答える。事情はどうあれ今は正式な主だ。気が進まないとは言え主に粗相があってはならない。いずれこの期限は切れる。それまで耐えればいいだけのことだ――。
どうやら彼にとっては、「名を呼ばれただけで主の顔面を殴る」ことは粗相には当たらないらしい。
「外に出て待つのなら、伝書鳩かその類ね。私も文を受け取ってみたいわ」
「……国にお知り合いは?」
「……いないわ。お亡くなりになったもの」
ふっと自嘲気味に微笑んでみせる主に対し、サイファは少し申し訳なく思った。
「失礼致しました」
「何故謝るの? 人が死ぬのは当然の事よ。貴方が気にすることではないわ」
ランテは本当に不思議そうに騎士を見つめた。童女のように幼い表情ではあるが、彼女はもうすぐ成人する歳だ。伯爵が我が身よりもこの娘の護衛を申しつけた理由が、少し分かったような気がした。
「それで、何用でしょうか。温暖な気候とはいえ十分に着込まなければお風邪を召します。屋敷にお入り下さい」
さも主を気遣うような口調で、諭すように語りかける。実のところは、彼女にいつまでも側にいられるのは面倒だという本心から出た言葉だった。今までは肉親以外で三日以上女と一緒にいたことはなかった。それだけでサイファにとってはあり得ないことなのに、必要以上にその気配があると気がおかしくなりそうだったのだ。実際の世の中は、彼の想像するような女ばかりではないのだが。
「だって、暇なんだもの。お父様は正門の修理を頼みに行っておられるし、メキナはお買い物だし」
「お言葉ですが、我が主。私とて決して暇人ではありません。この後の業務も山のようにございます。今はその山のようにある業務の合間の、僅かな休息時間。――分かりよく言いましょうか。じゃ……いえ、私は一人で、僅かな時を過ごしたいのです」
遠回しに暇人だと言っているようなランテの言葉に反応してか、「一人で」を強調し早口で反論するサイファ。分かりよく言おうとしたところで思わず「邪魔なのであっちに行け」という本音が出そうになったのを抑え、柔らかい口調で収束する。ここまで神経をすり減らした彼の訴えは、果たして届いたのか。ランテは暫し瞬きをし、あっけらかんとした言葉を返した。
「でも、貴方は暇なのでしょ?」
ぴしっ、とどこかで何かがひび割れる音がした。
「休息時間があるということは、暇があるということでしょ? なにも貴方の時間を全部私に下さい、だなんて言っていないわ。そんな……告白のような言葉」
言ってから彼女は、徐々に赤みを増す頬を両手で覆い隠した。サイファは呆れたように顔を背け、再び青い空を見上げる。勝手に言って、勝手に赤くなる。思えば前々からその仕草はあった。ここまできたら、彼の手ではどうしようもない。どうやらこの「深窓の令嬢」は、妄想癖が激しいらしい。一年間過ごして分かった、知りたくないが知ってしまった一面である。
ストレスが溜まってきているサイファを案じてか、それとも定刻か。青い空に一点の黒が見えたのは程なくしてのことだった。
「ねえっ、サイファ! 伝書鳩を受け取ってみても良いかしら?」
同時にランテの顔に窪みができたのは言うまでもない。
「……済みません。よく聞き取れなかったのですが」
「わっ……私も、伝書鳩を受け取っても良いかしらと……」
「どうぞ」
「えっ、いいの?!」
「構いませんよ。主のご命令とあれば私には断る理由などありません」
子供のように喜ぶランテには、自分を護る役目にある騎士が意地悪く、受け取れればの話ですがと呟いたことは聞こえなかった。
「……あ、あの……やっぱり、遠慮しておきます……」
「何を今更。何事にも興味を持つことは大切です」
「いえ、でも、あれはちょっと」
言い淀む彼女を遮るかのように、来ますよ、と言ってその華奢な腕を持ち上げる。幼さの残る顔が明らかに強張っている。だがサイファは、あくまで気付かないふりをすることにした。
――多少は怖い目に遭ってもらわねえとな。
「……ごめんなさい」
「何がです」
「あの、今までしたこと全部、謝りますから」
「ですから、何の話を」
「貴方の大切な剣を折ってしまったことも、貴方のお風呂を覗こうとしたことも、全て謝りますから、これだけは許して頂戴」
サイファの、ランテの腕を持つ手に力が加わる。止めておけば良いものを、馬鹿正直に詳細を話してしまうのも癖のようだ。
「ほら、我が主。しっかりと受け取ってやってください」
「いやーーーーーーっっ!!」
確実に大きくなりつつあったその黒い点は、少女が想像していた「伝書鳩」とは全く異質な、小柄な人間ほどの大きさはある大鷹であった。ソレは空気を叩きつけるような勢いで翼をはためかせ、こちらへ向かってくる。腕を出していたランテ目がけてその前足を突き出す。着陸の体勢だ。ネズミなどの小動物を捕らえるための鋭い爪は、少女の無防備で細すぎる腕に大きな傷を残すだろう。ランテは既に気を失っていて、自分から腕を引っ込める動作はできそうにない。大鷹はサイファの飼い鳥ではあるが、腕を出されれば誰のところにでも行く人懐こい鳥であった。例によって何の迷いもなく“止まる為の腕”に降り立とうとして――別の腕が足場となった。
さすがにそこまで酷いことをするつもりはない。そう思い、防具も付けずに――正確にはランテが来たせいで付ける暇も無かった――サイファは右腕を差し出した。鋭利な刃物が腕に突き刺さったような感覚を覚えて、表情を歪める。紅い血が滴る。主が見ていればそれこそ悲鳴を上げて卒倒しそうな光景であるが、幸いその主は既に卒倒していて、何もできない状態であった。
「……いてぇなクソ」
大鷹の脚に縛り付けられた手紙をほどきながら、サイファは小さく呟いた。これで主に傷でも付いたら伯爵に殺されるところだった。そこは正しい判断だったと思う。思うが、ランテがここに来さえしなければ自分が怪我をすることもなかったのである。
憎たらしい。邪魔くさい。足手まとい。何も出来ない、お嬢様。だがそれ以前に――
「ガキみてぇな女だな」
それが、率直な感想だった。
大鷹を自らの肩に移動させ、痛む腕を手当することもなく手紙を開いて――
サイファは硬直した。手紙の一点を凝視して、手をわなわなと震えさせて。だがそれもほんの僅かな時間の動作で、次には手紙を破り捨てていた。
ランテに話した『報告書』というのは嘘だった。本当は家族や近親など、自分に近い者からの手紙。彼は王国の騎士となったときから、まめに家族に手紙を送っていたのだ。主に接するときの態度からは考えられないことだ。しかし一週間に一度は、必ず手紙を送っていたのである。自称「家族思いの騎士」であるサイファだが、まれにその家族以外の者からも手紙を受け取ることがあった。それが今回のような用件の手紙だ。何度も断っているのに断った分だけ、否、断ったその倍返してくる。
「てめぇもいちいち騙されてんじゃねえよ、ハイブライト」
ハイブライト、と呼ばれた大鷹はしかし、首を傾げ一声鳴いただけであった。
「今一度お訊ねしますが、本当に読み上げてもよろしいのですか?」
「しつこいわよセバス。わたくしの命令をお聴きなさい」
「……では、申し上げます」
それでも尚、躊躇っている初老の男。その様子を見かねてか、脚を組み上げヒールのかかとでコツコツと音を立てる女。意を決したように、男は手早く文を広げた。
「『拝啓、親愛なるサントラカンの皆様。常時先方のお嬢様より有り難迷惑なお手紙を頂き恐縮に存じます。挨拶も少なく早速本題に入ることをお許し下さい。しかしながら私はあなた方からの文、及びお嬢様の深い愛を受け取ることはできません。私は騎士という大変血生臭い職業に就いております。とてもお嬢様に似合う者ではありません。どうかお引き取り下さい。追伸:お嬢様へ。先に申しました通り貴女からの文は要りません。貴女とお会いする予定もございません。貴女とお話することは何もありません。消え失せろストーカー女。サイファレル・ドゥレス・ブラックキッド』……申し訳ございません、お嬢さ」
「素晴らしいわ……。さすがはサイファレル様! なんて恵まれた文才の持ち主なのでしょう。セバス、あなたもあの方を見習いなさい」
「……は」
どう聞いても見ても、“恵まれた文才”とは全く結びつかない粗野な文章。それを良い方向に取り直しているのか、女の口から出る言葉はどれも褒め言葉ばかりである。
彼女はいつもそうだった。何がいいのか、この男に何を言われようが何を書かれようが決して悪口は言わなかった。これが、惚れた弱みというものなのか。セバスは顔を歪めた。
「時にセバス」
「何でしょうか、お嬢様」
「サイファレル様の現在のお勤め先は、どちらだったかしら?」
「ブラッシュ・ジャック・ミーラス伯爵邸にございます」
「そうそう。そう言えば、伯爵様には一人娘がいるとか」
「左様にございます。……もしや、お嬢様」
何かを察知したセバスが、目を見開いて女を見た。女は視線を受け、一層妖しく微笑む。
「いずれ、ご挨拶に行かなくちゃね?」
高らかに笑う女。困惑しながらも、静かに頭を垂れて微笑む執事。女の一方的な恋が、ついに暴走を始める。その予兆であるかのように、その国全土には雨雲が近付きつつあった。
その翌日――全域を覆った雨雲は驚異的な大雨を降らし、一部の農作地帯には恵みの雨となった。だが大部分の地域では馬の足を鈍らせるなど被害が相次ぎ、不幸の雨となる。その雨はもちろん、伯爵邸にも届いていた。
「天気予報って全然当たらないのねっ!! 明日も晴れると言っていたくせに……」
「農業を営む者は予報よりも当たりがよいと聞きます」
「メキナは農家出身だけれど、こんな大雨はまれだそうよ!!」
「……嫌な予感がする」
「サイファーっ、貴方も手伝っうぶっ?!」
「只今参ります」
剣の入った鞘を主に投げつけることを忘れることなく、サイファはランテの元へ駆けていった。
この豪邸に仕える者は異常なほど少ない。百を超える人数を雇っている邸宅もあるというが、ミーラス伯爵邸においては数えるほどしかいない。その分名を覚えることは容易く、不審者が侵入したときも判りやすいのである。
今洗濯物を干してある中庭には、全員が勢揃いしていた。雇われ騎士であるサイファを始め、家政婦のメキナ、執事に庭師が二人。それぞれが団結して、その人数分と邸宅に住まう主人の分の洗濯物を取り込む姿は、思わず笑みをこぼしそうになるほど愉快な光景だ。
「これで全部です」
「ありがとうみんな! 仕事にお戻り下さい」
はい、と一斉に会釈する五人。サイファはランテの護衛騎士であるため、一人彼女の側に残った。
「私、ここで働くみんなが大好きよ」
笑顔で語る主の言葉に、サイファは視線だけを向ける。
「他の所に比べれば人数は少ないけれど、信頼できるし、家族みたいだわ!」
家族。その言葉に、僅かに胸が痛んだ。今までならば痛むはずのない胸が痛んだ。
彼女は、自分を家族と称するまでに信頼している。あれだけ嫌悪を示した。あれだけ遠のけた。それなのに彼女はまだ、その純真な心でサイファを慕っているのだ。どこまでも素直で、どこまでも澄み切った心。
雨はまだ降り続いている。サイファの戸惑う心を洗い流すかのように、容赦なく地面に叩きつける雨。
「……我が主」
「なあに?」
凛とした声、笑顔。その瞳を直視したまま、何も言い出せなくなる。そんな護衛騎士を不審に思ったのか、小首を傾げるランテ。
「……もし……私が……」
「サイファ!!」
悲鳴のような叫び声。いつものごとく鞘を投げることは叶わず、ランテが凝視する方向を見据える。その先には、真っ黒な傘を差し歩み寄ってくる人影。そこからのぞく顔は、薄く皺がたたまれている。
「お久しぶりです。――サイファレル様」
初老の男……セバスはシルクハットを脱ぎ、丁寧に会釈した。
前へ|トップ|次へ