貴女を主と決めました

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「……ちっ」
 忌々しげに舌打ちをする者が一人。何かに腹を立てているのだろうか、手のひらに収まるほど小さな紙切れ――尚、その紙切れは怒りを受けてかしわくちゃになっている――を無造作に破り捨て、紙吹雪を舞わせた。今となってはその紙切れが何だったのか、原型をとどめていないので知る由もない。だがその紙面は黒ずんでおり、何事か書かれていたことを感じさせる。
 その者は――男は年の頃二十代前半といったところだろう。後ろ髪を首の付け根で束ね、額の大部分を空気にさらしたオールバックらしき金髪に、やや垂れ目で切れ長のグリーンの瞳。耳には大きなピアス。整った目鼻立ちに不似合いなほど唇をへの字に曲げ、二十代というよりは十代後半で通りそうな印象すら受ける。顔だけならば本業よりはどこぞの接待でもやっている方が客受けもよさそうだが、その下には重々しい鎧が身を固めていた。
 男は後頭部をがりがりと掻き、大きく溜め息を吐いた。腰に携えた長剣に手を掛け、次の瞬間、抜き放つ。彼の目前にあった障害物――すなわち豪邸を想像させる立派もいいところな黒塗りの門は、あっさりと崩れ落ちた。男はやはり不機嫌そうに長剣を肩に乗せながら、次には唇を笑むように歪め、先ほどまで門だったものをまたいで足を踏み入れる。
「ああーーーーーっっ!!」
 耳をつんざくような大音量に、男はまた眉間をしかめた。声の主は男が今まさに入ろうとしている、屋敷の中からのようだ。否、正確には、屋敷へと続く道の、ちょうど真ん中辺りからである。男がそちらを一瞥すると、待っていたと言わんばかりに声の主らしい人影が、一目散に駆けてきた。
「何をしているのよっ?! ここは貴方の家ではないの分かってる!?」
 男に掴みかかる勢いで、否、実際に掴みかかりながら、声の主である女が非難の声を上げた。男は必死の形相で自らの行いを咎める女を、涼しい表情で見下ろしている。
「……申し訳ありません。どうにも私は、目の前の障害物は取り除かずにはいられない質でして」
 その表情のままの声で、弁解を始める男。だが女は依然男の鎧を掴みながら、その腰まで届く黒髪のポニーテールを振り回した。
「いいわ結構よもう聞きたくないわ! 貴方がそう言って何日経ったと思って?!」
「二日です」
「ちっとも反省の色が見えないじゃないの! その門だってタダではないのよもっと大事に扱ってくれないと困るのよ私が!」
「門一つで騒ぐほどの貧民でもないでしょうに」
「それでも良くないものは良くないのよっ!」
 ここまでの会話から察するに、男と女は主従関係にあるらしい。女の家はどうやら相当な家柄で、さしずめ男は雇われた騎士といったところか。だが女の方は、彼を雇うほどの権力を持っているとは到底考えられない。
 それもそのはず、彼女はその豪邸の持ち主である伯爵の一人娘なのだ。年齢も十九歳と、まだまだうら若い。それはそれは大事に育てられ、我がままに育ったことであろう。だが裕福とは言え、小柄でほっそりとしている。深い蒼色の瞳は大きく、見るもの全てを和ませそうな柔らかな表情。ふわりとしたドレスに包まれ、なるほど伯爵令嬢の名は偽りではない。
「ああもう、どうすればいいの?! お父様はもうすぐ帰っていらっしゃるし、あれだけ崩れていては修理屋さんを呼んでも直りそうもないし……!」
 男の胸当てに頭を押し付け、なすすべなく泣きじゃくる女。それに少しでも罪悪感を感じたのか、男は女の肩に手を置き、ゆっくりと引き離す。
「――我が主」
 びくっ、と肩が震え、恐る恐る猫のように顔を上げる。その先にある緑の瞳と視線が交わり、女は次第に顔を紅潮させた。もはや門のことなど頭にないのか、見上げた姿勢のまま動かない。
「誠に申し訳ありません。貴女を悲しませるつもりは、皆目なかったのです。伯爵様には、私から謝罪申し上げます。ですからどうか、貴女の笑顔を私にお見せ下さい」
 歯が浮くような台詞をよくもまあつらつらと並べたものだが、女にとってはうっとりとする内容だったのか、言われたとおり朗らかな笑顔を浮かべた。男は満足そうに両眼を細めて微笑むと、不意に女の頬に両手を当てる。
「それでこそ、我が主」
「んっ……」
 触れるだけの口づけ。だがそれで終わることはなく、何度もそれを繰り返す。額、頬、唇、耳たぶ。男の行動にささやかな抵抗もなく、女は全てを受け入れている。主従を越えた恋愛は、そう赦されるものではないのだが。
「ちょっ……ん、待って……」
「何故」
 ここで初めて女が男の行動を阻止したが、気にした様子もなく続ける。彼の唇が滑り降り、首筋に触れ――
「っ……まっ、て……さいっ、ふぁ――」
 みしっ。
 それまでのムードを無に帰すがごとく、響き渡った鈍い音。先ほどまでここにいたのはこの男女だけ。では今、何が起こったのかと言うと。
「呼ぶなっつってんだろ」
「ふ、ふみまへん……」
 どこかの漫才のようなやりとり。顔面に大きな窪みを作った女。そして人が変わりでもしたように豹変した男の右手には、鞘に収まったままの長剣。主従関係が百八十度入れ替わったようなこの場面は、実を言うとほぼ毎日あるものだった。
 事の発端は、何のことはない。裕福な民は、自らを護衛させるべく本来ならば王城勤めの騎士をしばしば雇うことがある。この伯爵邸とて例外ではない。ただ一つ他の民と違うのは、護衛をするのが雇い主ではなく、どういうわけかその娘であること。そしてその父親である伯爵は、自分のことは護る必要はないと言い切ったのだ。それほど一人娘が大事なのか、それとも別の理由があるのかは、娘である女は無論、護衛として雇われた男も知らない。
「断っておきますが」
 男が腰に鞘を戻しながら、やはり事務的な口調で女に言う。
「私は貴女が嫌いです。ましてや恋慕の情など持ち合わせておりません」
「……言われなくても分かっているわ。私だって貴方の容姿以外に興味はないもの」
 双方とも互いの言い分にショックを受けた様子もなく、淡々と言い合う。否――「容姿以外」と言った女の方は、少なくとも容姿に惹かれた部分はあったのだろう。無理もない、伯爵がこの騎士を雇うまで、父親と使用人以外に「男」と接したことがなかったのだから。
「ですから」
 今度は女がびしっと男を指差して言った。
「今後あのような、誤解を招きかねない行動はお止めなさい。私には分かりかねます。嫌いと言っておきながらあのような無礼に走る貴方が」
「社交辞令は貴女様への忠誠の意志。欠くことのできない挨拶です」
 すらすらと、何かの本を丸読みしているような口調で女が言うと、男はそう言って自らの非を認めない。こういう会話がもう、かれこれ一年ほど続いているのである。一年も飽きずによく続けられたものだが、男の方は、今日ばかりは、ぐるぐるとメビウスの輪を巡るような日常ではないことに気が付いた。
「〜〜もうたくさんだわ。貴方のような護衛など必要な――」
「危ないッ!」
 女が言い終わる前に、男が覆い被さったのはその後わずか数秒。何をするの、と女が彼に対して非難の声を上げる前に、彼女は男の頭上――無数の雲が浮かんでいる空を横断するように、幾本の矢が通り過ぎたのを見た。彼が庇ってくれなければ、数知れない矢の的になっていたのは自分だっただろう。それを想像しただけで、身体中に鳥肌が立つのが分かった。男に感謝しながら、女は状況を飲み込めず、ただただ空と男の顔を見比べることしかできなかった。
「……此処から動かずにお聞き下さい、我が主。どうやら何者かが貴女の命を狙っているようです。私は只今より侵入者を排除致します。今一度申し上げますがその間、此処から動いてはいけない。いいですね」
「なっ……ちょっと……」
 一度で理解できると思ったのか、男はなおも引き留めようとする女の額に軽く口づけし、そこからすぐに立ち上がった。直後、止んでいた矢の雨が男に向かって降り注ぐ。男は当たらぬよう、しかし肌に当たる極限でそれらを避けながら、矢が飛んでくる方向へ走り出す。女は呆然とした様子でそれを見ていた。律儀に男の言葉を守って。


 貴族の女など少し甘い言葉を吐いて口づければ言いなりになる。
 男はそう考えていた。この『任務』に就く前から、騎士になる前から。そしてもう一つ――貴族の女はわがままで扱いにくい。そういうものだと思っていた。
 正直な所、男にとってこの任務は気の進まないものだった。最近貴族の間で流行っている、領主の護衛。今回もそれだと思っていた。ところが蓋を開ければ、護衛するのは伯爵の方ではなくその娘。それもまだ年若い。今まで男は、この手の依頼は全て断ってきた。それなのに何故今回は引き受けたのか。好奇心でなく、気まぐれでもなく、ただ単に男にそのことが知らされていなかったからである。
 それでも依頼主は依頼主であり、主は主だ。生活に困っていたわけではないが、安定した収入を得るにはこの方法しかない。せっかくその天性を授かったのだから、こういう場で活用しなければ宝の持ち腐れだ。そういう対象でしかない。自分と主は、そういう金で繋がれた程度の対象でしかない。
「まだ戦うか?」
 血の臭いが鼻を突く。
 男は頬に付いた返り血を力強く拭くと、口の端を不敵につり上げた。下手な弓は数があろうと当たりはしない。数打てば当たる、と言うが、これだけ下級の射手ばかり揃えては当たるものも当たらないだろうと思う。男はそう思える。上級の射手たちと戦ったことのある彼なら、そう思える。
「手の掛かる主がそろそろしびれ切らしそうでな。早く戻らねえと面倒なことになるんだよ」
 ほのぼのとした日常を思わせる口調ですら、戦慄。彼に口答えできるものは誰もいない。否、できるはずがない。逆らえない。この男にだけは。
 そこから何十もの射手がいなくなるのに、時間は要さなかった。


「我が主」
「お…終わった……?」
「はい。一人残らず片付けました」
 不安そうな顔をしながら、無言で男に抱きつく女。男は虚を突かれたのか、数歩後ずさりする。
「怖かったのよ……とても、怖かったの……何が起きたのか全然分からなくて……貴方が居なくなって、寂しくて……」
「…………」
 女の口から出た言葉が作り物でないことは、男にもはっきりと分かった。何よりもいつもの倍以上か細い声と、頬から滑り落ちる雫がそれを物語っている。この任に就いて一年。男は主の性格が大体分かってきていた。「わがまま」なお嬢様。けれども酷く脆い、思いやりのある少女なのだ、と。
「怪我、しなかった?」
「はい」
「本当に? 嘘はつかないで頂戴ね?」
「大事ありません。ただ……貴女に血の臭いがうつるのではないかと」
「私の心配なんてしなくていいのよ! ねえ、できることなら無理はしないで?」
「……それは命令ですか」
「命令ではないの、お願いよ。嫌なの、あんなことはもう」
「……聞き入れられない願いです。私は貴女の護衛騎士。貴女を護るために雇われたのです。従って私は、貴女を護って死ぬ覚悟」
「……嫌」
「……我が主」
「嫌よ、絶対に嫌! どうして死ななければならないの? どうして命を落としてまで、主と騎士である必要があるの? それならいっそ、私が――」
「我が主」
 女の言葉を阻むように、その言葉ごと飲み込むように、その細い身体ごと引き寄せる。甘い香りが鼻腔をくすぐり、男は一瞬眩暈を覚えた。だが、しっかりと女の身体を抱き締め、その耳元に諭すように語りかける。
「どうかお聞き下さい。騎士は主を護るために在るのです。護り抜くその為に、騎士はその腕を鍛えるのです。全ては護るべきものを護るため。それをご理解下さい」
「……」
 女は答えない。黙認しているのか、それとも声にならない抵抗か。男は依然女を抱き締めたまま、その場に止まっていた。今のは全て誰かの受け売り。自分の本心ではない。それは言わずに、ただただ好青年の仮面を付けて惑わす。それが彼の、やむを得ない付き合いの中での攻略法であった。この行動も、全てマニュアルの内。
「……殴らないでね」
「何の話です」
「サイファレル・ドゥレス・ブラッぐぇふっ!」
「呼ぶな」
「殴らないでと言ったじゃないの」
「……申し訳ありません、手が勝手に」
「サイファレるぐッ!」
「呼ぶんじゃねえ。……ああ、また」
「さいっぺぅっ!」
「また……」
「さいふぎゅっ!」
「勝手に」
 そんなやり取りが三十分ほど続き。
「元・王国騎士隊長殿。貴方に私、ランテ・ミーラスの専属護衛役を言い渡します」
「は!」
 顔中に数え切れない窪みを作りながら、声高らかに歌い上げる。覇気のある声で返事をする男。だが、果たして彼は役を果たすのか? それとも――……


 任命書
 元王国騎士隊長 サイファレル・ドゥレス・ブラックキッド殿
 上の者に伯爵邸令嬢 ランテ・ミーラスの専属護衛役を言い渡す。この期限は無期限とする。


「それでは本日より、貴女様を私の正式な主とさせていただきます」


 ――貴女を主と決めました。
お題提供:響凍零霞(きょうとうれいか)様
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