第二章第六話  さかいめ

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 翌朝――
 レイトの家は一人暮らしにしては広く、客室が家の半分以上を占めていた。今彼が住んでいる家は、数年前から無人だったらしい。そこをレイトが買い取ったのだという。
 日も昇りきらぬ朝方、イチカは目覚めた。誰よりも早く起きたと思ったイチカだが、一階のリビングに先客がいた。振り向いた影に、イチカは(わず)かに目を見開く。
「お前……レイトか?」
 その人影に向かって言うイチカ。人影――レイトは驚いたようだった。
「早いねえ。君は朝には弱そうに見えるけど?」
「……なんだ、それは?」
 イチカはそれには答えず、逆に訊ねた。その目線は、レイトの顔――正確に言えば彼の眼の辺りに注がれている。レイトは少し首を傾げる。
「……? あぁ、これか。眼癒器(がんゆき)、っていう医療品だよ」
 彼の頭から鼻の上にかけて、つやつやとした平たいレンズが彼の顔を覆っていた。一見ヘルメットかなにかのようだが、それにしては薄すぎる厚さだ。それを聞いて、イチカは僅かに眉をひそめた。
「……医療品?」
 その切れ長の眼を、さらに細めるイチカ。
「そんな医療品、聞いたこともない。なんの役に立つ」
 鋭い指摘が飛ぶ。レイトはたいして表情も変えず――【眼癒器】をつけているので表情が読みづらい――ぽつりと語り出した。
「実はこれね、僕の古い友人が作ってくれたんだ。結構眼が疲れやすくてね。ほら、目薬を差すのにも手間がかかるだろう?」
 イチカがさらに追及しようとしたとき、背後の階段から人の気配がした。振り向くまでもない、イチカには誰だか分かっていた。レイトの顔が、イチカよりも僅かに上を向く。
「やあお早う、アオイちゃん。君も朝は早いほうかい?」
 イチカの予想通り、階段には碧がいた。碧は昔から早起きで、夏休みのラジオ体操にはいつも遅れることなく参加し、休んだことは一度もなかった。寝過ごすこともほとんどない。今回もその特性で、一階に降りようとしたとき偶然イチカとレイトの会話が聞こえてきたということなのだ。碧はレイトの質問に、素直に答える。
「はい。どんなに遅く寝ても勝手に起きちゃうんです……ってどうしたんですか、その顔?!」
 碧もやはり、いつもと違うレイトの顔に驚きを隠せないようだった。レイトははっはっは、と笑いながら、顔に付けている【眼癒器】を軽く叩く。
「いやね、なんだか眼が疲れてたみたいで。眼の療養さ」
 イチカに対して言ったことと全く同じ事を言うレイト。碧はへぇー、と言いながらぽんと相槌を打った。
「それじゃあ……なにか手伝うことありますか?」
 イチカは声こそ出さなかったものの、碧を凝視した。何故眼が疲れていると言うくらいで、手伝いをする方向にいくのか。レイトは笑いながら、軽く手を左右に振る。
「いいよいいよ。ラニアの大切なお友達をこき使ったなんて言ったら、それこそラニアに撃たれちゃうからね」
「こき使うなんて……あたしはただ」
「言われたとおりにしておけ」
 碧が真剣な眼で言い終わる前に、イチカが口を開いた。それに一番驚いたのは碧である。いつもと何ら変わりのない口調だが、どこかレイトに対して敵意を持っていた。眼もレイトに向けられ、銀色の瞳は微かな怒りを宿しているようだった。
(うわ〜、怖い怖い)
 レイトは穏やかな表情を崩さずに、心の底からそう思った。「相手が誰であろうと、お前に接触させない」イチカの眼がそう物語っていた。
(こんなに毛嫌いされると悲しくなるなぁ〜……)
 そう思いながら、レイトは台所に向かった。台所に消えたレイトを眼で追いながら、碧は内心小躍りしたい気分だった。
(きゃ〜〜! イチカがあんな口調で、あんな敵意のこもった眼で! もしかして、ちょっとだけ心開いてくれた……?!)
 イチカはそんな碧を見ず、低く呟いた。
「何度も言うが、勘違いするな」
「あ、はーい……」
 その言葉で、絶頂に達した碧のテンションは、一気に下がったのだった。

「それじゃあ、気を付けて。あ、ラニア! 風邪引かないようにねー!」
 レイトの作った朝食を食べ終わった一行は、イチカの宣言通り朝のうちに出発することになった。レイトは表に出て、一行を見送った。ラニアはというと、やはり頬を染めて反発している。
「〜〜子供扱いしないでよ!」
「ラニア!」
 長い金髪をなびかせ、ラニアが歩き出そうとしたとき、レイトが呼び止めた。また子供扱いされるのかと思いながら、レイトに振り返る。
「なによ、まだなにか言い足りないことでも――」
 レイトは何も言わず彼女の手を取ると、その場で片膝をつき、そっと彼女の手の甲に口づけた。ラニアはサッと顔を赤くし、レイトと自分の手の甲を交互に見比べた。
「おーおーお熱いねー」
 遠くで白兎が、ほぼ棒読みで二人をはやし立てる。ラニアは何度も瞬きをし、にっこりと微笑んでいるレイトを見た。レイトは極上の笑顔でラニアに微笑みかける。
「君たちが魔王軍に勝てるおまじない。効くかわからないけどね」
「〜〜! じゃ、じゃあね!!」
 ラニアは半ば強引にレイトの手を振り払い、仲間の後を追った。レイトは立ち上がり、姿が見えなくなるまで手を振っていた。
「しばらく手、洗えないね」
 碧の言葉に、ラニアはただ顔を赤らめるしかなかった。
 それから数時間。一行は歩き疲れることを知らず、一つの話題で大いに盛り上がっていた。
 すなわち、ラニアとレイトの関係。要するに、ラニアを質問攻めしているのだ。
「レイトとどこまでいったんだ?」
「キスくらいはしてるよなー」
「お、まさかそれ以上いって――」
「は、白兎!!!!」
 ラニアの上擦った声と同時に響く、場違いな銃声。特にこの話題で盛り上がっているのが、カイズ、ジラー、白兎の三人である。質問をする度に、ラニアが顔を真っ赤に染めるのを面白そうに眺めているのだ。
 ――否、実際面白いのである。あまり度が過ぎると今のようになるのだが。
 碧はというと、少し離れた所からその様子を苦笑いしながら見守っている。イチカは更にその数メートル先を一人で歩いていた。ラニアたちの様子を見飽きたわけではないが、一人でいるイチカの方が気になり小走りで近づいた。
「…………なんだ」
「あ、気づかれてた」
 カイズやジラーのときとは違う声の違い。振り向いてもいないのに誰だか分かってしまうイチカに驚いたが、碧はあまり気にせずに彼の横を歩いた。イチカは一瞬碧に目をやったが、特に嫌がった様子はないのでそのまま歩くことにしたのだ。
「ウェーヌって、どの辺かわかる?」
「知らん」
 一秒も考えた様子を見せずイチカが即答したため、碧は言葉に詰まった。だがなんとなく彼の言うことはウソではない気がしたので、碧はそっか、と呟いた。
「……にしても、おかしいことは確かだ」
 イチカが静かに言った。碧が何が、と訊ねる前に、イチカは前方を指さした。その指の先には、ずっと遠くまで続く先が見えない並木道。
「何時間も前から、景色が全く変わらない」
「えっ……?」
 碧が声をあげた瞬間、景色がぐにゃりと歪んだ。それまであった延々と続く長い一本道は姿を消し、代わりにというのか、目の前に少年が現れた。
 碧とほぼ同い年くらいであろう。だが年齢に相応しない大きな瞳はじっとこちらを見据え、それでいて透き通った碧色をしていた。新緑のように爽やかな緑の髪だが、あちこちはねている。闇のように深い藍色のローブを着た少年は、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。談笑していた四人も少年に気づき、イチカたちに駆け寄って一斉に身構えた。唯一イチカは身構える体制をとらず、少年に訊ねた。
「……お前が今の魔法の主か?」
 少年は一度その大きな瞳を瞬かせると、僅かに微笑んで頷いた。
「うん。貴方達を試させてもらった」
「試すだと……?!」
 柄に手を掛け、剣を抜こうとしたカイズを、イチカが少年を見たまま手で制する。
「あれは幻影魔法か何かか?」
 少年は少し意外そうな顔をして答えた。
「ふーん、よく分かったね。ああいう魔法は一応あるけど、範囲が狭いからね。さっきのは僕がアレンジしたやつ」
「目的は?」
 まるで職務質問のようだと碧は思いながら、二人のやりとりを聞いていた。少年は紳士的な笑みを浮かべ、大きな眼を少しだけ細めた。
「『侵入者』か『訪問者』か調べるため」
 その言葉に、皆が疑問符を浮かべる。少年は年の割には大人びた口調で話を続けた。
「見たところ、貴方達はここがなにか知らないで来たらしいね。そういう人はまだ許せるんだけど、たまに父さんにも母さんにも用のない人が来るんだ。それは侵入者。逆に、父さんと母さんとは昔からの知り合いで、用がある人は訪問者。お分かりかな?」
 少年はメンバー一人一人の顔を見て言った。白兎は舌打ちし、小さくぼやいた。
「……ませガキが……」
 白兎は子供ももちろんだが、年齢と外見が一致しない少年のような人間も嫌う。碧は殺気立っている一行の気を抑えようと、話を切りだした。
「あの……それで、ここは何なんですか?」
 少年は碧に目をやると、ふぅん、と感嘆の声をあげる。
「貴方は普通の人じゃないね。巫女でもなさそうだけど。証拠にその眼と髪」
 びし、と碧を指さす。
(わざわざ証拠出さなくても、ちゃんと認めてるから……)
 と、碧は心の中で返事をした。
「あ、話が逸れたね。質問にお答えしよう。ここはサモナージ帝国、ステイジョニス家分領・ウェーヌ。ついでに僕は、ここの長男のミリタム」
『なっ!?』
 その言葉を聞いた途端、殺気は失せ、困惑の気が辺りを覆った。
「……?」
 こちらの世界で言う異世界出身の碧はやはり疑問符を頭に浮かべ、イチカに至っては説明するまでもなく無表情だった。
「す……ステイジョニス家の領土?!」
「なに? どういうこと?」
 特に驚きを露わにしているラニアに訊ねる碧。少年・ミリタムはびっ、と人差し指を立てる。
「順を追って説明しよう。まず、この世界・アスラントには魔法が存在する。魔法とは詠唱で発動するもの。俗に言う魔族は、そんなことしなくても魔法を発動できるらしいけどね。そして、この世界で魔法を使うことが許されているのは、ここから北西サモナージ帝国の魔法士団と、代々魔法士の家系が続いている僕の家、ステイジョニス家のみ。もし魔法を使いたいのなら、魔法士団に入団するか、僕の家に嫁ぐかのどちらかだけ。まあ、これは余談だけどね。自分で言うのもなんだけど、ステイジョニス家は相当の権力も持っている。だからこのウェーヌ全体が、僕の家の庭だと言っても過言じゃない」
 その言葉に全員がうんうんと頷いているあたり、この世界の住人は皆知っている基礎知識なのだろう。権力があるということは、ひとつの町を領土にするのも可能なことなのである。そして領土を持つためには、権力と同時に莫大な財産が必須なのだ。そして、魔法士という職業は生半可な努力では就けないし、魔法そのものを覚えるのにも十年近くかかる。
「え、ってことは……おぼっちゃまなんですか?!」
 それを、どこをどう聞き間違えたのか、ミリタムを「おぼっちゃま」として認識してしまった碧。それも決して間違いではないのだが、彼の言いたいこととはどこかが違っている。ミリタムは二、三度瞬きしたあと、戸惑いを含んだ口調で言った。
「……まあ……ちょっと違うけど、そうと言えばそうだね。それよりも、僕の家が相当な権力者だとか、【魔法士】という職業が珍しいってこと分かってくれた?」
 ミリタムがそう言って暫く経つと、碧の頭に浮かんでいた疑問符が取れた。
「……あ。そういうことなんだ」
 ミリタムは声をあげて笑った。少年らしい、さわやかな笑みだった。
「それにしても面白いこと言ってくれるね。貴方の名前は?」
「あ、碧です」
「ふーん、アオイか。まるで日本人みたいだね」
「いえ、まるでじゃなくて本当です」
 碧の眼が真剣なのを見て、ミリタムは暫し言葉を失った。
「……え? 本当に?」
 碧が頷くと、ミリタムは顎に手を当て、考え込む素振りを見せた。
「……ははぁ、道理でステイジョニスの名を聞いてもなんとも思わないわけか。納得」
 そこへ、白兎が二人の間に割り込む。ミリタムが何事かと言いたそうな眼で白兎を見た。白兎はミリタムの顔をじぃ、と見て言った。
「おい。お前さっき長男って言ったか?」
「え? うん、言ったけど? ……あれ、貴方どこかで……」
「ちょっと待て。あたいの記憶が正しけりゃ、長男はまだ七歳かそこらのはずだぜ」
 ミリタムの言葉を遮り、白兎がはっきりと言った。当然、一行はその言葉に驚きを隠せない。
『七歳?!』
「……ってことは、お前が魔法士と会って二年しか経ってないってことか?」
「ああ」
 ジラーの問いかけに答える白兎。全員の視線が集まり、ミリタムは首を傾げる。うーんと唸り続け、ようやく大きく相槌を打った。
「……思い出した! 貴方、白兎だね!?」
 白兎を指さし、とても嬉しそうに言うミリタム。カイズがややためらいがちに訊ねる。
「……出会い頭に滅獣(めつじゅう)したっていうのは……」
「うん、僕! 兎族は危険だ、って教えられてたから」
 続いてラニアが訊ねる。
「でも七歳って……。どう見ても、碧と同い年くらいに見えるわよ?」
「うちに帰ってすぐ、魔法を作ったんだ。歳を取るような魔法をね」
 友達に自慢するような口調で言うミリタム。だがミリタム以外は、あほくさいと言いたげな表情をしている。その中で最もあほくさいと思っている――もしくはそうとすら思っていない――イチカが訊ねた。
「……そうまでして、獣人と結婚したかったのか?」
「うん!」
 そう答えるミリタムの表情が異常に輝いていたので、イチカはそれ以上追及しなかった。白兎はジト目でミリタムを(しば)し見つめ、ふん、と鼻を鳴らした。
「……馬鹿かお前? 見た目が成長しても、中身が成長しなきゃガキと一緒だぜ。それにな、あたいの歳は目安であって、てめェら人間に換算したら軽く百はいってんだ」
「歳なんて関係ないよ。それより、中身成長してない? 努力したつもりだったんだけどなあ……」
 白兎は年齢のことで諦めてくれるだろうと思っていたのだが、その話題はあっさりと流されてしまった。
「ま、いいや。で、わがステイジョニス家に何の用? さっきも言ったとおり、貴方達は僕の両親の知り合いでもなければ侵入者でもない。とすると、必然的に道に迷ったか――長男の僕に用があるかに絞られる」
「分かっているなら話は早い」
 イチカが切り出す。
「北に魔王軍の城がある。奴らを討伐するために、お前の力が()る」
 それを聞いて、ミリタムはきょとん、とする。
「討伐って……倒しに行くの? まだ魔王軍は、人間に手も出してないでしょう?」
「人間には、な。だが、いずれ奴らはこいつを殺しに来るだろう。とある巫女が言っていたから、まず間違いはない」
 イチカが眼で碧を示す。
「アオイを? とある巫女って……?」
「ヤレン様、って知らない?」
 ラニアがミリタムに訊ねる。
「ヤレン……ああ、『救いの巫女』ね。もしかして、アオイと『救いの巫女』と、なにか関係あるの?」
 またもや知らない単語が出てきて、碧の頭はこんがらがりそうになる。そんな碧の耳元で、カイズが小さく囁いた。
「『救いの巫女』っていうのは、アスラントで言うヤレン様のことだから」
「……ありがと」
「そのヤレン様の生まれ変わりが、この子、アオイなの」
「……なるほどね……」
 それまで至って平然としていたミリタムの顔が真剣そのものになる。
「なら種明かしするけど。さっき僕が張っていた魔法、自力で解いたワケじゃないんだ」
『?!』
「あれの長所は広範囲に渡って人間を確認できること。逆に短所は――」
「自力で解けない、か」
 ミリタムが言う前に、イチカが答える。
「ご名答。術者が魔法を解けないなんて変な話だけどね。勝手に解けるのは、僕が指定した時間になるか、あるいは――あれよりも強い存在が幻影に触れたときか」
「え……」
 ミリタムが碧を見て、小さく微笑んだ。
「僕は後者を選んだ。指定した時間は僕が死ぬまでだから。僕はてっきり貴方だと思ってたけど、そういう意味では意外だったね」
 貴方、というところでイチカを見るミリタム。イチカは黙って聞いている。
「いいよ。ついていく。一生家にいて番人生活、なんてごめんだからね。それに……この世の行く末を見てみたい」
 こうしてミリタムも、一行の仲間入りを果たした。碧がやや心配そうな顔をして、ミリタムに訊ねた。
「でも……家族に言わなくていいの?」
 ミリタムは首を振る。
「前から家出したいとは思ってたから。だから言ったでしょう? “この世の行く末を見てみたい”って」

「……合流したか」
 巫女の森最深部。樹齢千年以上の巨大な木の根元に佇む女性がいた。
 年の頃は二十歳前後。この世界では珍しい濃茶の髪を、腰まで伸ばしている。四肢に聖帯と呼ばれる包帯を巻き付かせ、四百年前まではこの世界の巫女服であった着物を着ている。
 ――だがその姿はおぼろげで、現代に生きる人間ではないことが見て分かる。
「だが、気を抜いてはならない。お前の力……仲間のために役立てるには、まだ早すぎる」
 言ってそっと、か細い手を大樹に当てた。
「……そうだな?」
 木に語りかけるように、木の奥にいる『誰か』に語りかけるように、女性は優しい声で言った。
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