第二章第二話  巫女の森

前へ トップへ 次へ

「みんな眠そう……」
 後ろを振り返って呟く碧。小さくあくびをし、目をこするラニア。カイズやジラーも道中あくびが絶えない。
 祭りの翌日は、それまで以上に慌ただしい出発となった。まだ陽が昇り始めたばかりの早朝に、イチカが起床を呼びかけたためだ。それから、聖域と呼ばれる『巫女の森』付近まで進んだのは二日後。夜通し歩けば一日で辿り着ける距離だが、それはさすがにきついという反論があり、宿泊も含めて二日かかった。
『巫女の森』はウイナーの隣町――と言っても、距離はかなり離れている――リヴェルとの間にある。その名の通り神秘的な雰囲気に引き寄せられるように、人々はここに立ち寄り旅の無事を祈るのだという。
 イチカは、ラニアの店から持ってきた地図を見ながら先頭を歩く。『巫女の森』に行ったことがあるのはカイズとジラーだけで、その二人はイチカの両側を歩いている。
「なにせ道を知ってるのはオレらだけだしな!」
「ないとは思うけど、師匠が道に迷ったら困るし……」
 という理由からである。
 宿から出て、歩くこと数時間。横に付いていた二人はいつの間にか彼から離れ、イチカは地図を頼りに歩くことになっていた。その表情は、数時間前と全く変わっていなかった。
「イチカ、すごいね〜。巫女の森には一回も行ったことないんでしょ?」
「なにか一つくらい欠点があってもいいのにね〜」
 碧とラニアが話していると、突然イチカが歩みを止めた。
「ん? 師匠、どうしました?」
「どっか調子悪いのか?」
「え!? 大丈夫、イチカ?」
「薬あるけど、飲む?」
 イチカは慌てて駆け寄る四人ではなく、地図を視界に入れたまま動かない。地図を持つ手は、僅かに震えていた。
「風邪かしら、えーと風邪薬は――」
「……いや、風邪じゃない」
 ラニアの言葉を手で遮る。怪訝そうにイチカの表情をのぞき見ると、いつになく彼の表情が曇っている事に気づいた。ラニアは地図とイチカの顔を交互に見比べ、ぽんと相槌を打った。
「……もしかしてイチカ、道に迷ったの?」
『え!?』
 皆、目を見開いてリーダーに視線を集め返答を待つ。イチカの頬を一滴の汗が伝った。
「………………すまん」
 かろうじて聞こえるくらいの小さな声で、イチカは本当に申し訳なさそうに言った。

「ま、まあ兄貴、そう落ち込むなって!」
「行ったこともないところに地図だけで行ける方がすごいよ!」
 後ろでイチカを励ますカイズとジラーを見ながら、碧が地図を持ったラニアに耳打ちした。
「なんか、意外だね」
「そう出来た人間なんていやしないわよ」
 地図を見ながら答えるラニア。その指が紙の上を滑り、ある一点で止まる。ラニアが指さした場所は、巫女の森から数センチ程しか離れていないところだった。
「でも、思っていたほど迷ってないわ。ちょっと道を外れただけみたい」
「そんなに迷ってないってー!」
 碧が後ろを振り向き、イチカたちに伝える。
「……だってさ、兄貴」
「よかったっすね、師匠!」
 イチカは俯いたままだったが、僅かに安堵したようだった。とはいえ、本道を逸れたことに変わりはない。多少道ならざる道を横断し、一行の衣服は森に入る前よりも汚れてきた。それを幾度か繰り返し、やがて前方に『それ』は見えた。
「鳥居……?」
 碧が呟いたとおり、『それ』は鳥居だった。一行の周りに立ち並ぶ木々に負けず劣らず、長身の鳥居はその存在を主張している。だが碧らの目を引いたのは背丈だけではなかった。
 鳥居は足元からてっぺんまで赤一色だった。かなり古いのか、塗装が落ち色は褪せてきている。それでも十分「赤だ」と言い切れるのだから、以前はもっと濃厚な赤色をしていたのだろう。鳥居は大きく口を開けて、碧たちを出迎えているようだった。
「…………どうする?」
 碧は無意識のうちに、その言葉を口にしていた。当然中に入るつもりだったラニアたちは、碧に眼を向ける。
「どうするって……アオイ、入らないの?」
「え……あ、ううん、入ろう」
 ――さっきのは……あたし?
 碧は、自らが放った言葉に困惑していた。そんな碧の心情を知らないイチカらは、どんどん森の奥に入ってゆく。心なしかいつもよりペースが速い。
 それに気づいた碧も歩幅を広げてなんとか追いつこうとするが、何故か彼らには追いつくことができない。むしろ追いかければ追いかけるほど彼らは遠ざかっていた。
「ね、ねえ、もう少しゆっくり歩こうよ!」
 碧の声が届かないのか、イチカもラニアもカイズもジラーもペースを落とそうとはしなかった。怒らせてしまったのだろうか、という考えが一瞬頭に浮かんだが、すぐに消えた。碧は仲間の気に障るような発言をした覚えは皆目(かいもく)なかった。していないはずなのだ。
 それならば、何故イチカたちは遠のいてしまうのか。置いて行かれ、孤独になった碧は暫く考え込んだ。
「……そうか。あたし、悪い夢でも見てるんだ」
 そう思いこみ、碧は自分の両手を両頬に持っていく。そのまま頬をつまんだ。
「夢だったら、痛くないはず!」
 言い聞かせ、碧は思い切り自分の両頬を引っ張った。ありきたりだが、こうすれば夢から覚めるかもしれないと信じ込んでいた。
「……痛っ!」
 当然のように痛む碧の頬。そして、今が現実であるということを思い知らされた。碧は脱力し、膝から地面に崩れ落ちる。
「どうして? どうしてみんな、戻ってきてくれないの……?」
 うわごとのように呟いてみても、もちろんイチカたちは戻ってこなかった。碧は祭りの日、イチカに言われた言葉を思い出す。
『今度はぐれても探しに行かないからな』
 だとしたら、これははぐれたということなのか。冗談じゃないと、碧は首を振った。碧はしっかりとイチカたちの後ろを歩いていた。突然歩くペースを上げ、碧を置いていったのは彼らの方だ。
「……いや……こんなの……何かの間違いよ……」
 碧はもう一度、考えを改めた。何の理由もなく、魔族に狙われている碧を置き去りにするだろうか。
(これは夢だ。夢に違いない)
 【――本当に?】
 声は突然、頭の中に響いた。ヤレンではない。碧は弾かれたように顔を上げ、辺りを見回した。
「誰……!?」
 【怖がらなくていいよ。あたしは『あなた』なんだから】
 声はそう告げた。完全にパニック状態に陥っていた碧は激しく首を振った。だがそれはたしかに、碧自身の声だった。
「意味わかんないよ……!」
 【かわいそうにね。だけど、簡単にあの人たちを信用しちゃったあなたにも落ち度はあるよ】
「なに言ってるのよ……!」
 【騙されたんだよ】
 その冷たい言葉に、碧は肩を震わせた。
「そんなはずない! イチカもラニアも、カイズもジラーもいい人だもん!」
 【ほんのちょっと前に知り合ったばかりなのに、どうしていい人だって分かるの?】
 碧は言葉に詰まった。
「……それは……」
 【あなたを知っている人は、この世界のどこにもいないんだよ? あなたはなにもできない。それを悔やんでいるのはあなただけじゃない。あの人たちもそれを悔やんで、すぐにでもあなたを置いていこうと思ってた】
「勝手なこと言わないで!」
 碧は耳を塞ぎ、その場から走り出した。声を振り払うように頭を揺らし続けた。
「これは夢だ、夢だ、夢だ!」
 闇雲に走りながら叫ぶ。声は全く聞こえなかった。だが耳を塞ぐ手を外したら容赦なくあの声が降りかかりそうで、碧は両手を外せなかった。
 やがて、永遠に続くように思われた森の奥から微かに光が差し込むのが見えた。碧はその光を目指し、ただひたすら走った。

 遠くで、誰かに呼ばれているような気がする。
 うっすらと眼を開けると、目の前にはラニアの泣き出しそうな顔があった。周りにはカイズやジラー、少し離れてイチカもいる。
「アオイ〜〜!!」
「……え、ええ!?」
 突然抱きつかれ、碧は状況を把握できないでいた。
(えーっと、あたし、たしか森の中を走ってたはずじゃ……)
「も〜〜びっくりしたわよ! 森に入った途端、いきなり倒れたんだもの! 寝てるわけでもないし、熱があるわけでもないし……」
 そう言うと、ラニアはまた泣き出した。碧は彼女を落ち着かせながら、状況を整理する。
(じゃあ、さっきのは夢……? でも、つねったら痛かったし……)
 碧が悶々と考えているところへ、一人の少女がやってきた。年の頃は碧より少し年上、灰色がかった漆黒の髪を背中でおさげにし、紅白のワンピースを着ていた。その少女は碧と目が合うと、にっこりと微笑んで会釈した。
「はじめまして、アオイさん。巫女の森へようこそいらっしゃいました」
「え? あ、はじめまして」
 何故、初対面の少女が名前を知っているのか碧は不思議に思ったが、先ほど目を覚ましたときラニアに呼ばれたことを思い出した。柔らかな笑みでこちらを見ている少女を無視するわけにもいかないので、とりあえず彼女のように――といってもやや引きつり気味だが――微笑みを返す。
(わたくし)はサトナ・フィリップと申します。この『巫女の森』を護っている、この世界では数少ない巫女の一人です」
「そうなんですか……。あの、それはそうと」
 碧はまっすぐにサトナを見据えた。
「あたしに、何か見せましたか?」
 碧はサトナが現れたときから、何故か怪しいと思っていた。本能が、「あの夢を見せたのは彼女だ」と碧に語っていた。サトナは少しだけ目を見開き、小さく笑った。
「……お見事ですわ、アオイさん。たしかに貴女(あなた)の気を失わせ、幻影を見せたのは私です」
『なっ!?』
「何のために?」
 四人の驚きを後目に、碧は落ち着いた口調でサトナに訊ねた。サトナに対して怒りはあったが、それを追及する気は碧には全くなかった。
「貴女はご自分が、ヤレン様の生まれ変わりであることをご存じでしょう? 人は生まれ変われば、前世にあった徳や能力、記憶は全て失われます。ですから私が、ヤレン様からいずれやってくるであろうアオイさんを試すよう、御言葉(みことば)を受けたのです」
「あんたの話を信用できるのか?」
 低い声で、そう訊ねたのはイチカだった。その眼差しには敵意が感じられた。
「仮に、その“ヤレン様”から御言葉があったとして、あんたがこの森を護る巫女だと言う証拠はどこにもない。姿を変えられる魔族や嘘をつく人間ならいくらでもいる世の中だ。そう簡単に信用できんな」
 反論しかけた碧やラニアは、言葉に詰まったようだった。サトナは自分から巫女だと言い、言葉遣いや顔立ちにも気品さが感じられた。だが、一行の中でサトナに面識のある人間はいない。魔族が先回りして変装でもすれば、適当な名前を名乗ってやり過ごす可能性も十分にあるのだ。
「……私は幼少の頃からここを護っていますが、人に疑われたのは貴男(あなた)が初めてです。イチカさん」
「!」
 一行の眼差しが驚異をもってサトナに向けられる。ラニアが碧の名を呼んだとき以外は、誰一人としてお互いの名を呼ぶことはなかった。イチカも例外ではない。何故サトナが彼の名前を知っているのか、イチカはサトナのただならぬ“力”を感じたが、敵意を消すことはなかった。
「私は魔族でも悪人でもありません。……と言っても信用していただけないでしょう。日本には百聞は一見に如かず、という良い言葉があるそうですね? お望みでしたら、私の偽りでない能力、お見せ致します」
 サトナはイチカに目をやる。その意味を悟ったイチカは視線を逸らさず、無言で頷いた。サトナも頷き、両眼を閉じた。
 右腕がすっと上がり、肩の高さで止まる。右腕は身体の前を往復し、止まった。
 その瞬間、ガラスが割れたような音が響き渡る。同時に、サトナの前に半透明な壁が出現した。
「これが私の創り出した結界、名を【(サイ)】と言います。どうぞ、何かで攻撃してみてください」
 あまりにも唐突な言葉に、一行は言葉を失う。たしかに半透明な何かがサトナの前にあるが、結界と言われても信じられず、誰もが半信半疑だった。五人が顔を見合わせ、意を決したようにラニアが腰の銃を引き抜いた。
「……あんまり疑うのは、好きじゃないんだけど」
 呟きながら、ラニアは銃を構え、サトナの胸――心臓の位置に銃口を向けた。それを見た碧は慌てる。
「ら、ラニア! いくらなんでも、そこはちょっと……」
「なんか、バカにされてるみたいでむかつくのよ」
 にっこりと微笑んでいるサトナを見ながら、碧の言葉に耳を貸さずに拗ねた顔で言うラニア。こうなっては止めようがないと思い、碧はせめてサトナが死なないよう、祈ることにした。
 ラニアがトリガーを引く。銃声が静かな森に響き渡り、碧は同時に目を瞑った。
 再び静寂が訪れた頃、碧はゆっくりと眼を開ける。銃で撃たれたはずのサトナは、先ほどと同じ笑顔で同じ場所に立っていた。目を丸くする碧に、サトナは悪意のない表情で言った。
「私には、傷一つないでしょう?」
 何度か瞬きし、煙の出る銃口を呆然と見ているラニアに声を掛ける。
「どうなったの?」
「説明するの難しいから、もう一回撃ってあげるわ」
 ラニアはそう言うと、再び狙いを定め、発砲する。弾がサトナに当たるその直前、彼女の姿が一瞬歪んだ。サトナの前にあった結界【塞】が、弾が当たった部分を変形させ、弾を押しつぶしたのだ。
 呆然とする一行に、サトナは天使のような笑顔で言った。
「偽りでは、なかったでしょう?」

「すまなかった」
 あのあと、イチカはサトナに謝った。サトナはやはり菩薩のような笑みを浮かべ「気にしないでください」と返した。碧はずっと気になっていたことをサトナに訊ねることにした。
「えと……サトナさん。質問いいですか?」
「はい、なんでしょう?」
「さっき、“ヤレン様から御言葉を受けた”って言ってましたよね。ってことは、ヤレン様は生きているってことですか? だとしたら、どこにいるんですか?」
 サトナは少し、困ったような顔をした。
「そうですね……。生きていらっしゃるわけではありません」
「“生きているわけじゃない”?」
「はい。ヤレン様ほど徳の高い巫女は、自らを不老不死にすることも可能です。ですがヤレン様は、あえてそうしませんでした。普通の民のように生きたいとお望みになったのです。ヤレン様は二十歳という若さでお亡くなりになりました。魂は貴女の元へ行かれましたが、意識だけはこの世界に現存しているとのことです」
 碧は幾度か瞬きし、相槌を打った。
「それじゃあ、その意識がサトナさんに御言葉を送っているんですね?」
「そういうことになりますね」
 碧は暫し考え、目を輝かせてサトナに問うた。
「それで、あたしを試した結果はどうでした?」
「はい。有無を言わさず、合格です」
 合格と言われ、碧は一年後にある高校入試のことを思い出した。だが無理矢理脳から消す。
「……合格したら、どうなるんですか?」
「アオイさんには、巫女の力が十分にあるということになります。巫女の基本・【神術(しんじゅつ)】を覚えることができれば、私のように結界を創ることも可能です」
 結界を創ることができると聞いて、碧はますます嬉しくなった。
「時に、アオイさんは魔族に狙われているとか。お役に立てるか分かりませんが、ちょっとした【神術】をお教えしましょうか?」
「あ、はい! お願いします」
「それでは、こちらへ。少々荒っぽい【神術】もありますので……」
 碧はサトナの後ろをついていった。残された四人は、碧の後ろ姿を見送る。
「なんかさ……アオイ、どんどん強くなっていくよな」
「あ、カイズ惚れちゃったの〜?」
「ちげーよ! 憧れっていうか、なんていうか……」
「それわかる。オレも惚れたってわけじゃないけど、惹きつけるモノがあるよな、アオイには」
 ジラーがうんうんと頷きながら言う。
「あたしも負けていられないわ! さーてカイズ、ジラー! 稽古につきあってちょうだいね?」
『え゛?』
 指名されたふたりの声が、見事に重なった。
「ちょ・う・だ・い・ね?」
「は、はい……」
 ラニアの剣幕に押され、渋々ラニアの稽古につきあうことになったカイズとジラー。ほどなくして、銃声と悲鳴が森の奥から聞こえてきた。
「……ストレスでも溜まっているのか?」
 イチカは二つの声が響く森の奥に目をやり、そう呟いた。
前へ トップへ 次へ