第三章第五話  辿廻

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 静かに、確実に動く。
 それは時には美しく、時には残酷に刻まれる。遙か昔から進化し続けている宇宙に比べれば、儚く短い『人』と言う名の一生。
 人は皆、生きていれば一度や二度、否、数え切れぬほどの苦難や悲劇と遭遇する。それは避けられぬ道である。避けることはできず、拒むことも出来ず、ただ人は、人生と言う荒波に従うまま生きる。
 だが人生は、何も全てが悲哀な事ばかりではない。美しく人生の一時を飾る微笑ましい出来事、笑いに満ちあふれた日々。それぞれが五分五分な人がいれば、悲哀の中だけを生き抜いてきた人もいる。その逆もいる。人生とは、等しく与えられる物であると同時に、不平等な物なのではなかろうか。
『彼』はどちらかというと、前者の人生を歩んできた。何不自由無い、平凡な生活。両親がいて、年下の兄妹がいて、自分がいた。幸せな日常だった。他には何も望んでいなかった。
『ははうえ、みてみて!』
『あらあら……どうしたの、ミリタム?』
『あたらしいまほうができたんだ! みてて! ……そはききたるせんこう・かけたるやいば・いまこんじきなりて・やみをうたん!』
 それは、小さな小さな少年の手に乗るほど、小さな小さな光。それは少年の未熟さ故の事なのだが、魔法を習い始めて三年にしては成長が著しく、既に高位魔法の詠唱まで覚えてしまっていた。それを教えた両親はあまりの成長ぶりに驚嘆していたが、当の少年は手のひらに乗る光の小ささなど気にしていないといった、無邪気なまでの笑顔を浮かべている。大きな碧色の瞳を更に大きく開いて、きらきら、とでも形容できる眼差しで母親を見つめる。子供によく見られる、典型的な「褒めて!」の顔だ。
 もちろん、それが分からぬ母ではない。驚きや、普段は感じるはずのない我が子に対する微量の恐怖を打ち消し、少年の頭を撫でた。
『あらまあ、すごいわね〜! でもねミリタム、よく聞きなさいね。あなたはまだまだ、たくさん魔法のお勉強をしなければいけないの。だからまだ、その魔法は完成していないわ』
 言葉の半分以上が褒め言葉でなかったせいか、案の定、と言ったところか少年は俯き、見るからに寂しそうに顔を歪めた。褒めてばかりいては、彼の将来にも良い影響を及ぼさない。それを理解していての言葉であった。魔法士になるためには、それこそ血の滲むような鍛錬が必要となる。剣技の類のような厳しい修行ではないものの、ひとつでも詠唱を間違えば大惨事になりかねない、ある意味で何よりも危険な職業なのである。
 あくまで険しい表情を作っていたせいだろう、少年の肩が小刻みに震えだし、灰色のコンクリートの床にぽつり、ぽつりと涙が雨のように零れた。こうなってしまえば、負けたのは母の方である。――否、元々彼女には、彼に勝てる気など全くなかったのだが。
『こらこら、男の子が泣いてどうするの。大丈夫よ、ミリタムが一生懸命頑張れば、どんな魔法もいつか必ず完成するわ。あなたは成長が速いもの。きっと、将来は有名な魔法士になれるでしょうね』
『うん!』
 しゃくり上げて泣いていた小さな魔法士は、母の言葉を聞いた途端、単純とも言うべき速さで泣きやんだ。次には魔法を披露した時のような、顔面いっぱいの笑顔。きっとその瞬間、彼の目標は、母の言うとおり“有名な魔法士”になることに決まったのだろう。ただ母の言葉を信じ、母の笑顔を見て共に笑い、時には弟たちも混じって、限りある一時を大切に生きた。否、おそらく当時の彼は、人生には限りがあることなど理解していなかったのだろう。希望を言うならば、ただこの幸せが永遠に続くように、と。

 ――――

 暗転していた意識が、徐々に取り戻されてゆく。瞼をゆっくりと開けると、視界いっぱいに白っぽい天井が広がる。
 そこは見たこともない部屋だった。顔だけ動かしてぐるりと見回してみるが、やはり知らない所だ。そもそも何故こんな所にいるのか。仰向けになっている、ということは、今の今まで眠っていたのだろう。それもどうやら敵前ということではなく、少なくとも安全に近い場所ではあるらしい。神経を研ぎ澄まして気配を探ってみたが、特に邪悪な気配は感じられない。
 よく分からないが、このまま寝ていては部屋の主に失礼だ。そう思い、腕に力を入れ、体を起こそうと――
「……つッ……?!」
 力を入れたのは腕だけであるはずなのに、何故か身体の至る所から痛みが(ほとばし)った。堪らず再びベッドの上に逆戻りする。倒れ込んだ衝撃で背中のどこかが痛み出し、またもや苦痛の声をあげる。既に身体中に大量の汗を掻きながら、しかし彼は事態を理解できないでいた。なんだこれは、まるで自分の身体ではないようだと混乱する。この痛みの原因は一体何かと視線を下げたとき、彼の碧色の瞳が大きく見開かれた。着ていたはずのローブは無く、代わりにというのか、肌が見えぬほど幾重にも巻きつけられた包帯。先ほど力を入れたときに傷口を開けでもしたのだろう、腹部の辺りにうっすらと血が滲んでいた。
 それを見ても尚、彼――ミリタムは状況を把握していなかった。よほど怪我とは縁がないのか、もしくは『それ』を認めたくないか。魔法士の名門、およそ街ひとつ分に相当する領地を持つステイジョニス家の長男である。大事に育てられたと考えれば前者の方が現実的だ。
 だが――彼の心情は後者だった。幼い頃から神業とも言える速さで魔法を修得し、弱冠六歳で敷地内を魔法による結界【幻影(イリュージョン)】で覆ってしまった。【幻影】とはミリタムが付けた名前である。もともとあった守護系魔法【石壁(ロックウォール)】に万能魔法【探索(エクスプローラ)】をミックスし、更には制限付きという、未だかつてない新技を生み出してしまったのだ。それにより、以前は出現が著しかった盗賊はめっきりいなくなり、それと同時に訪問客も減ってしまったという――逆効果だったと言えばそれまでだが――魔法研究にかかれば右に出る者はいないとまで言われた、史上最年少最強の魔法に関する研究の第一人者となったのである。無論、威力・実力に関しては言うまでもなく「お墨付き」である。
(その僕が、怪我?)
 俄には、否、絶対に信じられるはずがない。あの日強く誓ったのだ。どんな魔法も修得し、成功させると。
 それがたとえ、長きに渡って成功者の無い『魔法による治癒』であっても。
 魔法はもともと、魔族が持つ攻撃手段であった。防御・回復を主とする神術とは反発し合う。【魔法】と【神術】を無理矢理融合させたならば、術者本人が両方の力を受け、死に至る危険性が大いにあるのだ。挑戦する物好きな研究者は多々いたが、前記故に挑戦者数=死亡者数という実にめでたくない方式が今日まで成り立ってしまっている。
 怪我をしながらまだ悶々と考え込んでいるミリタムの傍ら。最初のうちは正直心配で声を掛けようという気にもなったが、先ほどからぱっくりと割れたであろう腹の傷口を見てそのまま静止している所を見ると、どうやら気配にも気づかないほど考え事に夢中なようである。
 そういう、いわゆる『無視』されている状況が、彼女にとってはもの凄く苛つくワケで――
「……自分の腹見てナニ物思いにふけってやがンだてめーーっ!!!」
 開口一番、ミリタムの後頭部に跳び蹴りプラス勢いでそのまま彼の首を絞める。もちろん緩くではあるが、気づいていなかったとは言え仮にも怪我人にそこまでするのは彼女くらいであろう。とにかく、今の彼女なりの心配で痛みに気づかない訳はなく――
「いたたたたったイタイ痛い!! ごめん!! なんか良く分からないけどごめん!!」
 この期に及んでまだ「分からない」と言い張るミリタム。「良く分からない」の部分で白兎はまた眉間にシワを寄せたが、痛みは本物のようで、彼の目尻には涙が浮かんでいた。まだ怒りは取れていないものの、白兎とて心はある。潔くミリタムの首から手を離した。ほ、と息をついたミリタムだが、その直後に腹痛が再発したらしく、小さく呻き声を上げた。
 さすがにそれを聞いて罪悪感を感じたのだろう。白兎は心配顔を造り――しかしまた元のしかめっ面に戻り、
「悪かったな自業自得だ」
「心配してくれてるのかそうじゃないのか判断しにくい言葉をありがとう」
 悪態をつく白兎に対し、腹を押さえながら皮肉めいた礼をするミリタム。白兎はケッ、とそっぽを向いた。ミリタムは力無く笑い、ふと思い出したように言った。
「……魔族は?」
「あァ。あの腐れ外道な変態魔族なら、ポーカーフェイスの野郎と異世界人が()っちまったぜ」
「……そう……」
 ベッドに戻り、ミリタムは残念そうに呟いた。その表情が何を意味するか、白兎は無論知らない。だが、耳が辛うじて捉えた小さなため息を見過ごしてはいけない。何故か白兎は、そう思わない訳にはいかなかった。
「……てめェが何でそういうツラしてンのか、何でそんなに辛気くせェのかは訊かねえ。訊かれて嬉しいことじゃねえのは確かだからな。でもな、てめェだけで抱え込むんじゃねえ。ちょっとくらい吐き出しちまえ。じゃねえとてめェのここ、一生ゴミ溜めだぜ」
 自分の胸を拳で叩き、その紅い瞳で真剣に訴えかける。見つめるとか見つめられるとか、白兎はそういうことに慣れていなかった。だからそれが異性であれ同性であれ、見つめられればどちらであろうと頬が熱くなったものだった。だが今は違う。純粋に、分かってほしいから訴えている。自分を取り戻してほしいから、訴えている。自分を見つめ返してくる碧色の瞳に胸が高鳴りはしたが、逸らす気にはなれなかった。
 先に目を逸らしたのはミリタムである。それもどこか思い詰めた表情をして。
(オイオイまだ何かくどくどと言うんじゃねえだろーな冗談じゃねェぞ。こっちは無い知恵絞って出来る限り優しい言葉使ってンだ。これ以上なんか言おうモンならあたいマジでぶっ殺しそうだ)
 と、心の内ではとんでもないことを考えている白兎。はたしてミリタムの口から出る言葉は天国を見るような事か、はたまた地獄を見るような事か。自分の選んだ言葉で運命をことごとく変えてしまうというのも皮肉な話である。
「……僕の母上はね、」
 出だしからして、少なくとも白兎をキレさせるような内容ではないらしい。
「貴方みたいに丈夫で、短気な人じゃなかった。それはもう天使みたいに優しくて、朗らかで、だけど時には厳しくて……変な言い方だけど、憧れてた」
 何か最初の方に引っ掛かる言葉があったような気がしたが、空耳かと思い敢えて口にしない。話している人の話を途中で切るのも気が引けるものだ。そして次の言葉で、彼女は完全にその言葉を忘れた。
「亡くなったんだ。僕が七歳の時に」
 まあ、言っちゃえばほんのちょっと前なんだけどね、と明るく振る舞うミリタムに、白兎は不思議な苦しさを覚えた。七歳といえば、大分安定している年齢ではあるが、親に対する甘えなどは抜けきっていない頃であろう。子供は子供で、これから成長する時期。親は親で、それを楽しみにして成長を見守る。
 その過程で、親の片割れが死んだ。
 どちらにも未練が、悲しさが残る。そして次には、なんとも言えない虚無感。そのときもう少し幼かったならば、きっと彼はまた違う人格だったのだろう。おそらく、もう少し大人びていたのではないか。子供は背伸びしたがるものだ。特に、大切なものを失ったときは。
「あんまりたくさん血を吐くから、ベッドで寝たきりになってね。そのときでもう、余命一年だった。それでも母上は、僕たちに事実を言わなかった。きっと……心配させたくなかったんだろうね」
 淡々と話すミリタムの表情に、不思議と陰りや哀しみは感じられなかった。先ほど「ちょっと前に死んだ」と言った割には、まるで何十年も前の事を思い出話のように語っているような口調だ。もしかしたら彼は、思ったよりずっと大人なのではないか。それも、ほぼ無理矢理成立させられたような。
「……そうかよ」
 その場の沈痛な空気を振り払うように、白兎は短く返した。

「なんか、変だよね」
「そう言えば、変よね」
「変だな〜」
「変だ」
「……魔族の事か」
『それ』
 さすがに五回も変だと言う気にはなれなかったのか、イチカが主題を言った。そのあとの二言が、たった二言ではあるが、見事に息ぴったりだった。言った本人たちも少なからず驚いているようである。
「ここ聖域でしょ? なんで魔族の人が入ってこられたんだろ?」
「それよ。あり得ないわよ普通のセキュリティだったら」
「でもさ、実際入ってきたじゃん」
「それも、師匠が気づかないくらいだったし」
 暫し考え込む一行。
「……例えば、の話だが……
 この森自体が魔族に干渉しているということも考えられる」
「森が?」
 碧の言葉に、イチカが小さく頷く。
「森って動けた?」
 そこへ突然、ラニアが突拍子もない事を言いだしたものだから、場の空気が凍り付いた。どうかすればそのまま吹雪になりそうな勢いである。皆がぎぎ、と操り人形のように首をぎこちなく動かし、あからさまに困惑顔でラニアを見つめる。
「ラニア……それ、本気で言ってる……?」
 碧が、ともすれば泣き出しそうな表情で訊ねる。これでもし満面の笑顔で頷かれようものなら、たぶん、いや間違いなく碧は立ち直れないだろう。もとい、その場の全員が。
 空気を感じ取ったのかそれとも本当に天然で皆の予想外(?)の反応に困っているのか、ラニアは苦笑し、冗談よ、と手を振った。
「……とにかく、おれが言いたいのは森じゃなく巫女が魔族に干渉しているんじゃないかということだ」
「森じゃなく」を強調して言うイチカ。その言葉で、全員が信じられないという表情をした。当然である。この森にいる巫女は二人。そのうちの一人、サトナは多少正義感の強いところはあるが、一行に味方してくれている。ましてや魔族と対にある聖の位置にいる彼女が、魔族に肩入れなどするだろうか。
 だが、現に今彼女はいない。ミリタムの様子を見て、数分もしないうちにどこかへ行ってしまったのだ。一体今、どこに――
「私たち巫女が悪の化身に手を貸している、と?」
 声は唐突に響いた。瞬間的に飛び退き、そちらを向く。そこには予想通りと言うべきか、『巫女の森』の守護者・サトナが佇んでいた。その表情には怒りや呆れは感じられず、かと言って喜色満面というわけでもない。
「……驚いたな。いつの間に気配を消した?」
 驚いたと言う割にはあまり驚いている表情ではないイチカ。警戒心と共に、心なしか興味津々な口調で訊ねたように碧は思えた。サトナは瞬間スッと眼を細めたが、ふと軽やかに微笑んだ。
「存じませんが……余程懸命に考え事をなさっていたのではないですか?」
 そんなはずはない、とイチカは心の奥で叫んだ。たしかに色々と考えてはいた。魔族のこと、聖域のこと。だが常に神経を研ぎ澄まし、森にいる動物一匹一匹の気配すら感じられるほどの――と言ったら大袈裟すぎるが――集中力を保っていた。だがこの巫女は、そんな自分の意識の範囲外から現れた。
「ちょうど祈りの時間でしたので、皆さんの目を盗んで森林浴を。何か不吉な会話が聞こえたものですから少しばかり気を高めたのですが……いけませんよイチカさん。推定はほどほどにしていただきませんと」
 あくまでにこやかに話すサトナに、イチカは何か引っ掛かるものを感じながら黙って聞いていた。
「ですが……貴男のおっしゃる事も一理あります。ヤレン様は魔族と関わりを持ちたくないと、ご自分で編み出された結界でこの聖域全土を覆ってしまった程ですし」
「自分で……編み出した?!」
「はい。【(シャ)】と言う神術のひとつで、高等神術に分類されます」
「高等……」
 自分には明らかに遠い響きだと感じたのか、碧は力無く俯いた。
(今あたしが死ぬ気で神術を覚えようとしてるのに、その上高等?! 冗談でしょ、も〜……)
「いい迷惑だよな〜…」
 ジラーが小声で隣のカイズに囁きかけた。魔族と関わりたくないからと言って、人間でも居心地の悪い聖域などあっていいものではない。碧とて、先ほどとはうって変わってこの場所の空気が息苦しくさえ感じていた。他の皆も時折、辺りを見回したり、首もとを抑えたりと、少なくとも居心地が良いわけではないらしい。唯一平然と突っ立っているのは、元から表情に変化がないイチカと、聖女と呼ぶに相応しいサトナだけだ。
「――それで?」
 いつになく厳しい口調で訊ねたのはラニアである。サトナはゆっくりとそちらを向き、ずっと変わらぬ菩薩のような笑顔で問い返した。
「“それで”……とは?」
「とぼけてんじゃないわよ。もしあたし達があいつに負けてたらどう責任取るつもりだったのよ? アオイをこっちに連れてきたの、ヤレンなんでしょ。そんなワケの分かんない結界で魔族の気配消して、アオイを殺す手助けをしてるようなものじゃない」
「そうですね」
 もう少し練りに練った応用問題のような反論を予想していたのだが、やけにあっさりとした答えが返ってきたことでラニアは拍子抜けした。“そうですね”と言うことは何か。まさか本当に魔族の手助けをしていたとでも言うのだろうか。
 そんな彼女の思考など知らぬと言った調子で、サトナは構わず続ける。
「何を実現するにも、多少の犠牲は必要です。それがあなた方の誰であれ、そうなる『定め』であると私たちは考慮しています。したがって――貴女がそう思うならば、アオイさんを殺そうとしたのは私たち巫女になり得るでしょう」
 何と。今、彼女はなんと言った。仮ではなく本当の巫女が。人の生命を尊重する存在であろう巫女が。人の手助けをするであろう巫女が。
 たった今、非常識なことを言わなかったか。
 まるで、どうなろうと知ったことではないと、関係ないと、そう言っているようだ。喚んだのに。責任を背負っているのに。
 ――そんなのがどうなろうと、あたしには関係ないもの。
 ふと頭の中を駆けめぐる、暴言。
 拒否して、拒否して、けれどもまた循環してくる言葉。何度他のことを考えて消そうとしても、服に付いて取れなくなった染みのように、こびり付いて離れない。
 ――アンタが受け取らないって言うんなら、どこか、棄ててこようか?
「……な」
「イチカ……?」
 いつもと明らかに様子が違う事に碧は気づいた。大抵彼の放つ気は、圧縮された空気のように感情をさらけ出さない。それは自分自身で、感情を出さぬようコントロールしている証拠とも言える。だが今のイチカは――彼の気は誰の目で見ても棘を持っていた。例えるならそう、薔薇のように静かな怒り。
 不覚にも、『美しい』と感じてしまうほどだった。静寂の闇の中、小さくも激しく燃える炎のように、哀しみの色を漂わせた淡い怒りが、身体中に電流のごとくひしひしと伝わってくる。
 柄に手を掛け、引き抜いたのは同時だった。
「!」
 行き場のない怒りは物体を――すなわち剣を通して、サトナの首筋に(あてが)われた。いかなる時も緩く笑みを浮かべていたサトナだが、この時ばかりは彼女の表情に強張りが表れる。一瞬だった。光が走り抜け、何事かを理解する前に飛び込んできた光景。サトナに至っては、一瞬のうちに何か冷たいものが肌に触れた、と言ったところであろうか。
 四肢は動かせない。動かせば、おそらく彼は巫女を斬りつけるだろう。
「ふざけるな……おれはモノじゃない……おれはお前らのモノじゃない……!!」
 はっと、サトナは顔を上げた。何故、先ほどから彼は俯いているのか。憎いならば、何故顔を見ようとしないのか。何故、複数形なのか。ほどなくして、サトナは全ての合点がいった。
 真に怒りの矛先が向けられているのは、彼を(ないがし)ろにしたあちら側の世界の人間なのだ、と。
「イチ、カ……」
 ――初めて見た。こんなにも激しく感情を表出す姿は。
 否、一度くらいは見たかも知れない。数週間前――碧がわけも分からぬままこちらの世界にやって来た日のことだ。彼は一言も喋りはしなかったが、殺気による威圧感が全てを物語っていた。
 お前が憎い、と。
 碧の記憶の中にイチカはいなかった。そうすると、おそらく初対面なのだろう。何故見知らぬ人に殺意を向けられているのか。何故そんな憎しみのこもった眼で自分を見るのか。ともすれば悲鳴を上げてしまいそうなほど、そのときの碧は少なからずパニックに陥っていた。カイズやジラーがいなければ、今ここに碧がいることはなかっただろう。それだけイチカの、『生まれた場所』に対する憎悪が強いということなのだ。彼が居た日本、彼を生んだ親、彼を拒んだクラスメート。全てが彼を否定してきた。最初から居場所はないのだと、周りの人間は彼を虐げてきた。きっとそんな環境にいつまで堪えられるような、強い心の持ち主ではない。
 碧は胸が痛み、もう一度口の中で「イチカ」と言った。
「――仕方がありませんね……」
 どこか悲しげにサトナが呟いた。何が仕方ないのかは、次の瞬間明らかになる。
 サトナの白い指先が、つぅ、とイチカの剣に触れる。そのまま軽く力を加え、切っ先を首にめり込ませた。
「なっ……あ、あんた何やって――?!」
「お静かに!」
 カイズの非難する声を一喝し、首筋から生々しく流れる血に怖じる事なく落ち着いた口調で言った。
「イチカさんの御気が済むまでの辛抱です。私には神術がありますから、このくらいの切り傷ならば気に留める必要もありません」
 淡々と話しているが、やはりこういう状況は巫女になって初めての事なのだろう。剣に添えられた手は小刻みに震え、額には脂汗が滲んでいる。
 サトナは碧たちから顔を反らすと、イチカに目を向けた。
「済みません、イチカさん。少し、意地悪をさせていただいたのです。巫女にとって、聖域を訪れる方々は神も同然……。それを敢えて突き放すことで、ヤレン様のお気持ちを理解して頂けたら、と思ったのですが……どうやら逆効果のようでしたね」
 ぴく、っとイチカの剣を持つ手が震えたような気がした。
「貴男がお考えのとおり、私たち巫女は勿論のこと、ヤレン様にも責務があります。アオイさんをお連れしたのは、彼女に果たしていただきたい事がある為……。それまでは、僅かの魂さえも無駄には出来ないと、おっしゃっていました」
 苦笑しながら真実を話すサトナ。血は止めどなく流れ、最早巫女服の右半分は見事なまでの紅に染まっているというのに、顔色ひとつ変えることなく彼女はイチカに訴え続けた。それが届いたのかどうなのか定かではないが、ゆるやかに銀色の剣は引かれた。
 驚いたように顔を上げるサトナの眼に映ったのは、先刻と何ら表情に変化がない、いつもの無愛想なイチカの顔だった。相変わらずの、感情のこもらない瞳でそちらを見ただけで、そのまま(きびす)を返して歩き出す。魂のこもらない人形のように、ただ歩む足はおぼつかず、操られるように。
 誰も、それを止めなかった。彼の行く先も尋ねることなく、一声も掛けることなく、その姿を見送った。自分の意志で歩を進めているわけではないことは明らかだった。何かに導かれるように、剣を右手にぶら下げて歩いていく。
 イチカが見えなくなったあとも、サトナは決して膝から崩れ落ちることはなかった。何かを察したのか、ふいに顔を上げ、彼が消えた方向を見つめる。
「……ヤレン様が、お導きになりました」
 誰に訊ねられたわけでなく、自発的にサトナは言った。はっと、皆が一斉にサトナを見る。
「お前では手に負えぬ、と。自らイチカさんを御自分の元に」
 サトナはそれだけ言うと、結界を造り首元の治療を始めた。残された四人は顔を見合わせ、うなだれるのだった。

「おれはあんたが一番嫌いだ」
 開口一番、ヤレンに導かれたイチカは彼女の顔を見るなりこう言った。突然そう言われたのだから、ヤレンは返す言葉なく苦笑する。それが気に食わなかったのか、イチカはますます無愛想な表情になった。
「姿形、何から何まで思い出したくもない事を彷彿(ほうふつ)とさせる。何なんだあんた。これ以上おれを不幸にして何が楽しい」
「ほお。それならばアオイはお前の中で、少なくとも最下位ではなくなったわけだな?」
 二言目以降は無視し、最初の言葉の返事をするヤレン。イチカから流れるマイナスのエネルギーが嫌でも痛みを感じさせるが、生憎彼女は生身の身体ではないのでそれすらも感じることが出来ない。それが死んだ身である彼女の長所であり、短所でもある。例えこちらが何を言おうが相手の殺気も何も感じることは無いが、それだけこちらは無神経だと解釈される。このように相手をからかうだけならば何も問題はない。
「悪いがおれは、あんたとあいつは同じ人間だと認識している。位もあんたと同等だ」
「私と話すときの方が口数が多いのではないか? んん?」
「黙れ」
「ふぅん……面白味のない男だな。まあ、そういう人間像だと言うことはもう把握しているからな。お前に面白さを求めても無駄なのは重々承知だ」
「…………」
 イチカの眉間にしわが寄せられる。おそらく、何か引っ掛かる言葉でもあったのだろう。だが彼は何も言わないし、ヤレンも何も聞こえていない――フリをしているだけ――ようで、とりあえず一方通行な口論は途切れた。
「……あんたがこの森に【遮】とかいう神術をかけている理由はなんだ」
 一瞬、ヤレンの表情が曇る。だが次にはやれやれ、と肩をすくめ、小さく苦笑した。
「八割方、お前にしてみれば興味の欠片もない恋愛話になるが。いいか?」
「……話せ」
 興味なさそうに、イチカは返答した。多少大人ぶってはいても、年上に向かって命令するとはまだまだ子供だななどと思いつつ、ヤレンは手近な切り株に腰掛けた。
「……四百年前、私は一人の男と恋に落ちた。相手は軽薄で気さくな――魔族だった」
 興味ないながらも話を聞いていたイチカは、ヤレンの意外な告白に驚きを隠せないようだった。ヤレンはそんなイチカに一度目をやり、再び話をし始める。
「どういう結果になったか、大いに想像はつくだろう? 私とその男は引き離された。男は同士討ちに遭い、私は男の同士に殺され、共にこの大樹に封印されたのだ」
 ヤレンは立ち上がり、『この世の果て』に触れる。さきほどまで険しい表情をしていた彼女の顔が、大樹に触れた途端柔らかくなったのを、イチカははっきりとその両眼で捉えた。
「……意外だな。魔族を憎んでいるから結界を張ったんじゃなかったのか」
「ああ。私はセイウ以外の魔族を憎んでいるさ」
 セイウ。それがこの巫女の愛した魔族の名なのだろう。物悲しいと言わんばかりに哀愁を込めたその声は、同士討ちに遭ったその男の冥福を祈るようにさえ思えた。
 だから彼女は、聖域全土を結界で覆ったのだ。同士を、恋人を殺した魔族の気配を、『意識』となった身でも二度と感じられぬよう。
「たとえそれが、私一人の問題であろうとも」
 そう語るヤレンの瞳は、強い意志を宿していた。
「……その件は理解したことにする。もう一つ、気に掛かることがある」
「なんだ?」
「何故、おれはこっちの世界に来た。おれは、あんたとは関わりがない」
 表情自体は微笑んでいたものの、イチカを見上げる巫女の眼は哀しみの色を宿していた。彼女が何故そのような顔をするのか、イチカは困惑した。なにかマズい事でも言ったか。まさか、なんの面識もない人間と関わりがあるとでもいうのか――。
「……今は……まだ、知る必要はない」
 ――またかわされた。
 碧の修行に付き合ったときも、今も、返答になんの変化もなかった。そんなに言いにくいことなのだろうか。ヤレンが口ごもる理由は『あいつ』がいるからだと思ったが、今の様子を見るとそうでもないらしい。核心を突けば突くほど、この巫女は口を堅くする。
「答える気は無い、と?」
「ああ」
「…………」
 それならば、幾ら訊ねても無駄なことだろう。
 他人の事など気になる質ではなかったが、あまりにも好都合な時機、あまりにも良い瞬間にこの世界に飛ばされた事。それがどうしても気になった。偶然にしては自分にとって都合がいい『召還』。もしかしたら何か手がかりがあるものと思い、今まで奥底に秘めていたのだが――どうやら鍵を握っているらしいこの巫女は、頑固として口を開きそうにない。
 イチカはふいと踵を返した。意外にも呆気なく背を向けて帰ってゆくその様は、まるで遊び慣れた玩具を躊躇いもなく棄てる子供に似ていて。
「――イチカ」
 思わず、呼び止めた。
 無視して歩き去ると思ったが、予想に反して歩みを止め、こちらを向いてきた。その顔にはいかにも、
「用がないなら帰らせろ」
 と書いてありそうではあったが。
 呼び止めたのはいいが、確かに呼び止めた理由がない。――否、あるにはあるが――彼女としては、あまり触れたくない話題だった。だが、せっかく立ち止まってやったのに用がないなどと言おうものなら、こいつの性格上斬り掛かってきてもおかしくはない。別に斬り掛かられても意識でしかないので、痛みも何も有ったものではないが。そう考えた末に、結局それを言うことにした。
「魔族は、何匹倒した?」
「二匹――同士討ちも合わせて三匹だ。それがどうした」
 考える素振りも見せず、イチカはほぼ即答してみせた。
「そうか。それではその中に、黒龍を操る男はいたか?」
「……ああ」
 あんた見てたんじゃないのか、と言おうとしたが、顎に手を当て真剣に考えだしたらしい相手にどうこう言うのも気が引けたので、二言で済ましておく。
「ならば奴ら、『一魔王の僕(フィーア・フォース)』か。奴らも手強いが奴らの魔王も手強いぞ。目前に立っているだけでも数十の切り傷は覚悟しておいた方が無難だ」
 イチカが途端に怪訝そうな顔をして、ヤレンを睨みつける。今のはさすがに詳しすぎる解説だったかもしれない。ヤレンの心情を読みとるようにイチカがぽつりと呟いた。
「……やたらと詳しいな」
「大昔、奴らと一戦交えたからな」
 冗談なのか本気なのか分かりづらい口調で返すヤレン。イチカは小さく短くため息を吐くと、再びヤレンに背を向けて歩き出した。
 隙あらば誰であろうと何であろうとからかってくる巫女らしくない巫女でも、四百年前魔族を滅ぼした英雄として讃えられているわけだから、少なくとも嘘ではないのだろう。
 だが、魔族は完全に滅びたわけではない。現に碧やイチカを狙っているのは間違いなく魔族という連中である。確かにヤレンは魔族を滅ぼしたのかも知れないが、それは魔族の中の、ひとつの魔族であって、魔族全てを滅ぼしたわけではないのだ。
 碧たちを狙っている魔族も、その中のひとつにすぎない。その事も、ヤレンは包み隠したままだった。
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