第三章第四話 聖域にて
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森が、木々が揺れ始める。今そこで起きている『緊急事態』を互いに語り合うように、注意し合うように。それは、普通の人間では聞き取ることの出来ぬ、超音波を発し警告し合う
蝙蝠に似ていた。
『彼ら』は落ち着いていた。本来ならば在るはずのない瘴気がそこにある時点で、通常ならば突風が吹いたようにざわめき出すはずである。だがずっと昔から――この世界が創成された頃からその場に立っている老木たちは、まるで日常茶飯事だと言わんばかりに、囁くほど小さく語り合っているだけであった。普段ならば全く無口な彼らだが、このときばかりは語り出さずにはいられなかったのだろう。内容は至って取るに足りない、しかし見過ごすわけにはいかぬ事柄。
一つは、異国の少女から連なる光の柱。もう一つは、森の入り口付近に現れた強大な力を持つ魔族――。
前者は、『彼ら』にしてみれば異例であった。異国の者など、未だかつてこの森に招いたことはなかったのだ。そこから動けぬように、『彼ら』は手招きすることができない。だがこの世を救世した巫女がこの森を治めてから、客人が増え始めた。最初は流浪する旅人、数日後には巫女の力を聞きつけた見習いの者。それが数日ではなく、数時間おきに変化したのは間もなくのことである。彼女が現れてから、この森は生気を持った。彼女が来てから、森は聖域として知らしめられた。
彼女が訪れてから、『彼』が現れた。
【もう、四百年も昔になろう。あれが来なければ、この世は今少し安定していただろうか。
あの戦がなければ、彼女は無駄な感情に傷つき、衰えずに済んだろうか。
彼女は生命を失うことなく、今、力を分け与えている異国の少女を喚ぶ必要はなかったのだろうか。
考えても無駄であろう。動き始めた時は、二度と止まらない。例えそれが間違っていても。
歴史と言う歯車は、なんと扱いにくいことか……】
木々は、光の柱が吸い込まれてゆく空を見上げた。どこまでも果てのない空。どこまでも青く、
褪せることのない空。
果てがあると知ったら、この世の者たちはどんな顔をするだろうか。
同じように、空を見上げる少年がいた。
澄まし顔でそれを見上げている木々とは裏腹に、少年の顔は僅かに強張っていた。
突然だった。一瞬、光が降り注いだように頭上が明るみを帯びていたのだ。どんな光よりも眩しいそれを見上げた途端、彼は硬直した。光は降り注いでなどいなかった。明らかに地上から、それもそう離れていない、この森のどこかからそれは伸びていた。空と地上を結ぶ『道』が。
「なんだ……?」
何故か、声が震えた。喉の奥が渇いて、うまく発声できない。自分ではない誰かの口のようだった。たかが光。それが少しばかり集束し、増幅しているだけだ。何を恐れることがある。何度心で唱えても、無駄な努力だった。何か見てはいけないものでも見てしまったような、後悔。それが心の片隅に執着して離れない。
――そもそも、何故いきなりあんな光が現れた?
その言葉を思い浮かべた途端、先ほどまであった恐怖心は嘘のように掻き消えた。何故かは分からないが、問題にすべきはあれだ。なんの変哲もなく――と言えば嘘になるが――過ごしていたこの聖域の地上から、突然伸びた光の柱。
何がある? あそこに何がある? おれはどこから来た?
いつの間に歳を取ったのかと思うほど、一瞬で思い出せない記憶。彼の脳裏を、一人の少女が過ぎった。
まさしく光と闇。明と暗。自分とは正反対の、あの空へと突き抜ける光のように眩しい少女。
「まさか……」
『マサカカノジョニナニカアッタノカ』
誰とも知れない声が彼の内を支配する前に、彼は走り出していた。己の意志などまるで無視して、彼の声が身体がそちらへと向かう。まるで自分が自分ではないようだった。
どうして走っているのだろう。どうしてこんなに必死なのだろう。
よくよく考えてみればおかしな事だ。あの世界の全てが嫌いで、あの世界の人間が嫌いで、彼女も殺したくなるほど嫌いだった。出会ったときの行動を詫びる気はない。あれこそは自己表現であり、彼女に対する警告でもあったからだ。
馬鹿馬鹿しい。『あれ』の為に体力を使うなど、意味もない。魔族がどうした、護る必要など
欠片もない。人間の運命など決まっているものだ。死ぬ運命に逆らう必要などない。
納得すると、足は抵抗もなく止まった。彼は冷めた眼差しで空を見つめる。いつの間にか光の柱は消えており、どこから発生したのか全く分からない状態だ。
このまま捜すのも面倒だ、何が起ころうと関係ない――。
そう思って引き返そうとしたとき、視界の隅に何かが映った。無意識のうちにそちらを向く。僅かに見開いた切れ長の瞳が映したのは、まさしく異国の少女だった。後ろ向きに倒れていく少女は、意識がないのか重力に従っている。
何か考える暇があっただろうか。気づけば少年は、自らの腕で少女の華奢な身体を支えていた。同時に草木を踏み分ける音が聞こえて、瞬時に殺気を放つ。だがそこにいたのは、少年が警戒していた魔族ではなかった。
「……まぎらわしい出方をするな」
「そんな事まで気にするような男では、女に
退かれるぞ」
刺すような殺気の中でも平然とした面もちの巫女――ヤレンは、イチカの非難めいた発言を軽く受け流した。碧を支えているのも忘れて、イチカは露骨に迷惑そうな顔をする。
「あんたの知ったことじゃない。それよりなんだ、さっきの光は。あんたがやったのか?」
「私がやった……か。満更嘘でもないな」
そう言って、碧に手を伸ばす。実体を持たないはずの彼女の手のひらは、しかし碧の柔らかな焦げ茶の髪に乗せられた。生身の人間ではないのに、何故こんな事が出来るのかとイチカは思う。そしてそれ以上に彼が驚嘆したのは、ヤレンの表情だった。まるで自分の子供でも見ているような、本物の親のようなヤレンの眼差し。
ヤレンは碧の頭を軽く撫で、ゆっくりと手を離した。但し眼は、碧に向けられたままだったが。
「……あの光は我が力、我が神力だ。アオイに『力』は戻りつつある……だがそうであることに過ぎんのだ。久方ぶりに神力を解放してみれば、自分でも気づかない内に気柱になるほど増幅していただけのこと。――それをアオイに伝承した今は、あれほどの柱は立つまい」
“力は戻りつつある”?
何を言っているのだとイチカは思った。彼女の言い分は、明らかに矛盾していた。生まれ変わりとは言え、碧とて個々の人間であることに変わりはない。元々力があったのは、ヤレンの方である。
だが、それも食い違う。“気柱になるほど増幅していた”あの神力が、失われていたはずがない。
――何が言いたい? 何を言おうとしている?
「難儀な事を考える必要はない」
イチカの心の内を読みとるように、ヤレンは諭して見せた。顔を上げた先には、僅かに微笑む彼女の顔。そこで初めて、イチカは碧を支えたままであることに気がついた。驚きはしたものの、決して突き放すわけでもなくそのままの状態でいる。
「お前は余計なことを考えず、アオイを護っていればいい。魔族の手に掬われてはならない。掬われたとき、この世は確実に終わりを遂げる」
「……何を――」
深まる疑問を問いかけようとイチカが口を開いたとき、何か不気味な感覚が彼を襲った。根拠の無い大きな不安感と、それを裏付けるように立つ鳥肌。イチカはこれを幾度も経験していた。こちらの世界に来てから――否、碧が来てから感じ取れるようになってしまった、粗悪的な気配。人はこれを、なんと形容するだろうか。邪悪とも何ともつかない言いしれぬ危険信号。
その事の重大さに気づかぬイチカではない。
「この気配は……!」
放り出すように碧をその場に残し、イチカはその方向へと一目散に駆けていく。風が彼の足を持ち上げ、加速させる。そして、ほぼ日常的となった剣の柄を握りしめる仕草。全てを数秒ののちに済ませ、駆けること以外に余計なことはしない。その分だけ時間を消耗するからだ。
草木が、イチカの走り抜けた方向に傾く。決して居心地の良くない草原の上でも身じろぎひとつしない碧を見下ろし、ヤレンは小さくため息をついた。
「あれだけ高度な神術は、身体に掛かる負担が大きい。下手をすれば死に至るほどの神力だっただろうに……」
全く、とヤレンは自嘲気味に呟いた。己の神力を買い被るのは、未熟者のすることだ。そう誰かが言っていた気がする。結局は、未だに未熟者だと言うことなのだろうか。それとも、無理矢理こちら側に干渉したツケか。
ヤレンは再びイチカの消えた方角を見遣り、眼を細めた。
「……気づいたか」
その双眸に映るのは、緑で覆われた視界一杯の空間ではなく、遠い昔の風景。忘れようにも忘れられない、彼女にとっては苦く後味の悪い記憶。その眼は忌まわしいものでも見るかのように、ただその方向だけを睨みつけている。
「余程の
手練れでなければ、肌にすら感じぬほど微弱な気配のはずだが」
一瞬、脳裏を
掠める影。それを思い出す度、彼女は反射的に目を瞑る。もう、思い出したくないというのに。
「余程の手練れと言うことか。お前
も」
耳障りな音が、ラニアの鼓膜を刺激する。今すぐにでも耳を塞ぎたかった。だがその唯一の手段である両手は、後ろで拘束されている。顔を背けようとしても、すぐに骨張った長い指が彼女の顎を捕らえ、正面に――黒龍に戻されてしまう。
悦んでいるらしい黒龍の牙の隙間から魔法士のローブが見え隠れする度、ラニアは目を瞑った。黒龍の口から血が滴る度、小さく非難の声をあげた。それは間違いなく、ミリタムという人間の血であるからだ。
今彼女らのいる空間は、既に負の感情で溢れかえっていた。おそらくそれが黒龍を、後ろで拘束しているこの男を狂喜させているのだろう。ラニアが涙を流し、魔法士の名を呼んでは、それを聞いて薄く笑みを浮かべた。今すぐこの手を振り払って助けたいのに、
癪なことに彼女の頼みの綱である銃は辛うじて目が届くか、届かないかという位置に転がっていた。
――今、また黒龍が一声をあげた。
実際にはそれほど大きな唸り声ではないのだろうが、結界の効果か、それは
木霊となって長く、雄叫びのように聞こえた。魔法士の術が破られ、彼があの黒い化け物の餌食になったのはいつのことだったか。それほど時間は過ぎていないはずなのに、何時間も何日もこの場にいるようだった。
でも、どうして。ここは聖域じゃなかったの?
そう言えば、サトナは何処へ行った。彼女が水先案内人だと言うのなら、案内だけで帰ってくるのではないのか。そもそも巫女ならば、どこにいようとこの
禍々しい邪気に気づくだろうに。ラニアは酷く腹立たしいような、苛立たしいような、そんな感情だった。
「くくく……愉快なものだな。魔法士と言えど、所詮は人間。気味が良くて堪らんな」
「……最ッ低……」
ラニアが小さく呟くが、獣配士はただ冷笑を浮かべているだけだった。
とにかく、どうにかしなければ。
だが、この状況をどうすべきだろうか。自分はこのとおり拘束されているし、カイズやジラーはあの瘴気を受けて身動きが取れないでいるらしい。遠目で見ても
藻掻いているようには見えるが、起きあがる気配は毛頭なかった。碧は修行中、イチカは散歩といったところか。
はぁ、とラニアは小さくため息をついた。あたしの一生もこれまでかしらね。それにしても最期の光景がこんなのなんてちょっとエグいわよ、などと心の内で愚痴を吐きながら、わざと後ろの魔族にも聞こえるように大きくため息を吐いた。
「【兎使法・白ノ発】!!」
だがそのため息は、聞き覚えのある、今の状況では懐かしくさえ感じられる声で遮断される。反射的に眼を開けたラニアは、白く細長い光の球が黒龍の首に命中した所を見た。僅かに身をくねり声をあげる黒龍の足元に降り立つ白い影を見て、ラニアはあ、と間の抜けた声を出した。
(白兎の事忘れてた)
別の意味で目を見開きつつ、もうもうと爆煙が上がる中力強く立っている兎族の少女を認め、無意識のうちに輝く瞳。その腕に抱えられたモノを見て、ラニアはまた目を見張った。
さすがに魔星一の龍は、僅かな隙に口を開けただけであまりダメージも受けていないようだった。しかし、口の中にあるモノを落とすほどの一瞬ではあったらしい。白兎の白い毛皮の服に血痕がべっとりと付き、まるで白兎がミリタムを半殺しにしたようにも見えた。
「……あたいがいねェ間に、すげェ事になってるみてーだな?」
片腕に支えている血だらけのミリタムを見ながら言う白兎。あれだけ噛み砕かれていたように見えたミリタムだが、僅かに息があった。だが出血の量が半端ではない。白兎は苦渋に満ちた表情を浮かべ、きっと黒龍を見据えた。
「おうてめェ! ミリタムをこんな目に遭わせるとは良い度胸じゃねーか!」
その声に反応したのか、ぐおぉと低く唸る黒龍。「あァ?!」と白兎が眉間に皺を寄せているあたり、意外と言葉は理解出来ているのかも知れない。白兎は皺を寄せたまま、黒龍にミリタムを突き出した。
「こんな奴が美味かった、ってか?! トップクラスのクセしてよくもまァそんな事が言えンな! ハッキリ言ってやるけどな、こんな根性悪なませガキが
美味ェなんて言う奴はよっぽどの味オンチだぜ!」
「……白兎……それちょっと……酷い」
ミリタムが息も切れ切れに言う。だが虫の音ほどの声だったのか、白兎の方は全く気にした様子はない。それを聞いて、黒龍が再びぐぉ、と唸った。その声を聞いて(?)白兎が複雑な表情を浮かべる。
「……うっせえよ。別にあたいだって、好きで同行してるワケじゃねえンだ。人間共に手柄を横取りされたくねェだけだからな」
「手柄?」と首でも傾げるように唸る龍。
「ああ。てめェら魔族を、ぶっ倒す手柄だ!」
白兎がやや嬉しそうに黒龍に殴りかかっていったのと、黒龍が呆気に取られる隙もなく大口を開けて白兎に向かっていったのとは同時だった。それが白兎にとっては予想外だったのかもしれないが、勢いは決して緩まず、高く跳躍する。黒龍の真正面だ。白兎は挨拶代わりにか、黒龍にニィと笑いかけた。
「よォ、三流ドラゴン」
どうやらそれが逆鱗に触れたらしく、黒龍は顎が外れんばかりに口を広げ、獲物に食らいついた。白兎は意外なことに避けもせず、完璧に飲み込まれる。
黒龍はその肌と同じ双眸を丸くしながらも、次には心底嬉しそうな雄叫びが森中に響き渡った。白兎の登場に歓喜したラニアたちだが、あっけなく飲まれたのを見て皆が拍子抜けした。
「何しに来たのよ、あの子……」
呆れと言うよりは困惑の表情を浮かべて、彼女とは対の色を成す龍を見つめる。黒龍は白兎を食えたことがそんなに嬉しいのか、先ほどから不定期的に雄叫びをあげている。
(さてはあの龍、オスね)
妙なところで納得しながら、しかしこれからどうすればいいのかと半ば投げやりになっているラニア。ふいに、黒龍の雄叫びが止んだ。いよいよ満足したのかとラニアはジト目で龍を見つめていたが、どうやらそうではないらしい。満足と言うより、どこかおろおろと
忙しなく動き回っている。
(今度はダンスでも始めたの……?)
非現実的な疑問を浮かべる。その間に黒龍の動きは見ている側が苛つくほど増えていき、ついには苦しそうに唸り声まであげ始めた。
「
下手物だったワケ? 白兎って」
今白兎がこの場にいないのを良いことに、ぽつりと呟く。どうせすぐ目の前まで死期が迫ってるんだから、ちょっとくらい悪口言ったって良いでしょ、というラニアの独断である。
――瞬間、黒龍の腹が弾けた。
一瞬何が起きたのか理解できず、ラニアはただただ目を見張った。弾けた肉の断片や血が、次から次へと雨のように降り注ぐ。支えを無くした黒龍の上体が崩れ落ちて、彼女はようやく事態が把握できたのだった。その影から、全身を紅く染めた白兎と、とばっちりを受けたミリタムとが姿を現す。
「だから三流だってンだよ」
黒龍の死骸に、吐き捨てるように言う白兎。次にキッと鋭い目つきでラニアを睨み、ミリタムを座らせてずんずんと近づいていく。睨まれたときからラニアはマズイ、と思っていたのだが、後ろの男は相変わらず手を離してはくれなかった。黒龍を倒したというのに、新手には眼もくれないのか。
白兎の不機嫌そうな顔が目前に迫って、ラニアは思わず顔を引きつらせた。その表情もだが、彼女の身体中にこびり付いている血が悪臭を漂わせているのも原因だ。引きつり笑いを浮かべ、そのままにっこりと笑いかける。
「あ、あーら白兎……ご機嫌麗しゅう……」
「なーにがご機嫌麗しゅう、だ。普段からそんなキャラじゃねえだろ」
据わった目つきのまま言い返す白兎。ラニアは、鋭い答えにぐっと詰まって言葉を返せない。白兎は更にぐっと顔を寄せると、そのままにたぁと笑った。
「ま、下手物は下手物なりに頑張ったつもりだぜ?」
(やっぱり聞こえてたのね……)
禁句とも言うべき言葉を
敢えて強調して言う白兎。ラニアはもう血臭と殺気で倒れそうになるのを必死に抑え、愛想笑いを続けた。
白兎はフン、と勝ち誇ったように鼻を鳴らすと、顔を離した。
「まァいいや。てめェはとにかく後回しだ。問題は――」
僅かに強張ったラニアの肩を掴み、彼女の後ろに立つ男に殴りかかる。男――獣配士は避ける間もなく白兎の一撃を受け、なす術もなく地面に転がり込んだ。それでもまだ足りないようで、仰向けに倒れ込んだ獣配士の上にまたがり、その顔を二、三発殴る白兎。余程の威力があったのか、通算して四発程度だと言うのに彼の顔はボロボロになっていた。
そのあまりにもあっけない戦闘に、ラニアたちは驚くばかりだった。まるで先ほどとは別人のようだと錯覚を覚えるくらい、獣配士の
纏っていた瘴気が薄れているのだ。瘴気が薄れるとはつまり、攻撃・防御において標準を下回っていると言うこと。いつの間に体力を消耗していたのだろうか。もしや、黒龍を操ることは想像以上に魔力を消耗するのではないか……。様々な仮説を並べ立ててみたものの、未だに白兎にのし掛かられて動く気配のない獣配士からは特定できない。ラニアは暫く様子を見守ることにした。
「……てめェか……あの三流野郎をミリタムに
嗾けたクズは……」
一方の白兎は、まだ殴り足りないと言いたげな表情で獣配士を見下ろしていた。その顔は怒り一色に染まり、遠く離れていても殺気がまとわりつくようだった。それだけ彼女の、ミリタムに対する想いが強いと言うことなのだろう。話す度に殺気が降りかかってくるような白兎の言葉に、しかし獣配士は沈黙を守ったままだ。それが更に白兎を苛立たせ、再び一撃を加える原動力となった。
「なンとか言えよ、あァ!?」
獣配士の襟元を掴み、顔の正面に引き寄せる。
白兎は怒りでそれどころではないようだが、彼はなかなかに端正な顔立ちをしていた。綺麗な顔を好む女性ならば、多少の怒りなどどこかへ吹っ飛びそうなくらい完璧な容姿を持っているが、獣配士の眼は今、間違いなく白兎を映していた。
――それが恋する少女のような眼差しに見えたのは、ラニアの気のせいではないだろう。
最早数え切れないほど眉間に皺を作っている白兎の頬に、ひんやりと冷たいものが触れた。体温が無いのではないかと感じるほど冷たい手のひらは、確実に彼女の頬を包み込む。今度は皺ではなく疑問符を浮かべ始めた白兎は、獣配士の眼が異常に輝いていることに気づく。
「素晴らしい……」
「――は?」
次には素っ頓狂な声を出す白兎。言葉の意味が理解できず、ますます疑問符が増える。獣配士はそんな白兎の気などお構いなしに、今度は頬まで染め始める。
「獣人よ……お前は兎族だな? この完璧なほど毛並みの良く極端に長い耳を持ち、戦闘能力が高く、果ては人語を話すという……オレはなんと運のいい男だ……これほど完璧な獣人を見たのは何百年ぶりだ?」
完全に自分の世界に入っている獣配士にどう反応を示せばいいのか分からず、白兎はただただ困惑するばかり。別の意味で怒りすら忘れ、ともかくこいつをどうすればいいのかと真面目に考え始めた。やはり獣配士はぶつぶつと独り言を言っており、ラニアたちは揃って顔を見合わせた。
「姉さん、あれってさ……」
「あたしに聞かないでよ、こっちだってワケ分かんないんだから」
「なんなの、アレ?」と逆にカイズらに訊ねてみるが、答えは返ってこない。先ほどまで苦戦していたのがバカみたいだと思うほど、人が変わっているのだ。
「……とにかく、イチカを呼んできた方が良いわね。どこにいるのか見当も付かないけど」
「それじゃあ、オレら捜してきます」
「頼んだわ。……あ、それからミリタムを安全な場所に。今はあれだけど、今度いつさっきのに戻るか分かったもんじゃないから」
了解、と元気のいい声を出し、カイズは森の奥へ、ジラーはミリタムの元へそれぞれ駆けていった。突然展開が変わったため、随分と放置されていたミリタム。傷の深さと出血が気になるところだ。だがジラーに抱えられたミリタムに笑顔があるのを見て、ラニアはとりあえず一安心した。問題は、この寸劇が終わるまでにイチカが帰ってくるかどうかだ。再び視点を白兎らに移し、状況を見守る。隙を見て――と言ってもこの状況では見なくとも安全だろう――地面に転がっていた銃を拾い、小さくため息を吐く。今度いつ、こんな機会に恵まれるか分からない。そう思い照準を合わせてはみたが、今撃っても先刻のように獣に阻まれる可能性もある。返って危険を被るし、それならば撃つだけ無駄だ。
「……あれだけ隙だらけなのに、撃てないなんて酷だわ〜……」
心底残念そうな顔をして、ラニアは大きくため息を吐いたのだった。
その様子を、ラニア以上に残念そうに、かつ馬鹿馬鹿しそうに見つめる者がいた。
巫女の森から優に数万キロは離れているであろう。更に真北にあるその古びた古城は、やはり変わることなく不気味さを漂わせていた。中枢に位置する広間の壁は大きく削り取られ、プライバシーなどまるで無い状態だ。そこから腕組みをして遠くを――巫女の森を【
視て】いたクラスタシアは、特に驚くわけでもなく、真顔でそれを黙認している。
「ほーら見なさい。アタシの予感、見事に的中したわ」
彼はこのように、人間の何百倍もの視力【千里眼】を持っている。普段は人間基準でいうAほどだが、必要に応じて変化させることも可能なのだ。
ふいに、両眼を手のひらで遮るような仕草をする。【千里眼】を使う必要が無くなった場合の解除の仕方である。察するに今彼は、「これ以上見ても無駄だ」と悟ったのだろう。
「まさか敵サンの中に、自分のだーい好きな獣人がいるとは思いもしなかったでしょーねぇ……。最悪、かなりかっこ悪い死に方するかもね」
あほらし、と巫女の森のある方角を一瞥し、指を馴らしながらクラスタシアは奥へと消えていった。見ようによっては仲間が危機だというのに、彼らには助け船を出す気はさらさら無い。ヴァーストは「おれが行く」と言ってこの古城をあとにした。それはつまり、ヴァーストの覚悟であり、決意なのだ。誰の力も借りず、自分だけの力で戦う。そんな彼の決意を無駄にしてはならないと、黙認の上で敢えて突き放す。いわゆる『放任主義』なのである。
若い木々は風の力を借りて、己の身体を揺さぶる。最早伝説となる程その存在を知らしめた巫女は、今はこの場にいない。老木たちも、『それ』を見て見ぬふりをしている。神聖なる森が汚されているというのに、何の反応も示そうとしない。
【このままではいかぬのだ。なんとしてもこの禍々しい邪気を消し去り、再び森に生気を呼び戻さねば……】
若い木々は必死だった。無論困惑の意味もある。己にとっては先輩にあたる老木が、世界を救った巫女が、何故見過ごすのか。困惑しないはずなどない。だから、だからこそ――
【この娘……起こさねばならぬ……】
動かぬなら、動かすまでだ。
木々がそう念じたとき、草地に寝転がる少女が僅かに身じろいだ。木々の声に反応したかのように、その念に応じるかのように。
「ん……」
碧はゆっくりと眼を開けた。視界いっぱいに広がったのは、数時間前と何ら変わらぬ森。空気も、風景も、春のような暖かさも。全てに変化が無くて、逆に気味が悪い。碧はまだ夢見心地で、上体を起こした。
「えと……たしか、ヤレンに技を教えられて……」
断片的に、ほんの数分の出来事が記憶から削り取られていた。寝起きの思考回路が強制的に働かされ、それでも徐々に記憶を取り戻しつつある。その回路に、木々は無理矢理忍び込んだ。全ての思考を無視し、その『声』だけを聞き取れるように。
碧の脳内が真っ白に染まる。元々あった記憶が全て塗り替えられ、何もかもが消えてゆく。
【……く……て……】
彼女の脳に響いたのは、今まで聞いたことのない声。単語は言葉となり、ひとつの文章に組み替えられてゆく。声は、たしかにこう告げた。
【魔族が聖域入り口付近にて、人間と交戦している……】
ただ、それだけ。事実をはっきりと告げただけで、人間は感情を表す。なんと羨ましいことか。そして――なんと、浅はかなことか。
木々は、碧の思考回路から離れた。伝えるべき事はそれだけだ。他の何でもない。
再び碧の脳に記憶が舞い戻る。無くしたジグソーパズルを順に当てはめていくように、ゆっくりと、確実に。
『マゾクガセイイキイリグチフキンニテ、ニンゲントコウセンシテイル』
(魔族……聖域……人間……)
碧の脳裏に、次々と浮かび上がる人々の顔。自分を見ては執拗に殺そうとした女。四百年前この森を治めていた巫女と、今この森を治めている巫女。そして、感情を表に出さない少年と、入り口で待っている五人の仲間の顔。それらが彼女の脳を支配し、碧を走り出させた。少しでも早く、前へ。
『彼』は、確実にその気配を辿っていた。
柔らかな日差しが注がれるこの聖域『巫女の森』。聖域故に、魔族は森に入る前に消え失せてしまう。少なくとも彼の愛読していた文献には、そう記されていた。
(その聖域で、何故魔族の気配がする?)
彼は神経を研ぎ澄ます。突き刺さるように肌に触る邪気が、心地よい空気に包まれた聖気の間に割り込んでいる。相反する気配のはずなのに、巧く調和されているようにさえ感じられた。
ここには二人の巫女がいる。うち一人は霊体に等しいが、どちらも極限まで極めた巫女である事は確かだ。余程の魔族でない限り、消滅させることなど容易いだろう。先ほどまで会話していたあの巫女とて、とっくの昔にあの邪気に気づいていたはずだ。なのに何故、何の反応も示さなかったのだろうか。
いずれにしても、イチカが取るべき行動は一つだった。
魔族を、斬る。
これ以上寄せれば、それは間違いなく永久に残るだろう。
そうラニアが思うほど、白兎の眉間の皺はこれ以上ないくらい逆ハの字になっていた。更に言うなら、こめかみの辺りも随分と長いこと
痙攣している。放っておいたらそろそろ危ないのではないか。
未だに妄想を並び立てている獣配士は、もう周りなど見えていないようだった。ラニアとて、今まで何度もトリガーを引こうとした。数え切れないほど照準を合わせた。だがやはり、撃つことは躊躇われた。今一番あの魔族をど突き倒したいのは、自分ではなく白兎なのだから。
そろそろ限界であろう。白兎の拳が、震えながら持ち上げられた。既に溢れかえるほどの闘気が森に充満しているのに、相も変わらず明後日の方向に向かって獣人の何たるかを延々と語っている。
「そろそろトドメ刺してやるぜ……!」
ばきばきと指を馴らしながら、殺気を高めてゆく白兎。腹の底から押し出すような声を出し、彼女はいよいよ行動に移した。難儀なことではない。文字通り、殴ってやろうとしたのだ。
ひゅ、と風を切る音がした。僅かに遅れて、鈍い音。
「な……!」
だが渾身を込めた一撃は、獣配士そのものには届いていなかった。否、確実に届いて、白兎は手応えを感じた。確かに当たったと思ったのだ。
違和感を覚えたのはその直後だった。一撃を加えた後頭部の辺りが、霧がかかったように霞む。最初はぼやけて見えた『それ』は、数秒の後にははっきりとその姿を捉えることが出来た。力の加わった拳の先には、この世界にいる何に例えても例え切れぬ異形の魔物。それとも――白兎の一撃で、異形と化してしまったのだろうか。どちらにしても、獣配士は無傷のままで、彼はまた、彼の従えた獣によって護られていたのだ。
それでも、拳圧によって風くらいは感じられたのだろう。獣配士が、思い出したように振り向いた。
「そうだな……。それが一番良い」
慌てて拳を引っ込める白兎。そんな事はお構いなしなのか、ぽつりと気が抜けたように呟いて彼はすっと右手を差しだした。引っ込めたと同時に差し出された魔族の右手を見て、白兎はあからさまに困惑した表情を浮かべる。
なんだ、この手は。何の意味がある? 何をしようとしている?
呆けた眼差しでそれを見つめる白兎に、獣配士は魔族らしからぬ微笑みを彼女に向けた。
「獣人よ、我が
僕になれ。このまま人間共とあてのない旅を続けるより、おれの元に居た方が楽な暮らしが出来るぞ」
それを聞いて、白兎は更に困惑した。
何故、何のために、誘う? それ以前に、この手はなんだ?
問いかけても、わけが分からなかった。この男は何が目的なのか、何をしたいのか、何を望んでいるのか。全てが謎に包まれていて、心に問うだけでは答えが見つからない。だが明らかに目の前の男は自分に向かって微笑んでいて、せりふはこの手のひらと同じ意味を持つのだろう。それはつまり――魔族への転生。
なんだ、そういうことか。
答えがあっさりしすぎていて、毒気を抜かれた気分だった。こんなに分かりやすくて簡単なことに、何を悩んでいたのだろう。白兎は無性に馬鹿馬鹿しく感じて、笑い飛ばしたい衝動に駆られた。何故人間などに同行しているのだろう。この世で最も忌むべきこの存在の為に、何故命を張る必要があるのだろう。人間は両親を殺し、同胞を殺した許し難い生き物だ。むしろ魔族は仲間ではないか。……
考えを固めると、不思議と抵抗は無かった。本当に、馬鹿馬鹿しい。今この場で魔族に従ってしまえば、邪魔な人間はすぐにいなくなる。
同胞の、仇を取れる。
白兎はおもむろに手を差しだした。操られているわけではない、ほぼ自然な動作だった。それは、白兎が彼らの仲間になるという決意を表していた。
ラニアはそれを悟った。悟ったからこそ、止めなければならないと思った。今はそれでいいかもしれない。だがこの世に人間が居なくなって、そのあとは。そのあと、彼女の存在理由はあるのだろうか。
――否、ない。
あるとしても、それは愛玩人形としてだろう。それすら終えてしまえば、残るのは死。それだけだ。今のまま生きても、彼女に有意義な事は何もないかもしれない。だが、道を誤ってしまえば、今よりも過酷で残酷な人生の終わり方をするに違いない。だから。
「駄目、白兎!!」
ラニアは声を張り上げて叫んだ。早く、それに気づいて。誤らないで。その意味を込めて。
しかし、白兎は耳も動かさなかった。兎族である彼女の器官で、最も優れているのは聴覚なのに。最早声も、届かないのだろうか。
白兎の代わりに獣配士が反応した。但し口元には、うっすらと冷笑を浮かべていたが。
「貴様に、この娘を止める資格があるか?」
言われてはっとするラニア。確かに自分は人間で、白兎は獣人だ。人間は兎族の事情など分からないし、兎族も人間の事情には乏しい。それは、十分に分かり切っている。それでも止めなければならないのだ。
止めることを決めたのに、唇が開かない。
「無いだろう? 獣人は人間を忌み嫌う。過去も、現在も、これからも。この娘もその一人。今は若いばかりに、気まぐれにお前達人間の側についているだけ……」
幼い子供のように手を差しだしている白兎の頬を撫でながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべて言う獣配士。あれほど気味悪がっていたのに、白兎は何も言わず、何もしない。完全に捕らわれるまで、もう秒読み状態なのだろう。
「……はく……と……!」
ミリタムが小さく、しかし力強く呼びかけた。側にいたジラーでさえ聞き取るのが困難な程微弱な声。
『ダメだよ』
その言葉は、声になる前に喉の奥で掻き消えた。もう、届かない。あの毒舌を二度と聞けなくなる前に、これだけは伝えておきたいのに。声にならぬ声が届いたのか、それとも無意識にか、白兎の耳が僅かに揺れたような気がした。
「ぐ……っ?!」
瞬間、獣配士が声をあげた。余裕の笑みを浮かべていたその表情はたちまち苦渋のそれへと変化し、赤黒い血を吐いた。喉を押さえ荒い呼吸をし、それでも吐血は続いた。ごぼ、と泡のような血液が、大量に彼の口から流れ出る。何が彼をそうさせたのだろうか。問う間もなく、ラニアは獣配士の後ろに立つ銀色の影を認めた。
「師匠!」
ジラーが叫ぶ。イチカは無表情のまま、ヴァーストを眺めていた。手には己の剣の柄を握りしめ、その切っ先には獣配士の物であろう血がこびり付いている。
姿勢を保てなくなってきたのか、ヴァーストは膝から崩れ落ちた。ぜえぜえと老い先短い老人のような息をしながら、彼は首だけをイチカに向ける。
「くっ……! イチカ……何故……気づいた……!?」
彼の口調からして、イチカが現れることは想定の範囲外だったのだろう。何らかの方法でこの聖域に入り込み、かつイチカに気づかれぬよう万全に対策をして事に及んだのだ。彼の計画は成功したかに思えた。だが突然彼の弱点とも呼べる『獣人』が現れ、自分の従えた黒龍が敗れた。若干予定が狂ったものの、獣人を巧く丸め込み、事態は再び急転し、好結果になっていたのだ。あとは死に損ないの人間や碧さえ殺せば全て終わるはずだった。
――イチカさえ現れなければ。
「さあな。敢えて言うなら、聖域だからか」
「な……」
“聖域だから”。それが何の理由になっていると言うのだ。聖域ならば尚更、この気配は聖気に紛れ込み、捜すのも困難であっただろうに。だがヴァーストが、胸の内にある疑問を訊ねるよりも早く『彼女』は来た。
先刻まで邪気で溢れかえっていたこの場所に、光のような聖気が降り注いだ。それは一瞬で禍々しい空気を取り払い、周囲を暗黒から明瞭な世界に塗り替えた。
――バカな。
この気配の持ち主が、ここに居るはずがない。あれなら、とうの昔に『裏切り者』と共に大樹へと封印したというのに。否、それはいい。意識として存在しているのは知っている。だが所詮は意識の身。別世界から人間を召還できても、この世界に深く干渉することはできないはずなのだ。だが明らかにこの気配は、あの巫女の――……
「【
神の怒り】!」
全てを考え尽くし、結論に至ろうとしていたヴァーストを、大いなる神の怒りが襲う。バカな、バカなと繰り返しながら、彼の身体は焼き払われた。
最強神術【神の怒り】を放った碧は、余程全速力で走ってきたのだろう。唱えた直後に座り込み、神術を扱えたことが不思議なくらいだ、という表情をしていた。
碧の姿を認め、ラニアは緩く微笑んだ。正直、俄には信じがたいことではあった。修行は少しばかり長引くものだと、すぐには現れないだろうと、そう思っていた。だが現に、碧やイチカまでもがこうして助けに来てくれた。諦めかけていた自分がどうしようもなく恥ずかしく思えて、はにかむように笑う。
「アオイ! その技は……!」
「うん、ヤレンに教えてもらったの」
にっこりと微笑む碧。
あれだけ高度な神術を、こんな短時間で。
何というのだろう、彼女のような人間を。生まれ変わりだとは言え、前世を生きた人間と彼女は全く別の、赤の他人だ。血の繋がりすらない。頭の回転が速いのだろうか、それとも――『天才』とでも言うのか。
本当に、凄い子ね。
ラニアは素直に感心した。無理矢理と言っても良いほど唐突にこの世界に連れてこられて、逆境に戸惑うこともなく、こうして短期間で打ち解けてしまっている。恐らく、『天才』どころではないのだろう。きっと――とても、いろんな意味で強いんだわ。
何故だか、そんな気がした。
「……ミリタム!?」
イチカを捜しに行っていたカイズと合流し、ジラーと三人で話していた碧だが、木陰に座っている血だらけのミリタムを見てあからさまに血相を変えた。慌てすぎたのか
蹴躓いて転びそうになっていたが、その勢いで彼の顔をのぞき込む。
「だ、大丈夫?! 凄い血……!!」
「さっきの……魔族にやられてね……そんなに大した怪我じゃ……な……」
碧に微笑みかけていたミリタムだが、突然言葉を無くす。今まで無理をしていたのか、ほとんど息のない、窮めて危険な状態に陥っていた。出血が多すぎたのだろう。顔面蒼白で、彼に触れていた碧は体温の降下を著しく感じていた。
「ミリタム……!!」
咄嗟に手をかざす碧。神術を教わったとは言え本物の巫女というわけではない彼女が、治療系の神術を知るはずがない。それは彼女自身も承知していることだ。だがどんどん死に近づいていく仲間を見捨てられるほど、碧は残忍な性格の持ち主ではない。やり方など知らない。けれど、黙って見過ごしてたまるものか。
必死で、しかし形だけの手に、別の誰かの手のひらが触れた。
「サトナ、さん……」
最早どうして良いのか分からず、涙目で手のひらの主を見つめる碧。そこにはまさしく聖域に存在しているのが
相応しいほど、柔らかく微笑む聖女がいた。
「お気持ちは分かりますが、貴女はまだ、治療系神術の術を知りません。私が致しましょう」
サトナはそう言うと、手のひらを二重に重ね合わせ、その中に結界を作った。目映い光が辺りを覆い、森を金色に染めてゆく。それは刹那の出来事で、余りの眩しさに眼を瞑っていた碧が眼を開けたときには、ミリタムの傷は全て塞がっていた。あれだけ消えかかっていた息も一定になり、体温も少しずつではあるが上昇している。
「これで大丈夫。ですが、暫くは安静にしておられた方が良いでしょう。……白兎さん」
正気に戻り、複雑な表情でミリタムを見つめていた白兎に声を掛ける。彼女はびくっと肩を震わせたが、サトナの変わらぬ笑みを見て少し緊張が解れたようだ。
「貴女が、付いていてあげてください。私からのお願いです」
白兎は一瞬ばつの悪そうな顔をしたが、無言で頷いた。
瞬間とも言える速さで回復したミリタムの無事に胸を撫で下ろす仲間をよそに、イチカは悪すぎる――しかし絶妙なタイミングで姿を現したサトナに疑問を抱いていた。
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