第三章第三話 油断
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この世が誤った道を選んでいたとしたら、それはいつからなのだろうか。
「
解せませんか」
先頭を歩いていたサトナが口を開く。彼女がついてこいと言ってから数十分、今まで誰も口を開かなかったので、碧は弾かれたように顔を上げた。目の前には、サトナの腰まで届く漆黒のおさげが広がるだけである。
“解せませんか”
それがどちらに向けられた言葉なのか分からず、碧は再び俯く。碧自身、解せない点は幾つかあった。だがあえてそれを言う気にはなれなかった。言ったところで、サトナが素直に答えてくれるとはどうしても思えなかったのだ。
「……解せないな」
答えたのは、イチカだった。
「技を教わりに来たのはこいつだ。何故おれまで救いの巫女に会わなきゃならない?」
彼の言葉は、碧の『解せない』部分だった。碧はヤレンの生まれ変わりだということで、当然のように巫女の力があると言われ今に至る。だがイチカは断じて巫女などではなく、ましてや女ではなく男。彼が招かれる理由など無いはずなのだ。
サトナはやはり振り向かず、前を見据えたまま言った。
「ヤレン様は、異世界から来たあなた方とお話がしたいとおっしゃっています」
『!』
異世界――つまり、日本。こちらの世界から見れば、日本も立派な異世界なのである。
碧は反射的にイチカを見た。いつもと変わらない、だがどこか哀しみ、怒りを帯びた表情。彼自身は気づいていないのだろうが、彼から放たれる気もやはり悲哀を漂わせていた。直視できない。酷く居たたまれなくなって、碧は目を逸らした。初めてだった。こんなに悲しそうなイチカの顔を見るのは。
「…………」
それっきり、イチカは黙り込んでしまう。辛うじて届くくらい小さく舌打ちをしたのが聞こえた。両手を強く握りしめ、視線を感じたのかそっぽを向く。
――どうして。
どうして、違うのだろう。同じ人間なのに、どうしてこんなにも違ってしまうのだろう。皆が持っているはずのものが、彼にないなんて。
不公平だ、と思う。容姿はともかくとして、『感情』があるのは皆同じはずだ。きっとイチカだって、暴力や虐待を受けなければ普通に育っていただろう。普通に笑って、普通に泣いて――
(きっと、普通に話し合えた)
もどかしい。すぐ側にいる同じ『人』との間にある境界線。決して越えようのない、越えられない境目。踏み越えられたなら、こんなに苦しい思いをせずに済んだのに。
「イ、」
碧は声を掛けようとして、止めた。名を呼んで、その後に何を話そうというのか。呼んでも、彼は振り向かない。励ましても、彼は答えない。その先にあるのは、完全なる虚無感だけだ。
「もうすぐ、ヤレン様がいらっしゃる場所に着きます」
サトナの声で、碧ははっと我に返る。今、自分が考えるべきことはそれではない。軽く首を振り、前方をしっかりと見つめた。
――そこには、天高くそびえる一本の大樹があった。
大の大人が数十人で抱えても抱えきれないほどの円周を持つその大樹は、周りの木々とは違う色相をもっており、樹齢の長さを感じさせる。おそらく、レイリーンライセルの聖域にあった樹よりも高齢だろう。そして何よりも目を引くのは、根本から最高部までが一直線に伸びていないということ。
「この木の名前は『アスラント』……別名『この世の果て』。この世界では最も大きな樹です。お分かりかと思いますが、この世界の名はこの樹から取ったものです。ちょうどこの世界が創られたときからこれは生きています。天変地異だとか突然変異だとか原因は定かではありませんが、ご覧になって分かるように『この世の果て』は傾いているのです」
そう。大樹――アスラントはその名の通り大きく傾いているのだ。さる人物がこれを一見し、「これはこの世の果てを示している」と断言したことから、この別名もつけられたのだと言う。不格好なほど傾いた『この世の果て』は、しかし誇らしげに胸を張っていた。
ふいに、サトナが顔を上げた。普段よりも真剣な眼差しを天に向け、さながら神の声を聞いているようだった。
「……それでは、
私はこれで失礼致します」
碧とイチカに深く礼をし、足早に去っていくサトナ。不審そうにその後ろ姿を眺めていたふたりだが、イチカの方が先に大樹を振り返り――
大樹の前に人影が現れたのは、そのすぐあとだった。
イチカが剣の柄に手をかける。大樹の前に立つ影はか細く、霧もかかっていないというのにその姿はおぼろげであった。
「早まるな。私は魔族ではない」
「あ……?!」
静かに落ち着いた口調で、影はイチカに向けて言った。同じくらい静まりかえっていた森は、影を讃えるようにざわめき始める。未だに柄に手を掛けたまま静止しているイチカの隣で、碧は目を見開いていた。
碧はその声に聞き覚えがあったのだ。それは脳に響く、碧しか知らない声。未来を知り、それを
仄めかすような言動をする人物――。
「ヤレン……!?」
『暇だー』
「暇だねー」
「暇よねー」
こちらは三部合唱するほど暇なようである。巫女の森とはいえ、巫女はサトナ一人。話し相手もいなければ、施設もない。暇なことこの上ない。
することもない四人は文字通りぼーっとしていたが、ふいにミリタムがラニアに訊ねた。
「――あれ、白兎は?」
「聞かなくていいの! 女の子には色々な事情があるんだから!」
要するにトイレに行ったのだが、事情が分からないミリタムは首を傾げた。だがこれ以上ラニアに訊ねても答えてくれない気がしたので、再び空を仰ぐ。
「ふーん……まあいいけど」
ミリタムは眼を閉じる。聖域と言えども安心は出来ないのだろう。白兎の件で使っていた探知魔法を使っているようだ。
「……今のところ、魔族はいないみたいだよ」
ふぅ、と息をつきながらミリタムが言うと、仲良し二人組が揃って目を輝かせた。
「魔法ってすげーよなー! 何でもできるだろっ?」
一瞬目を丸くするミリタム。だが再び眼を閉じ、探知を始めた。興味深そうに彼を見つめるふたつの視線に気づいたのか、ミリタムは意識を魔法に集中しながら答えた。
「何でも、って事はないよ。それにメリットがある分、デメリットもあるしね」
「デメリット?」
ジラーが訊ねる。ラニアもいつの間にか、その話に耳を傾けていた。
「うん。魔法は『楽して何でも』ってイメージがあるみたいだけど、それは大きな誤解。術者は常に平常心を保ってなきゃいけないし、結構体力も消耗する。決して楽な職業じゃないんだよ」
「へぇ〜……」
肩をすくめて言うミリタムの言葉に、三人がそろって感嘆する。
「じゃあさ、平常心を崩せば魔法はほぼ使えねえ、って事か?」
「……そうだけど?」
怪訝そうな表情で三人に答えを返すミリタム。一方のそれを聞いた三人は一斉に集まり、良からぬ意見を並び立てていた。
「真面目そうに見えて白兎の事好きみたいだし、事故ででもキスとかさせちゃったら?」
「抱きつかれただけでも崩れそーだぜ?」
「意外と
初な感じするよなー」
ミリタムの眉が僅かに動いた事にも気づかず、次から次へと妄想をし始めるラニアたち。しかしやはり平常心は保てているらしく、ミリタムは至って平然としたまま言った。
「……言い忘れてたけど、『探知』は気配の他に動きとか声だとかも探れるんだ。悪いけど全部聞こえてるからね」
盛り上がっていた三人の顔色が一気に悪くなり、その場に重苦しい空気が流れた。ミリタムは何をするわけでもなく、ただ切り株に座って『探知』を続けている。だが何時それが、殺気に変わるとも限らない。
「……や、やあねえ! ジョーダンに決まってるじゃない!」
「そ、そーそー! 本気にすんなよ!」
ミリタムは眼を開けて軽く一瞥したあと、「別にいいよ」と冷めた口調で言うのだった。
「……それにしても、白兎遅いわね。もうそろそろ帰ってきても――」
言いかけたラニアが何かに吹っ飛ばされたのは、その直後だった。否、その場にいた全員が何らかの力によってはじき飛ばされたのだ。
「……っ……!!」
「『結界女』と『裏切り者』は離れているか……これは好都合だ」
神聖であるはずの森に満ちた
瘴気と、どこからともなく響いた声。淡い緑のローブ、両頬に古傷、尖った耳。
――獣配士ヴァーストは、新しい玩具でも見つけた子供のような口調でラニアらを見下ろした。
「ヤレン、だと……?!」
イチカは目の前にいる人影に目を移す。焦げ茶色の髪は腰まで伸びており、日本の巫女より何倍も派手やかな服。そして瞳は、ほぼ漆黒。彼の隣にいる少女とうり二つである。イチカは数度彼女らを見比べた後、柄から手を離した。
「……なるほどな。たしかに生まれ変わりだと言ってもおかしくはない」
表情の読めないイチカとは対照的に、碧は驚きを露わにしていた。目の前に鏡でも現れたのかと思うほど、その人影は自分に似ていた。
「教えてもらおうか。あんたとは全く関係ないはずのおれまで呼んだ理由を」
「……お前がイチカか。なるほど、よく似ている」
ヤレンは、イチカの問いには答えずそう言った。イチカは当然ムッとするが、口や表情には出さない。ヤレンは小さく微笑むと、複雑な表情をして立っている碧とイチカに目を向けた。
「全く関係がないわけじゃない。まぁ今のお前たちに話しても無駄だろうから言わないが」
――“今のお前たち”?
碧もイチカも、この言葉には首を傾げた。ならば未来になれば話すのかと。
ヤレンは暫くふたりを見つめた後、未だに驚愕している碧に目を遣る。
「それより……お前に教えたい技があると言ったな、アオイ?」
「え? あ、はぁ」
小さく笑いかけてくるヤレンに、碧は曖昧な返事をする。
「関係についてはまた後日話すとしよう。今はアオイの強化が最優先だ」
ヤレンが今度はイチカに向き、そう言った。イチカは渋々頷く。
「さて……アオイ、覚悟は出来ているか?」
「そんな大袈裟な……」
ことじゃないでしょ、と続けようとした碧は、はっと息を呑む。先ほど笑いかけてきた表情は消え、真剣な眼差しが碧を見つめていた。ふざけた気分でここにいる事は許されないと、彼女の眼や気、背景の森でさえもが碧に訴えているようだった。碧は
躊躇いがちに、小さく頷く。
「いい覚悟だ。こちらへこい。……イチカ、帰るなよ」
「……ああ」
帰ろうとしていたのか立ち上がるものの、ヤレンに釘を差され切り株に座り込むイチカ。碧はそんなイチカをちらりと振り返り、ヤレンのあとについていく。
「……不思議なものだ」
「何が?」
歩きながら言うヤレンに訊ねる碧。
「こうして、自分の生まれ変わりといることがだ。四百年前に身体を失ってからと言うもの、生身の人間と話をしたのはサトナくらいだからな」
自嘲しているようにも聞こえる言葉に、碧は耳を疑う。
「“身体を失った”? あたしはあなたが失踪したと聞いたけど……」
「失踪、か。たしかにそう取られてもおかしくはない。おそらくその直後だろうが、私たちは魔族に殺されたよ」
「私たち……?」
碧の言葉には答えず、ヤレンは大樹『この世の果て』を通り過ぎたところで歩みを止める。そこでやっと碧に振り向き、両手を胸の前で重ね合わせた。
「それでは、今からお前に伝授する。巫女が必ず修得せねばならない神術の一つ、【
神の怒り】を」
「ビッグ……バン……」
「お前たちの住む地球では『宇宙の始めに起こった大爆発』という意味らしいが、こちらでは神の怒りと訳す。魔法でいう光魔法のようなものだが、威力はその倍だと思っても良い」
光魔法と聞いて、碧はミリタムの魔法【
光刃】を思い出していた。断末魔さえあげる隙を与えなかったあの魔法よりも、威力が上がるというのだ。
「サトナから教えさせても良かったが、彼女はまだ生きている。意識の私から伝授する方が、生身ではない分負担がかからない」
ヤレンが言うと同時に、彼女のゆっくりと広げられた両手から、光が溢れ出る。それは昼間の太陽よりも眩しく、碧はまともにヤレンを直視できなかった。
(すごく眩しい……! これがヤレンの、ううん、巫女の力……?!)
驚愕する碧の目の前に、ヤレンの手のひらが向けられる。その手のひらから碧へと、光が渡っていく。文字通り、伝授しているのだ。
碧に集束した光は柱となり、天高く伸び続けた。
「あんた……魔族?!」
ラニアが身を起こしながら十メートルほど前に立つ人影に訊ねた。他の仲間も、遅速ではあるが身を起こし始めている。ヴァーストは僅かに眼を細め、淡々と語り始めた。
「我が名はヴァースト。用があるのは『結界女』と『裏切り者』だけだが、まずは貴様らから始末させてもらおうと思ってな」
「いいの、そんなに喋って?」
挑発的な口調で訊ねたのは、ミリタムだ。ヴァーストがそちらに目をやる。
魔族の脅威ともなり得る魔法士は、大抵の者が腕・腰・首のいずれかに魔法士の紋章を施したワッペンを着用している。地面に手をつく腕にそれはないし、こちらをじっと見据える顔の下方にもそれは無い。だが――濃紺のローブの隙間から見える腰に、魔法士の証である六旁星のワッペンが見えた。
(……これが魔法士か)
「構わんさ。貴様らを殺した後ならば、話すも話さないも同じ事!」
言い終わる前に、彼の異様な瘴気が発せられる。それに反応した四人は即座に四方に跳び、ヴァーストと距離を取る。同時に、静まりかえった森に銃声が響き渡った。
「……ほぉ……」
ヴァーストが感嘆の声を漏らす。
「魔法士以外は雑魚だと思っていたが、間違いだったか」
ラニアを――正確には彼女の銃を見ながら言うヴァースト。ラニアは瘴気から避けると同時に、獣配士のこめかみを撃ち抜いたのだ。人間ならば致命傷になるほどの出血だが、ヴァーストは気に留めた様子もない。
「姉さんの銃弾を受けてもぴんぴんしてる……?!」
カイズが信じられない、と言いたげな眼差しをヴァーストに送る。
「銃弾を食らったのはおれではない。こいつだ」
言いながら、ヴァーストは己の顔をその長い爪で抉り取る。否、顔に張り付いていた何かを。
「――!!」
四人が皆、目を見張った。ヴァーストの指に絡みつき、無造作に地面に投げつけられたもの。それは、額の辺りから大量に出血し、もはやピクリとも動かない
蜥蜴のような生き物。
驚愕して声も出ないミリタムらに、ヴァーストは僅かに口の端をつり上げた。
「魔星の生物は皆おれに従う。おれは獣配士、獣を操るもの」
言って、自らが纏うローブに手をかける。皆が息を呑んだ。はだけた胸から腹にかけて、黒い龍が縦断していた。
「ダークネス……ドラグーン……」
ミリタムがゆっくりと、その言葉を紡ぐ。それは、禁忌の言葉。少なくとも、人間界に住まう彼らが口にして良い名ではない。
『
暗黒を招くもの』――魔王とその直属の部下を除き、魔星に住まう全ての生物の上に君臨するほどの力を持つ黒龍。
獣配士と言うものの存在は知っていた。己の持てる力を代償に獣と名の付くものは全て従える、ある意味では
博打のような称号だ。自らの命を危険に
晒す代わりに、従えてしまえば圧倒的に有利な位置に立てる。強力な獣ほど、その位は高くなる。
「ほお、人間でも知っていたか。その存在を」
「まぁ、ね」
(これは、勝算ないかもね……)
ミリタムは内心歯がみしていた。魔星でもトップクラスの龍を従えたこの男に勝つ方法など、はたして――
「!!」
突如、彼の思考が中断させられる。それもそのはず、黒龍が大口を開けて、ミリタムに向かってきたのだから。咄嗟に右手をかざす。
「其は強固なる石壁・我を守りし盾となれ!」
ミリタムが唱えたのと、龍が彼に食らいつこうとしたのは全く同時であった。幸いにも黒龍の牙は彼に当たることはなく、目の前に現れた防御型魔法【
石壁】に食らいついている。
「くっ……!!」
――
圧されている。
ミリタムの前に現れた姿なき壁は、辛くも龍の攻撃を阻止した。だが彼の手は圧力で震えている。空いている左手で押さえなければならないほど、震えは強くなっていく。全身から汗が噴き出す。
彼が唱えた魔法は比較的高位のものだが、それすらも、ヴァーストが放った黒龍に掻き消されようとしている。最早【石壁】は――否、術者の精神力は限界に達していた。
「……っ!!」
盾は音もなく壊れ、黒龍はこの時を待っていたと言わんばかりにミリタムに喰らいついた。
「ミリタム……っ!!」
黒龍に仲間の姿を遮られ、はっと気がついたラニアは咄嗟にヴァーストへと向かっていく。
――魔族を止めなければ。ミリタムが殺されてしまう。
何も考えず、ほぼ無心で獣配士を攻撃する。敵わない事は分かっていた。だが何もしないよりは。殺されるのを黙って見つめているよりは。
しかし発砲した直後に獣配士の姿は消え、突然目の前に現れたヴァーストに驚く暇も無くラニアは蹴り飛ばされた。それを見たカイズやジラーも策無しに相手に飛び込んでいくが、攻撃をする前に
瘴波ではじき飛ばされてしまう。
ヴァーストは三人に眼もくれず、黒龍に目線を移した。久しぶりに放ったせいか、黒龍は生肉の感触をしっかりと味わっているようだった。真に獣を従えた者しか分からない、黒龍の感情。
「
悦んでいるようだな……『闇黒を招く者』よ」
自らが放った黒龍に喰われゆくミリタムを見て、ヴァーストは嘲笑するのだった。
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