第四章第八話  王国裁判前日

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 重いものか。軽いものか。
『掟』の定義は複雑である。定められた決まりに従わなければならない、すなわち絶対服従という言い方が正しい。だが『掟破り』という言葉があるくらいだから、それほど固いものではないと考えることも出来るのではないか。
 ただ――破れば言い表しようのない罪悪感がいつまでも胸中に残り、悔やんでも悔やみきれない後悔に(さいな)まれるのが普通である。『掟』というものは自己満足でいくらでも守り通せる。その内容に納得がいくいかないは別だが。
(あいつらは納得がいかなかったんだろーけども)
 重いものか。軽いものか。
 気持ちとは裏腹な、明るい橙色の髪を持った青年は迷っていた。『あいつら』のことではなく『掟』について。
 あいつら、つまり五年ほど前まで青年の弟子であり弟のような存在だった少年ら。彼らは所属する――と言っても、強制的にだが――暗殺集団の『掟』に背き、兄貴分である青年を敵に回してまで脱走した。それまで否定の意思など全くと言っていいほど示さなかった彼らが、ある日突然、脱団を試みたのだ。それほど少年らの意思は、『掟』よりも絶対的上位に位置していたのだろう。彼らの信念は揺るぎない炎のように、消えることを知らなかった。
 つまり掟などというものは、破り捨ててもなんら問題のない上辺だけの決まりなのか?
 今までただそれだけを信じて、実行してきた自分たちがおかしいのか?
 一般的に考えれば、彼らの行為は犯罪にも等しい。依頼主から団長へ、団長から団員へ引き継がれる取引。成功すれば報酬がもらえ、任務と言えば聞こえはいいが、実際は「気にくわないから殺せ」という依頼主の殺意である。自分ではできないから、腕の立つ彼ら、すなわち暗殺者を雇って暗殺を実行する。それは明らかに、ただ都合の良いように使われている集団だ。だが不思議なことに、それを不服と感じた団員は皆目いなかった。少年らのように、無理矢理親元から引き離された子供もいれば、親に捨てられ行く当てのなかった子供もいる。後者にとってはそれ以上の至福はないほど、団での生活は何不自由ないものだ。青年もその一人だ。親に捨てられた子供は親のようにはなるまいと、再び捨てられないようにするためなら何でもすると、抵抗なくその集団に入る。前者の子供にはその世代が喜びそうな装飾具――催眠効果のあるバッジを付けさせれば、どんな非情な行いであろうと無関心になる。いわばガイラオ騎士団という暗殺集団は、存在そのものが一種の催眠なのである。
 掟は重大だ。少なくとも青年はそう信じて疑わなかった。破るくらいなら自らの命を絶つべきだと、真剣にそう考えたときもある。掟に勝るものなど、何もないのだと。
『依頼主及び団長の命は絶対』
 ただそれだけを、信じて。
 青年は顔を上げた。昔の古傷を強調するようにさらけ出された左腕は、冷え込んだ夜の空気に当てられて寒々しい。
――カイズ・グリーグ、ジラー・バイオスの両名を連れ戻せ。お前の技量なら、そう難しいことじゃあないだろう
――連れ帰ったらなんか報酬ありますかー?
――馬鹿者。これは依頼でなく任務だ。報酬が欲しいなら連れ帰ってきてから依頼を受けろ
――りょーかいりょーかい
「……何やってんだかなぁ、オレ……」
 掟は絶対に破らないと心に誓っていたのに、青年はその絶対を自ら無効にしてしまった。何故だろうか、あの二人を、彼の現在の兄貴分だという銀髪の少年を見ていると、自分がしようとしていること全てが(ゆる)されざる行為であると錯覚してしまう。否、きっと赦されざる行為だったのだろう。彼らは連れ戻してはいけない、あのままでいいのだ。
 逆にそれは、青年の首を絞めることにもなった。団長の命令は絶対。その絶対を自ら破った今、彼に団へ戻る資格はない。団に戻れないということは、帰る場所もない。現在の所持金はゼロ。まさに窮地に陥っていた彼の目の前に、それはそびえ立っていた。
 真紅の血液がそのまま建築物に塗りたくられている、という表現が一番合っているかもしれない。暗闇でもなお「真紅」と言い切れるその門は、鳥居と呼ばれるものだ。そして――真紅の門はこの世界でたった一つしかない。
「はぁーん……これが噂に聞く『巫女の森』か。どーりでさっきからピリピリするわけだ」
 この世界に幾つもある聖域の中で、この聖域ほど特殊な場所はないという。まずその地を治める巫女。指で数え切れないほど点在している聖域だが、ほとんどの巫女は老齢のため既に亡くなっているか、土地の所有権だけを持って責任を放置しているかだ。今現在、聖域と言えるのは『巫女の森』だけで、たった一人の少女がこの地を治めているという。かの英雄、ヤレン・ドラスト・ライハントが治めていたということもあり、真に心に汚れのない者だけが安堵を感じることが出来る、という噂はあるにはあったが――青年の口調からして、「清き心」の持ち主以外にはどうも不快なようである。もしくはこの地を治めているという少女が相当の聖女か。
「ま、鎧外せば誰か分かんねーだろ」
 青年は気楽そうに呟きながら、鳥居の内へと踏み入った。しかしその瞬間、
「っうッ!?」
 地面から(ほとばし)るような刺激。踏み込んだ足の裏から全身に回るそれは、さながら高圧の電流。たまらず地に倒れ伏す。それを見計らっていたように青年の目に映ったのは、紅白の衣装。
「今すぐ団から抜けると誓えば、その呪縛は解いてあげましょう。
 ――忌まわしきガイラオ騎士団員・ウオルク・ハイバーン」
 小鳥のさえずりのような声でありながら、視線が合った相手を図らずとも押し黙らせてしまいそうなその眼を細めて、少女――サトナ・フィリップは青年を見下ろした。

 緊迫している巫女の森での出来事から二日後。ここでもやはり、緊迫した空気が漂っていた。否、“緊迫した”という表現は適切ではないだろう。思い詰めたような、それ以上はないほど苦渋に満ちた表情を浮かべ、『彼ら』は仲間の顔を一通り見やった。その仲間たちは誰もが彼らを凝視し、何か一言あるなら「なぜ、どうして」という困惑を口にするだろう。色とりどりの瞳に宿る焦り。そしてそれは、やがて一つの言葉を生んだ。
「……それ……本当なの……?」
 生まれた言葉をラニアが代弁する。まるで彼らから発せられた言葉に疑いをかけるように、口元には小さく笑みを浮かべて。
 その質問に口を開こうともしない彼らを見て、彼女は再び言葉を探した。
「まだ、分からないのよ? 死罪とか長期間の懲役とか、ネオンがバックについてるんだから重刑には……」
「もう、決めたことなんだ」
 ラニアの言葉を遮り、彼ら――少年らの一人、ジラーが蚊の鳴くような声で呟いた。一瞬は和みかけた空気が、再度冷えこみ出す。
「死罪でも懲役何年でも関係ない。オレたちは、」
 普段の無邪気さは影に追いやり、感情のこもらない声でカイズがジラーの言葉に続けた。次に来る言葉はおそらく、先ほども彼らの口から出た言葉。事故とはいえ過ちを犯した彼らの、せめてのもの償い。
「兄貴やみんなから、この旅から、外れることにしたんだ」
 それから何時間が経ったか。カイズらはイチカが目を覚ましたという知らせを聞き、彼が休んでいる部屋の前へ来ていた。無論、その決断を師である彼に伝えるためだ。しかしやはりすぐには言い出せないのだろう、これといって意味もなく、扉の前でぐるぐると回っていた。
 静止、決意、行動、断念、徘徊。そんな堂々巡りに終止符を打つかのように、問題の扉が開いた。思わず身を固くする彼らの前に現れたのは、決意の旨を告げようとした相手ではなく、ここ数日欠かさず見舞いに来ていた焦げ茶色の髪の少女だった。少女――碧は二人の顔を交互に見やり、小さく苦笑する。
「イチカがね、用があるなら入れって。気配が消えてないから、ぐるぐる回ってるの分かるって」
 カイズもジラーもつられて苦笑したのは言うまでもない。碧は二人に向けていた視線をイチカがいる部屋に戻し、「あたしは出ていくから」と告げてラニアたちがいる部屋に向かう。彼女なりの気遣いなのだろう。それを理解した彼らは、今まで何をしていたのだろうと思い直す。何を恐れているのかも分からずに。
 扉は既に開かれた。中に見えるのは銀髪の、おびただしい量の包帯をその身に巻かれた少年。過去故の物悲しげな容貌は窓の外に向けられていたが、不意に二つの視線と銀色の視線とが交わった。逸らしたかったであろう。だが逸らしてはいけないと自縛していたから、二人は現実をしっかりと見据えた。そして一歩、また一歩と踏み出す。次第に縮まる距離を意識しながら、遠すぎず近すぎない距離で立ち止まった。この瞬間までイチカは、二人から一瞬たりとも視線を外さなかった。ただ、普段ならば全く見せることのない穏やかな表情で見守っていた。
 呼吸を整え、お互いの視線を合わせ、自分たちが決意したことその全てを伝える。そうした手はずだったのに、いざ本人を目の前にすると唇は開かず、声も出ない。開いても震えてばかりで、まともな発声もできそうにない。その様子を見かねたのかそうでないのか、イチカが小さく溜め息を吐いた。たったそれだけなのに――肩が、震えた。
「……怯えるな。おれは怒っていないし、お前たちを恨んでもいない。むしろ、感謝している」
 慎重に言葉を選んでいるような口調に、耳を、疑った。今の言葉は幻聴だったのか、それとも――
 無意識に、隣の相棒と視線を交わす。考えていることは同じようだった。互いの瞳が輝き出すのが目に見えて分かった。目の奥で、意識の奥で頷き合い、視線を戻す。
『幻聴なんかじゃない』
 拒絶されるのが、怖かった。裏切ったと(ののし)られると思うと堪えられなかった。信じてくれた人を裏切ろうとした自分が、怖かったんだ。
 再び銀色の双眸と視線が合った。人工的であるにもかかわらずその眼は、元からそうであったように自然な色を宿している。緩やかな目元だ。普段ならばそれこそあり得ないほど、優しい眼だ。そしてそれが、顔全体にも及んでいて。
「……うぁ、あ……兄貴……?! それ……あ、いや、なんていうかそれ……!」
「しっ、ししし師匠の顔が……ほころびて……!!」
「?!」
 ジラーの言葉に驚きを隠せないのか、反射的に手を頬に持っていくイチカ。いつもは強張っていた顔面の筋肉が、緩んでいた。
「し、師匠! 『笑ってる』んですよそれ!!」
「え、『笑顔』ってゆーんだぜ、それ!!」
 慌てふためき、しかし喜びを隠せないカイズとジラーの様子を見てまた筋肉が緩んだのか、「あーーー!!」と声を上げる二人。半信半疑だったが、二回もこうなったということは、やはり。
「おれは、笑って……いるのか……?」
 二人は顔を見合わせ、次にじっとイチカの顔を見つめ、言った。
「そうだよ! こんなこと言うの変かもしれねーけど、兄貴は今人間になったんだ!」
「師匠はようやく、感情を持てたんだ! 笑えるんだ! だからきっと、泣けるようになるんですよ!」
 笑うこと。泣くこと。怒ること。喜ぶこと――。その全てが『感情』に直結する。今笑えたのは何故なのだろうか。その理由は全く分からなかったけれど、ようやく呪縛から解き放たれた気がした。
「……ありがとう」
 感謝の言葉を口にしたことはあっただろうか。全く使い慣れない言葉だったが、響きはとても良い。自らの口から出たとは思えないほど、鮮明なお礼だった。初めて聞いたのだろう、カイズもジラーもイチカの言葉に目を丸くしている。イチカは目線を下げ、言葉を探しているようだ。
「うまく、言えないんだが……本当に、お前たちには感謝している。意識がなくてもおれを殺さなかったのは、自分で言うのも変な話だが――おれを信頼してくれていたから、なんだろう。それならおれは、仮にお前たち二人に殺されていたとしても恨まなかったと思う。自分の信用している弟分に殺されるのは、何というか、本望だからな」
 彼にしては落ち着きなく視線を動かして、夢でも見ているのではないかと二人は思う。だがそれらは、間違いなくイチカの口から出た感謝の言葉なのだ。心地よい低音の歌声を聞いているような感覚。出会って三年間、片時も離れたことのない声だ。同時に、三年間一度も聞いたことのない声だ。それを言わせた――否、彼が言うきっかけを与えたのが自分たちなのだ。そう考えると、こそばゆくて。照れ臭くて――感動して。
 ぽつり。ぽつり。雨のように降るそれは、涙の雫。
「……きの……兄貴の……っばかやろぉ……っ!! なんか前が曇って見えねーーっ!!」
「お、おい……」
 ようやく顔を上げたイチカは露骨に驚き、どうすればいいのかと言いたげな表情で二人を交互に見やる。床に、衣服に、握りしめた拳に丸い透明な液体が降りかかっている。視線を上げれば、顔中ぐしゃぐしゃにして、涙か鼻水なのか分かりかねる状態のカイズと、そんなカイズとは対照的だが目元をごしごしとこすり、静かに泣いているらしいジラー。
 正直な所、そこまで泣かせるような事を言った覚えはないのだが、こうも開けっ広げな泣き方をされると、対応に困るというのがイチカの本心だ。ここまで感情を全開にした姿を見たことはなかった。
 震えて、上下する肩。絶え間ない嗚咽。取りあえずは落ち着かせようと、二人の肩を自分の方に引き寄せ、ぽんぽんと背中を叩いてやる。(せき)を切ったように本格的に泣き始めた二人に、イチカは今度こそ混乱した様子で、しかし暖かい眼差しで見守っていた。

 イチカ、カイズ、ジラーが真剣な話し合いをしている間、その隣の部屋では碧ら四人が雑談に花を咲かせていた。
「……でね、【思考送信(テレパシー)】が終わって外に出たら、人がいっぱいいて。すっごく恥ずかしかったよ〜」
「あっははは! アオイらしいね」
「え〜そうかなぁ?」
 碧が不思議そうに首を傾げると、白兎がしかめっ面で訊ねた。
「つーかよ、なんでンなトコで【思考送信】なんざしてんだよ?」
「そういえば……なんでだろーね?」
「オイオイ……」
 そこで、ミリタムがぽんと相槌を打つ。
「ああ、そうだった。アオイ、イチカに告白しようとしてたんだ」
「えーーっ!!?? そうなのアオイ?! 結果は、結果は!?」
「鬼みてーな顔してンぞ……」
 顔を真っ赤にしている碧を見て、ミリタムが苦笑しながら言う。
「それが……ちょうど僕が部屋に入ったときだったらしくて、まだしてないんだよね」
「なーんだ……」
 ラニアが落ち込んだような素振りを見せると、何故かミリタムも白兎も肩を落とす。やれやれ、とでも言いたそうな表情だ。碧は三人の――ラニアを除いた二人の様子を見て、何か違和感を感じた。何かが引っかかる。
「なんつーか……ニブいンだよなぁ、どいつもこいつも」
 男のようにがりがりと頭を掻き、溜息を漏らしつつ呟く白兎。またも碧は違和感を覚えた。じっと見ていると、その白兎がいきなり自分の方を見たものだから、碧は思わずぎょっとする。白兎はそんなことなどお構いなしに、突拍子もなくこう言った。
「いつ告るつもりなんだ? お前はよ」
「……こっ?! なっなな何言ってんの白兎ってば誰が誰にこく、こく、るって」
「おめーがポーカーフェイスに、に決まってンだろーが」
 顔面を真っ赤に染め金魚のように口をぱくぱくさせながら、もはや言葉も出ない碧に、白兎は呆れたように溜め息を吐く。
「まさか知らねェとでも思ってたのか? バレバレなんだよ、バレバレ。十中八九、あいつ以外の連中はみーんな知ってるぜ」
「十中八九どころか確実によ。イチカ以外はね」
 ラニアが苦笑しながら白兎の言葉に付け加える。そこまで聞いて碧は、力無くベッドに座り込んだ。違和感の正体はこれだったのだ。すなわち――碧の心情。彼女の好意が誰に向けられているか。
「みんな知ってたって……そんなにあたし、分かりやすいかなぁ……」
「あたしたちの中じゃあ一番ね」
「でもさ、アオイ。悪いけどあの人はちょっと……ニブいと思う」
 ミリタムが苦い顔をして言う。
「ニブいの上に“あり得ないくらい”てのが付くぜ」
 あたいでも分かるんだしよ、と白兎。裏を返せば彼女もニブい中の一人ということになるが、その辺はどうなのだろうと碧は思う。実際の年齢は知らないが、それでもかなり若くして族長となったようだ。もしかすると碧のような『恋』は、したことがないのかもしれない。
「あーゆー境遇だから、人に恋愛感情持ったことないのかもしれないわね。ホントはアオイに一番近い人のはずなのに」
「“一番近い”?」
 碧が感じたようなことを言うラニアに、白兎とミリタムの疑問の声が重なった。ラニアと碧は反射的に顔を見合わせる。
「……イチカは日本から来たって、言わなかったっけ?」
「聞いてない聞いてない」
「初耳だぞ」
 二人揃って、手まで振って否定する。そう言えば話したことなかったわね、と苦笑するラニア。碧はと言うと、獣人である白兎も日本の存在を知っていたことに驚愕していた。そんな碧に代わってラニアが事情を説明する。
「イチカは三年前に日本から来たのよ。なんだかすごい虐待受けてたみたいで、こっちに来て良かったって、もう飽きるくらい聞いたわ」
「そんなことが……」
「それであんな無表情ってワケか」
 ふんふんと、たった今聞いた話を吟味するように頷くミリタムと白兎。
「だから、日本から来たあたしを嫌ってるんだって。向こうの人たちを思い出させた、忘れかけてたのにって。おかげで初対面なのに殺されかけちゃって」
「お前なァ、笑って言うことかよ」
 えへへ、と苦笑しながら語る碧に、白兎は心底呆れた様子だ。しかし、そんな和やかな雰囲気にヒビが入る。地の底から這い上がってくるマグマのような効果音と共に、例のごとくラニアが世にも恐ろしい形相で碧に近付く。理由はもちろん、
「“殺されかけた”!? 何してんのよイチカはホントに!! 怪我とかしてないの? 大丈夫だったのっっ?」
「う、うん。おかげさまで」
 ここまでくると心配を通り越して過保護である。彼女の性格故のことなのだろうが、碧が正直疲れると思ったのは秘密であろう。
「カイズとジラーがいて良かったわ! あの子たちがいなかったらどうなってたことか……」
 そこまで言って、途端に表情を曇らせるラニア。その理由を聞こうとして、皆がその意味を理解し、俯いて言葉を失った。
 ベッドに座ったまま、碧は振り返って後ろの壁を見つめた。正確には、彼女らがいる隣りの部屋。カイズとジラーが、イチカに重大な決意を明かしている最中であろう。それを思って、碧は再び目を伏せた。どうしてこんなことになったのだろう。今ならまだ、間に合うだろうか。今すぐ隣の部屋に駆け込んで、イチカに説得するよう頼めば、彼らは思い留まってくれるだろうか。……
 そう思いながら、心の奥底では分かっていた。一度の決意をそう簡単に曲げるような心の持ち主たちでないことなど分かり切っていた。誰が説得したって、懇願したって、彼らは帰ってこない。それが例え、彼らの師として誰よりも長く時を過ごしたイチカであっても。

「――そうか」
 どれだけの涙を流したのか知る由もない。だが涙の量など、今語られた確固たる決意に比べれば気に留めるまでもないことだ。どのくらいの間師の胸を借りていただろうか。毎日の修練に費やすくらいの時間かもしれないし、ほんの数分だったかもしれない。泣いていたことを悟らせないくらい真剣な顔つきで、カイズとジラーは胸の内を伝えた。今ある正直な気持ち。それをイチカは口を挟むことなく、同じように真剣に聞いていた。後で引き留められるのだろうか。それとも快く承諾してくれるだろうか。二人はそんな思いを秘めながら告白していただろう。
 しかしイチカは、聞き終わってからあまり間をおかず、それだけを口にした。意外なのだろう、二人は顔を見合わせている。
「それなら、おれは何も言わない。お前たちが決めたことに、おれが口出しする権利はない」
 眼を(しばたた)かせる二人。よほど彼の言ったことが信じられないのだろう。イチカは彼らに一通り目を遣った後、再び布団の中に潜り込んだ。未だ困惑している二人に背を向けるように寝返りを打ち、一言、油断すれば聞き逃しそうな声で言った。
「……たまには顔を見せに来い」
 暫し、沈黙。ややあって、カイズもジラーも声を殺して喉の奥で必死に笑いを堪え始めた。ここまで人が変わると心配以上におかしく思えてくるものだ。例によって彼らは悪いとは思いながらも、気付かれぬよう笑うのが精一杯だった。だがここは、ベッドと丸テーブル以外何もないような狭い部屋。仲間が皆入れば窮屈とすら思える個室で、そんな声が聞こえないはずはない。敢えてイチカは黙認しているのだ。
「ありがとな、兄貴っ」
「元気出ました!」
 例え、もう二度と会えなくなっても。
 誰もその言葉は言わない。別れの言葉は要らない。彼らは信じているからだ。もう一度会えることを、不幸な形で会わないことを信じているからだ。きっとまた、三人で修行できる。根拠など全くないのに、不思議と否定は浮かばなかった。
 彼らと一国の王女とが繋がっていること。そのこともある。初めてレクターン王国に訪れたときの、王国騎士の態度がそれを物語っていた。どういう巡り会いを果たしたのかは知らないが、悪印象を与えたわけでないことは確かだ。
 だからイチカは信じているのだ。裁判は全て平等に行われる。面識があるからといって刑を軽くできないのはあちらの世界の話だ。彼がかつていた世界と、制度が違っていたっておかしくはない。むしろ違っている方が正しいだろう。
 あちらの世界でだって、自分のような考えを持っていた人は多くいたはずだ。しかしそのどれもが否定され、最も残酷な判決が下っても司法を責めることは出来ない。むしろ責められるのは犯罪を犯した者か、その親族なのだから。だが被害者の心情を無視してでも、死罪などあり得ないと考えたかった。否、あるはずがない。どんなに非難されても構わない。ただ、その命を奪わないでほしい。
 イチカは強く、痛み出すほど強く手を握りしめた。そして彼らが笑顔で出ていった扉を、いつまでも見つめていた。
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