第四章第七話  波瀾万丈

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 ――綺麗すぎる。
 あり得ない。この世のモノ――否、この世の人とは思えない。どこをどういじくったら、もとい、どのような親から生まれたらこんなに綺麗になるのだろうか。あるいは整形しても拝めないようなその端正な寝顔に、まず目が覚めた碧は絶句したことだった。普段は切れ長の銀色の双眸が、瞬きも惜しいと言わんばかりにまっすぐ前方を見据えているのに、今は緩やかに閉じられていて、成る程年相応の容姿に見えなくもない。敵を、自分を視線だけで刺し殺すような眼力は発揮されていない。いつもはどこか大人びていて、しかしそれが妙だとは思えないほど似合っていた彼が、今だけは幼く見えるのだ。思えば彼の――イチカの寝顔を見たことはなかったように思う。だから尚更意外性があって、それを見ることができたことが嬉しい。碧はどこかおずおずと、右手を彼の左頬に当てた。当然のように抵抗は返ってこない。心情は少し複雑だったが緩く微笑み、愛おしげに、イチカを見下ろした。
 ふと、昨晩の会話が呼び起こされる。
『手は尽くしたよ。傷口は全部塞いだし、あとはイチカ次第』
 ミリタムは仲間にそう伝えた。彼の後ろのベッドには、数時間前まで苦痛に(むしば)まれていたイチカ。だが今やその表情は消え、穏やかそうに眠りについている。ミリタムの話では、あと一分でも遅れていたら打つ手は無かったらしい。精神もそうだが、イチカは大量の血液を流失していたために、身体の傷が大きかったのだ。黒龍に噛み砕かれたミリタムよりはまだ怪我の程度は低減されるものの、「弟分との戦い」で極限までに体力と精神力をすり減らされた彼は、文字通り心も体もボロボロになっていたという。それを聞いて真っ先に駆け寄っていったのは、彼の弟分たちであった。
『兄貴……ごめんな……! ごめん、な……っ』
『謝って許されるようなことじゃないけど……でも、本当に……!』
 いつもの明るさからは想像も出来ないほどぐしゃぐしゃに顔を歪め、イチカの顔や服に涙が染み込んでも構わず涙を流し続ける二人。それほどに二人の、イチカに対する想いが強かったのであろう。碧も、ラニアも、白兎ですら目尻に涙を浮かべ、彼らを見守っていた。イチカが目覚めるその瞬間を心待ちにしながら。
 彼らの師はそれを知ってか知らずか、それから何時間経っても起きる気配は無かった。息はある。脈もある。だが彼は目覚めなかった。(かたく)なに双眸を閉じて、二度と起きまいとするようにぴくりとも動かない。皆が焦燥感を募らせ、落ち着きを無くしている中、碧だけは優しく、静かにイチカを見詰めていた。
『……きっと、夢を見てるんだよ』
 問い掛けたミリタムに、碧はそう言って微笑んだ。まるで実の子供の寝顔を見守る母親のような、慈愛に満ちた笑み。さすが世界を救った巫女の生まれ変わりだと、彼は改めて確信したのであった。断言に近い彼女の言葉を聞いて、仲間が皆、決まりが悪そうに落ち着きを取り戻したのは言うまでもない。
『カイズ、ジラー。イチカの手、握っててあげて。イチカはきっと二人の夢を見てるの。二人と過ごした頃の夢を』
 ね、と同じように微笑みかける碧。暫し顔を見合わせて、力強く頷く二人。そして同じように力強く、優しげにイチカの左手をそれぞれ柔らかく握り、生気を送るように祈りを捧げた。早くイチカが戻ってくるように、また一緒に旅が出来るように。
 暫く師の両手を握っていたカイズらだったが、突如として席を立ち、その部屋をあとにした。理由を訊ねようとして、ラニアに遮られる。
『そっとしておいて。何か、考えたいことがあるのよ』
 誰にでも、放っておいてほしい時はある。碧もそれを理解していたから、深追いはしなかった。けれど彼らの代わりに、自分だけは彼が目覚めるまで起きていようと決めた。目覚めた時は「おはよう」と元気良く挨拶してあげよう。一番最初に声を掛けてあげよう、と。
 ――結局、それは叶わなかったのだが。
 碧は彼が一度起きたことを知らない。そして、彼がミリタムと会話したことも知らない。しかも碧は結果的に寝てしまっている。それがどんなに短時間でも、瞼を閉じたことには変わりはない。ふぅ、と溜め息を一つついて――
(……あれ?)
 穏やかな寝顔の真下。唇と下顎のちょうど中間あたりに、透明な球体がへばり付いていた。何だろう、という好奇心に駆られたが、すぐに思い当たった。カイズとジラーの涙である。泣き尽くしたあと自らの手で拭き取っていたが、まだ残っていたらしい。自然な動作で頬にあった右手を戻し、その結晶を取ろうと伸ばした指先は、ほんのちょっとした不注意でイチカの唇に当たった。
「……!」
 慌てて手を引っ込める碧。一瞬触れただけなのに、意識しまいと思っても瞬間的に顔が熱くなる。きっと今、自分の顔は周りに自慢できるほど赤くなっているだろう。そんなことを自慢するしないはさておくとして。
 刹那の出来事だったからか、ますますその感触は忘れられなくなった。決して自分の名を紡いでくれない『それ』。冷たい性格とは裏腹に、微かに温かい『それ』。今の表情と同じく柔らかい、『それ』。
 心臓の音が段々とけたたましく、速くなる。触れてしまった。まるでそれは聖域であるかのように、碧の心を罪悪感が覆う。けれどそれ以上に彼女を、何かが支配していく。それが何かは知る由もない。ただ碧はその『何か』に従うように、まるでそれが当たり前であるかのように――顔をゆっくりと近づけていった。
「――……」
 彼女の双眸は、目前に迫ってくる端麗な顔を映していた。けれども躊躇(ためら)いも戸惑いも感じないまま、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。
「……う、ん……」
 まさに二つの影が重なろうとしたそのとき、イチカが小さく身じろぎをした。我に返った碧は慌てて顔を引き離し、それだけでは勢いが止まらなかったのか目にもとまらぬ速さでドアに向かい、開き、廊下に出、顔だけ部屋に入れるように様子を窺う。
(あ、あたし今……何を……?!)
 イチカの様子を紫色の顔で見詰めながら、碧はふと思った。今さっき意識があったかと問われれば、無かったように思う。彼の顔を見詰めているうちに、意識がフリーズしてしまったらしい。だがその光景だけは鮮明に覚えていて、紫から赤、赤から紫へと目まぐるしく変わる顔の色。どうしてあんな事をしたのか、情けないことに全く心当たりがないのだ。
(あたし……イチカに……)
 まだ呼んでもらっていないのに。まだ友達以上にもなっていないのに。
 一番してはいけないことをしてしまった。気持ちも通じ合っていない、一方方向な恋。それを、自分から打ち壊そうとしてしまった。イチカの気持ちも考えぬまま、一方的に――。
 イチカがゆっくりと起き上がり、視線を感じたのかおもむろに碧のいる方へ向く。
「……あ……」
 気まずい。
 イチカはさっき起きていなかったのだから知らないだろうが、碧の方は罪悪の塊に押し潰されそうだ。どこまでも真摯(しんし)で濁りのない銀色の瞳が、むしろ今の彼女には痛かった。自分だと気付いた時点で逸らしてほしかったのに、何故か今はじっと捕らえて離さない。かと言って、自分から逸らすのはもっと嫌だった。心の内にあるやましい感情が透けてしまいそうで。
「……何をしている」
 声調は怒りでも冷めたそれでもなく、ただひたすらに呆れ返ったそれ。いつものイチカの声だった。当たり前と言えば当たり前だが、それでも碧は戸惑う。
「……別に構わないんだがな。入るか入らないかどっちかにしろ。不審に思われるぞ」
 一瞬、イチカの言葉の意味が分からなかった。よく考えてみれば自分は羞恥のあまり廊下に飛び出して、でもイチカが気になって、ずっと彼を見ていたのだ。確かにこの状況だと、不審に思われるのは明らかに自分だろう。
(ちょっとだけでも、気にしてくれたのかな)
 そう思うと、さっきまで悩んでいたのが馬鹿馬鹿しく思えてきて。
 まだまだ仲良くはないけれど、最初の頃に比べたら十分仲間らしいのだ。焦る必要なんてない。ゆっくり向き合っていこう。
 碧が部屋に入ってきたと同時に、視線を逸らすイチカ。そのまま彼女がベッドの近くまで来ても、何も言わない。これは一応、受け入れてくれていると思っていいのだろうか。
「えーと……おはよう」
 手近にあった椅子に腰掛けながら、さりげなく挨拶をする。ちらっとその顔を見れば、どこかきょとんとした表情。
「あっ、えっ……と、ごめん! ヘンな事言っちゃって」
「……いや、別に……」
 さっきから会っていたのに今更挨拶をされても困るんだが。
 心の中でそう付け加える。もっと言うなら別にヘンな事でもない。そう考えていると何かよく分からなくなってきて、イチカは黙り込んだ。碧は話題が見つからず、再び舞い降りる沈黙。
「えっと、あの……あ、そうそうカイズとジラーは大丈夫だよ! 脇腹の傷も思ったより浅かったって!!」
 その話はさっきミリタムから訊いた、と言いかけて口を閉じる。彼女は必死に話題を探し出そうとしているのだ。余計なことを言っては相手を落ち込ませることになるだろう。ただ、どうしてそこまで必死になるのかは分からなかったが。
「そ、それとね! イチカが眠ってる間、あの二人はずっとイチカの手を握ってた! 左手の方!」
 その一言で、今日初めてイチカは切れ長の目を見開いた。
 ようやく、謎が解けた。起きたときからずっと左半身を、否、全身を包み込むような温かさ。そのぬくもりを与えてくれたのは――
(カイズ、ジラー、お前たちか)
「……そうか」
 イチカの言葉に棘はなかった。むしろ穏やかで、心から安堵しているような、そんな声。碧には決して聞かせることのない、感謝を含んだ言葉。
 話しかけてから初めてまともな返事が返ってきて、碧はぱっと表情を明るくした。同時に、どこか寂しさを覚えた。イチカはとても穏和な――今までに比べれば考えられないほど優しげな表情を浮かべているのに。
(やっぱり、あたしはまだイチカの支えになってないんだよね……)
 嫉妬、なのだろうか。そんな言葉が浮かんで、碧はひどくやりきれない思いだった。仲間の、しかも男性に対してそんな感情を抱くなんて、どうかしていると。
 イチカは彼らを信頼しているから。
 イチカにとって彼らは弟のような存在だから。
 信頼。師弟愛。仲間。それ以上でもそれ以下でもない、かけがえのない家族。
 嫌になる。どうしてこんな感情を持ってしまうのか、胸が締め付けられるような痛みを覚えてしまうのか。こんなもの、無くなってしまえばいいのに。そう、無くしてしまえばいいのだ。

 一方、イチカはそんな碧の心の葛藤など知る由もなく、しかし突然影が差した彼女の表情について内心疑問符を浮かべていた。何か傷つけるようなことでも言っただろうか。そう思い今まで自分が彼女に対して放った言葉を探そうと試みるが、そもそも数えるほどしかない言葉の中から『人が傷つくような言葉』が見つかるだろうか。答えは、否。どのように頭を捻っても、傷つくような言葉に変換するのは難しい。それくらい、彼が碧に言った言葉は単純かつ希少なのだ。今日以外ならいくらでも思いついてしまうが、言ったところで翌日にはめげずに声を掛けてくる。立ち直りが早いのだろうと勝手に解釈していたが、本当は碧の、イチカに対する想いが強いからこそできることなのだ。当の想われている本人は全く気付いていないのだから困ったものである。
「――でも良かった。イチカが無事でいてくれて」
 小首を傾げるイチカを見て、碧はくすりと微笑む。
「だって、イチカがいなかったらあたし生きてないもん。ラニアもカイズもジラーもミリタムも白兎も、みんな強くて優しくて面白くて……。みんながいるから楽しくて、みんなのおかげであたしが生きていられる。イチカがいるからもっと楽し……」
 急に止まった碧の言葉。少し同感していたイチカが不審そうに顔を上げると、ついつい彼に対する本心が出てしまい顔を真っ赤にしている碧が。イチカには何故そうなったのかという経緯が分かっていない。勿論、最後の言葉の奥底の意味も理解していない。ただ、『何故か分からないが自分といるからもっと楽しい』というのは分かったので、
「……何故?」
 その『何故か』の部分を訊ねた。好奇心が先立ったのだ。数秒後――それが彼女にとってどれだけ負担になるのかなど考えもしなかったから、碧が突然真っ赤を通り越し湯気を吹き出し始めたことに困惑していた。人間機関車か、と心の奥で突っ込んでみるが、それはなんの解決にもならない。何かを訊ねて湯気が出てきた人間など、イチカは今まで会ったことがない。
(……銃をぶっ放す奴なら何度も見てるが)
 そう思いながら碧に視線を投じるが、今にもどこかへ発進しそうな勢いだ。ここまで人間的におかしくなられると、唐突に質問した事に対する罪悪感が芽生えてくる。だが同時に――何か、『意地でも理由が訊きたい』という不思議な好奇心が後押しした。
「おれはあいつらのような盛り上げ役じゃない。むしろ聞く側だ。それでもそう思うか?」
「…だって!!」
 それまで行動と言えば無意味に走り回ることくらいだった碧がいきなり真剣な顔つきで声を上げ、イチカとしては驚きの連続だっただろう。それでも、彼女の顔は「赤い」と言い切れるくらい見事に染まってはいる。
「だって……う、あ、あたし、は……」
 朝。快晴。二人きり。
 告白には最高のシチュエーション――と碧は思っている――だ。他の仲間は皆、イチカより早く起きて別の部屋へ移動している。多分、怪我人だからと彼を(いたわ)って部屋に来る者はいないだろう。正真正銘今が最大のチャンスなのだ。
「あたしは……イチカ、が……」
 好きだから。
 唇が震えて、その言葉が出ない。もどかしい。言ってしまいたいのに、恋なんてしたことがないせいか全く声も出ない。イチカの顔が直視できなくて、だけどちらりと見てみれば、その綺麗な銀色の双眸は反らされることなくまっすぐ碧を映している。勇気が欲しい、もっと上手く気持ちを伝えられるような勇気が欲しい。覚悟を決めて、ゆっくり大きく深呼吸して、帯を締めるように気合いを入れ直す。
「っ……あたしは、イチカがす」
「イチカーーっ調子はどうーー?」
 勢いよく開かれるドア。元気のよい、よく響く少し幼げな声。

 …………………………

 固まる三つの影。一つはこれでもかというほど全身を真っ赤に染め上げ、一つは上半身を起こし、きょとんとした顔で入り口を見詰め、さらにもう一つはドアノブを掴み、今にも部屋へ入ろうとする、そのままの状態で時間が止まった。
「……えーーっと……もしかしてお邪魔だっ」
「あーー!! だいじょーぶ何にもないよっ!! 何も話してなかったよっ!!」
 ものすごく何か喋っていたような気がするんだが、とイチカが呟いたのも虚しく、碧は猛スピードでその部屋から立ち去っていた。後に残された二人は呆然と、碧が走り抜けたドアを眺めていた。否、正確にはイチカが、であって、第三の声の主・ミリタムは事の重大さを改めて悔いていた。
(今のは明っらかに僕が悪いんだよね……。どーも僕って行っちゃいけないような所に行ったりするっていうか……癖なのかな?)
 何かの陰謀かな、などとぼやくミリタム。だが心配して見に来たのは事実なので、取りあえず後で碧に謝っとこう、と心に決めた。イチカはというと、早くも仰向けになっている。心なしか眠たげな表情だ。ふいにその銀色の眼がこちらを向いたので、ミリタムは本来の用事を思い出す。
「あ、そうそう。調子はどう? 腕動く?」
「ああ、悪くはない」
 決して最高だ、とは言わないのがイチカである。それは分かり切っているのだが、やはりその腕を治したミリタムとしては複雑な心境ではある。
「……もしかして、怒ってるとか」
 碧に関連して、そうだとしたら非常に素晴らしい話だと内心期待していたが、案の定「意味が分からない」という顔をしているイチカ。
(……アオイ、悪いけど鈍すぎるよこの人……)
「……あいつらは、」
 途端、真剣な声がミリタムの耳に届いた。そちらに目をやると、そっぽを向くように窓の外を眺めているイチカ。ただ事ではないなと思いながら、うん、と相槌を打つ。
「あいつらはやっぱり、極刑なのか」
 ハッとする。そして、そのことばかりは避けられないのだと。
 イチカが眠っている間、カイズとジラーは宿に駆け付けた警官に自首し、その身柄を拘束された。裁判はその時から一週間後、今日から五日後である。彼らの行為は、決して無罪には値しない。死者を出していないとはいえ、多くの人に重傷を負わせたことで有罪判決は確実であった。そして、軽罰だけで済むという保証も、無い。苦しいことだが、死刑と言い渡されても反抗できない立場に彼らはいるのだ。
「……決めるのは僕らじゃないから、何とも」
 不合理なことだが、ガイラオ騎士団という集団は特別に、人を殺めても許されることになっている。それは『暗殺』という職業柄認めざるを得ない、という意見のもと決定されたことだ。しかし、当然のごとくその意見は全土の国民に否定されている。他人の勝手な理由で身内を殺され、しかもその犯人は無罪だというのだ。納得できるはずがない。
 だが裏を返せば、『元』であってもガイラオ騎士団に所属していた過去を持つ彼らなら、ある程度重罪は免れるかもしれない。この世界の全国民を敵に回してまで助かりたいと思っているのならそう言うだろう。イチカはそうは思わない。『元』であるからこそ背負っていかなければならない数々の罪。何の躊躇いもなく奪ってきた命を、たった二人のちっぽけな命で返すことが出来るなら、迷うことなくその命を授けるだろう。そう、信じている。
「……裁判は、どこで?」
「五日後にレクターン王国で。ただし貴方は行っちゃいけないよ」
 怪我もまだ治りきってないんだし、と諭すように言うが、イチカは彼を凝視していた。
「レクターン……王国?」
「そう。……もしかして、悪い方向だった?」
 いや、とイチカはかぶりを振った。
「むしろ……良い方向だ」

【話は聞いたわ。でもあの二人の意思じゃないんでしょ?】
「うん……」
 碧は宿のトイレで、【思考送信(テレパシー)】の成果を試すべく、レクターン王国の第一王女であるネオンの名を反芻した。彼女は巫女ではないが、巫女としての素質は十二分にあるらしい。一時は彼女がヤレン・ドラスト・ライハントの生まれ変わりだと謳われたこともあるという。南方の貧巷(ひんこう)での援助金騒動の時、ミシェルが言っていたことだ。
「カイズとジラーは操られてた。団は抜けてて、本当はそんなこと、しないはずなんだよ。だけど今のままじゃ……!」
【分かってる。有罪の取り消しは無理でしょうけど、軽くすることは出来ると思うの。何か操られてた時の証拠とか、ある?】
「証拠……」
 記憶の糸を辿る。
 全ての決着がつきかけていたあの瞬間――イチカが命がけとも言える手段として自らを攻撃させたその時、あのバッジはその手で潰されていた。
「う〜ん……。前はあったけど、今は……」
【そう……決めた、あたし証言台に立つわ】
「ええーーっ?!」
 思わず上げてしまった大声を両手で塞ぎ、神経を研ぎ澄ます。多分、誰もいない。それでも用心して損はないと、声を潜めて【思考送信】を続けた。
「そ、そんな一国の王女様がそんな所に立っていいの?」
【だーいじょーぶよ! 証言台に立つのは四民誰でもいいんだから。それにね】
「それに?」
【借りがあるのよ。小さい頃の】
「へえ〜……。もしかしてそれが初対面とか」
【ま、まあね】
 どもるということはよっぽど恥ずかしいことなのか、それとも苦い思い出なのか。それは碧には分からなかったが、深く訊ねるのは止めておいた。彼女が証言台に立ったときに聞けるだろうから。
「じゃ、いろいろありがとう! また今度ね」
【ええ。後日また】
 思考を一旦ネオンから引き離す。これが【思考送信】の終わり方である。それと同時に、どっと押し寄せる波のように溜まる疲れ。巫女になって間もない者は、たった一つやり遂げただけで極度の疲労状態に陥るという。まだまだ修行不足だなー、と肩を鳴らしながらトイレのドアを開けた碧は――
「……!! すすすすいませんっ、ごめんなさいーー!!」
 いつの間に並んでいたのだろうか、一つしかないトイレの前に苦情一つ上げることなく、黙って何人もの人が長蛇の列を作って碧が出てくるのを待っていたのだった。

 人生は波瀾万丈、荒波に揉まれ飲まれ抜け出すことは困難。その波に一度でも乗れたなら、少しは人生も変わってくるのだろう。
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