第四章第六話  逸香

前へ トップへ 次へ

 静寂が辺りを包み込む。
 何十分も前から人の気配すらろくにしていなかったが、今までで一番静かな時だったろう。最初から何も起きていないような微妙な感覚が、身体中を電流のように流れていく。焦りでもない、苛立ちでもないその感情は、きっと憐憫(れんびん)の情だったのだろう。双方が目標を成し遂げ、歓喜することなくそのまま時は止まっていた。一つだけその影響を受けていないのは、ただ一つの赤。生きとし生ける者の体内に流れている、赤だった。その赤は、銀色の髪を持った少年の口腔から腹部から絶え間なく流れ出ていて、いつ失血してもおかしくはない状況であった。それでも誰も動こうとしない。誰も時に抗うことはない。彼らは皆、待っているのだ。少年らの戦いの結末を。
「――あ……」
 それは、例えるならば『目覚め』たような気分だった。
 自分自身は長い間深い眠りについていて、何かがきっかけで突然目覚めた――そんなところだ。必ず目覚めなければならなかったのだろう。何故かそんな気がする。いつまでも寝ていてはいけないと、誰かが言っていた気がする。そうしてそのきっかけを与えてくれた人は今――確かに目の前にいる。
「兄貴……?」「師匠……?」
 声が上擦っていたのは、果たして気のせいだったのか。きっかけをくれた人を、恩師とも言うべきその人を呼ぶ声は、声調は違うものの明らかに動揺している。何に対して動揺しているかは依然掴めていないが、少なくとも良いことで動揺しているはずはないだろう。
 ふと、手のひらに違和感を覚える。理由は分かっていないが――項垂れている少年から目を外し、右の上腕、肘、手首を辿って見たものは。
「……!!」
 いつも行動を共にしている、自分の武器がそこにあった。それだけではない。武器はまっすぐ、従順すぎるほど正確に銀髪の少年に当てられている。否、『当てられている』方がまだましだったかもしれない。
 敵を貫くためのその細剣は少年の脇腹に。
 敵を叩き潰すためのその鉄槌は少年の持ち上げられた前腕に。
 それぞれが致命傷とも言える傷を負わせていることは、戦いの素人でも分かっただろう。
「なっ、何やってんだよオレ……!?」
「師匠! しっかりしてくださいっ!」
 ようやくその事実に気が付いたらしい少年らは、自らの武器を項垂れている少年から離そうとする。だが細剣の方は身体を貫通しているせいか、抜こうとすればするほど傷口から止めどなく血が流れ出た。困惑して、迷って、一粒、また一粒と涙が落ちていく。
 それを見かねた少年の仲間が助けるまで、彼らは声を上げて泣いていた。

 どうしてこの世にいるのか、いつも疑問に思う。
 何故生まれてきたのだろう。必要としてくれていたからか? 否――それはない。必要としていてくれたなら、この身体中にある古いアザやヤケドの痕はなんだ。必要ならば、掛け替えのない生命ならば、こんな仕打ちは無かったはずだ。途中からではない、生まれたときから忌まれていた。『親』と遊んだ記憶はない。名前を呼んでもらった憶えもない。名前とも言えない代名詞だけが、耳に残っている。
 どうして違うのだろう。他の人間と、『ハルカ』と、どこが違っているのだろう。
 考えれば考えるほど、生きる意味を見失った。必要とされていないなら、たった今この世から消えて無くなればいい。誰にも迷惑を掛けぬように、誰も知らないような場所で、たった一人で居なくなろう。
 選択は『死』。別に後悔などしていなかった。するほどの人生でもなかった。ただ一つ後悔していることと言えば、「生まれてきたこと」だけだ。
 十三年とひと月。戦後でもない今の生活ならあと五倍は生きられただろうが、今だけは自分自身を褒めてやりたくなった。『よく頑張ったな』とか『十年以上も生きられたのか』とか、最期くらい鏡にでも向かって微笑みたかったけれど。
 笑うことを忘れて何年経っただろう。とにかく今は、笑うなんてできない。これは悲しいことなのか、それすらも見当がつかない。へらへらしている姿は誰かの機嫌取りをしているようだから止めた。それだけのことだ。笑むことが大切なことだと言った人間が、果たして居たか。居るわけがない。笑いはコミュニケーションの手段だなどと、馬鹿馬鹿しい。
 どうせもうすぐ、この世界から消えて無くなるのだから。
 “消えて無くなる”?
 当然のように出た結論に、驚かずにはいられない。まだその『消え方』を決めていなかったのに、どうやって消えて無くなるというのだろうか。
 答えの代わりか偶然か――視界の隅の方で狭苦しそうな路地が光を放っていた。しっかりとその正体を認めるよりも先に、光が『彼』の手足を包み込み、路地の奥へ引きずるように強い力が(いざな)う。抵抗はしない、どこでもいいから連れて行ってくれと、むしろ『彼』は受け身になれた。
 そうして彼の存在は、文字通りその世界から“消え”たのである。

 周りの騒がしい声で目が覚めた。ゆっくりと双眸を開き――その眼は信じられない光景を映し出した。そこには長い金色の髪の少女と、その色を少しくすませた逆毛の少年と、紫の髪に銀のメッシュを入れたモヒカンヘア少年が、物珍しそうにこちらを見下ろしているではないか。
(……なんだこのあり得ない役者は)
 これが現実だとしたら心臓の弱い者には相当な負担が掛かるだろう。いっそのこと夢の方がいいような気もする。最初の二人はともかく最後の一人の髪型はどう頑張ってもできるようなものではない。見たところ三人とも、自分と同い年くらいかそれより下だ。そんな年から染めていては若年脱毛症は免れないだろうに、と妙に冷静に分析している自分が単純に嫌になった。
「おお〜〜!! 髪も眼も真っ黒だーー!!」
「あ、起きた起きたー!!」
「おいジラーっ顔どけろ見えねーだろっっ!」
 これは本当に夢かもしれない。そうでなければ幻聴か幻覚か。目の前で繰り広げられている会話に矛盾点があり過ぎるせいで、自然と頭を抱えたくなる。
 見た目は外国人。けれども言語は明らかに日本語。これは一体どうなっているのか。それにこの好奇心過剰な連中は一体何者で、ここはどこなのか。居るだけで嫌気が差してくる『向こう』の家よりは幾分かましだが、何よりも情報が欲しい。自分たちだけで会話を成立させていてはこちらは理解のしようがないではないか。
「あ、あのね。あなたは向こうの荒野で倒れてたの。それであたしたち三人で、あなたをうちまで運んできたの」
 こちらの意思を汲み取ったのか、少女が依然眼を輝かせながら説明してくれた。
「それでね、ここは『アスラント』っていう所なのよ」
「……アス、ラント……」
 聞いたことのない地名だ。ということは、ここはあの世界ではないということなのか。あの忌まわしい世界とは、違う場所なのか。そう思うと、知らずと安堵感が込み上げてくる。この際どこでもいい。『地球』でないなら、どこにいようと。
「なあなあ、にーちゃん何て名前?」
 そう問われた途端、周りの空気が変化した。これはあまりにも唐突な、かつ短気な行動だったかもしれない。意識しているつもりはないのだが、やはり関連していることにはついつい殺気立ってしまう。質問した逆毛の少年の顔が引きつっているのを見て、出来る限り自制した。彼は自分の過去とは全く関係ない。日本じゃない。あいつらじゃない。単に、無邪気さ故に問い掛けてきただけなのだ、と。
「カイズ! ご、ごめんなさい。訊いちゃいけないことだったわよね……?」
 申し訳なさそうに謝る少女の表情も、最初とは打って変わって影が差している。自分の感情を出さない分、他人の感情の変化には皮肉なほど敏感だ。笑顔こそ見せているが、彼女は明らかに怯えていた。カイズと呼ばれた少年も、その隣りにいるモヒカン少年も、後悔と罪悪に駆られたような眼で見詰めている。
「……いや、悪かった。そんなつもりはなかったんだ。思い出したくなかっただけで」
 顔を見合わせる三人。そうは言われても、まだ半信半疑なのだろう。あれだけ敵意のこもった気を出していたのだから、無理もない。
 参った。あちらを離れた途端に味方を失ったかもしれない。今の時点では味方も何もないが、話が分かりそうではあった。それなのにこの性格は、どうも疑り深いそれのようだ。初対面であれだけ敵視されていれば、信頼を取り戻すのも信頼するのも難しい。
「……逸香」
 我ながら小さな声だったとは思う。さっきのまま会話していればおそらく誰も聞き取ることはなかったに違いない。それほど小さく、独り言のようにぼそりと呟いたのだ。
 彼らは皆、目を丸くしている。あちらの発音が聞き取りにくかったのか、それとももう一度という意味なのか、ただただぽかんとするばかり。これはもう一度言わなければ理解しないだろうなと思いながら、再び内緒話でもしているような声で言った。
「……おれの名前だ。『逸香』と書く」
 そう言って、勝手だと思いながらも手近にあったペンを取り、メモ用紙に漢字・カタカナで名前を書いて見せる。それでもやはり、眉間に皺を寄せて文字に食い入る三人。これはもしや、否、予想が正しければ、そういうことになるはずだ。
「……読めないのか」
 こくり、と頷く三人の外国人。言葉が通じて文字が違うとはどういう仕組みなんだ、と地団駄踏みたくなったが、それならば向こうの名前を書いてもらった方が手っ取り早い。いずれにしろ言語の勉強は免れないだろうが、毎日が同じあちらよりは楽しいはずだ。
「あんたたちの名前を教えてくれ。言語が分からなきゃ名前も教えられない」
 再び顔を見合わせる三人。顔色はいくらか良くなっているが、完全に信用したようには見えない。そもそも信用しているのなら、わざわざ顔など見合わせないだろう。聞こえないよう小さく溜め息を吐く。
 これと同じような事を何度説明すれば分かってもらえるのか。積み重なっていく苛立ちと、そもそもこれは自分の性格故に仕方ないことかもしれない、と冷静に開き直る自分。自分で言うのも何だが、随分と感情が無いものだと思う。何度目かの溜め息をつこうとした――その時、メモ用紙を破り、慣れた手つきで名前を書いた者がいた。
 意外さに目を丸くしている所へ、真っすぐ突きつけられる紙切れ。達筆なのかくせ字なのか、普通に見ていても読み取りは困難だと思われる文字。だが、なぜかそれには見覚えがあった。
「カイズ・グリーグ! フツーにカイズ、でいいぜっ!」
 逆毛の少年――カイズはそう言うと、ぐっと右手の親指を立てて見せた。どうやらやることも外国人かぶれのようである。そして文字。よく見れば冒頭の文字はアルファベットの『K』に見えるし、そのまま読み進めても彼の言ったとおりの名前になりそうではある。つまりこれは――
(……ローマ字か)
 不意に、そんな文字が頭を過ぎる。確か小学校の中学年時に習ったか。羅列してあれば英語のように見えなくもないが、読み方は日本語に近い。複雑な心境ではあるが、全く知らない文字でないだけましというものだ。無言でたった今貰ったメモ用紙の下方にペンを走らせる。この考えが正しければ、きっと彼らは読めるはずだ。
 本当ならば、その名を呼ばれることにも拒否感があるのだが。
「イ……チ、カ……?」
 やや辿々しく読み、確認するようにじっと見詰めてくる色とりどりの瞳。小さく頷くと、それまでのうろたえたような表情はどこへ消えたのか、一気にそれらの顔に『笑顔』が戻った。後ろに控えていた少女と少年が、勢いよくメモ用紙をちぎっては名を書いてゆく。
「イチカっ、イチカっ、イチカ! うんっ、憶えたっ。あたしラニア・クラウニー! ラニアって呼んでね」
「オレはジラー・バイオスっ! よろしくイチカ!」
「オレの名前忘れんなよー!」
「……ああ」
 本当になんなんだ、この連中は。
 何度も名を呼ばれたが、全く嫌悪感を感じさせない。むしろ心地よくさえ思える。日本語とローマ字言語と、ここまで違うものなのか。それとも同世代で名を呼んでくれた人が、『ハルカ』しかいなかったからなのか。どちらにしろ胸の奥はわだかまりが無くなったようにすっきりしていて、すがすがしい。これを「嬉しい」というのかもしれない。名付け親すら呼ばなかった名を、唯一心を許せた『ハルカ』だけが呼んでくれた名を、他の人に呼んでもらえたのが意外にも、嬉しかったのかもしれない。
 それから、色々な事を聞いた。
 ラニアの家は代々続く銃士一族で、彼女自身も腕が立つということ。十二歳という若さで既に婚約者がいるのだが、その婚約者がどうしようもなく女好きで困っているということ。カイズとジラーの二人はどちらも珍しい武器を持っており、王国騎士志願だということ。二人ともとても仲が良く、『漫才』でも見ているようだということ。
 この世界に来て数日も経たないうちに、この世界をほとんど学び尽くした。四百年前、『アスラント』を救ったとされる巫女の伝説。この世界の遙か上空には『魔星』という魔族の住まう星があって、そこから彼らは絶えず侵略の機を(うかが)っているという論説。この世に存在するのは人間だけではない――則ち『兎族』や『エルフ』の存在を記した存在論。読書が好きということから、本を読む機会が多くなった。ローマ字読みのため多少時間は掛かったが、読むたびにこの世界の事を知った。その数だけあの世界を忘れていった。自分の中の常識が、この世界の常識に等しくなっていく。それ自体に何の抵抗もなかった。
 およそ半年が経ち、ラニアらから剣技を教わった。どうやらこの世界は、時代で言えば中世ヨーロッパ辺りの背景らしい。戦えない者は、女子供や老人でもほんの僅かだそうだ。剣を持った瞬間、何故か「出来る」と思った。
「なかなか良い線いってるわよ! ホントに日本から来たの?」
 ラニアのその言葉が、内心の読みを確信に変えた。
「……たまに、思うんだ。おれは何かの手違いで向こうに生まれついて、本当はこっちで生まれるはずだったんじゃないか、ってな」
「まあ、良くある話よね。でも」
 突然腰の銃に手を伸ばし、空に向けて放つ。空気を割るような音が辺りに響き渡り、木々から鳥たちが群れを作って慌てて飛び立っていく姿が見えた。どことも知れない異境に飛んでいく鳥と、腰に手を当て誇り高げに空を見上げる少女を交互に見詰め、やれやれと溜め息をひとつ。
「自然を大切に、って言葉があるだろう」
「今は別よ! イチカはイチカであって、イチカ以外の何でもないのよ。分かる?」
「……で、その根拠は?」
「だーかーら! どんなに望んでなくたって生まれちゃったモンはしょうがない、どういう形だってあなたは向こうの人なの。生まれる権利があったの。『あんな世界に生まれたくなかった』とか、滅多な事言うんじゃないわよ」
 なるほどな、と自嘲気味に呟いて、大空を仰ぎ見る。こちらに来ないままあの世界で一生を終えたとしても、それは『ニホン人』としての人生だ。どんなに拒んでいたって、生まれた場所が「こう」と決められたらそれに従うしかない。自殺することを考えていたのだから、尚更生没が同じになってしまうところだった。生きているうちはどこに居ようと、この血が流れている限りは『ニホン人』なのだ。
「……けど悪いな。嫌いなものは嫌いだ」
「そう言うと思って最初から期待してなかったけど」
 苦笑混じりにラニアが言うと、さっきの銃声を聞きつけてか、カイズとジラーが駆けて来た。
「あーねーさん! すっげー分かりやすいけどすっげー心臓に悪いその『喝』どうにかならねえの?」
 ……あれは喝だったらしい。
「んー、そう? あ、それよりもどうしたのよ。急いでるじゃない」
「そうなんですよ出たんですよ出てきたんですよ!」
 のらりくらりとカイズの問いをかわした所を見ると、これからも『喝』の度に銃声が響くことは避けられないらしい。それを知ってかどうなのか、やや慌て気味に訴えかけるような口調で叫びだしたのはジラーだ。「出た?」と疑問符を浮かべていると、いつの間にやら背後に回っていたカイズが背中を押し、半強制的にその「出た」に出くわす羽目になった。
 押され続けることおよそ五分。よく分からないまま背から伝わる力に任せて歩いていたが、自発的に歩みを止めた。どうやらどこかの森らしい。人の気配など欠片もなく、それが逆に不気味さを漂わせるような、異様な雰囲気だ。
「イチカ、気付いたか?」
 後ろから掛かる声にああ、と答え、周囲を見渡す。その異様な雰囲気の元は、人気(ひとけ)の無さだけではない。何か別の生き物が身を潜めていると、直感的に悟った。そしてそれが、野ウサギだのシマリスだの、そういう可愛らしい類のものでないことも。
「姉さんが言ってたんだ。この森にはよく魔物が出るから、迂闊に近寄らない方がいいって」
「冗談じゃなさそうだな」
 ジラーの言葉――ラニアの言葉だが――を聞かずとも、この森には異質すぎる空気が充満している。何かいるには違いないだろうと、相槌を打つ。
「しかもそいつが人を襲って、く、喰うとかなんとかって……」
「魔物ならそれくらいするんじゃないか」
「ちょっとは危機感持てよーー!」
 カイズの非難めいた声の直後。待っていたと言わんばかりに木陰から姿を現した『それ』は、なるほど『魔物』の名にふさわしい形をしていた。重力などお構いなしに空へ空へと突き刺すように伸びた髪は、よく見れば無数の蛇が『それ』の頭上で踊っている。淡泊な顔に目の玉はなく、ただただ黒い空間が切れ長の瞼の中に収まっていて、口も耳も大きく吊り上がっていた。更に目線を下げていけば、人間のような上半身、下肢は毒々しいまでの紫色がとぐろを巻いている。その姿は、人間のような体躯でありながら神話に聞く『メドゥサ』のようであった。
「ほぅ、人間が三匹か。昨今は食に恵まれておるな」
 舌なめずりのつもりか――耳元まで裂けた口から鋭い牙と紅い舌がチロチロと覗く。蛇人間というのが一番近いだろう。全く常識外れな世界に来たものだ。
 それ故に、退屈しない。
「へ、へっ、蛇……」
 まともに動揺しているらしい後ろの気配は取りあえず無いものとして、冷静に思考を巡らせる。この様子じゃ戦えという方が無理な話だ。逆に返り討ちに合うだろう。今この場で通常通り動けそうなのは自分だけ。だがその本人は武器など持っていない。さっき鍛錬に使っていた剣は、間抜けなことにラニアに預けたままだ。言ってしまえば、圧倒的にこの蛇人間が有利なのである。念仏でも唱えていた方が早いかも知れない。
「さて……どいつから喰ろうてやろうか……」
 剣でもあれば切り落としてやりたくなるくらい(せわ)しく舌を動かし、牙の内側から垣間見るのは食に有りつけるという意識の表れだろう、溢れそうな唾液がかろうじて堰き止められている。早くから自分の勝利を確信しているらしい。ふざけた奴だと思う。
 距離は三メートル強。向こうがその気になれば一瞬で噛み付いてきてもおかしくはないが、焦らすのがお得意なのか、幼児の歩幅ほどの距離しか詰めてこない。全くもってふざけている。蛇人間から目を離さずに、周囲を見渡し、正面、再び見渡した後に、ある物を見つけた。
「……悪い。時間を稼いでくれ」
 一言二人に伝え、それに向かって走る。
「うぇ? ……ってちょっ、イチカ!? どこ行くんだよ?!」
「イチカーー!?」
 後ろで困惑めいた叫びが聞こえる。無理もない、これだけの危機に陥っていて誰か一人抜けようものなら、そいつが裏切ったと思いたくもなるだろう。現にこの行動は裏切りに限りなく近い。だが、裏切りにはしない。
「裏切られたな、若いの。心配せずとも、儂の胃袋の中で逢わせてやる」
「ひっ……!」
 蛇人間の腕が伸び、カイズとジラーの胴を掴む。これは本格的にまずくなってきた。一刻も早くあれを――緑ばかりの景色の中で一際目立つ銀色を持った剣を、引き抜く必要がある。柄の下部と上部に赤い水晶が埋め込まれた、一昔前の剣というイメージだ。 引き抜いたら何かが起こるのではないか。解いてはいけない封印を解いてしまったりするのだろうかと様々な不安はあったが、今はとにかく蛇人間から二人を奪還しなければ。そんな思いが全てを埋め尽くして、深々と土に沈められた剣を引き抜く。
 手に取った瞬間、妙な既視感を憶えた。ほんの一瞬目の前をどこかの風景が横切って、消えてゆく。それが何かを理解するには、短すぎるくらいの。
 仲間が捕らえられている事とは別の胸騒ぎがしたが、早くしなければ本当に喰われてしまう。剣は手に良く馴染んだ。まるで元から自分のものだったかのような感触。そして、走る。
「うわーーん! イチカの裏切り者〜〜!!」
「往生際の悪い……ぬしから食ろうてくれる!」
 勝手なことを言ってくれる。確かに詳細を伝えず飛び出したのだから、そう思われても責める立場には無い。だが誰が裏切ったと言った。
 などと考えている間に、蛇人間は二人の身体を手で握りつぶそうとしていた。そこで冷静さを失うことなく、無防備な背に刃を突き刺す。
「……!! がっ、は……」
 ごふ、と口から血の塊が吐き出された。両手の力が抜けたのか、指の間からするりとカイズらの身体が滑り落ちる。荒い息をしてはいるものの、命に別状は無さそうだ。獲物が自分から遠退いたのを見てか、蛇人間の注意は二人ではなく、背後にある気配に向けられた。
「こ、の…餓鬼が……っ!!」
 研ぎ澄まされた爪が頭上に振り下ろされる。だがそれよりも早く、横に薙いだ剣が蛇人間の胴体を切り離した。刹那、胴から上の部分は細かい塵となって空気に混じり、蛇としての下肢はしばらくの間うごめいていたが胴体と同じような結果となった。意外にあっけない。
「……すげぇ……」
 下方からの虫の音のような声。視線だけをそちらに向ければ、カイズとジラーがきらきらとでも形容できる眼をしながら見詰めてくる。すごいと言ったが、正直自分でも驚いている所だ。今まで剣など触れたこともなく、こちらに来てからようやく二、三日持っただけだ。それなのにあの剣は、妙に使い心地が良かった。自ら手に合わせているような。
「あ、あの、兄貴って呼んでもいいかっ?!」
「しっ、師匠って呼んでもいいですかっ!?」
 突然の問いに、珍しく度肝を抜かれた。先ほどまでとは打って変わって、その口調は尊敬そのものだ。いきなり受け入れられるものでもなく、暫し唖然とする。初めて会ったときは珍しいという好奇心が先立っていたが、今のこの視線は明らかに憧れとかそういう類のものだ。とにかく眼が輝きすぎている。何を言っても断固として諦めなさそうである。
「……何でも、好きにすればいい」
 そう言うのが精一杯だった。少しでも変わった呼び方が、表情には出せずともその時はとても嬉しく感じられた。
 そうしてその日から、彼は生まれ変わった。日本人という肩書きの自分を捨てるために、銀髪に染め、カラーコンタクトを入れた。そうすることで、二度とあちらと干渉することの無いようにという彼自身のまじないである。

 ――長い、夢を見ていた。
 うっすらと目を開けると、飛び込んできたのは異国の色。否、こちらではあまり珍しくもない焦げ茶色の髪。『アオイ』という少女のものだった。
 彼は呆然としていた。普通ならば彼女が居る時点で「邪魔だ」とかそっぽを向くとか、拒絶反応を示す。だが今回ばかりはそれはできそうになかった。何故なら彼女の持つ漆黒の双眸はしっかりと閉じられていて、身動き一つ取っていなかったから。代わりとして、小さく開いた唇から漏れるのは規則正しい寝息。彼は小さく溜息をついた。
「起きたみたいだね」
 大人びた声が頭上から響いて、少し目線を上げればそこには魔法士の少年。大きな眼をやや細め、彼を見詰めている。
「……何だ」
「別に? ちょっと学ばせてもらったなー、って」
 疑問符を浮かべる彼に、当然のように魔法士の少年は「何でもないよ」と手を振り、続いて彼が眠っていたベッドの傍らに座って眠る少女を見る。
「アオイ、貴方が眠ってる間中ずっとそこに座ってたよ」
 少年の言葉に、彼は「そうか」とだけ呟く。全く感動がないわけではなく、言葉が他に思い浮かばないのだ。ずっと、ということは夜を徹して見守っていたのだろうから、それは感謝すべきなんだろうと思う。
「本当に貴方って人は見かけによらず情に厚いというかなんというか……」
 少年が肩を竦めてわざとらしく言う。
「……褒めているようには聞こえんな」
「安心して。褒めてないから」
 仰向けになったまま周囲を見渡すと、彼の仲間が集合していた。皆が思い思いの姿で寝ている中、今彼が最も気になっている二人が見当たらない。
「自分が犯した罪を、悔いてるんだよ。尊敬すべき師に怪我をさせたことは、きっと何よりも心が痛むから」
 彼の心の内を読むように、少年が声のトーンを落として言う。目を伏せて黙り込む彼の姿を見て、少年は目を丸くし――吹き出した。
「……何がおかしい」
「右前腕骨骨折、内蔵機能の損傷、その他諸々の切り傷が数十カ所。以上が貴方の負った怪我。素晴らしいよね」
 何やら小難しい単語の羅列を並べていき、にっこりと微笑む少年。全部治してあげたけど、苦笑混じりに言う。
「まあ、貴方が大怪我をしたおかげか何だか知らないけど、あの二人はほとんど無傷だったよ。脇腹の傷は思ったより浅かったし」
 彼が安堵したような表情に変わったのを見て、少年はふっと笑みを浮かべる。どこまで仲間想いなのか、と訊いてみたくなる。普段あれだけ冷静沈着な彼が、仲間の無事を知るだけでこんなにも表情が穏やかになる。これでよく笑わないものだ。
「それと……宿の人たちだけど、奇跡的に死亡者はいなかったよ」
 一瞬耳を疑った。あれだけ派手に暴れていたのに、死者はいなかったと言うのだ。「まぁ、宿は追い出されたけどね」と、あまり笑えないようなことを少年は明るく言い放った。ということは、ここはどこか別のところで新たに泊まった宿なのだろう。
「さて、と……それじゃあ僕は眠らせてもらうね。隣にいるから、何かあったら壁でも蹴って呼んでよ」
「……待て。お前まさか、一睡もしていないんじゃ……」
「あれ、よく分かったね。別にいいよ、一晩くらい寝なくても平気だから」
「……悪い」
「別にいいってば……貴方に謝られると逆に気持ち悪いよ」
「前言撤回してやる」
 そんな会話を繰り広げながらも、少年魔法士は部屋の扉を静かに閉めた。
 彼は自分の右腕を持ち上げた。少年の言ったとおり、そこには包帯とギプス。試しに腕を動かしてみたが、激痛で動きそうにない。使い物にならない右腕とは対照的に、左腕は何故か、とても温かく感じた。ずっと温かいものに包まれていたような安心感。それが全身に回ったのか、それとも――
 彼は再び、仲間に囲まれて瞼を閉じた。
前へ トップへ 次へ