第四章第五話 紅の剣
前へ トップへ 次へ
強く願っても拒んでも、暗殺を覚えている腕は止まらなかった。もう何人攻撃しただろうか。逃げ惑う人間の背中がひどくちっぽけに見えて、こんなことは止めたいと願う心とは裏腹に、歯止めの利かなくなった足と腕が、もっと血を見たいと叫ぶ。脳で判断するよりも先に身体が動き、刹那、悲鳴も上げることなく緩やかに倒れるヒト。宣言通りだと言わんばかりの結末だった。飽きるほど続く、飽きのこない風景。いつになれば、この生き地獄から解放されるのだろう。脳が身体を支配している訳ではない、身体が脳を支配しているのだ。あり得ない事なのに、現実に身体は『本体』の命令を聞こうともしない。意志など最初から無いものとされ、身体が全てだと主張している。
――ならば、この身体をどうにかして止めればいいのではないか?
そうだ、誰でもいい。何人だろうと構わない。力ずくで押さえつけてくれ。それでも動こうとするなら、いっそのこと殺してくれればいい。そうすればこの悪夢は終わる。何の罪もない人々が、一個人の勝手で負傷することもなくなる。誰にとってもいい結果になる。この世の恐怖が一つでも消えることが、いいことでないはずが無い。少なくとも一つの脅威は消えて無くなるのだから。
ほら、見てみろ。来た……。あの人なら、この壊れた人格を消してくれるはずだ。
そうだろ、兄貴――。
「イチカ…」
夢見心地で呼ぶその名。当然彼は振り向きもしないが、碧にとってそれはどうでもいいことだった。今目の前に『イチカ』がいる。それだけで十分なのだ。彼にとっては小さな小さなことなのだろうが、それでも嬉しくて、もう一度呼びかけてしまいそうになるのをこらえて、喉元まで出掛かった声をうち消して、決して自分を見てはくれないその銀色の影に微笑みかけた。
考えてみれば、いつも彼を見るときは背中ばかりだったように思う。真正面からイチカを見たのは数えるほどしかないし、顔を見たことはあるが真剣な横顔だけが印象に残っている。仮に正面に回ったとしても眼をそらされてしまうから、しっかりと間近で見たのは殺されかけたときくらいだろう。と、そこまで考えて脳裏をよぎるのは憎悪の表情。見下ろす瞳の、なんと冷たかったことか。今助けに来てくれたということはあのときに比べれば大分心を開いているようだが、まだ全てを知ったわけではないし、許してくれたわけでもない。その冷たくも美しい表情をしっかと見詰めるには、当分時間が掛かりそうである。
――だからせめて、後ろ姿だけでも。
振り向かぬなら、振り向くまで待とうホトトギス。今この瞬間が大事なのだ。好意を持って見詰めていればいつかは気づいてくれるはず。
というのは碧の独断的判断だが、恋に恋をする年頃の少女である。影からひたすらコールを送っているのが普通なのかも知れない。
触れただけでどの方位にも広がっていきそうな、肩に掛かる銀髪。鎧の上からでも分かるたくましい、けれど細い体つき。重そうな剣を支える右腕。地面を押し返し、斬撃を受けた剣を腕ごと支える両足。
そこまで見て、碧はふと気がついた。見ようによっては度の過ぎた変質者のように上から下までイチカを見詰めていた彼女の視線は、ある一点で止まる。それは、彼自身を支えるべき身体の一部、すなわち両足の間であった。そこには何か染みのような黒っぽい楕円があり、どこからか不定期にこぼれ落ちている。
碧は悟った。
深刻な事態に陥っているのは自分だけではないのだ、と。
「イチカ、怪我して……!!」
「黙っていろ」
彼に起こっている事態を理解した碧の動揺の混じった言葉は、しかしイチカの冷静な声により遮られる。
幸か不幸か――それまで静止していた少年らは碧の言葉を合図としたか、暫しの睨み合いの末後方へ大きく跳んだ。対峙する師弟。だが今までと違うのは、これがただの手合わせの一コマではないということ。
「……奴の思惑通りになったわけだ」
苦笑していてもおかしくないほど、イチカの言葉には諦めに似た感情が含まれていた。今だけではない。咄嗟に飛び込んで彼女を助けたときも、それ以前にも、弟分の殺気は止むことを知らなかった。それどころか、攻撃を受けたときより一層その気配が増した気がする。自分を見上げる二人分の双眸は、揺らぐことなく吊り上がっていた。相当な重症患者と言ったところか。一応の兄貴分を見ても斬りかかってくる根性は大したものだ、と思う。それ以外にも――
「お前たちがやったのか」
どこに目をやっても石のように転がる人々。あるものは貫かれ、あるものは叩き潰され、血塗れになった者たち。当の加害者たちからは口を開いて言い訳をするような素振りは微塵も感じられない。彼らにはもはや、何の反省も後悔も期待できないだろう。
「……そうか」
だが彼は、少なくとも理解はしてやろうとした。少年らの彼を見る目は『兄貴』や『師匠』などという生易しいものでなく、一人の『標的』だ。それでも、あくまで正常な者と会話するように接したかった。物言わぬ口、目の奥にははっきりと頷く姿が見えたのだ。彼らはまだ、全てを失ったわけではない。自分を見失ったわけではない。救えるはずだ。彼らが捕らわれている闇の底から。
もう痛む腹の傷には構っていられないところまで来たらしい。多少無理をしただけなのに、目の前の風景が、暗殺者へと転換した二人の姿が霞んでは揺れる。予想以上に出血の量が多いのだろう。だが怪我をしているのはお互い様だ。彼らがベストの状態でなかっただけ奇跡に近い。
かけがえのない仲間の姿が今度こそ揺らめいて、反射的に持ち上がった剣にのし掛かるのは二重の重み。もう、迷っている時間はない。
「覚えておけ」
くっ、と支えた状態から僅かに持ち上げた剣に左手を添える。救いたい。強くなりたい。仲間を助けられるような力が欲しい。剣に全ての想いを注ぎ込み、瞼を閉じて、願う。『彼』はその術を知っている。誰かを止めたいとき、誰かを助けたいとき、その力は目覚める。
「お前らの兄貴分はしぶといんだ」
再び開いた銀の双眸は、赤く染まった一本の剣を映した。
「あれは……!?」
「……分からない。けど何か、特殊な作用があるみたいだね……」
ミリタムはそう呟きながら目を伏せる。魔法のことならば自負するほど詳しいが、一般の武器にはあまり関心が無いせいか疎い。
「殺気を武器に練り込ませるような剣なら聞いたことがあるけど、あれはちょっと型が違うし。前から思ってたんだけど、イチカの剣ってどこで買ったの?」
ねえラニア、といきなり話を降られ、柱に隠れるようにして屈み込んでいたラニアは立ち上がろうとして――しかし身体がついていかず、後ろ向きにひっくり返った。それでも頭と膝は地面に付いているのだから、器用と言えば器用なのだろう。それを見ていた白兎とミリタムは暫しの絶句の後、口を開いた。
「……へえー、やっぱり銃士は派手なリアクションが売りなんだね」
「銃士って言うよりァ劇団やってる方が似合ってねェか?」
「おーきなお世話よ」
頬を赤らませながら起き上がり、ぱんぱんと身体中を叩く。
「で、なんだったかしら。……ああ、イチカの剣ね。どこかから拾ってきたみたいだったけど、よく分からないの」
思わず顔を見合わせる白兎とミリタム。拾ってきた剣にあれほどの特殊効果があるとは。その視線は自然と、再び戦い始めた少年らに向けられていった。
金属の弾き合う音が不快なほど、耳によく残る。互いを削り取るような感覚。全て擦り切れた方が事切れる。こんなに激しくて息の詰まるような苦しい闘いなど見たくなかった。だがどちらかが勝たなければ、この沈痛な空気は振り払えそうにないだろう。結局は勝敗なのだ。その後のことは、勝者が決めることなのだから。
「……だ」
だからといって、そのまま行く末を見守ることは難しい。今すぐ駆けだして、彼らの仲裁に入りたいのは誰だって同じだ。碧はその想いが人一倍強いだけ。たとえ自分が斬られようが殺されようが、そんなことはどうだっていい。そんな少女だ。
「……いやだ……」
だからこそ、これ以上は見るに堪えなかった。この闘いを止めてはいけないことは分かっていた。一部始終を見ていたらいつか必ず足が動き出してしまいそうで、怖かった。けれど、目をそらすのはもっと嫌だった。
「いや……いやだよ……こんなの、いや……!!」
「――そんなら、止めさせてみっか?」
場違いなほど陽気な声に振り向くと、そこには場違いなほど明るい柑橘色の影があった。見覚えがあった。それもそう昔のことではない、ほんの数十分前。その人影は確かに、イチカと戦っていた青年だった。
「あ…あなたは……」
「んぁ? ああ、オレか。ウオルク・ハイバーンっての。よろしくな嬢ちゃん」
碧が訊ねたいこととは全く別の内容を説明し、青年――ウオルクは微笑んで見せた。碧は不信感を募らせながらも、毒気を抜かれ警戒心が衰えてしまった。思わず微笑み返そうと顔の緊張を緩める。
「……またあんたか」
不機嫌そうな声が聞こえて、またもや引き締まる顔面の筋肉。案の定声の主は――イチカは不機嫌そのものの表情でじっとウオルクを見据えていた。いつの間に闘いが終わっていたのか、カイズらとイチカは何度目かの対峙の姿勢を取っていた。ただ、それまでと明らかに違っていたことがある。
「こいつらがいきなり警戒も防御も解いたのは、団の仕来りってやつか」
「まーな。今の兄貴兼師匠はオレなわけだし」
人懐こい笑みを浮かべながら視線を流す。その先には、ウオルクに向き直り片膝と片手を付いて微動だにしないカイズとジラーの姿。まるでどこかの国の王に謁見しようとする旅人のように、頭を垂れてじっとしている。おそらくガイラオ騎士団では『いかなる理由があろうとも、敬慕すべき者の前では戦闘は避けること』とでも教えられているのだろう。
「何の用だ。くだらん事ならお前から先に片づける」
「そーケンカ腰になんなよ。とっておきのヒント与えてやろうと思ったのに」
「……ヒントだと?」
「そ、ヒント」
緩むどころか逆に締められていくイチカの殺気に、ウオルクは年不相応なため息をついた。
「お前のその殺気だけ団にくれりゃあ嬉しいんだけどなぁ……まずオレの何が気にくわない?」
「存在自体」
「……ガイラオ騎士団ってのはな、言っちまえばガキだけで構成されてんだ。それ故に自ら入団希望する奴はほとんどいない。だから近くの村からかっさらって来る」
イチカの否定要素たっぷりな言葉を聞き流し、示唆を仄めかすウオルク。文末の言葉で再び彼の殺気が膨張したのを肌で感じながら、気付かない振りをして話を進める。
「そのときやっぱり泣き叫んだりするわけよ。大事な大事な人材を殺すわけにもいかねーから、一つ『細工』をしてやるんだ。そうすると、素直に言うこと聞いてくれるようになるんだよな、これが」
それこそが、彼なりの重要なヒント。団員ならば誰でも知っているような常識だが、果たして一般人に通用するものかどうか。そしてこの少年は、この言葉の意図を理解しているのか。それによって答えは左右する。
「……その『細工』をこいつらにも施しているわけか」
「おっ、なかなか切れるじゃねーか」
くだらん、と小さく舌打ちする音。だが、今の証言は間違いなく役に立つことだった。不本意ながらイチカはそう思う。
「そこまで分かってんならこれ以上のヒントは要らねーよなぁ? じゃーなイチカ、健闘を祈るぜ」
「だったらおれに言うより貴様が治せ! おいっ!」
苛立ちを露わにした声でウオルクの背中に罵声を浴びせるが、当の本人は馬耳東風。程なくして彼は暗闇に紛れ、どこかに去ったことを示した。
「……くそっ……!」
紅に染まった剣を力強く握りしめ、ウオルクが去った方向を睨み据える。確かにそこまで分かれば大分答えが見えてきたようにも思える。しかしその決定的な『細工』の検討はついていない。食物か、暗示か、装飾か、それとも。それに方法が分からない以上、彼らは戻らない。ますます苛立ちと焦りは募る。
「……!」
そんなイチカに追い討ちをかけるように変化した空気は――言うまでもなく、今現在の師を見届け戦闘を再開しようとする、弟分の殺気であった。最悪だ。唯一の救いはそれだけ大きく鋭く研ぎ澄まされた殺気を持ちながら、すぐに仕掛けてこないことぐらいであろう。彼らは警戒しているのだ、とイチカは考えた。ここまで手こずったことなどないと、プライドを傷つけられたのかもしれない。
(……信じたくないのに、ここまで来るとあまり抵抗は無いな)
彼らが暗殺集団の一員であったという事実。今まで否定し続けていたが、いつもの手合わせの三倍以上はあるであろうその実力を前にして、少なくともただの少年戦士でないことだけは分かった。もし彼らを正常に戻すことが出来たなら、今の力で手合わせ願いたいものだと思う。
雑念ばかりだということに気付いて、イチカは小さくため息をついた。一大事なのに、明らかにこの闘いを楽しんでいるではないか。そもそもの原因を考えなければ。
(昼間までは……いや、さっきまでは普段と何ら変わりなかった。ということは、時間を掛けなければ効力を発揮しないようなものか? だとしたらおれの知る限り、ここに来て何も口にしていないから食物は除外できる。暗示か、装飾か、それ以外か)
暗示だとしたら絞り込みにくいのは確かであろう。ウオルクの口から出た言葉ははっきり言ってどれも暗示じみていた。あまり関係は無さそうだが、癖のように剣を振り上げる仕草はどうなのだろう。イチカの目から見たウオルクはどれも滑稽で、誰かを殺したとしても気付かずにいたかもしれない。言い換えればそれくらい怪しいのだ。行動のどれを取っても疑いは消せない。
カイズらが未だに動かないのを確認しつつ、今までの行動を大まかに振り返る。全てを振り返っていては答えに辿り着けない、なるべく関連性のある出来事だけを挙げていくべきだろう。
(――関連?)
「ラニア!!」
「はっ、はい?!」
「バッジだ! ガイラオ騎士団のバッジはどうした?!」
突然呼ばれて間の抜けた声を出すラニアを気にした様子もなく、はっきりと用件だけを告げる。「バッジ?」と小首を傾げる彼女だったが、ややあってぽん、と相づちを打った。
「宿に着いたあとすぐに、カイズが『バッジを見せてほしい』って。それきり……」
「そうか、分かった」
最後まで返事を聞くことなく、再び対峙するイチカ。その表情にはもう迷いなど無くて、ただ一つの決意を秘めたような、真摯な瞳をしていた。その時点で彼が何をしようとしているのか気付いておくべきだったのかも知れない。
イチカは凍て付いた氷のような無表情で――自らの鎧に手を掛けた。
瞬間、碧には彼が何をしたのか理解できなかった。到底理解しきれるものでもなかった。けれどもその『音』は不規則に鳴り響くし、自分の目で見ても明らかに何かが減っていくような、そんな錯覚を覚えた。否、錯覚などではない。誰の目で見ても明らかだ。彼は間違いなく、その身を覆う軽鎧を自らの腕で剥ぎ取っている。首の留め金、肩、胸、腰、腕、膝の順に外されていくパーツ。あまりにも無防備な行動に誰もが言葉を失い、驚きを露わにした。最後の締め、とでも言わんばかりに投げ捨てたのは先ほどまで持っていた紅の剣。地面に叩きつけられた鋼は虚しく乾いた声を上げ、静まる。今のイチカを覆うのは普通の町人と変わらない、簡素な着衣のみだ。上衣の中央部分に真新しい赤い染みがあり、怪我を負ってからそう時間は経っていないことを物語っている。
「交換条件だ」
手首を軽く捻りながら、カイズとジラーに向かって言う。彼らは明らかに動揺している。それを更に揺さぶるかのごとく告げられた言葉は、
「来い。いくらでも攻撃されてやる」
「イチカ?!」
迷いのない、透き通るように響く声が悲しかった。もうそれ以外に選択肢は無いのだと、彼は遠回しに言っているのだ。それが分かっていても、今から起こり得る悲劇を一から十まで見るなどどうして出来るだろう。どうしてこうも簡単に、自分を犠牲に出来るだろう。
迷っているのは仲間ばかりでない。カイズもジラーも支配が解けたわけではないが、言われたとおりすぐ動くことはなかった。心が開きかけているのだ。つかの間の解放は、しかし一瞬だった。どちらからともなく、武器を握って走り出す。まだ迷いを秘めたまま。
「どうした! 無抵抗な獲物を捕るほど楽なものはないだろう!?」
彼らの迷いを読みとったか、イチカは更に煽る。吹っ切れたのかそうでないのか定かではないが、少年らの向かってくる速度は上がった。カイズはレイピアを槍のように、ジラーは斜め上にハンマーを構え、“無抵抗な”獲物を殺すべく放つ。
どすっ、という鈍い音と同時に碧は両目をきつく閉じた。何が起きたかは分かった。それが起きた瞬間なんて見たくないから、目を瞑った。
彼女は気付いていなかっただろう。鈍い音が鮮明に聞こえたせいで、ガラスの割れるような繊細な音は耳に届くことはなかった。強く握られたイチカの左手からこぼれ落ちる無数の欠片はバッジの残骸で、彼の脇腹を突き抜けた細い剣と、持ち上げた右腕に重くのし掛かる金槌の持ち主らは一筋の滴を落としていたこと。そして――紅の剣は、もう持ち主と同じ銀色に戻っていたこと。
赤が、舞い落ちた。
前へ トップへ 次へ