第四章第四話  交差する想い

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 紅い、紅い風景。何の色にも染まらぬ、紅。
 美しいのかもしれない。だが今この目に映る光景を、その『美しさ』に分類してはいけないことはどこかで分かっていた。
 ――やめろ!!
 目の前で、また人が倒れた。否、己の手で攻撃した。その度に胸が痛む。すぐに、血にまみれた凶器を下ろしたかった。だが思いとは裏腹に、自らが鍛えてきたあまりにも繊細な軌跡は一向に止まることはない。そして――唇の端が、人を斬りつける度に吊り上がる殺人狂のようなその表情さえ、自分で制御することも叶わない。それは何よりも、彼らの嫌う事だった。五年前に封印したはずの暗殺者としての『自分』と、団長の命令を唯一の至福とし、暗殺をすることに生き甲斐を感じ、恐れすら抱かなかった『自分』。
 恐怖を抱かない自分が日に日に恐ろしくなった。いつしかそんな感情すら消えて無くなり、人殺しにのみ快感を覚えてしまうのではないか。目の前で命を失う人間に、なんの同情も感じなくなってゆく自分が堪らなく恐ろしかったから――
「脱走する、だって?! 何言ってるんだカイズ、無理に決まって……!!」
「しーーっ! 声がでけーぞジラー! それに無理じゃねえ、オレは死んでもここから抜けるぜ!」
「……本気なのか? オレ達、敵同士になるかもしれないんだぞ?」
「……(こえ)ぇんだ」
「え…」
「怖ぇんだよ。オレな、いつも人を殺すとき笑っちゃうんだ。頭じゃおかしいと思ってるのに、気が付いたらニヤけてる。このままここにいたら、今感じてるこの感情さえ忘れてしまうんじゃないかって」
「……やっぱり……カイズも、か」
「え? って事は、お前もか?」
「ああ。分かってたんだけど、なかなか行動に移せなくてさ」
「じゃあやっぱりオレと脱走しよーぜ! 二人なら全っ然怖くねえよ!」
 互いに信頼しあえる相棒と、脱走を図った。
 決めたのは大分日が傾き、団員全員で夕食を食べ終わった後。カイズにとって信頼できる仲間は何人もいたが、特に信頼でき、いつも行動を共にしていたジラーを呼び出したのだった。日が完全に沈みきり、団員が寝静まるのを見計らって彼らは動き出す。
 ガイラオ騎士団員が寝食を共にする広場にはテントが幾つも張ってあり、原則としてひとつのテントに団員二人で寝ることになっている。カイズとジラーは偶然出身・年齢も同じだったため、同じテントで寝起きしていたことが幸いしたらしい。当然のごとく見張りは何人かいるが、「トイレ」と言えば抜け出すことは容易だった。気配を残さぬよう、慎重に歩を進める。
「……よし、こっちだ」
 入り口付近には広場の倍近く見張りがいる。こちらにはトイレはなく、あるとすれば団長室だ。下手をすれば、団長に見つかり計画が失敗に終わる可能性が高い。そこで二人は、脱出の基本中の基本『人が少ない場所』である裏口を使っての脱出を試みた。読み通りそこに人の気配はなく、脱走はうまくいったかのように思えたが――
「ここで何をしている?!」
 突然響いた声に、反射的に振り返る。ガイラオ騎士団員の鎧だ。それ以前に、二人にはその声に聞き覚えがあった。右手には抜き身のバスタードソード、燃え盛るようなオレンジの髪。
「ウオルク……さん……」
 乾いた声を出すカイズ。それとは対照的に、声の主――ウオルクは目を丸くして、目前に立つ弟分の姿を見つめた。習慣で瞬時に放ってしまった殺気は抑えられ、その場の微妙な空気を切り払うようにバスタードソードを振り上げ、肩に担ぐ。
「なんだ。カイズにジラーじゃねーか。どうした、トイレか?」
 滑稽(こっけい)な口調で訊ねるウオルクに対し、二人は黙り込み、返答できないでいた。今までなら、彼以外に会っていたなら、はっきりと肯定の言葉を返しただろう。今回ばかりはそれは出来ない。いつからか実の兄のように慕ってきたウオルクに嘘を言う事など出来ない。それに――心のどこかで「彼ならこの行動を理解してくれる」と思いこんでいた事もある。
 依然黙り込んで喋ろうとしないカイズらを不審に思いながら、ウオルクはひらめいた。
「……何を思い詰めてる?」
 どうやら核心をついた言葉だったらしい。ふたりの表情がトイレなどではないことを如実に語っていたが、今の言葉で肩を震わせたということは、何かを実行に移そうとしているのだろう。
 兄貴分である自分にさえ言うのをためらうほどの何かを。
「脱走だとか言うんじゃねーだろな?」
 冗談のつもりで言ったのだが、目の前の弟分たちは明らかな動揺を見せていた。こぼれそうなほど目をいっぱいに開いてこちらを凝視してくれれば、嫌でも「なんで分かったんですか」と言っているように見える。オレってヘンに鋭いなぁ、言わなきゃ良かった、と――自賛しているのか後悔しているのか――考えた末に。
「まぁ、否定しないってことはよっぽど意志が(かて)えってことなんだろーけどな。オレはそーだけど団長もきっと言うぜ? “もったいない”って」
 それはウオルクなりの引き留めだった。彼は全団員中現団長と最も近しい間柄で、団長の愚痴らしき事もよく聞いていた。「〜は最近態度が悪い」とか「〜の修行は怠惰に過ぎる」とか、そんな話の中に、まれに褒め言葉があった。それがウオルクの弟分であるカイズとジラーのことだったのだ。「奴らの成長が楽しみだ」と、本当に楽しげに言っていた団長。団長の思いは自分の思いだと、切実にそう思う。
 出来ることなら考え直してほしかった。満面の笑みを浮かべて「嘘です」なんて言うのを見て、兄貴らしく注意して、テントに帰っていく二人を見送って。
 それでも、二人の表情や気に変化はない。本気なのだ。迷いすら感じさせないまっすぐな瞳が、今の自分には痛い。
「……分かった。オレから一つ課題を出してやる。それをクリアしたら、お前らの勝手にすりゃいい」
 出来ることなら、これは言いたくなかったけれども。
 やはりためらってしまう自分を奥へと追いやるように、バスタードソードを大振りし、横手に構える。その意味が理解出来ないのだろう、カイズもジラーも、困惑の表情を浮かべている。あるいは理解を拒んだのか、どちらからともなく一歩足を退く。
「逃げるな」
 その言葉自体が攻撃だ。それ以上動かないように、低く言い放つ。逃げることはすなわち、負けを認め、死を認めるも同じ。この地で同じ土を踏む仲間のうちは、その教訓は有効なのだ。
 案の定――殺気を感じ取ったのか、それ以上二人は動かなかった。固唾をのんで、次に来るであろう言葉を待つ。言葉次第では、ウオルクと同じように武器を持たなければならなくなる。
「課題は、『オレに一撃与える』こと。攻撃の仕方は問わねえ。ただし手加減しないし、するな。オレはお前らの攻撃を防ぐだけで、反撃はしない」
 やはりと言うべきか、彼らの表情はめまぐるしく変わった。言葉を発すれば発するほど深刻な色を増していく。常に前線を突っ走っていた少年らに、かつてないほどの隙と甘さが生まれていた。
「そ、そんな……そんな事……」
「選択の余地はねーぞ。お前らは団を抜けたくて抜けようとしてたんだろが。戦う相手がオレでもオレじゃなくても、大差はない」
 まだ何か言いたそうな顔をしている弟分らを見ているだけで腹立たしくなって、ウオルクは無言で歩き出した。慌てて後をついていくカイズとジラー。そんな彼らを横目で見ながら、歩を進めるウオルク。
 無数の星が見えるほど晴れ渡っている夜空に目を奪われ、危うく当初の目的を忘れるところだった。何故こんな日に限って空は澄み切っているのだろう。いっそのこと星など見えないくらい雲で覆われた、暗い空なら良かったと思う。いつもより空は高く、到底星は掴めないことを思い知らされた。星と同じくらい、人の心は掴みようがないことも。
 やがて行き着いた場所は、視界が開け、先程よりももっと星が見えた。真後ろには森のような団本部があるのに、目の前にはただただ石と砂ばかりの地面――否、そこだけ平らに削られた崖が広がっている。しばし天を仰いだウオルクは、その視線をゆるやかに下方へ向けた。その先には急な崖が広がるばかりだと思われるが――。
「ほれ、見てみろ。お前らの故郷だ」
 顎で示せば、半信半疑ながらも崖に近づいていくカイズら。遠くに山が、中頃に森が見えて、さらに視線を前へ戻してそれを見た。小規模ではあったが、たしかにそれは村だった。木造の家が幾つも見えた。正直、懐かしさなど無かった。けれどもそこが自分の故郷だという実感が、僅かにあった。
「あれが……オレ、たちの……」
「『ベルレーヴ村』だそーだ。『課題』をクリアしたらここを駆け下りて報告も自由。文字通り自由の身ってワケだ」
 オレにはあまり理解できねーけどな、と自嘲気味に言って、ウオルクは二人に向き直った。
「タイムリミットは日の出まで。それまでに出来なかったら……二度とあれを見れねえと思いな」
 背中でウオルクの言葉を受けるカイズとジラー。今振り向けば、間違いなく武器を持たなければならなくなる。しかし、ここで戦わなければ二度とあの村を見られなくなってしまう。何故だろう、一度見ただけなのに無性に懐かしさがこみ上げてくる。これが郷愁の念(ノスタルジー)、と言うモノなのだろうか。
 横目で相棒を見れば、同じように見つめてくる相方がいて。
 どちらからともなく武器を閃かせたのは、次の瞬間だった。細く繊細な軌跡と、太く強靱な軌跡が空気を分ける。
(もう、後戻りは出来ない。したくない。……負けられない!)
 二人の後ろ姿を見つめた状態で、ウオルクは彼らの本気を悟った。たった一度見せただけで、何の迷いも躊躇も無くなっている。感心した。それ以上に、自らの愚かさを知った。
「……やっぱ、あの村はツブしとくべきだったか」
 独り言のつもりで呟いた言葉は、静かな夜には通用しなかったようだ。足を横に開き、いつウオルクに向かって行ってもおかしくないほど、二人の瞳は彼を見据えている。あんなハンデやるんじゃなかったな、と今更ながらに後悔した。
 少し早めに三つ数え、同時に地を蹴る。共に駆けた後は、それぞれが思い思いの方向に散る。ウオルクが手合わせで見てきた彼らの癖だ。予想通り――気配は彼らが数メートル走ったあと分散、一人が背後を取り、もう一人が『おとり』と数秒ずらして攻撃を仕掛けてきた。背後を取ったのは――刀身にのし掛かるような重圧。ジラーだ。これをウオルクは剣を押し出すように振り抜き、その勢いで『時間差』攻撃をしてきたカイズの突きをすくい上げるようにはじく。それぞれの武器に加わった重圧を勢いに変換し、背後にある森に身を隠す。手合わせの時と違って攻撃されないので、休む間もなく再びウオルクに向かっていった。

 長身で小回りの利かないバスタードソードだが、何度も手合わせをした相手の癖は不思議と分かるようになってくる。攻撃パターンが読めるのだ。ともすれば双子なのではないかと錯覚するほど息の合っている二人だが、やはり違う人間である。似ているようで違う動きには規則性があり、正直すぎる斬撃が命取りになっている。普通の手合わせならば、そろそろ決着がつく頃であった。
 だが――この二人とウオルクとで、決定的に違う点がある。それは諦めの悪さと、体力の持続力だ。
「……なかなか粘ってくれるじゃねーか……」
『課題』を出して何時間が経ったのか。この団体に所属しているからには体力が必要不可欠となってくるが、それにもピンからキリまである。ジラーに至っては『体力バカ』と呼ばれることがしばしばあるほど、何をしても疲れない体質ならしい。
「カイズーっ、生きてるかー?」
「なんとか……って、てめ本当に人間か…?!」
 時折聞こえてくる遠距離的な会話に、口元を緩めずにはいられない。気を紛らわせようと崖の向こうに目をやれば、山の上方が僅かに白けている。
「お前らなーそろそろ時間切れだぜー」
 そう呼びかけてやると、どこからか「何ーーっ!?」と声。この慌てようはカイズだろう。
「ちぇっ……ジラー!! あれやっぞ!! 『作戦K』!!」
「あれかー? 別にいいけど、本当に大丈夫かー?」
「こんなことで負けてられっかよ!!」
 カイズの叫びと同時に、全く別の茂みから駆けだしてくる二人。左右から挟み撃ちの状態だが、やはり二人は別々の方向に跳んだ。『作戦K』と言いながら、全て同じなのではないかと疑いたくもなる。当然のように後ろからの打撃を剣で持ち上げ、茂みに後戻りしていくジラーを見送る間もなく前を向く。カイズの突きは――来ない。不審に思いながら周囲を見渡すも、気配を絶っているのかどこにいるのか見当もつかない。珍しい方法だとは思ったが、ジラー一人に任せるのであれば相当血迷っていることになる。そろそろ策が尽きたのかと腕組みをした――その直後、左腕に電流が走るような痛みを覚えた。力が入らず、だらんと垂れ下がってしまう。見れば二の腕から肩にかけて、赤い筋が一本引かれているではないか。
「一撃、加えたぜ」
 声のした方向を見れば、カイズがレイピアを地に突き刺し片膝をついていた。その表情には暗殺を成し遂げたときのような達成感はない。地面に点々と残る赤い痕は、血なのだろう。それを見てようやく、合点がいった。
「……なるほどな……殺気まで同調させた、ってワケか」
 カイズは答えない。視界の隅に移ったジラーも、何も言おうとはしない。だが間違いないのだろう。通常ならばそのような芸当は出来るはずはないのだが――好物・思考・趣味などほとんどが一致する二人だ。殺気を同種類にすることくらいはできるのだろう。
「ま、『課題』はクリアしたことだし行けよ。団長あたり、そろそろ気づいてこっちに来るかもしれねーし」
 至って気楽な口調で言うウオルクに、カイズもジラーも戸惑いを隠せないようだった。少なくとも夕方までは、信頼し合える師弟だったというのにあっさりしすぎている。それに加えて左腕の傷は深く、そう簡単に塞がりそうにない。責任感が焼き付いて離れないのだ。
「早く行け!!」
 先程の穏やかな口調からうって変わり、罵声を浴びせるウオルク。びくっと肩を震わせ、カイズらは早急に崖を滑り降り、その場をあとにした。
「……そのうち連れ戻しに行くぜ……」
 彼がそう呟いたことも知らずに。

 全てが黒に染まったはずの世界で、銀色が風に揺れていた。
 今夜はかなり冷え込むな、と燃え盛る炎を思わせる髪を持った青年は、空に浮かぶただ一つの光を見つめて思った。ふと思い出したように地面へと――夜空に比べれば随分と汚らしい地上へと視線を向けた。全てが黒に染まっているはずの地面に、ひとつだけ異質な色素が目に入る。薄氷を思わせるその色は、世界が創り出す風に掬われては落とされている。動きと言えばそれだけで、風がやめばただうつぶせに倒れているだけだ。
 死んでいるのか、生きているのか、それすらも判断しかねるほどその人物は身動き一つしなかった。青年は黙ってその人影を眺めていた。助けるわけではなく、とどめを刺すわけでもなく、ただじっとしていた。正直に言えば青年は、その人影に興味があるのだ。技術は暗殺者として見ても一目置くほどだが、剣を持ち始めてからそれほど経っていないようにも見える。少なくとも熟練した剣士とは言えない。
 それ故に気に掛かるのだ。普通剣技というものは基礎が組まれて初めて威力を発するものだ。しかしこの少年の場合はその逆なのである。安定しているように見えるが、実際はただがむしゃらに剣を振るっているだけであろう。『天性』とでもいうのか、本能がこの少年を動かしているのかも知れない。また、天性だの本能だのだけで解決できるような話ではないのも事実だ。この少年は、『誰かのために』初めて力を発揮するタイプだ。宿で派手に暴れているであろう弟分たちを心配していたことは、考えなくても分かった。多分――仲間思いなのだ。だからあれだけ怒りをあらわに出来る。だからあれだけ並はずれた技能を持てるのだ、と。
「ウオルク」
 唐突に声をかけられ、しかし驚くわけでもなく振り返る青年。その視線の先には、下卑(げび)た笑みを浮かべた男達が五人。品性の欠片もない乱れた風紀――すなわち顔中にピアスを開けている者、鎧の下に何も着ていない者、その鎧すらまともに着こなせておらず、鎧の至る所に性的な文字列を書き殴っている者など。青年に声をかけたのは、見上げるほど長身だが顔を動かさなければ全身を見ることもままならないほどの肥満体質な男だ。唯一どの男にも共通していたのは、青年と同じ『ガイラオ騎士団』の鎧を着ていることだった。
「どうだァ? 目的のモンは取り返せたのか?」
 身体中をぼりぼりと掻きながら訊ねる男に眉をひそめる青年。青年にとっては受け入れがたいことだが、彼らは皆青年の同期だ。それにしては青年よりも成長が遅く、色々と噛み合わないこともあって自分から避けていたのだった。
「……いんや、まだだ」
 例え嫌っていようと気楽に話しかけるのが青年の心構えだ。肥満男はぴくりと眉を動かしたが、分厚い唇を歪めて小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「で、そんなひよっこに手こずってた、ってワケか」
 男が言い終わる前に、下品な笑い声が辺りを覆う。なにやら気に障る言葉があったような気がするが、聞こえなかったことにして言い返す。
「ひよっこだと思うなら戦ってみろよ。強いぜ、こいつ」
「なあ?」と振り向いた先には、いつの間にか意識を取り戻したらしい少年がゆっくりと立ち上がったところだった。青年はやはり人懐こい笑みを浮かべながら少年に近づくと、すれ違いざまに何かを耳打ちした。少年は僅かに眉をひそめ――面倒くさそうに剣を拾う。
「アんだ? おめーがオレの相手するってのかァ?」
 やはり馬鹿にしたように、今度は鼻をほじりながら訊ねる肥満男。だが少年は怒りもせず、ただ黙って剣を水平に押し出す。
「しょーがねェなァ〜〜。あんまし弱っちいと、その首はねちゃうぜ?」
 大型の斧、バトルアクスをちらつかせ、少年を威嚇――本人の感覚である――する。どっと下劣な声が笑いに変わるが、やはり少年はなんの表情も示さない。ただ――
「なんでもいい。来い」
 静かに、冷ややかに言い放つ。少年をよく知る者ならば分かるであろうが、こういった口調は呆れた時に使うものだ。おそらく少年自身は目の前の男の戦力などどうでもいいのだろう。ただ、一刻も早く宿に駆けつけたい一心で言っただけのことだ。裏を返せば――男の強さは、少年が問題にするまでもない程度だということになろう。そればかりは男も理解できたようで。
「この……クソガキがあああ!!」
 額に青筋がいくつも見えている。要するに大いに憤慨しているのだ。怒りの勢いで、男はバトルアクスを縦に振り下ろしてくる。切れ長の瞳を更に細め、少年は小さくため息をついた。そして、剣を地面に対して水平に構え、そのままの体勢で迎え撃った。
 地面の揺れとともに、半径十数メートルは抉られたであろう土地は、跡形もなくなっていた。少年と男は未だ姿が見えないが、男の仲間たちは口々に男の勝利を確信するような事を言っている。だがウオルクは、涼しい顔で円状の穴の中を見つめていた。
「……あれ、見てみろよ」
 何かを認めたらしい。目で穴を示し、男たちを誘導する。顔を見合わせながら穴を覗いた彼らは、
「……!!」
 バトルアクスを粉々にされ、呆然と仰向けになっている肥満男の姿を認めたのだった。

 結界【(サイ)】を造り、物陰からゆっくりとカイズたちに近づいてゆく。
 碧の新たな能力によって無事回復した【火蜥蜴(サラマンダー)】は、彼女に助言を与えた後ミリタムによって元いた世界に返された。それを嬉しく思ったが、それ以上にプレッシャーが彼女に重くのし掛かる。【火蜥蜴】の助言は頼もしくあり、不安の材料でもあったのだ。
【あれらは心の奥底は生きている……表面を取り去ってやれば良い……】
 要約するならば、「心の扉に鍵がかけられちゃったから、その鍵を強制的にぶっ壊せばいいよ」ということなのだろう。あくまで碧の中の要約である。もっと単純に言えば、心を開けるようなきっかけを生んでやれば良い、ということだ。それならば少しは簡単だろうが、これほどの大役をやり遂げる自信など全くない。どちらかといえばこの役は、イチカかラニアが適任なのだ。かといってイチカはあのウオルクとかいうガイラオ騎士団員と戦っているし、ラニアは結界を張れない。碧がラニアの周りに結界を張ることも不可能ではないだろうが、もし失敗すればラニアの命が危うくなる。それだけは避けなければならないのだ。
(さっきの爆発っぽい音、何だったんだろう……。まさか、イチカが……?)
 考えかけて、ふるふると首を振る。イチカはそう簡単に負けるような人ではないはずだ。今までだって、何度も彼の活躍を見た。負けたことなんか一度もなかったではないか。きっと大丈夫。生きているんだから。
 イチカが無事である可能性は決して低くはないはず。そう考えると、不思議と肩の重みが減ったように思えた。自信満々な表情で彼らの近くへと歩いていく。カイズとジラーの視線が碧に向けられた――その瞬間、鳥肌が立つほど冷たい氷のような殺気が碧を取り囲んだ。尋常ではない殺気の威力に、碧は早くも足がすくみそうになる。
(なっ……こんな……これが、カイズやジラーの本当の力って事なの……?!)
 そう考えれば考えるほど、碧の膝の震えは止まらなくなっていく。汗が身体中を伝い、呼吸は荒くなる。これではいけないと、彼らに怯えた感情を抱く自分を叱咤(しった)するように膝を叩く。それだけでいくらか楽になったのは事実だ。
「カイズ、ジラー! あたしだよ、アオイ! お願い目を覚まして!!」
 なんて普通な呼びかけなんだろう、と思いつつも、真剣に訴えかける碧。だが碧の思いとは裏腹に、カイズらの彼女に対する認識は一人の『標的』だった。
 (『標的』が叫んでいる。大声を上げている。泣キ叫ンデイル。自分ヲ見テ。暗殺遂行。団長ノ命令ハ、至福!!)
「!!」
 異常なレベルの笑みを浮かべて向かってくるカイズとジラー。碧は絶望するしかなかった。あんなに嬉しそうな顔をしながら武器を掲げて襲ってくる人が、自分の言うことなど聞いてくれるはずがない。それに、ジラーの攻撃を防げたとしてもカイズの攻撃は防げるのか。結界が働くことなくあのレイピアはやすやすと貫通してしまうのではないか。ジラーのあのハンマーで頭を直撃されたら。
「あ……ああ……!!」
「アオイっ!!」
 ラニアの叫びと、彼らの攻撃が碧に届いたのは同時であった。
 恐怖のあまり目を瞑っていた碧は、どこに来るか分からない痛みの鋭さを予測して身を固くしていた。だが、どれだけ経っても痛みなど感じない。もしかしたら、痛みを感じる暇もなく死んでしまったのかもしれない。それなら痛くないしいいかなぁ、程度に感じていた碧。ゆっくりと開いた目の先にあり得ない輝きを見つけて、彼女の目は一層大きく見開かれた。例えるならば白銀の、氷のような美しさを持った髪。それが今、自分の目の前で揺れている。どうして『彼』がここにいるのか、にわかには信じがたいことだ。もう戦いはいいのか、どうなったのか、いろいろ聞きたいことはあるけれど、とりあえず今は感謝したかった。
 いつも冷静で、無口で、冷たくて、表情が読めなくて、それでも仲間想いで、泣いてしまいそうになるくらい悲しい過去を背負っていて、とにかく放っておけない。
(あたしの大好きなひと)
「イチカ!!」
 碧がその名を呼ぶと、『彼』は振り返ることなく、呆れたような声で言った。
「……魔族以外の人間に殺されてどうする」
 それでも碧は嬉しさを押さえきれなくて、ほんの少し困った顔をして、すぐに『彼』の――イチカの背中に笑いかけたのだった。
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