第四章第三話  Pathos-パトス-

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 高く金属音が響き渡る。
 大きさも形も異なるふたつの刃は、しかしほぼ互角だった。相手の青年の声と同時に始まった『死闘』は、しばし碧らを沈黙させる。未だその青年とカイズらの関係は把握できぬままで、一行の心には次第に焦燥感が生まれた。否、碧にはそれに孤立感もあったろう。
 ――あたしは何も知らない。
 それでいいと思っていた。このままでいいと思っていた。だが今、イチカと戦っている相手は明らかに彼らの過去を知っている。だからだろうか。ひとつ、どうしても気にかかる言葉が碧の脳裏で反芻(はんすう)されていた。
『五年間、よく騙し続けられたな?』
「騙す」。誰を騙すというのか。青年が、碧らを惑わしているだけなのか。それとも――極力考えたくはなかったが――カイズとジラーが、本当にその言葉通り「騙して」きたのか。
 短い期間だが、彼らの性格は把握しているつもりだった。素直で、穏やかで、しかし決断力のある少年たち。ただの一度も疑わず、信じてきた仲間。
 初めて彼らと会ったとき、不良かと思ったのを思い出す。だがそれは大きな間違いだった。初対面の人間を救ってくれた。笑いかけてくれた。そのとき碧は、改めて『人は見かけによらない』ということを思い知らされたのだ。
 だからなおのこと信じられなかった。彼らに騙されているなどと。
(……だけど……)
 そう言い切れないのも事実だった。甘い誘惑とも言える青年の言葉に反応し、カイズは剣に手を伸ばしていたではないか、と。
 困惑しているのは碧だけではなかった。剣を交えているイチカやラニアも困惑し、一秒でも早く真相を知りたいと願っていた。
「お前、いい腕してるぜ」
 青年が攻撃の合間に言った。対するイチカはそれを気に留めた様子もなく青年の剣と渡り合う。青年は消していた笑みを浮かべながら、再びイチカに話しかける。
「オレはウオルク・ハイバーン。もう気づいてるかもしれねーが、ガイラオ騎士団の一人さ」
 イチカはやはり答えない。その顔はひたすらに無表情だった。それを見つめていた青年は、露骨に不満そうな顔をする。
「無口な野郎だなー。こっちが名乗ってんだから名前くらい言うのが筋ってモンだろ?」
 互いの剣がかち合い、両者の動きが止まる。先ほどまでは片手でバスタードソードを操っていた青年だが、この時ばかりは両手で対応した。戦いの最中(さなか)でありながらお喋りかと思うほどあれこれ訊ねるのだから、もしかしたら余裕なのかもしれない。
 きりきりと、刃のすり減る音がする。金属の擦れ合う音と息づかいだけの空間は、なかなかに居づらい。
「…………イチカ」
 文字通り名前だけ言って、イチカは後ろに飛び退く。一行は彼の行動と、その意味を知り目を見張った。イチカの鎧に、僅かなヒビが入っていたのだ。僅かと言うと容易(たやす)いが、イチカを含めカイズやジラーの着ている鎧は特注品で、かなり値が張る。それも、ラニアがわざわざレクターン王国の顔見知りの防具屋に連絡を入れたもの。材料も品質も一級品であるはずなのだ。それが傷つけられたとなると――相手の攻撃力の高さが半端でないことを示す。
「なんだ、名前あるんじゃねーか」
 一方の青年、ウオルクはようやくイチカが口を利いてくれたことが嬉しいのか、嬉々として返した。イチカはそれには答えず、小さく舌打ちする。
「暗殺集団というのは、卑怯な手を使うのがお得意ならしいな」
 皮肉の意味さえ込めてイチカはそう言い放ち、同時に手に持っていた何かを地面に投げ捨てた。それは刃渡り十センチにも満たない短剣だったが、ただの短剣ではないことはその場の全員が気づいていた。おそらく――刀身に毒か何かを塗ってあるのだろう。ウオルクはそれを見ると、悪びれた様子もなく言った。
「そりゃあ、卑怯な手を使ってでも殺さなきゃなんねーからな。依頼主及び団長の命令は絶対」
 (おど)けたように肩をすくめる。そこで初めてイチカの表情が険しくなった。人を人とも思わぬ態度、口調。敵意を持たずにいられるものか。
「……そんなくだらねぇ“絶対”で……」
 声はイチカではなかった。
「カイズ……!」
 頼りなく立ち上がるカイズをジラーが呼び止めるが、彼はレイピアを握りしめたままウオルクに向かっていく。
「何人死んだと思ってるんだーーーー!!」
 思いを吐き出すように叫ぶ。口の端から流れ出る血を拭い、一気に距離を詰めるべく走る。ウオルクは自分に向かってくるカイズに心底呆れた眼差しを送り、やれやれと呟きながらバスタードソードを片手で構えた。甘く見ていることは誰にでも分かる。だが――カイズの構え方に微妙な違いがあるのに気づいたのは、イチカだけだった。そして、風が威力を持ったことも。
 レイピアを前方に向ける。
「行け、切り風!!」
「んな……!?」
 予想もしていなかった事態に間抜けた声を出すウオルク。一行の中でもそれを見たことがあるのはジラーだけだ。カイズは周囲の風を自分の闘気と混合し、自らの細剣を囲むように直径五十センチほどの風の球を作ったのである。――何だかんだ言って、一応は某国の王女の技を参考にしていたらしい。
 ともあれ、強度も大きさもバスタードソードに劣るレイピアでも、使い方によっては相手を凌駕(りょうが)するほどの威力を持つ。
「ちっ……!」
 向かってくる風の球を見つめ、どうにもできないと判断したのだろう。ウオルクはその場に踏みとどまった。程なくして、大地を揺るがすような爆発音とともに砂煙が舞い上がる。カイズは肩で荒い息をしながら、しかしウオルクがいた場所を見据える。
 煙が晴れていく。木の根本に座り込むウオルクの姿を認めたカイズは僅かに安堵の表情を浮かべ、膝から崩れ落ちた。
「カイズ!」
 イチカが駆け寄ると、カイズは小さく笑みを浮かべた。命に別状は無さそうだが、先ほどの技でかなりの力を消耗したらしい。暫くは立ち上がれそうになかった。
「すまねぇ兄貴……オレらの問題に巻き込んじまって……」
「構わない。だからあまり喋るな」
 いつもと変わらない口調だったが、顔には心配そうな表情が滲み出ていた。イチカはカイズとジラーを交互に見比べ、よりその表情を歪める。端整な顔立ちがこれほど悲しそうに崩れたのを見るのは、誰もが初めてだった。暫し俯いた後、碧らを振り返る。
「……カイズとジラーを宿に。傷は深くないが手当は必要だ」
 真剣な、尚かつ悲しさを宿した瞳でイチカは訴えかけた。今明らかに彼は『同様』している。その真摯(しんし)な眼差しを受け、ラニアは大きく頷いた。
「分かったわ」
「でも、イチカは……」
「おれの事は気にしなくていい。そいつらを優先してくれ」
 イチカの口調に若干の焦りがあるのを感じ、碧は自分を殴りたくなった。今のは明らかに私情だった。怪我をしているのはカイズたちの方なのに、こんな時でさえ、自分は好きな人の心配ばかりしている。彼の語尾が命令形でないのもカイズやジラーの為だ。口調を使い分ける事すら忘れて、イチカはラニアや碧を頼っている。そんな事にさえ気づかないなんて。
「カイズ、大丈夫?」
(わり)ぃ……」
 自嘲じみた笑みを浮かべ、カイズは答えた。見れば腹部に血が滲んでいる。
「いいよ、気にしないで」
 碧は今度こそ私情を捨て、朗らかな笑みを返した。カイズの左脇から手を回し、右肩を持つ。そのままカイズの歩調に合わせながら、ラニアが支えているであろうジラーに視線を向ける。体格の良い彼はカイズほど危険な状態ではないように見えるが、それは「カイズに比べれば」の話である。傷は決して深くはないが、浅くもない。碧は自分の愚かさに呆れ果てた。
 私情は捨てきったつもりだったが、やはりと言おうか、碧の眼は無意識にイチカへと動く。彼はウオルクを見つめたまま。
 当然といえば当然だ。ウオルクは身体中に細かい傷は負っているが、重傷ではない。いつ剣を手に取り、再び戦いになるか分からない。碧はイチカから目をそらし、ただ前に進んだ。
「このウオルクとか言う奴と、決着をつける」
 反射的に振り向く碧。イチカの銀色の瞳が、まっすぐに碧を映していた。ほんの一瞬目が合って、イチカからそらす。
「……早く行け」
 一瞬かち合った眼と眼。綺麗な、しかし哀愁を漂わせたイチカの瞳。最初からこの世界にいたのではないかと感じるほど、銀色の双眸は違和感が無かった。ひどく悲しいほど、彼の気は瞳と髪の色に似ている。同時に聞こえてきた彼の声は、きっと心の声だったのだろう。
『カイズたちを、頼む』
 はっきりと、そう聞こえたから。

 残ったのは燃えるようなオレンジの髪を持つ青年と、氷のような銀髪を持つ少年。
「あいつも強くなったなー……」
 ぽつりとウオルクが呟く。イチカは剣を右手に持ったまま、ウオルクから数メートル離れた場所に立っている。隙など微塵(みじん)もない。少しでも手を動かせば、一瞬でウオルクの首筋に刃先を(あてが)うだろう。
「昔は雛みてーにオレの後ろを付いてきてたってのに……やっぱあいつら才能あるわ」
 一人うんうんと頷くウオルクの言葉に、僅かに表情を変えるイチカ。発せられるオーラも、通常の比ではない。それに気づいてはいるのだろうが、ウオルクは肩をすくめて言った。
「そういきり立つなって。オレは何一つ嘘はついてねーよ」
「……信用できんな」
 殺気のこもった低い声に、ウオルクはまた「やれやれ」と肩をすくめた。何を言おうか考えているのだろう、首をひねって唸り始めた。そんな仕草もイチカは鋭い眼力で見つめる。常人ならばその眼力だけで何も言えなくなるだろうが、ウオルクは無垢とすら言える笑みを浮かべた。
「あいつらが団を抜けた理由、教えてやろうか?」
「聞きたくもない」
 当然のごとく否定の意志を示したイチカ。元々彼はウオルクの話など信用していないのだ。「団を抜けた」など、作り話に決まっている。
「そーか聞きたいかぁ! 五年前、カイズとジラーは団長も認める優秀な人材になってた。そこで団長は、ひとつ条件をつけた」
 わざとらしく声を上げ、聞いてもいないのに勝手に語り出した。イチカはうんざりとしながらもそれを聞いて――もとい、聞き流す。つもりだった。
「『街に出してやるから一人でも多く暗殺して来い。信頼できる仲間っていうのが、一番殺し甲斐がある』ってな――」
 ウオルクが全て話し終える前に、彼の真後ろの木が音を立てて倒れた。見ればウオルクの頭から数センチも離れていない上の部分が、綺麗に無くなっている。イチカが元の位置を動いた気配はない。剣圧だけで木を切り倒したのだろう。殺気が更に増大していた。
「危ねーなー。オレは何一つ嘘はついてねえって」
「それ以上ふざけたことを言うようなら次は貴様を斬るぞ」
 容赦なく剣を振り、瞬間とも言える速さでウオルクの首筋に当てる。だがウオルクは怯んだ様子もない。
「おいおい、さっきの“決着をつける”ってのはどうした? これじゃあオレが不利じゃねーか」
 確かにそれは先ほどイチカが言った言葉ではあった。だが当の本人は剣を突きつけた状態で動かない。
「フェアに行こうぜ? お前もこういうのは好きじゃねーんだろ? せめてオレに武器くらい取らせな」
 イチカは黙したまま――剣を引いた。ウオルクはやれやれと言いながら、のろのろとバスタードソードを取りに行く。カイズの技の影響でか、彼の剣は十数メートル離れた位置に転がっていた。それを手に取り、肩に担ぐ。
「何度も言うけどな、オレは正直者なんだ。あいつらは確かにガイラオ騎士団員だった。いや、今もガイラオ騎士団員だ」
「馬鹿げているな。たとえそうだったとしても、カイズやジラーはあんたを拒んだ。戻る意志が無い証拠だ」
 イチカの言い分は正しかった。確かに武器に手を掛けたかもしれないが、あれは一瞬だ。ジラーにおいては一瞬たりとも気の迷いは無かった。人殺しの集団など改心すれば何とも思わなくなるに決まっている。
「――どうかな?」
 だがウオルクは意味深な言葉を発した。彼が最初に現れたときの、あの人懐こい笑みと共に。
「……貴様、何を――」
 轟!!
 何かを悟ったのだろう。イチカが問いただそうとしたその瞬間、宿から轟音が響いた。同時に人々の悲鳴。恐怖と困惑が入り混じった叫び。そして突如膨れ上がったふたつの気配――。
 イチカはそちらへ目をやり、唇を噛み締めた。
「何をした……?!」
 殺気だ。それも、イチカにとっては弟同然の。怒りの矛先は当然の如く、長大な剣を携えた青年に向けられた。しかし青年は、どことなく滑稽(こっけい)な口調で話した。
「オレはなーんにもしてねぇよ? あいつらがやっと目覚めたんだろ」
「……くそっ……!」
 こいつの相手などしていられない。そう言わんばかりに宿へと駆け出すイチカだが、光のように目前に現れた影に行く手を阻まれる。ウオルクだった。
 イチカは異常な物でも見るような眼で彼を凝視した。否、異常に決まっている。あれだけ離れていて、あれだけ巨大な剣を持って、何故こんなに速いのか。何故表情が変わっていないのか。
「お前の相手は、オレだろ?」
 囁くようなその声はひたすら冷酷だった。同じくらい冷酷な笑みすら浮かべ、再び大剣を振るうウオルク。イチカはただ、歯を食いしばるしかなかった。

 舞い上がる鮮血。倒れてゆく人々。そして膨大な殺気。
 何故こうなったのか、分からない。きっかけなどない。突然突き飛ばされ、再び視線を向けたときにはそうなっていた。目の前に倒れ伏している人がいた。ぴくりとも動かない。目に映る風景はただ、赤一色。目の前を赤シートで遮られたようだった。
「……何……これ……?」
 だがそれでも、碧の脳は事態を理解していなかった。理解しようとしていなかった。碧自身が理解を拒んでいるのだ。あるいは、夢なのだと。決して信じられるようなものではない。
 ――逃げ惑う人々を刺し、叩いているのがカイズとジラーであるなどと。
「何かの……間違いだよね……?」
 確認するように、隣で同じように立ち尽くしているラニアに訊ねる。だが彼女は呆然と前を見据えたままで、一言も発しなかった。複雑に表情を歪め、今にも泣き叫びそうだった。おそらくラニアの心情も、碧と同じなのだろう。普段通りのその姿がとても悲しかった。
「どうかしたのか!?」
「今の音は……?!」
 不意に現実に戻される。はっきりと目に映る魔法士の少年と兎族の少女。ああ、と碧は確信した。
(夢じゃ、ないんだね……)
「……お、オイ??」
 碧の頬に伝った涙を見て動揺する白兎。ミリタムは黙り込んでしまった二人を見て――瞬時に後方を見た。殺気を感じたのだ。だがその主は、あまりにも知りすぎた者たちだった。白兎もその赤い双眸に彼らを、血の滴る武器を映し、困惑の色を浮かべる。
「どうしちまったんだ、あいつら……まるで……別人みてェに……」
「……まさかとは思うけど……」
 白兎もミリタムも、事の経緯は知らない。だが目の前に広がるこの惨事を見て、『誰がやったのか』は嫌でも理解したであろう。何よりも物を言うのは、彼らから放出されている溢れんばかりの殺気。
 暫く考えた後、両手で三角形を作るミリタム。魔法の起動だ。
「其は灼熱の王者・烈火の象徴・全てを焼き払いし神となれ! 【火蜥蜴(サラマンダー)】!!」
 徐徐に開けた三角形から、文字通り火を纏った巨大な蜥蜴(とかげ)が飛び出す。一見してみれば実物を縦横に太らせただけの生き物だが――次の瞬間、口から大量の炎を吐き出した。その標的がカイズとジラーであることに気づき、白兎が慌てふためく。
「おっ……お前、仲間を殺す気か!?」
「心配無いよ」
 どこが心配無いんだ、と叫ばずにはいられないはずである。既に炎は二人に、二人だけに命中し、そこだけを焼き尽くしている。避ける時間など欠片もなかっただろう。開きかけた白兎の唇は、しかし完全に開かなかった。ミリタムの眼が揺らいだように見えたのだ。何事かとその目線を辿って――
 白兎は唖然とした。炎は確実に、彼らを捕らえた。捕らえたにも関わらず、炎の中うごめく影があった。そればかりでない。油を注いだかの如く燃え盛り、勢いを保っていた火力が減っている。目に見えて、威力が落ちている。
「嘘……だろ……」
 白兎の、人以上の視力はもう一つの事実を映していた。影はただ無意味にうごめいている訳ではなかった。いくつもの軌跡が、絶えず火を吹く蜥蜴に向かう。少年たちは生きている。否、生きているどころの話ではない。あれはどう見ても、攻撃しているようにしか見えない。
 白兎の視線が、【火蜥蜴】の足下に行く。
 そういえば先ほどから、血の臭いがきつくなっている。そしてあれは。
(単なる焦げだと思ってたが……血なんじゃねェのか?)
 結論はすぐに出た。【火蜥蜴】が崩れ落ちたのだ。所々から赤黒い血を出して、身体に纏っていた炎は僅かにしか残されていない。
「きっとあれが、彼らの実力なんだよ。【火蜥蜴】は四大召喚魔法で一番威力が低いものだけど、それでも魔族すら滅ぼしかねない強力な獣」
 一旦言葉を切るミリタム。その表情はひどく苦しそうだ。
「もうあの人たちは仲間じゃない。敵だ」
 はっきりと、そう言った。この場にいる誰よりも聴力の優れている白兎が、聞き違うはずがない。
 それでも――否定したかった。
「な……何でそんなこと分かるンだよ? たかだかトカゲ一匹やっつけただけじゃ……」
「貴方も見たでしょ!? あの二人の眼を!!」
 ミリタムの表情が一層険しくなり、白兎は二の句が継げなくなった。無意識のうちに記憶が甦る。たしかに、ここに駆けつけて最初に見たあの眼は、恐れも悲しみもない暗殺者の眼だった。
「僕だって信じたくはないよ! だけど彼らは現に人を攻撃した! 僕の放った魔法もああなった! もう、彼らは……!!」
 珍しく取り乱したミリタムと今の光景で、白兎は目を見開くしかなかった。何故、長年忌み嫌っていた『人間』の事でこんな感情になるのだろう。気づけば視界は霞み、何も見えなくなっていた。
「……いつ、僕らに向かって来てもおかしくない。手加減したら、駄目なんだ」
 吐き出すように言ったミリタムの言葉で、白兎はとうとう一筋の涙を流した。

 【火蜥蜴】が纏う火は消えつつあった。次の『標的』を探しているのか、カイズたちは動きを止めている。その目を盗んで――蜥蜴の尾の辺りに近づく影がふたつ。
「……やっぱり撃っちゃえばいいのよぉ……」
「うーん……それはまあ、最終手段ってコトで」
 何度も何度も鼻をすすりながら言うラニアと、そんな彼女に苦笑しながら言葉を返す碧。ミリタムたちが口論らしき事をしている間に抜け出してきたのであった。だって、だってと今にも大声を上げそうなラニアをなだめる。今カイズたちに見つかったら困るからだ。碧は表情を引き締めて、そっと蜥蜴に触れた。もしかしたらとんでもなく熱いのではないかという心配もあったが、意外とその身体は温かい。極端に体力が奪われているからかもしれないが。
「大丈夫、ですか?」
【大事無い……済まぬ……】
 意味もなく訊いてみたつもりだったが、返事があって思わず周囲を見渡す碧。そんな彼女に目を細め――それが笑みの証拠なのだろう――【火蜥蜴】は静かに語りかけた。
【私のこの声は、私の意識の内……【思考送信(テレパシー)】を有する汝以外の者には聞こえぬ……】
「そ、そうですか」
 そうは言われたものの、思わず声に出す碧。慌ててラニアを見たが、すすり泣いている彼女の耳には届いていないようだ。
【あれらは……汝の仲間か……】
(はい、突然あんな風に……。出来れば助けたいんですけど……)
【気の毒だが娘よ……私は汝ら人間の争い事に干渉する術を持たぬ……だが……あるいは……】
(本当ですか!? 教えてください、お願いします!!)
 【火蜥蜴】の言葉に一瞬肩を落とした碧だったが、「あるいは」に反応して瞬時に眼が輝きだした。【火蜥蜴】は碧の手のひらのぬくもりにすがるように瞼を閉じる。死んでしまったのではないかと内心慌てた碧だが、再び双眸が開いてほっとしたようだ。
【汝は不可思議な能力をもっているな……傷が癒されてゆくようだ……】
「えっ」
 思いのほかあっさりと無視されたのと、傷が癒されると言われたのと二重の意味で碧は驚いた。前者はともかく、後者は喜ばしい。もし【火蜥蜴】の言うことが本当なら、以前サトナがミリタムに使っていた神術が使えるようになっているということになる。
【手はそのままに……私が感じ取ったあれらの欠けている部分を話そう……】
(! はい)

「イチカさんよ、なかなかやるじゃねーか! そんなにあいつらが大事か?」
 宿の外では未だに攻防戦が続いていた。イチカとウオルク、剣の技能はほぼ互角。
 ――否、ウオルクはまだ実力を出し切っていない。手加減されているのだとイチカは確信していた。この余裕さが、ますます彼を苛立たせる。相手は明らかに遊んでいるのだ。強いて言うならばウオルクはここ最近、真剣勝負では大いに退屈していた。技能としてはまだまだだが威力は目を見張るものがある、というのがイチカに対する彼の率直な意見だ。それ故に、イチカに宿へ行かれては楽しみが無くなるのである。
「……いいこと教えてやろうか」
 ウオルクは苛立っているであろうイチカを面白そうに眺める。彼は案の定と言おうか、少なくとも放たれる気は「お前の話など聞きたくない」と言っているようだった。
「お前の仲間、もうあいつらに殺されてるかもしれねーよ?」
「……なん、だと……?!」
「気づかねーか? さっきから血の臭いが濃くなってきてる。死人が増えたって証拠だ」
 わざとらしく鼻を鳴らし、イチカを挑発するウオルク。イチカの気はますます高まり、彼の怒りが頂点に達する。
「……ふざけるな!」
 斬りかかってきたイチカの刃をすんなりと受け止め、涼しい顔を続ける。尚怒りの収まりきらないイチカを最初は面白そうに見つめていたが、ウオルクはすっと哀れむような眼を向けた。
「……やっぱお前、ガキだな」
 本当につまらなさそうに、ウオルクは呟いた。
「マジで冷静沈着かと思ったらそうでもねぇし……感情を抑えきれてねえ」
「な……」
 長所だと、思っていた。感情を表に出せない分、戦いでは大いに有利だと。現に今まで怒り狂ったことは無かったし、苦戦を強いられても普段通りの表情でいられた。そんな自分が。
 ――他人の為に、感情を抑え切れていない?
「惜しいぜ。結構」
 バスタードソードを大振りし、いとも容易くイチカの剣をはね除ける。斬撃の重さに耐えきれず、剣はイチカの手から抜け落ちた。起きるはずがないと思いこんでいたせいか、彼は事態を把握できていなかった。
「骨のある奴だと思ってたのによ」
 ウオルクの剣が、イチカの身体を鎧ごと薙いでいたことも。
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