第四章第二話  襲来

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 たとえ消し去りたい過去があっても それは記憶の底にいつまでも残り続ける
 たとえ明日が待ち望んだ未来であっても あやまちや苦悶は決して消えることはない

 人は迷う。迷うからこそ道が開かれ、閉ざされもする。迷った末に人が辿る末路は何か。
 おそらく、『実行』か『相談』という行動に出るだろう。
 しかし後者は、『相談』出来る相手がいなければ意味がない。孤独の内に身を置く者は、そういった手段を持たない。さりとてなかなか『実行』に移せない者もいる。迷いを放っておくには心は狭すぎる。
 ――重度の記憶喪失にでもならない限りは。
 だから少年らは、死ぬことを覚悟して記憶を消そうとした。常に空腹の状態で、眠りもせず歩き続けていた。それから先の記憶はない。きっと死んだのだ。そう信じていた。
 だが、開いてしまった瞳に映ったのは見知らぬ部屋。傍らにあったのは、そのときの少年らには眩しすぎる少女の笑顔。勿論覚えていないことなどなかった。彼らの脳は、何も忘れてはいなかった。
 何も知らない少女に話すのは、あまりに残酷だったから。全て忘れたフリをして、家族のような存在を騙し続けてきた。
 彼らは恐れていたのだ。信頼してきた仲間に手のひらを返されることが、ただ恐かったのだ。

「広ーい!」
 碧達以外の客はいないのだろう。確かに大浴場と表記されているそこは、しかし誰一人いない。たまたま見つけた宿でもそれなりに小綺麗で、特に今碧とラニアがいる大浴場は壁や浴槽に大理石を使用しているらしく、所々が美しく輝いている。まるで貸し切りだ、と碧は思う。
 隠れた名宿、とでも言うのだろうか。宿代は高すぎず安すぎず、部屋には必要なものが全て完備されている。ところが、人の気配はまるで無し。それと言うのも、この宿があまりに殺風景で、人目に付きにくい場所にあるからなのだろう。
 間違っても決していかがわしい旅館では無いことを明記しておく。
「そういえば、最近お風呂とか入ってなかったわね」
 碧が興味津々な面もちで辺りを見渡している間に、ラニアは既に大理石の湯船に浸かっていた。アオイも入りなさいよ、と上機嫌に手招きする。余程嬉しいのだろう、次の瞬間には鼻歌なんぞを歌っている。
「……え、あ、うん。もうちょっと見てから」
 何故かどもる碧。勿論そんな理由で風呂に入らないのではない。一刻も早く風呂に入りたいのであろうが、碧は視界の片隅に映るラニアの胸部を、時折自分のと比べては小さくため息をついた。彼女と張り合おうなどという気は全くないのだが、無意識に映してしまうのだ。
(たしか一つしか違わないはずなのになぁ……)
 碧はしばらく悩んだ末、椅子から重い腰を上げ、ラニアがいる湯船に向かった。ゆっくりと足を入れると、これまでの旅に疲れが取れていくようで、一気に肩まで浸かった。程良い温かさの湯で、碧はもうスタイルの事などどうでも良くなっていた。
「あと一押しなのよね〜……」
 ラニアは満足げな笑みを浮かべ、隣に浸かった碧を見る。
「な、何が?」
 まじまじと穴が開くほど見つめられ、碧は湯気とは別に顔を赤くする。
「意外と嫌われてないのかもしれないわよ?」
 意味深長な事を言うラニア。数秒固まる碧。
 瞬きを二、三度。頬を掻く。ややあって――
「なっ、ななな何言って……?! いっ、イチ、イチカがそっ、そんな事……!!」
「あら〜? あたし“イチカ”って言ってないんだけどな〜?」
 頬どころか顔全体を真っ赤に染め上げて、左右に大きく手を振る碧に、意地悪く微笑むラニア。そこで碧は自ら墓穴を掘ったことに気づき、これ以上ないくらい全身を真っ赤にした。
「アオイってばかーわいい! どーしてこんな可愛いコの魅力に気づかないのかしらねぇ、イチカは。罪作りな男よね!」
「イヤ、何もそこまで……」
 言わなくても、と呟く声は途絶えた。
 ラニアが突然湯船から立ち上がり、胸元に隠しておいたらしい銃を天井に向けたのだ。大浴場の天井はガラス張りで、天窓を通して数本の木々と空を見ることが出来る。碧はほんの一瞬、木々を渡っていく影を見たような気がした。その直後、ラニアは銃を下ろす。
「……逃げたわね」
 胸元に銃を戻しながら、ラニアが呟く。
「ていうかラニア、お風呂にまでそれ持ってきてるの?」
 碧が真っ先に疑問を訊ねると、ラニアは拳をぐっと握りしめて明後日の方向を見ながら力説した。
「いついかなる時も、武器は持っておくのが戦う者の勇姿よっ!!」
「えーっと……そう言えばさっき、なにかいたよね」
 なんだか放っておくとそのまま喋り続けそうな気がしたので、碧は別の話題を引き出した。ラニアは小さく頷く。
「ただの覗きならそのまま撃つつもりだったんだけど、下心丸見えな気配はしなかったの。そのかわりほんの少し殺気を感じたから、様子見してたらこの有様。――たぶん、かなり戦闘慣れしたヤツよ」
「それってもしかして、さっき言ってたライガオとか言う…」
「ガイラオ」
 即座に訂正するラニア。そのまま話を続ける。
「まぁ、可能性は高いわね。イチカの推測も満更嘘でもなかったみたいだし、長湯は危険だわ。早めに出ましょ」
 うん、と相槌を打ちながら碧はふと思った。ラニアの言い方だと、暗殺集団よりも覗きの方が獲物としての価値があるってことなのか、と。

 同時刻。ラニアが感じたものと同様の殺気を追って、宿の屋外に出た者がいた。先ほどまで降っていた雨は嘘のように止み、淡く輝く月が顔を出している。月光は、走り抜ける三つの影を照らした。一つの影は追っ手を撒くように、しかし二つの影を(いざな)うように、奥へ奥へと駆けてゆく。二つの影は誘われていると知りながら、逃げる影の真の正体を突き止めるべく走る。
 イチカらが宿泊する宿は広い。敷地面積だけで貴族が持つような豪邸三つ分の広さがあり、総面積は町一つ分に匹敵すると言っても過言ではない。
 逃げる人影は宿を、壁づたいに通り過ぎた。何かを察知したのか、二つの影は足を止める。
 ――刹那。
 壁の一部分が、音を立てて崩れ落ちた。それも、几帳面に綺麗な円状をして。
 数秒遅れて、宿の中からどよめきが起きた。「何が起きた」「壁が抜けている」「早く修理しろ」……
「確かにあれじゃあ、何が起きたか分かんねえだろーな」
 器用に倒れてくる壁の破片を避け、再び走り出した二つの影のひとつ――カイズが呟いた。心なしか拗ねているような表情ではある。
「あれはきっと、剣だよなあ」
 明日の天気を予想するような、どことなくのんびりとした口調で言うジラー。だが表情は、ずっと前を見据えて揺らがない。
 ジラーの言葉を聞いて、カイズはケッ、と悪態をついた。
「ただの剣じゃねーよ。ありゃぜってえバスタードだぜ。じゃなきゃあんな切り口できねえだろ」
「あいにくオレは打撃系専門だから」
 ああそうかい、とカイズは諦めたように相槌を打つ。同時に走るのを止め、辺りを見渡した。追っていた影の主の殺気が、彼らのいる空間に張り詰めていた。間違いなく、今ここにいる。
「――! ジラーっ!!」
 カイズが叫ぶ。同時にどこからか舞い降りた殺気が緩やかに、しかし俊敏な動きでジラーへと向かう。一方のジラーは注意を促される前に、常時背にある武器――大型のハンマーを手にしていた。彼の武器は通常のものよりも柄が長いウォーハンマーだ。『接近戦でしか通用しない』という欠点を見事にはね除けた代物である。柄が長くなった分、鎚頭の部分も比例して重量が増えたため、常人が持つと下手をすればぎっくり腰になってしまうような武器である。しかし、普段から鍛えていて体格の良いジラーには縁のない話であろう。体力に自信のある者が持てば幾らでもその強さを発揮する。
 ぶんっ!
 殺気を薙ぎ払うようにハンマーを振り回し、相手を迎え撃つ。力の同じ者ならば、武器の強度で勝敗は決まる。だが組み合った剣と鎚はそのまま動かない。互角だった。否――おそらく、ジラーに分がある。重く大ぶりなバスタードソードを扱っている相手も見事だが、ジラーのハンマーほど重くはない。強度は同じ、重さは違うとなると、どちらかがまだ余力があるということになる。相手の体格ははっきりとしないが、筋肉質という程ではない。まだジラーは力を出せるはずだとカイズは考えた。
「……っ、だぁっ!!」
 カイズの予想とは裏腹に、相手の剣の重さに耐えかねたのか、それとも面倒になったのか。ジラーはハンマーに力を込め、相手を押し返した。その反動で、殺気の主は再び空気に紛れる。あまりにも呆気ない光景に、カイズはただただ目を丸くするだけ。
「……って、何してんだよジラー! 追い返しちまったらあいつどこに行ったか分からなくなんだろーが!!」
「……あー、そうか! 悪い悪い、なんかああいうの面倒でさぁ」
「“面倒でさぁ”で済むか!!」
 理由は面倒だったから、で確定のようだ。やはりのんびりとした口調で弁解したジラーに腹が立ったのだろう、カイズはしきりにジラーの首を絞めている。無論、軽くだ。
「っと、遊んでる場合じゃねえんだったな」
  ジラーの首から手を離し、細剣の柄に手を掛けるカイズ。その視線の先には、姿は見えないものの、先ほどの殺気と同じそれを纏う人影があった。

 今ここで決断を迫られたら、なんと答えればいいのか。
 そんなこと聞かれるまでもない。だが、どこかで異を唱える自分がいる。本当にそれでいいのか、と。
 イチカは迷っていた。困惑していた。円状に切り取られた壁、穴の向こうに一瞬見えたのは、一瞬ではあったが――自分の弟分だった。間違えるはずがない。そうした是非を脳内で決定する前に、身体が動いていた。気配を出来る限り消し、彼らを追う。
 結果としてはカイズとジラーを尾行していることになろう。仕方がない、こちらは悪気があって追っているわけではない。それに――
(それにこの気配は、昼間の……)
 確信を胸に抱き、走り抜けること数分。二人が足を止めた。彼らの数メートル後ろを走っていたイチカも足を止め、物陰に潜む。ここまでしてしまっては完全に怪しい人物だが、本人は自分の行動のことなど頭にないようである。
 カイズが叫んだと同時に、ジラーがハンマーを抜く。どこからか現れた人影に怯んだ様子もなく、相手の見るからに重々しい剣を受ける。この世界に来て三年足らずだが、イチカはその剣を知っていた。確か、『バスタードソード』だったか。
 妙だ、と感じた。師弟の間柄から、カイズらと手合わせをしたことは何度かあった。大抵はすぐに決着がついた。二人まとめて相手をしても、結果は変わらなかった。今まで「経験不足なのだろう」と勝手に解釈していたが、今の様子を見るとそうでもないらしい。ジラーに至ってはイチカの剣をまともに受けたが最後、尻餅をついて早降参状態だったというのに、彼の剣より一回りも二回りも大きなバスタードソードの一撃を受けて平然としている。互角、なのだろう。
 短期間でこれほど上達したというのか。一瞬「相手が手を抜いているのかもしれない」などという考えが脳裏を過ぎったが、一瞬だった。ジラーの相手の殺気が、実力を物語っている。
(……手を抜かれていたのは、おれの方なのか……)
 なんとも言えぬ脱力感と、例えようのない悲しみ。長年「兄貴」だの「師匠」だのと慕われてきたが、違うのではないか。本当は自分が、そのように慕うべきではなかったのか――。
 考え事に(ふけ)っていたせいか、イチカは自分に近づく殺気に気づかなかった。抜き身の剣が、月の光を受け、青白く輝いていて――
 断首のごとく振り下ろされた大刀は、しかし空を切った。間一髪の所で、イチカは横に飛んだのだ。
 しかし、それがいけなかった。
「あ、兄貴……?」
 ハッとして、声のした方を向く。ひどく驚いたような、戸惑ったような、そんな表情。つられて振り返ったジラーもまるで、見られてしまったとでも言いたそうな顔をしていた。
 仮面が剥がれ落ちてゆく。
『弟分』という名の、偽りの仮面が。
 イチカは間近にあった殺気が消えたことに気づいた。白い光の行方を知ったときには、もう遅かった。
「……! カイズ! ジラーっ!」
 眩しすぎるほど鮮やかな軌跡が、呆然と立ち尽くしていた二人を襲う。噴き出した血は、暗闇だというのにひどく鮮明にイチカの目に映った。既に習慣となった、柄を握る仕草。だが抜けない。例え相打ちでも構わない。今すぐ駆けつけたいのに、思いとは裏腹に腕も足も動かない。密かに舌打ちしたそのとき。
「何? どーなってるのこの壁?」
「イチカじゃない! 何してるのこんなトコで――」
 後方から聞き慣れた声が響く。その声が『呪縛』を解く合図だったかのように、イチカは駆け出す。何がなんだかよく分からない声の主ら――すなわち碧とラニアは、イチカの後ろ姿をただ眺めていた。
「来るな兄貴ッ!」
 カイズの非難めいた声が、わずかにイチカの足を遅らせる。しかしカイズに負けじとイチカも叫び返す。
「何を言っている! その怪我で……」
「これは、オレたちの問題なんです!!」
 懇願するようなジラーの叫びで、イチカは思わず足を止めた。
「そうそう。オレらの問題に口出しすんなよ」
 聞き覚えのない陽気な声。イチカは反射的にそちらを見る。月光の真下に、一人の男が立っていた。夜を照らすような明るいオレンジの髪。にぃ、と形容できそうなほど半分つり上がった唇。そして極めつけは、左肩に置かれた刀身一メートル半はあろうかという巨大なバスタードソード。イチカよりも二、三歳は年上であろうが、その人懐こい笑みのせいか妙に幼く見える。だが、カイズとジラーを攻撃したのは間違いなくこの男であろう。切っ先から滴り落ちた赤液がそれを物語っている。
「お前らさぁ、もういいんだぜ?」
 視線はカイズとジラーに向けられていた。微笑を浮かべながら、しかし意味深な響きを秘めた言葉は、二人の肩を震わせる。
「五年間よく騙し続けられたな? あとは最後の締めだけ。とっとと済まして戻ってきな」
 囁くような青年の声に、またしても震える肩。第三者の目から見れば、彼らの姿はハンターを恐れる小動物のようだった。青年はさらに続ける。
「お前らなら出来るだろ? 自分と関わった赤の他人を消すことくらい、朝飯前だよなぁ?」
『なっ?!』
 イチカたちの驚きをよそに、なおも人懐こい笑みを浮かべ柔らかい口調で青年は話しかける。
「他人を殺すだけでいいんだぜ? それだけで家に戻れるし、位も上がる」
 最後の一押しと言わんばかりに甘い言葉を――明らかに危険を含んだ言葉を口にする青年。目を見開いて、しかしその手は確実に愛用の武器に伸びるカイズを、ジラーは無言で制した。額から大量の汗を流しながら、全ての畏怖を押さえ込んだような表情で彼ははっきりと言った。
「オレたちは、あんたとはもう無関係だ」
 青年のこめかみがぴくりと動いた。それまでの微笑みは消え、呆れたような眼差しでジラーを見る。その眼には、否定的態度を取った少年に対する軽蔑の色も浮かんでいた。
 青年はため息をつきながら問う。
「根拠は? お前らが団から抜けたっていう証明書でもあんのか?」
「……ない。だけど、戻る気はない」
 まっすぐ青年の目を見て、躊躇(ためら)いもなく告げる。青年は後頭部を掻き、ちらりとカイズを見る。ジラーほど正常ではなさそうだが、その汗だくの顔から迷いは読みとれない。青年は大きく大きくため息をついた。
「こんなバカ共と話したの初めてだぜ。大人しく戻るっていや、」
 肩に置いていたバスタードソードを持ち直し、青年は据わった目つきで二人を見た。
「オレとも敵対せずに済んだのにな」
 拗ねた子供のように呟く。それと同時に辺りに満ち溢れる殺気。
 よくは分からないが大変な事になっているらしい。そもそも殺気がとてつもない。誰か戦っているのだろうか。それともいたのか。よくは分からないが、放っておいて良いはずがないことは確かだと碧は感じた。
「イ…」
 そんな碧の声を聞くよりも早く。
「……なんだ、お前?」
 青年は眼を細め、目前にカイズとジラーを庇うように立ったイチカを見る。
「……あんたとこいつらがどんな関係かは知らない。知ろうとも思わない。だが」
 イチカから放たれる(したた)かな殺気に気づき、目を見張る青年。イチカはやはり全くの無表情だったが、静かな怒りを秘めていることは誰の目で見ても明らかである。
「こいつらはおれの弟分で、仲間だ。帰る場所はこっちしかない」
 鞘から剣を抜き、構えるイチカ。それを見た青年は、ようやく事を察したらしい。再び唇を吊り上げ、大剣を振るった。
「おもしれぇ…オレと()ろうってのか。いいぜ、『死闘』といこうか!」
 高らかに青年の声が響き渡る。それが合図となり、『死闘』が始まった。
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