第六章第八話  レベルアップ

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 目の前に、血溜まりがあった。
 誰かがその上に倒れている。そしてその“誰か”を見下し、嘲笑っているのは、あの二匹の魔族で――。

 はっと飛び起きた。
 初めて見た夢だ。今までとは別の意味で後味が悪い。あれは一体何だったのか。
「やぁやぁ我こそはアスラント国の騎士なるぞぉー……いざ尋常に、じんじょーに勝負ぅー……」
 驚いて隣のベッドを見れば、自分と同じ――と言っても彼にとっては口にするのも躊躇われるが――世界から来た少女が、涎を垂らしながら何やらむにゃむにゃと寝言を言っていた。
(……どんな夢を見ているんだ)
『アスラント国』などこの世のどこにも存在しないだろう、と心の中で呟く。夢なのだから内容が支離滅裂なのは当たり前なのだが、彼の性格故か、ついつい現実的なつっこみを入れてしまう。どこぞの時代劇のような寝言がまだ続いている。平和な奴だと心底呆れた。
 そういえば、何故自分はここにいるのか。
 改めて部屋を見渡すと、小さな部屋のようだった。ベッドが二つに、テーブルが一つ、極めつけは所狭しと並べられた本棚に、これまたぎっしりと詰められた本。
(そうか……おれは修行中に倒れて……)
 おそらくここはサトナの部屋だろう。どのくらい眠っていたのだろうか。三日ほど食事も睡眠も取らずに戦っていたのは覚えているが、その後は。
 ふと彼の脳裏に、リヴェルに残っている三人の姿がよぎる。そして先ほど見たあの夢の人物が、彼らとなって急激にフラッシュバックして――
 気がつけば小屋のドアを開けて外へ飛び出していた。ドアノブを握ったその体勢で固まる。目前に『救いの巫女』の姿を認めたからだ。イチカが口を開くより早く、ヤレンが振り返って告げた。
「仲間なら心配ないぞ」
「……何故そう言い切れる」
 わずかに非難の意味を込めて問う。するとヤレンは無言で自らの足元を指さした。訝しげにそこを見ると、小さな池があった。照明具らしきものは見あたらないが、池の内側から三カ所ほど光の柱が立っている。
「何だそれは」
「遠距離型結界【透】だ。魔族の持つ【千里眼】ほどの視界はないがな」
 ヤレンの説明を聞きながら、池に近寄るイチカ。覗き込めばそこに、今自分が最も欲していた情報があった。双眸が驚きで見開かれる。
 いくつもの木の振り子に即座に照準を合わせ、正確に撃ち抜くラニア。魔法書をめくりながら、思案にふけっているミリタム。四足で駆け、獣人ならではの身のこなしで木々を一蹴する白兎。
「お前たち二人がいないのを良いことに、おのおの修行に励んでいるらしい。敗北から悟ることがあったのだろうな」
「そうか……」
 イチカは眩しそうに目を細め、そのまましばらく三人の姿を見つめていたが、思い出したように小屋へと引き返す。
「修行を頼む」
 珍しく意欲的な言葉に、思わず呆然としてしまったヤレンを残して。
「……全く。丸一日死んだように眠っていたと思ったら……人が変わったようだな」
 一方、小屋では。
「勝負を目前にして逃げる気か?! 待て! それでも騎士の端くれかーーー!!」
 手を前に突き出したまま、がばっと起きたらしい人影。言うまでもなく碧である。しばしその体勢で、身動き一つしない。
「……なんか、久しぶりにスゴイ夢見たような気がする……」
 数十秒ののち、自分の突き出した右手を不思議そうに眺めながらそう呟いた。どんな夢だっけ、とつい先ほどの夢の内容を忘れてしまったらしい碧。
 その時、小屋の扉が開かれた。碧は反射的にそちらを見て、病的な速さで笑顔になる。そしてぶんぶんと手を振った。
「あ、イチカ! おはよう! もう大丈夫なの?」
 しかし、イチカは何も言わない。いつものことなので特に気には留めなかったが、それにしても違和感があった。何かがおかしい。顔、目、口元……と細かく観察して、気づいた。口角が緩やかに上がっている。目もわずかに細められている。世間一般にはそれを「笑っている」と言うのだが、碧はそれどころではなかった。今まで見たことのない彼の柔らかな笑顔に赤面していた。
(いっ、いっ、いっ、イチカがあたしっ、あたしをみみみ見てわわわわら、笑ってるーーー?! どどどどーしようっカッコよすぎキレイすぎっていうかとにかくもうヤバイよっっ!!)
 それだけではなかった。信じがたいことにその顔のまま、イチカが向かってきたのだ。当然のごとく、碧の心臓は早鐘を打ち始める。歩幅が広いせいか、イチカはあっという間に碧の側まで来た。間近で見る『笑顔』は碧にとっては「死ね」と言われているようなもので。
「……っど、どーしたのイチカ?! なんかおかしい……よ……」
 やはり無言のまま、さらに近づいてくるイチカ。わたわたと動く碧の手を掴み、そのまま壁に押しつける。
(……ってあれ? なんかこれデジャヴ……)
 しかしあのときと違うのは、彼が無言で、しかも「いかにもそれらしい」雰囲気があるということ。当たり前のようにイチカの顔が近づいてきて、碧はとうとう顔から湯気を出した。
「いいいいいイチカっっっ?! あたしアオイ、アオイだよ?! 分かってる?!」
 碧の悲鳴に近い声を聞いているのかいないのか、お構いなしと言わんばかりに距離を詰めてくる。
「あ、そうか、そうだよね、まだこれ夢の続きなんだよね、いいとこに限って夢って終わっちゃうんだよね、だからそのうち目が覚める、はず……」
 それにしては手首を軽く締め付けられる感覚とか、近づいてくる吐息とか、何よりもイチカの顔が鮮明すぎる。それは否定できなかった。できなかったが、こんなことは絶対にあり得ない。彼がこんなことをしてくるはずがない。夢だ、夢だ、と碧は心の中で呟き続けた。
(でもこれ……ものすごくいい夢だよねー……)
 ちらりとそんなことを思いつつ。
 まさに唇が触れる直前――再びドアの開く音がした。
 同時に、眼前で何かがぽん、と音を立てた。目の前のイチカは消え、代わりにきゃはは、と声を上げながら入り口へと走っていったのは白い少女。状況が掴めていない碧は呆気にとられた様子で白い少女の後ろ姿を目で追い、『本物の』イチカが扉を開けたまま立っていることに気づく。
「……どうした」
「……えっ!? えっ!?」
 慌てて周囲を見渡すが、イチカはやはり扉の側にいる。
(げ……幻覚!? でも、あの子は……?)
「顔が赤いぞ。熱でもあるんじゃないのか」
「……あ……そっか……熱かぁ〜……って、だ、大丈夫! 大したことないからっ!」
 近づいてくるイチカを制するように両手を振り回す。怪訝そうにしながらも、イチカはそうか、とだけ言った。壁に立て掛けてあった剣を取り、小屋の外へ出て行く。
 イチカはただ修行のために剣を取りに来ただけだ。その事実に気づいた碧は、自分の空回りに溜め息を吐くのだった。
 部屋を出ると、相変わらず水中から差し込む光の柱を見つめている『救いの巫女』がいた。
「用意はできているのか」
「あいにくだが用意というほどのものはない。お前の心持ち次第だ」
「……いつでもいい」
 彼女特有の探るような眼差しを避けるつもりで顔を背けると、たまたま先ほど小屋から出てきた少女の姿が目に入った。森の中を縦横無尽に駆け回り、時折子供特有の甲高い笑い声を上げている。目深に被った帽子で鼻から上は窺い知れないが、その分口元は楽しさを強調するように大きく笑みの形を象っている。白い帽子、白いワンピース、白い靴。いっそ不自然なほど白で統一された少女は、それでも何故か違和感がなかった。もう見慣れているからか。少女が、自分の修行相手に“化ける”ことを分かっているからか。ヤレンは自分の分身だと言っていたが、姿形も声調も完全に子供のそれだ。本物の子供ではないが、それにしてもどこか居たたまれない感情があった。普通の人間ならばすぐにその感情の名が思い浮かぶだろう。だがイチカには困難なことだった。それが何かは分からない。分からないが、哀れみにも似た――
「どうした?」
「……いや、なんでもない」
 結局答えを見いだせぬまま、彼は一旦思考を少女から切り離す。
「……始めてくれ」

「修行……? そっか、こうしちゃいられない!」
 碧はしばらく途方に暮れていたが、突如行動を起こした。勢いよく布団をはねのけると、目にも留まらぬ速さで身支度を始める。イチカが修行に向かったのだ、自分だけのんびりしているわけにはいかない。それまでの逡巡はかなぐり捨て、碧は小屋を飛び出した。自分自身の修行に励むために。
 数十分後、サトナが少女の両肩に手を置きながら、ゆっくりと歩いてきた。所定の位置に少女を留まらせると、どこか遠い目をしてしばらくその場に留まるサトナ。眉を下げて、申し訳なさそうに視線を彷徨わせたのち、ヤレンと対面する位置に走っていく。
 確信はない。しかし、サトナが抱いていた感情はおそらく自分が感じたものと同じだとイチカは直感的に思った。
 詠唱が始まる。少女は腰の後ろで手を組み、律儀に待っている。彼女は今、自分の置かれている状況が分かっているのか。分かっているとしても、いないとしても、なんと残酷なことだろう。
 宙に浮いていた少女の殻を破り、銀髪の青年が姿を現した。顔を上げ、凶悪な笑みを浮かべる。当たり前と言ってしまえば当たり前だが、少女の面影は微塵も感じられない。
 イチカは自分の心に小さな痛みを覚えた。
「……もう少しで楽にしてやる。時間をくれ」
 誰にともなく、そう呟いて。

 そう遠くない場所から、爆発音が響く。考えなくてもその出所と原因は分かった。反射的に顔をそちらに向け、脳裏に浮かんだ銀色の少年を想う。
 本物の闘いではないから、大怪我をすることはない。しかし、相応かそれ以上の精神的苦痛と疲労を伴い、最悪の場合意識を失う。実際に起きたことなのだから、断言できる。だからこそ無理はしてほしくなかった。それがたとえ、魔族に勝つ手段になり得ようとも。
「お待たせしました、アオイさん」
 凛とした声が届く。振り向けば、サトナが小走りでこちらに向かってくるところだった。彼女が来たということは、修行の準備が整ったということだ。覚えず顔つきが真剣になる。しかしサトナは、相変わらず朗らかな微笑みを浮かべて何かを差しだしてきた。
「……なんですか、これ?」
「四百年前の巫女服ですわ!」
 言われて改めて見てみると、たしかに見覚えのあるデザインだと思う。サトナの着ている巫女服は『洋風』なのに対し、今受け取ったそれは『和風』だ。日本でいう『着物』をミニスカート丈にしたような、ややセクシーなシルエット。先ほど別れたヤレンが着ているものと酷似している。ただ、あくまで“酷似”であって全く同じではなかった。彼女は四肢に包帯のようなものを巻き付けていたし、『着物』の衿の隙間からは鎖帷子が見えていたはずだ。
 碧の疑問に気づいたのか、サトナがやんわりと弁解してくる。
「ヤレン様は他の巫女と違い戦闘を想定していましたから、普段から神力・防御力のコントロールに専念するため、重装備を心掛けていたようです」
 求めていたものと寸分の狂いもなく返された答えに軽く感動しつつ、碧はなるほど、と相槌を打つ。
「アオイさんの持ち味が体術だということは重々承知しています。ですが貴女は、幸か不幸かヤレン様の神力を引き継いでいらっしゃいます。アオイさんの『体術』とヤレン様の『神術』が融合してこそ、未知の力が生まれ強力な攻撃手段となり得ます。何故かと言えば――魔族に対抗するためには、体術はもちろん必要なのですが、残念ながら決定打とはなりません。その代わり、彼らには神術という唯一の弱点が存在します。それを有効に使えるならば、使わない手はありませんからね」
 ひとつひとつ、丁寧に理解を促すサトナ。その甲斐あってか、碧は難なく話の内容を頭に叩き込むことができた。
「では、話を戻させていただきますね。そのように強力な力を引き出すためには、その術が最も活性化していた時期と波長を合わせる必要があります。つまり、アオイさん自身が四百年前の巫女服を身につけて修行を積めば、ヤレン様の最盛期と同調することはなんら不可能ではありません」
「……えーと。つまり……」
「簡単に言えば、イメージトレーニングですね。幼い頃おままごとをやりましたでしょう? 奥さん役に徹したらいつの間にか役に入り込みすぎていたとか、経験はありませんか? 要はなりきってしまえばいいわけです」
「あ、なるほど。でも正直に言うと、あまりおままごとをした記憶がないんですよ。あの、もしかしてサトナさん……」
 そういう経験が? と聞こうとしたが、はばかられた。サトナがほんのりと赤く染まった頬を両手で包みながら、視線をぎこちなくそらしたからだった。否定は肯定の意、とはよく言ったものだ。
「恥ずかしながら……」
 同性の碧も思わず可愛いと感じてしまう恥じらいよう。戸惑っていると、それまでのきまり悪さが嘘のように真剣な表情でサトナが言った。
「アオイさんには是非、その巫女服で闘いに臨んでいただきたいのです」
 懇願のような、縋るような眼差し。その真の意味は分からなかったが、真摯な瞳は揺らぐことなく碧に注がれていた。断ることはできない。というより、断る理由はどこにもなかった。
「――はい!」
 力強く答えると、サトナの顔に笑顔が戻った。
「それでは、始めましょうか」
「押忍!」

 上方からの蹴り落としを、剣の側面で受け止める。相手は地面に片手を付いたままその姿勢を維持しているにもかかわらず、刃に伝わる重さは斬り合いと大差ない。そして――
「……ッ!」
 死角からの斬撃が肩口を切り裂く『錯覚』を覚えるが、右腕を剣と共に振り切る。すんでの所で上へと飛ぶ影。
 修行を開始してからというもの、相手は――セイウは先ほどから、同じような戦法しか取っていない。
 柔軟な身のこなしで聖域内を飛び回り、こちらを翻弄する動きで体術を交えた攻撃。その後、予測不能な方向から剣の軌跡が弧を描く。
(今は……左からだった)
 おそらく、体術での攻撃を仕掛ける直前に剣を持ち替えているのだろう。つまりセイウは、ロスの少ない両利きの剣士ということになる。たしかにそれなら圧倒的有利に戦えるし、敵からの攻撃にも対応しやすいには違いない。だがそれでも、イチカには腑に落ちない点があった。
(これが本当に魔星一の剣の使い手だったのか?)
 これまでの攻撃を総合すると、体術が九割を占めていた。剣は言わば『不意打ち』程度にしか扱われておらず、下手をすれば体術のみで戦っていけるのではないかと思うほどだ。「意表を突く」という点からすれば、たしかに“一流”ではある。だが、どんなにひいき目に見ても真っ当な勝負とは言いがたい。剣士が正々堂々と剣のみを武器としていたのはもう過去の話だとしても、一流剣士という称号を与えるに足らないのではないか。
(これならまだ、『奴』の方が――)
 二刀流の黒髪の剣士が脳裏をよぎる。
 背後に殺気を感じたのはその直後だった。
「――!」
 背中一面にかけて大きな衝撃が走る。電流が迸ったような痛みは、しかしすぐに消え去った。錯覚だと分かっていても呼吸は知らず荒くなる。
 思案にふけっていても、気配は絶えず感知しているつもりだった。一瞬で包囲網を抜け、一瞬で背後を取られたのだ。これが本当の戦闘ならば、脳が理解する前に事切れていただろう。
「……三度目」
 静かな声が背後からかかった。誰かなど考えるまでもなく分かっていたが、彼女が言った数字の意味を計りかねてそちらを見やる。そこには予想通り、『救いの巫女』が腕組みをして立っていた。
「お前が今日の修行で『死んだ』回数だ」
 冷酷な言葉が紡がれる。それに加えて、怒りとも苛立ちともつかぬ感情をぶつけられている気がした。
「どうした。何を迷っている?」
 何故そのような感情を向けられているのか、ただ一点を除いてはイチカには心当たりがない。
「……お前に人間としての感情が戻りつつあるのは喜ばしいことだ。――だが今は必要ない」
 どうやら彼女は、その『一点』に気づいていたらしい。
 セイウの攻撃を避けながら考えていたこと。それは、彼がどのような戦闘スタイルで、どのような攻撃パターンが存在するのかという分析だけではない。過去のイチカならば、雑念としていち早く切り捨てていたことだ。
 依然として沈黙を守るイチカに、ヤレンは変わらぬ口調で淡々と語る。
「余計なことは考えるな。目の前の敵を追随し、殲滅し、生き残ることだけを考えろ。それ以外の感情は行動の妨げであり無駄でしかない」
「……『敵』か。救いの巫女らしからぬ発言だな」
 たとえ分身であっても、たとえ道具でしかなくても、たとえ己の意志がなくても。
 そこに在る限り、ひとつの生命には変わりがない。そして、同じ聖域にいる以上、敵であるはずがないのに。
「やっぱりおれは、あんたが嫌いだ」
 この感情が、要らないものとは思えない。決して捨ててはならない感情のはずだ。
「この修行で終わりにする……!」
「……その意気だ」
 それまで無表情だったヤレンの眼が細められ、微笑みの形を作った。もしかすると彼女には、イチカの言おうとしていることが分かっていたのかもしれない。
「今日の修行で理解しただろうが、奴に勝つためには眼で追う・追いつく・反撃の三段階が必要になる。魔族は力ももちろんだが、移動速度は力の比ではない。変則的な攻撃に追いつくことさえできれば、勝機は見えてくる。期間は、」
「一週間で十分だ」
 間髪入れず、そう答えた。
「一週間でなんとかします!」
 サトナは一瞬耳を疑った。
 神術と体術の融合、及びその強化には、どんなに優れた者であっても一月はかかる。そうたった今説明したばかりだった。時間のない彼らにそんな悠長なことを言いたくはなかったが、事実最短期間は一月であった。ある種脅しのようなものだ。それを碧は、一週間でやり遂げると言ってみせたのだ。
 無謀とも思える挑戦。しかし不思議と、サトナにその考えは浮かばなかった。彼女ならやってくれる。不可能すら可能にできる。そんな気がした。
「分かりました。それでは今日やったことの復習に加え、明日から一週間修行に励みましょう」
「押忍っ!」
 決意と希望を瞳に秘めて、碧は大きく頷いた。
「それではこれを」
「えっ?」
 そう言って笑顔でサトナが差し出したのは、親指ほどの大きさの卵。戸惑う碧に、やはり懇切丁寧な説明が繰り返される。
「これは神力を吸収して成長する特別な卵です。アオイさん」
 受け取った卵は、片手で包み込めるくらい小さい。つまりは、少々特別な方法で生き物を育てるということ。そう思うと、碧はなんだかわくわくしてきた。
「一週間これに神力を送り、卵を孵化させてください」
「はいっ!」

 ――動きが明らかに違う。
 実力未知数の相手に苦戦を強いられ、実戦ならば確実に死に絶えていた一週間前。それに比べると、目に見えて成長しているのが分かる。どの方向からの攻撃にも防御が間に合っているし、何より戦法にも変化が現れている。正統派剣術を捨てきれずにいたときとは違い、出し抜けに攻撃をしかける様子も見受けられるようになった。
「……やはり“同調”しているのか……好むと好まざるとに関わらず……」
 皮肉なことだ、とヤレンは苦笑を浮かべた。
 いくら否定しても覆りようのない事実。心で反発していても、奥底では――魂の深い部分では、結局『彼ら』は繋がっているのだ。ただ、それでも。
「相反する存在には違いない」
 魔族と人間、その性分も。
 ヤレンはどこか遠い目で、銀色の者たちを見つめていた。
「……いつまでも受け続けていると思ったら大間違いだ……」
 右斜め前方からの目にも留まらぬ攻撃。イチカはしかし、その速度に対応する反応でもって受け止める。驚愕にわずかながら見開かれた瞳を一瞥すると、横薙ぎして相手を振り払った。
 ようやく身体が追いつくようにはなった。だが、これまでの経験からして今以上の速さで来る可能性は高い。
 相変わらず、純粋なまでに笑みを浮かべている。そしてその姿が一瞬にして消えた。否、“消えた”ように脳が錯覚しているだけだ。
 ――落ち着け。
 心臓が早鐘を打つ。冷静さを保つこと、集中すること。両方を己に言い聞かせ、やがて鼓動すら聞こえなくなった頃。
 鋭利な軌跡を感じ取った。
 おそらくセイウは手応えを感じただろう。だがそれは――あくまで幻覚ではあるが――イチカの鞘が砕けた感触だ。彼がそれに気づいたときには、イチカは頭上高く舞い上がっていて。
 セイウが空に向かって地面を蹴り上げたのと、イチカの投げた剣が彼の右胸を貫通したのは同時だった。
 声は、聞こえない。ただ、口角から一筋の血を流し、苦々しげにこちらを睨みつけると、咆哮するように大口を開けた。その瞬間『セイウ』だったものがガラスのように剥がれ落ち、あの白い少女を象る。
【ありがとう】
 幼い少女の声が、たしかにその言葉を奏でた。
 同じ頃碧の元では、高さ十センチほどに成長した卵の殻が割れ、大きめの雛が誕生した。
 聖域内の誰もが、心に温かい何かを宿した瞬間。
 それはすなわち、過酷な修行の終わりを意味していた。  
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