第六章第七話  贖罪

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 何日経っただろうか。霊体に等しいこの身体では正確な時間は分かりかねるが、おそらくは三日経過している。
 ヤレンはふと空を見上げた。森全体を覆っている結界は、雨風を防ぐ。だが、日光はいつも届くようにと防がれることはない。太陽が真上にあるということは、三日目の昼ということになる。碧を連れて行ったサトナも、一向に戻る気配がない。これはどうやら、本当に付き合わされているらしい。自然と笑みが零れる。最初この世界に召還したときはどうなることかと思ったが、杞憂だったようだ。
(あの意欲ならば、二、三年で全てを“思い出す”だろう。そうすれば、私の役目も終わる)
 彼女の身体は、元々相当な代価の上で生成されたものだ。一つに恋人であったセイウ・アランツの意識。二つに最も親しかった巫女でない友人の身体。そして三つに、彼女を「守護」する巫女の半永久的拘束。
(私は逃げた。セイウと死ぬことに恐怖などなかった。ないはずだったのに……心の奥底で「死にたくない」と願ってしまった。神は私の愚かな願いを聞き入れ、その代償に……)
 脳裏に三人の姿が過ぎる。ヤレン同様、死にたくなかったであろう魔族。その意識を生け贄とすることで、彼女はこの世に存在できている。ヤレンと同じ末路を辿り、死したハーフ・エルフ。その身体を糧に、霊体とも実体ともつかぬ身体を維持できている。そして今現在、ヤレンの「守護」となっている年若き巫女。サトナが快く「守護」を引き受けてくれたおかげで、ヤレンの『身体』も『意識』も、神術も問題なく機能しているのだ。ただしサトナは、ヤレンとその聖域を「守護」する義務を課せられている。一般の巫女は聖域の所有権を放棄しても何ら支障はないのだが、彼女にはそれができない。街へ繰り出すことも、巡礼もできない。文字通り一歩も聖域の外には出られないのである。
(神が私に与えてくださった猶予は五年……あと二年でこの身も、意識すら消え去るだろう。そうすれば私は、お前の元へ行ける)
 イチカと闘いを繰り広げる銀髪の青年へと視線を向ける。彼は今、ヤレンのことなど眼中にないのだろう。目前の敵の存在に狂喜し、その笑みも絶えることはない。四百年前は自分だけに向けられていた瞳と、今は一瞬も交わらない。それが彼女には、少し悔しかった。だが、今は私情など必要ない。
 それにしても――と、ヤレンはイチカを見た。強靱な精神力を持っている、と思う。碧に異常がないということはサトナからの【思考送信(テレパシー)】で分かっている。しかし彼は三日三晩一睡もしていない上に、一切の食事も口にしていない。飲まず食わず寝ずでセイウの擬似体と戦い続けているのだ。普通の人間ならば、そろそろ人格崩壊を起こしているか、そうでなければ一歩たりとも動けないはずである。表情を見ても、三日前とあまり変化がないように見える。やせ我慢をしているのか、それとも――“人間”ではないのか。
 もしそうなら――
(この手で、殺めるか――……)
 碧には悪いが、それしか方法がない。それに、まだ魔族と決まったわけではない。ヤレンは密かに神力を集中させる。銀髪の男たちはそれに気付かず斬り合っていたが――突如、その状態が一変した。イチカの様子がおかしい。踏み込んだ右脚に上体がついていかず、大きくぐらついた。その隙をついたセイウによって剣が弾かれ、宙を舞う。地面から浮いた左脚は別の場所に置かれることなく、身体に引きずられるように傾いていく。セイウの笑みが一層深くなった。非常に不味い展開だ。
「……見栄を張るからだっ!」
 ヤレンは集中させていた神力を、防御主体のものに切り替えた。素早く指を組み合わせて結界を造り、擬似体へ向ける。
「【封】!」
 結界で標的を封じ込め、無数の蔦で拘束する神術である。見た目は頼りないが、その封殺力は絶対であり、これに捕らえられた者は魔族であろうと逃れることは不可能だ。四肢を固定された『セイウ』は蔦を引き千切ろうともがくが、脆弱そうなそれは亀裂一つ入らない。震える右腕を左手で押さえ込みながら、ヤレンはさらに神力を注いだ。声もなく悲鳴を上げる『セイウ』。その視線が何かを探るように動き、ヤレンに定まった。息を呑む。四百年ぶりの邂逅だった。ヤレンにとっては永遠にも感じられる時間は、一瞬で過ぎ去った。あの頃向けられていた笑顔は、今ははっきりと憎悪に満ちた表情に歪んでいる。
「……私を、恨んでいるのか」
 共に死を選んだはずだった。だが彼女は意識として四百年もの間、この世に留まり続けた。『セイウ』にすれば裏切られたも当然だろう。獣のように険しい表情で己を睨む『セイウ』。今すぐに意識ごと死ぬことも考えた。それをしなかったのは、譲れない意志があるから。
「済まない、セイウ……生憎私は、まだお前の元へは行けない。どうあっても、片付けねばならない仕事がある……」
 自分の中で最も柔和な笑みを浮かべ、今ある最大限の神力を込める。声なき叫び声は徐々に蔦で覆い隠され、かき消された。結界で檻を造ったのだ。ヤレンはそろそろと歩き始めた。檻の前に倒れている少年の側へ行き、呼吸を確かめる。息はあるようだ。おそらくは睡眠不足と空腹と疲労による症状だろう。いずれにせよ休ませる必要がある。イチカにとっては不本意だろうが、このまま死なれては寝覚めが悪いというものだ。
「ダメだよ」
 唐突に、声が聞こえた。反射的に振り返れば、三日前にサトナと修行を始めたはずの少女の姿があった。治療系の神術と、中位の防御系結界を教えるようサトナに伝えていた。その時は一週間はかかると言っていたのだが――
「アオイ……修行はどうした?」
「休憩時間だから戻ってきたの」
 ――違うな。
 ヤレンは瞬時に彼女の嘘を見破った。修行中は休憩時間でも、こちらに連れて来るなと言い聞かせていた。サトナが引き留めるのも聞かずに戻ってきたというところか。
「イチカを休ませたら、ダメ」
 心を読むような、強気な声色。実際彼女はヤレンの心の内を読み取ったのだろう。ヤレンは嘲笑に唇を歪ませた。
「一人前のような口を利くな? 半人前のお前に何ができる。不条理だと分かっていても、最善の選択をするのが一人前というものだ」
「それはあなたにとっての“最善の選択”でしょ? イチカは休むことなんか望んでない」
 碧が歩み寄ってくる。ヤレンはその時、初めて彼女の表情の変化に気付いた。そして、内なる神力にも。
 全てを悟り尽くしたような、冷めた眼差し。引き締めた唇。容姿は以前のままなのに、表情が大人びて見えた。全てを見透かし、全てをかなぐり捨てた――まるで生前の自分を見ているような、そんな錯覚を覚えた。
「ではアオイ。修行の成果を見せてみろ」
 意識的に抑えているのか、無意識なのか、三日前より神力が圧縮されている。それは裏を返せば、抑制しなければならないほど、神力が増大したということ。
「――任せて!」
 ぐっ、と握り拳を作って微笑む姿は、紛れもなく少女のもので。
 ヤレンはあまりの変わりように呆然とするしかなかった。
 ――演技? いや、それにしては……
 目の下の隈。辛そうに歪む眉。憔悴しきった表情。それでも碧は、そんなイチカを見るだけで幸せになれるのだ。
(ふふ〜……疲れ切った顔もかっこいい〜!)
「待っててねイチカ。今あたしの新神術でぱぱーっと……」
 子どもに言い聞かせるような口調で言いながらイチカの側に立て膝をつく。ところがその直後、彼女にとってはまさに目の保養のイチカの姿がぼやけた。輪郭の区別がつかず、白銀の髪すら他と見分けがつかない。
「治して……あげ……」
 る、と言い終わったと同時に、べしゃっ、と虚しく響く音。まさか、と思い慌てて駆け寄るヤレン。しかし彼女の眼に映った碧は、想像に反して穏やかな顔をしていた。正確に言えば、穏やかな顔をして寝息を立てていた。
「……どういう事だ? サトナ」
「すみません……少々やりすぎてしまいました……」
 溜め息を吐きつつ、後ろで様子を窺っているであろう巫女に訊ねる。彼女の予想通り、苦笑を浮かべながらサトナが木陰から顔を出した。
「アオイさんがどうしても、とおっしゃるものですから、ついつい指導にも力が入ってしまって……。あまり睡眠を取らずに修行を続けていたようです」
 私の管理が行き届いていなかったからですね、と申し訳なさそうに言うサトナ。ヤレンは怒りや呆れどころか、むしろ微笑ましさを覚えた。
「――いや……健康管理は本来、誰でもない自分自身でするものだ。確かにお前のやり方には多少問題があったかもしれないが――私の守護になっていなければ、きっと良い教師になっていただろうな」
 サトナにとってはあまりにも唐突だったのだろう。なんのことか分からないと言いたげなきょとんとした顔で、まっすぐにヤレンを見つめていた。そして何か思い当たることがあったのか、すぐににっこりと微笑む。
「たとえ、そうだとしても……巫女だった母が遺してくれた道です。後悔はしていません。かの有名な『救いの巫女』様の守護に就けたのですから、巫女冥利に尽きるというものです」
 彼女の笑顔に嘘偽りはない。彼女自身がそういった「悪行」を嫌っているからということもあるが、半ば強制的に作り上げられたものだろうとヤレンは考えていた。
 彼女には幼い頃から明確な夢があったのだから。
――学校の先生になりたいです!
――勉強したくてもできない貧しい子どもたちに、勉強の楽しさを教えてあげたいです! ヤレンはその頃、まだ意識しかなかった。大樹『アスラント』の中で、一人孤独に時を過ごしてきた。そんな時に出会った、あの希望に満ちた笑顔を忘れることはできない。
 彼女の夢を知ってなお、守護になることを迫った。
――ここからは出られないのですか?
――案ずるな。お前が一人前になれば出られる……さぁ、
 嘘をついてまで、彼女から選択肢を奪った。
 これからすることに比べれば小さな出来事。だが、それでも。
(残酷なことをした――)
「サトナ、私は――」
「ヤレン様」
 謝罪の言葉を述べようとしたヤレンを、サトナが静かに微笑みながら遮った。それも、どこか咎めるような口調で。
「往生際が悪いですよ。私は後悔はしていません」
 後悔はしていないという言葉とは裏腹に、目を伏せる。
「ヤレン様の守護となった代償が、この森から出られないという拘束であることは薄々分かっていました。教師にはなれない、ということも……」
 背を向けているため、ヤレンからその表情は読み取れない。幼い頃から教師になりたいと思っていたほどの才女だ。早い時期からその事実に気付いていたのだろう。
「最初は葛藤もありました。ですが……少なくとも今の私には、悔いはありません」
 だからこそそう告げられても、ヤレンは苦い表情を消し去ることができなかった。どれほど恨まれたのだろう。どれほど憎まれたのだろう。今も昔も変わらず接してくれているが、心の底では責め立てたかったに違いない。
「ねえヤレン様。いつか、こんなことをお話したことがありましたよね。私が何故おさげを続けているのか、ということについて……」
 そんなヤレンの心の内を読み取ったのか、サトナが不意に話題を転換する。
「ああ……母が毎日編んでくれていたから、だろう?」
「はい。でも今は違うんです」
 サトナが守護になって三年経った頃のこと。彼女は確かにそう言っていた。その様子もヤレンは大樹から見守っていた。仲睦まじく会話をする母子。母は娘のために毎日おさげを結っていた。娘は嬉しそうに頬を赤らめながら編み上がるのを待つ。鏡を見ながら飛び上がって喜ぶ娘を、温かく見つめる母。きっとヤレン以外の誰が見ても、優しい時間の流れる恵まれた家庭だと思っただろう。
 その母親は彼女が物心ついて間もない頃に亡くなっている。入れ替わるようにしてヤレンがサトナに守護になるよう語りかけたのだ。
 どんなに厳しい修行のあとでも、母の話をするサトナの表情はどこか生き生きとしていた。おさげの件を聞いたのもそのときだ。それが今は違うという。戸惑うヤレンに、サトナはふわりと微笑みかけた。
「母に代わって毎日編み続けてくれた手が、とても大好きだからです」
「……!」
 実体を持たなくとも他人の身体になんらかの干渉をすることはできるらしく、おもしろ半分に編んでやっていた。いつしか他人以上の想いを抱きながら。
 そう、例えるなら『娘』のような――
「だからヤレン様……あなたは私にとって母も同然な存在なんですよ」
「……すまない……本当に……」
「お願いですから、滅多なことは言わないでください……『お母さん』」
「すまない……っ……サトナ……もう少しだけ、付き合ってくれるか?」
「もう少しと言わず、いつまででもお付き合いします」
 実体はないはずだった。
 それでも止まることを知らず溢れ出す涙。これまで背負ってきた罪は決して流れることはない。だが今この瞬間だけは、無条件に許されるような気がした。
 流れ出る涙をハンカチで拭いながら、サトナは優しく母代わりの巫女の背を撫でる。
 優しい空間の中央には、さながら傷を舐め合う『母子』がいた。  
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