第七章第一話 束の間の休息を
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「アオイ!」
リヴェルの入り口が見えてきた。そう思った瞬間、軽い足音が聞こえてくる。前方から走ってきた親友の姿を認め、微笑もうとした。だがそれより先に華奢な腕が伸びて、強く抱き締められる。背丈の違いから彼女の胸がちょうど鼻と口に押し付けられ、碧は息ができない。
「ら、ラニア、苦し……」
「イチカがあなたも連れてくって言ったときは、とうとう来たか! って思っちゃったけど! そうよね違うわよね修行よね! でも、それでもなにか進展あったらな〜なんて不道徳なこと考えちゃったあたしを許して! ていうか、一週間以上いっしょにいたんだから絶対何かあるはずよね?! ね!?」
「……ラニア。早く離してやった方がいいんじゃないか」
イチカの指摘に、言われて初めて目の前の少女の様子に気がつく。そこには、自らの胸で顔を圧迫され、ぐったりとしている碧がいた。
「ご、ごめんなさい! あ、アオイ、大丈夫!? しっかりしてーー!」
慌てて碧の身体を揺するラニアと、小さく溜め息を吐くイチカの後ろ。
「……巨乳って、武器になンだな」
「自覚してないのも考えものだよね」
唖然とした様子で呟いた白兎に、ミリタムがどこか冷めた口調で返した。
およそ十日ぶり。一行が久々に顔を合わせた瞬間だ。だがそれを感じさせないやり取りが繰り広げられ、その場の誰もが心穏やかになったのは確かだった。
「お帰り、イチカ」
「よォ、強くなったみてェだな」
ミリタムと白兎にそれぞれ声をかけられ、イチカはあぁ、と生返事をする。
「どんな修行だったの?」
「過酷だったとだけ言っておく」
やや抽象的な表現に、眉間に皺を寄せるミリタム。
「秘密ってこと?」
「話せば長くなるだけだ」
「そういうことか。まぁアオイが元に戻ったら、一緒に聞けばいいしね」
ミリタムはそう言って、意識を取り戻したもののまだ顔色が優れない碧と、半泣きになりながら謝罪するラニアの方に目をやった。
「あ……あのね、ラニア……」
「うん、うん! ごめんね、本当にごめんなさい!」
「それはもういいんだけど……あの……イチカとは、何もなかった、かな。うん」
「“かな”ってどーゆーことっ?! 何かあったように聞こえるわよ!?」
「何もないって言ったらウソになるけど、何かあったって言ってもウソになるっていうか……」
「……なるほどね。いいわ、あとでいくらでも聞いてあげるから!」
ここまでの会話を全て小声で話す彼女らは、ある意味滑稽ではある。
「楽しそうだね。何話してるんだろ?」
「……さァな」
実を言うと白兎の耳には会話の内容が筒抜けだった。だが、喋ったらあとでどんな目に遭うか分からない。そう思い、胸の内に留めておく。
「お前たちも修行していたのか?」
「貴方やアオイほどじゃないけどね。大体の攻略法は見えてきたかな」
「あたいも新技の開発に成功したぜ!」
「……それは頼もしいな」
イチカは心からそう告げた。煽てたわけでも、皮肉ったわけでもない。
巫女の森にて、ヤレンの結界を通して彼らを見たときから。そして今――再会して、それは確信に変わった。何よりも彼らの纏う気が、以前よりも一段と逞しくなっていたのだ。仲間が皆、魔族に立ち向かおうとしている。そのことが何よりもありがたかった。
「みんなー! ちょっと来てー!」
ラニアの呼び掛けに、そちらへと駆け出す三人。
「どうした」
「ネオンから【思考送信】がきて、カイズとジラーの量刑が決まったって……」
碧の言葉に、皆が息を呑む。
「どう、なった?」
「今聞いてみるね。ネオン、教えて」
碧が深刻な声色で訊ねたせいか、ネオンが微かに微笑む気配がする。
【だーいじょーぶよ。そんなに重い刑じゃないし。まー決まるまでにイロイロあったみたいだけど】
「そうなの?」
【ええ。頭のカタいじいやたちなんかは、一生牢獄入りしかない、ってうるさかったのよー? で、審議に審議を重ねて、最終的に奉仕活動になったってワケ】
あまりにもざっくばらんな語り口で、碧の反応も一瞬遅れる。
「……奉仕活動?」
【そ。あいつらの故郷、ベルレーヴ村だっけ? そこで執行猶予期間中は奉仕活動に勤しめ、ってね。まぁ言っちゃえばまだはっきりとした量刑は決まってないんだけどねー】
「じゃあ! じゃあ……今、そこに行けば、二人に会えるってこと?」
感激で涙が溢れそうになるのを必死に堪え、一つ一つ確かめるように問う。ネオンはひとつ間を空け、明るく言い放った。
【そう言うと思って、レクターンお抱えの魔法士団派遣しといたわ。歩かなくて済むようにね。もう少ししたらそっちに着くはずだし、しばらく待ってるといいわ】
「! ありがとう、ネオン!」
【思考送信】を終えた碧は、晴れ晴れとした笑顔で仲間たちを振り返った。
「カイズとジラー、奉仕活動で二人の故郷のベルレーヴ村に帰ってるんだって! そこに行けば会えるんだって!」
「本当に?」
「うん! だってネオンがそう言ってたし! それで、今から魔法士団が来るから待ってればいいって!」
「至れり尽くせりだなァ」
白兎が感心しながら、頭の後ろで手を組む。
「刑はどうなった?」
「はっきりとは決まってないみたいだった」
イチカの冷静な問いに、碧は力なく首を横に振って答える。
「とりあえず死罪ではないんだな。それが分かればいい。しばらく会っていないし、待てばいいと言うなら従わせてもらうまでだ」
イチカはそう言って、今度は碧の横のラニアに問いかける。
「……ラニア。怪我はもういいのか?」
「もっちろん! 三日寝たあとは修行三昧だったわ」
ぐっと拳に力を込め、軽くウィンクをするラニア。彼女の言うとおり、巫女の森にいるときに見たような修行ができるまでには、怪我は完治しているようだった。
しかし、いくら完治したとは言えあの親バカならぬラニアバカが黙っていないだろう。
心の中で推測していると、案の定それを肯定するような声が届く。
「レイトが時間・食事・睡眠まできっちり管理してる上に、一日中付きっきりの修行だったけどね」
「ミリタムっ! そーゆーことは言わなくていいのっ!」
顔を真っ赤にしながら抗議するラニアを見て、イチカ以外の三人が微かににやつく。イチカはと言うと穏やかな表情で彼女を見たあと、リヴェルの町中へ入っていこうとした。それに気づいたラニアが、慌てた様子で引き留める。
「あ、イチカ! アイツにはもう出発するって言ってあるから大丈夫よ!」
「……おれは何も言っていないんだが」
「あのっ、もし挨拶しに行こうと思ってたなら、って意味だからっ!」
「……そうか。それならレイトのところへ行く」
「だから行かなくていいってば!!」
碧、白兎、ミリタムはひたすら笑いを堪えるのに必死。イチカも笑いこそしないが、ラニアの反応を面白がっているのか、からかうような言葉を繰り出すばかりだ。
そんなやりとりをしていると、不意に一行の背後に一陣の風が吹いた。半径一メートルほどの範囲に砂埃が舞い、視界が悪くなる。やがて風が止み、砂埃が掻き消えると同時に、十人ほどの白い集団が現れた。頭からつま先まで白一色のローブ。レクターン王国魔法士団である。その中の一人が歩み出て、事務的な口調で一行に告げた。
「ネオン様からお話は伺っております。どうぞこちらの魔法陣へ」
魔法士が指し示した先の地面には、いつの間に描かれていたのか、複雑な文様の魔法陣が刻まれていた。【瞬間転送】の式だが、人数や目的地によって微妙に模様が違ってくる。なお、魔法は原則サモナージ帝国及び領内出身者のみ使用できるが、例外としてレクターン王国魔法士団だけは魔法公使を許可されている。
それぞれ顔を見合わせて頷き合う。そして、誰からともなく魔法陣へと歩き出した。皆が線の内側に入ると、一つ一つの線や式から光が立ち上る。光の粒子に包まれた一行は、次の瞬間完全にその場から消えていた。
「……ここは……」
先ほどまではたしかに真後ろにリヴェルの町があった。だが、今は四方八方を木々に囲まれている。ともすれば獣道かと思うほど草が生い茂る道の上に、イチカらはいた。碧は思わず周囲を二、三度見渡して、歓声を上げる。
「……す……すごーい! ホントに一瞬で来ちゃった」
「でも、村なんてないわよね?」
ラニアの言うとおり、周りには樹木こそあれ、小屋一つ見当たらない。まさか魔法のエキスパート集団が、転送先を間違えたのだろうか。そんな疑惑が浮かび始めた頃。
「そういうワケでもねェらしいな」
白兎が器用に耳を揺らしながら言う。
「あっちの方から声が聞こえる。それと人間のニオイがイヤってほどするぜ」
隠れ里みてェになってンのかもな、という白兎の言葉を聞いて、ミリタムがしばらく思案に耽る。ややあって、ぽん、と手のひらを叩き。
「そっか。白兎、獣人だから鼻が利くのか」
「でかしたわ! こーゆーときのために人参持ってきといて良かった〜」
「村を見つけたら吠えてもらえばいいしね!」
「……あたいはペットか何かか?」
どこから持ってきたのか、長いヒモの先に人参を括り付けるラニアと、楽しそうに賛同する碧を見て、白兎は疲労感たっぷりそう呟いた。
四足歩行で臭いを辿る白兎の後ろをついて行くこと数分。それまでは木々を掻き分けて、力ずくで道を造ってきたが、突如視界が開けた。
木の葉まみれの一行が目にしたのは、木造の家々。それぞれが独立しており、中には水車が隣接している家もある。鶏が我が物顔で闊歩し、牛舎も見受けられた。そして何より――【瞬間転送】で来たときにはまるで感じられなかった人々の気配。それが、気配など探るまでもなく、村中を行き交っている。丸太を軽々と抱えている若者、溢れんばかりの水が入ったバケツを両手に持つ子供、鍬を担いでいる老父は小走りで目の前を通り過ぎていく。子供から老齢者まで、淀みなく動いている。
「テレビでやってた……ホントにあったんだ……」
呆然と呟く碧。「てれび?」と聞き返すラニアを見て、ああこの世界には『テレビ』はないんだった、と思い直す。
「ううん、なんでもない。こっちじゃ丸太運んだりとか普通なんだよね」
「ああ、日本は結構進んでるんだったわね。でもさすがにあたしたちも、ここまでの生活はしてないわよ?」
苦笑しながら弁解するラニア。人間のクセにあたいらと変わらねェ生活してンな、と白兎が感心したように言う。
「つーかオイ、約束だろ。人参よこせ」
ラニアの前で手を広げ、指をちょいちょいと動かす。どうやらここまで案内する代わりに、人参を駄賃にする約束だったらしい。ラニアはジト目だったが、ややあって腰に下げていた袋から人参を取り出す。その瞬間、白兎は目にも止まらぬ速さで人参を奪い取り、勢いよくかじり付いたのだった。碧とラニアが呆気にとられたのは言うまでもない。
一方。イチカはそんな女性陣の動きなど気にする様子もなく、村内を隈無く見渡していた。この村のどこかに弟分たちがいるはずなのだ。だが予想以上に村の規模が大きいためか、なかなか見つけられない。
「村ってこんなに大きいんだね。知らなかった」
「……この村が普通とはかけ離れているんだろう」
人口も、民家の数も。“村”と言うよりは町のような外観と、自給自足を思わせる人々の行動。貴族だからこそ無知だったであろうミリタムの言葉に、漠然とした答えしか返せなかった。
ふと、視界の端から幼女二人が駆けてきた。二人とも小さめのバケツを持っているが、そんなことはお構いなしのようだ。ちょうどイチカたちがいる数メートル先で止まり、元来た方向に手を振っている。
「にいちゃーん! はやくはやくー!」
「へーへー。今行く今行く」
「んもー! カイズにいちゃんってば!」
「わーってるよ。大体そんな急ぐほどの距離でもね……」
両手にたっぷりと水の入ったバケツ。幼女らの話し相手であろう、めんどくさそうに、しかしどこか楽しげに現れた少年は、不自然に言葉を切りこちらを見た。
くすんだ金髪の逆毛。ダークブルーの瞳が、一行の姿を凝視したまま固まっている。
その口が、徐々に開いていき――
「……兄貴!? みんなも!! 久しぶりだな!」
バケツが落ち、水がそこら中に零れるのも構わず、屈託のない笑顔で少年――カイズが駆け寄ってきた。幼女たちも彼につられて走ってくるが、どこか不安げに一行を見上げている。
無理もない。見知らぬ人間が突然、しかも複数現れたのだから。
「カイズにいちゃん、この人たちだぁれ?」
「……こわいよ……」
興味津々な一人を盾にして、もう一人が影に隠れる。カイズはそれぞれの頭にぽんと手を置くと、彼女らの目の高さに合わせてしゃがみ込んだ。
「怖くなんかねぇよ! みんなにいちゃんの友達だ!」
にっ、と笑いかけるカイズ。二人は一行とカイズを何度も見比べたあと、納得がいったのかぎこちなく頷いた。
「こっちの、獣人のおねえちゃんも……?」
やっぱりか。
幼女たち以外、全員の心の声が一致した。彼女らはおそらく、いや十中八九、兎族である白兎(の顔)を一番恐れているのだと。
カイズは数秒思案した後、
「…………ああ!」
「ンだコラ。文句あンのか?」
完璧なようでいてどこか含みのある笑顔で、二人の幼女の質問に応えたカイズ。そんな彼を、白兎が半眼で睨む。そのことにより、ほぐれかけた幼女たちの表情が再び強張った。
「白兎? さっきあなたが食べた人参みたいに粉々にされたいの?」
「ごめんなさい」
胃のちょうど裏側に銃口を押し当てられ、白兎は即座に降参したのだった。
イチカはそれまでのカイズの様子を静かに見守っていたが、以前共に旅をしていた時と変わらない姿に安堵する。だが、いつも彼の隣りにいた少年の姿が見当たらないことに気づいた。
「カイズ、ジラーはどうした?」
「ああ、アイツは……っと、いたいた。おーい、ジラー!」
カイズは村を振り返り、視線を彷徨わせたのち、ある一点に目を留める。遠くからでも分かる、紫と灰色のモヒカンヘアーの少年。その肩には丸太が担がれている。カイズの声でこちらに目を向け、驚いたように目を見張り――
誰かが「あっ」と声を上げた。少年は――ジラーは、イチカらに気を取られて気づかなかったのだろう。後ろから来た少女の進路を妨げるように立ち止まってしまう。彼が反射的に避けたため、ぶつかるというよりは多少肌が擦れる程度だったが、それでもジラーとその少女の間には、どこか険悪な空気が流れていて。
「邪魔」
そばかすの乗った、小麦色の肌でもはっきり分かるくらい眉間に皺を寄せて、少女は敵意すら剥き出しにして一言そう告げた。
「あ、ああ。ごめん……」
慌てて謝るジラー。だが、少女は表情を緩めるどころか、さらに語気を強めてつっかかっていく。
「どこに目つけて歩いてるのよ。暗殺者さんは楽よね、人を殺すことしか考えなくていいんだから」
「……だから、何度も言ってるだろ? オレたちはもうガイラオ騎士団じゃない」
「人殺しには変わりないでしょ」
それまでは困惑顔だったジラーの顔つきが、突如強張る。
「……サルス、話を――」
「気易く呼ばないでよ。人殺しと馴れ合うなんてごめんだわ。どいて」
弁解の言葉も聞く耳持たず。オリーブ色のショートパーマを揺らし、少女はバケツを両手に持って去っていった。一行の前を通り過ぎる前もあとも、彼女の表情は怒りに満ちていた。
「……アレ、ベルレーヴ村の名物コンビな」
カイズが遠慮がちに呟いたのは、それから数十秒後のことであった。
ジラーはどこか放心状態で立ち尽くしていたが、思い出したようにカイズたちに向き直り、彼の性格どおりのんびりと歩み寄ってきた。すかさず白兎がヤジを飛ばす。
「おーおー青春してンじゃねーか!」
「おう! 井戸水でも丸太でも、運べばなんだって筋トレになるしな! まさに青春だ」
「……そーゆーイミじゃ……つかンなことしかねェのかお前の頭は……」
どうやらヤジの意味を取り違えたらしい。自慢の筋肉を見よと言わんばかりに上腕二頭筋を誇示するジラーに、白兎はまた困憊したようにツッコミを入れた。
「お久しぶりです、師匠。みんなも元気そうで良かった」
そんな彼女の心情などつゆ知らず、ジラーはイチカ、周りの一行の顔をひとつひとつ見渡しながら丁寧に挨拶をする。
「ああ、相変わらずで何よりだ。安心した」
幼女たちはしばらくカイズと他愛のない話をしていたが、興味の対象が変わったのか、二人仲良く村の中へ走っていった。その姿が見えなくなってから、ジラーがもっともなことを訊ねる。
「でもどうして? また会えたのは嬉しいけど……」
「そーだよ! 魔族は?! 魔族はどうなったんだ?!」
焦るようにまくし立てるカイズ。無理もないが、イチカは落ち着けと宥める。
「魔族はまだ……。でもとりあえず、あたしたちの居場所がバレてこの村が襲われる心配はないよ。ヤレンが『巫女の森』と同じ結界を張ってくれたから」
『巫女の森』と同じ、つまりは魔族に気配を察知されにくくする高等結界【遮】だ。森そのものを覆っていた結界は解除されたが、対人結界にすることも可能なのだそうだ。ヤレンからの言葉を思い出しながらイチカが補足する。
「効果は一週間らしいがな」
「そっか……」
碧とイチカの言葉を聞いて安心したのか、カイズも落ち着きを取り戻したようだった。
「そうだ。なぁカイズ、せっかく師匠たちがここまで来てくれたんだし、村長の家に案内すればいいんじゃないか?」
「おっ、それ名案! んじゃ早速行くか!」
カイズとジラーは意気揚々と歩き出そうとしたが、ふとカイズが一行を振り返り、にかっと白い歯を見せた。
「……あ、村長はオレたちを二つ返事で受け入れてくれたイイ人だから、心配いらねーよ!」
村の入り口から左に曲がり、歩くこと数十秒。他の民家より少々大振りな民家が現れる。厩や牛舎・水車が複数隣接しており、この村の中では一番の資産家であることを思わせる。
「ギルがいるから、村長もいるな」
厩の右端にいる馬の姿を認めると、ジラーはまっすぐに玄関へと向かっていく。カイズはしばらくギルと呼ばれた馬の頬や頭を撫でていたが、思い出したように扉へと駆ける。
「そーんちょー! ちょっといい――」
手を軽く握り扉を叩こうとしたジラーよりも早く、カイズがノックもなしに扉を開け放ち――その姿勢で固まった。何事かと一行が駆け寄り、中をのぞき込む。ジラーの顔が、心なしか強張っている。
十畳ほどはあるリビングの真ん中の、客人用のテーブル。ちょうど玄関と真正面の、テーブルの奥に村長と思しき男性が立っていた。その左側、カイズらから見て右側の椅子に半ば突っ伏すように座る者がいた。それは間違いなく、先ほどジラーと(一方的に)口論になっていた少女で。
状況が飲み込めたのか、少女・サルスはあどけなさの残る顔を瞬時に取り消し、憎悪の表情を形作った。
「また人殺し! よそ者まで……! ほんとにあんたたちはろくなもんじゃないのね!」
先ほどは気づいていなかったのか、「よそ者」のイチカたちにもあからさまに軽蔑の眼差しを向けている。
「ただでさえ人殺しがのうのうと居座ってるのに……! ガイラオ騎士団が連れてきた奴らなんて疫病神に決まってるわ! 今すぐこの村から出てってッ! よそ者は災いしか持ってこない!!」
あまりにも一方的で差別的な発言に、元々短気なカイズが反論する。
「っお前なぁ! オレたちだけならともかく、兄貴たちまでけなしやがって……!!」
そのまま殴りかかりそうな勢いのカイズを、すんでの所で後ろからイチカらが羽交い締めにする。怒りの収まらぬカイズはサルスを睨みつけるが、彼女は物怖じした様子もなくさらに言い募る。
「それがどうしたって言うの! あんたたちよそ者のせいでどれだけの人が不幸になったと思って――」
「やめなさいサルス!」
思わぬところからの叱責に、びくりと少女の肩が震える。彼女はゆっくりと、後ろの人物を困惑した表情で見上げた。
「じいちゃん……」
「……もう、よしなさい。どれだけ恨んだところで、一度失われた命は戻っては来ん」
「分かってる! でも諦めたら同じことの繰り返しになる! こうしてる間にも誰かがガイラオ騎士団に殺されてるかもしれないでしょ!? 人殺し集団をなくすためには、そういう想いも必要なのよ!!」
「“分かってる”……か。それは分かっているとは言わん。サルス、それでは何も解決せんよ」
「……ッ!」
サルスの表情が一層険しくなる。次の瞬間には、部屋の奥にある勝手口へ駆け出し勢いよく扉を開けて出て行った。
再び静寂が訪れた室内。それを破るように溜め息を吐いたのは、ある種の留めを刺した村長だった。
「すまんの、お客さんもおるのに。……あの子は幼い頃、ガイラオ騎士団に両親を殺されてな。以来二人のことも、どんな来客でさえも“よそ者”と罵って受け入れようとせん」
長い眉と髭に覆い隠されて表情は窺い知れないが、どこか自嘲気味に村長が弁解する。互いに顔を見合わせて、しかしどう答えて良いのか分からず皆が逡巡している中、カイズが戸惑い気味に口を開いた。
「ちょっと……待てよ村長……さっきアイツ、“じいちゃん”って……」
サルスは両親を殺されたと、村長は言った。
その村長を、彼女は「じいちゃん」と呼んだ。
今までそんな素振りを見せたことはないし、見たこともない。しかし、この推測が本当なら。
祈るような眼差しで見つめてくるカイズの視線に居たたまれなくなったのか、村長は苦笑する。
「……村長になってから、儂のことは『祖父』ではなく『村長』として接するようにと、常々教えておった。村長たる者、住人皆に対して平等でなければならんからの。親を失って間もないあの子には酷だとは思ったが――儂もあの子のことを『孫』ではなく『一村民』として守っていくと決めた以上、後には退けんかった。結果としてお前さんたちを騙しておったことは、申し訳なく思う」
「でも! でもっ……じゃあなんで、オレたちを……」
『受け入れてくれたのか』とは訊けなかった。村長からの思いがけない告白を聞いた今、適切な表現ではないと思ったからだ。もしかしたら『受け入れて』などいないのかもしれない。子を殺されたのだ。それも、自分たちが五年ほど前まで所属していたガイラオ騎士団に。サルスほど直情的ではないが、村長も内に秘める怒りは同じはず。これは、一種の復讐なのか――。
思考がどんどん負の方向へ傾いていくカイズ、そしてジラー。そんな彼らを引き揚げるように、ほっほっ、と村長のあっけらかんとした笑い声が響く。
「そう暗い顔をするでない。たしかに儂の子どもたちはガイラオ騎士団に殺されたが、お前さんたちに殺されたわけではない。それに言ったじゃろう? “どれだけ恨んだところで、一度失われた命は戻っては来ん”とな。恨みや憎しみを持ち続けたところで、それを維持するのは心身共に負担がかかるものじゃ。それならばいっそ、死んでいった者たちが謳歌できなかった分まで笑って生きる。その方が長生きできようし、あの子らも儂らが笑っていることを望んでいるはず。そうは思わんか?」
私怨など欠片も感じられない村長の言葉に、一行は得心がいったように頷いた。
村の外れにある石碑群。まだ自分が幼かった頃、ガイラオ騎士団が奪っていった命たちの墓だ。
サルスは迷いのない足取りで、石碑の合間を縫って歩いていく。手にはベルレーヴ村周辺にしか咲かない、白や紫の花。程なくして辿り着いた二つの石碑の前にしゃがみ込み、花束を墓前に供えた。両親の名前が刻まれた部分を指でなぞるその眼差しは、年相応のものだ。名残惜しげに石碑から手を離して、視線をずらす。両親の墓のすぐ隣にある、一回りも二回りも小さな石碑には名前が刻まれていない。それでもサルスには、それが誰の墓か分かっていた。花束にはしていないけれど、同じ花を一輪だけ供える。
両親の石碑の前で見せたものとは明らかに違う複雑な表情で、その石碑を見つめる。落ちた溜め息で、花びらが微かに揺れた。
「むかつく……どうして何から何までおんなじなのよ……」
むかつく、という言葉の割には、少女の口調にはどこか寂しさが滲んでいる。何かを堪えるように、唇を噛み締めて。
立ち上がっても彼女はその場から動かず、しばらく小さな石碑を見下ろしていた。
「ねぇテルー……どうして? どうしてよ……?」
言葉と同時に零れた雫が、名もない石碑に染み渡った。
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