第六章第六話  正統派VS非正統派

前へ トップへ 次へ

「……あの……ヤレン様……」
 サトナがおずおずと口を開く。何かに気を遣うように、視線だけをちらりとヤレンに向けた。
「そうだな……目の保養にはなるが、」
 その視線の意味を理解したのか、ヤレンが口元に笑みを浮かべて答える。そして意味深に眼を細め――『彼』と『彼女』を見つめた。
「いい加減空気というものを、読んでもらおうか」
 二人の巫女の前には、今にも暴れ出しそうな魔族の擬似体。彼女らは表情にこそ出さないものの、それを辛うじて神術で押さえ込んでいるところだった。

 どのくらい、そうしていたのだろう。時が止まったのか、あるいはあれから何時間、否、何日も経ったような気さえしていた。むしろこのまま膠着すればいいと思うほど、今いる空間は心地よくて。
「アオイ」
 不意に名を呼ばれて、仕方なく、おもむろに意識を現実に引き戻す。温かい何かが、彼女の胴体を埋め尽くしていた。ちょうど良い温度で、下手をすれば睡魔に襲われそうなほどだ。例えるならそう、布団のぬくもりから抜け出せない感覚に似ていた。それ故になかなか手放すことができない。
「見せつけも結構だが、そろそろこちらの術が限界だ。そいつを解放してやってくれないか?」
 脳が覚醒していないのか、言葉がひどく遅れて届く。放っておいてほしいと思いながらも、頭は勝手に文章の組み立てを始めていた。
(“見せつけ”……“術が限界”……“そいつ”を“解放”……?)
 ゆっくりと瞳を開く。飛び込んできたのは、艶やかな光沢のある銀色。その下には重厚そうな鎧。そして自分の腕は、その鎧ごと引き寄せるように交差されている。
 顔の真下にある銀糸に、暫し見とれた。絹のようにさらさらとしていて、それでいて傷みもない。羨ましいと思う。ふと、以前にもこんな感情を抱いたような気がした。
 突然、今までの出来事が脳裏を駆けめぐった。気づけばいつも眼で追っている背中。表情の読めない切れ長の銀眼。瞳と同じ色合いの髪を持つ、自分と同じところから来た、自分とは正反対の少年。
 それが今目の前で、半強制的に抱き寄せている少年だと分かったのはそれからすぐのことだった。
 体温が急激に上昇した。同時に反射的に両手を上に挙げる。顔が熱かった。とりあえず何か言わなければ思う前に、口が動いていた。
「ごっ、ごごごごめんなさい!! 身体が勝手に……ってそれもヘンだ! えーと……!」
 少年は――イチカは何も言わない。当然のごとく表情にも変化はない。非難されたならどんなに良かっただろう。今の碧にとって、彼の無感情ほど恐いものはなかった。非難する価値もないと思われているようで。
「ホントに……迷惑なことしちゃって……」
 碧の言葉を聞いているのかいないのか、イチカはやはり無言だった。剣を拾い、立ち上がる。
「――いや」
 思いがけず否定の言葉が前方から聞こえ、碧は耳を疑った。
「助かった」
 振り向いて、横目ながらも碧を見て、確かにそう言った。それだけで碧の中の不安は一瞬で消え去り、嬉しさが込み上げる。
「話の続きを聞いていなかったな。おれの修行の相手はこいつか?」
 イチカは碧から視線を逸らすと、ヤレンにそう問いかけた。
「ああ。ただし条件付きだ」
「条件付き?」と言いたげな顔をしているイチカを見て、ヤレンはそれまで浮かべていた笑みを消した。同時に、どことなく和らいでいた空気が張り詰める。
「できる限り早い方が良いが、何日掛かってもいい。そいつを倒せ!」
 それはつまり、“ただの”修行ではないということ。イチカは無意識に、人差し指と中指のない左手を握り締める。
「それでおれは、強くなれるか」
 俯いていて、表情はうかがい知れない。だが、少なくとも彼の覚悟はヤレンにも碧にも感じ取れた。
「……保証しよう。だが忘れるな」
(イチカ……)
 碧は気が気でなかった。先ほどのことはあまり覚えていないが、彼とうり二つの魔族の殺気は異常なほどだった。いくら姿形を似せた紛い物だとはいえ、この修行は熾烈を極めるだろう。
「剣技を極めるだけが強さではない。護りたいもの、護るべきものを認識し、どれだけその想いを明確にできるか……。想いだけで強さは変わる。それを強く肝に銘じておけ」
「……ああ」
 今までと同じで、違う。彼の目つきが変わったのが碧には分かった。まさに覚悟を決めた瞳だ。やり遂げようとする信念、相手に打ち勝とうとする意思が、確かに伝わってきた。
 ヤレンはサトナに目配せする。サトナは頷き、両手のひらを打ち合わせた。そして対象へと両手を向け、言葉を紡ぐ。
「【解】!」
 この時を待っていたと言わんばかりに、とてつもないスピードでイチカに向かっていく『セイウ』。イチカは今度は自分を見失わなかった。今までで一番心が静まっている。その不思議な感覚の意味を理解する暇もなく、相手の剣が振り下ろされた。
(見届けなきゃ……この修行、ううん、闘いの結末を!)
「アオイさん」
 決心したのも束の間、凛とした声が碧を呼んだ。振り返ればサトナが、彼らとは正反対の空間に手を差し出している。
「貴女はこちらへ……神術の伝承に移ります」
 碧は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……“伝承”って……もう教えることはないって……」
 初めて『巫女の森』に訪れた時のこと。サトナは間違いなく、碧に「私が教えることはこれだけです」と言った。混乱していると、サトナは碧にとって予想外の言葉を言い放った。
「あれは嘘です」
「嘘ぉ?!」
 頭を固い床に打ち付けたほどの衝撃を受けて、碧は暫し立ちすくむ。
「どういうことですか嘘って!? 悪ですよそれ!」
「いいえ。神の御言葉は絶対、時には嘘をつくことも肝心です」
「“絶対”の意味間違ってますよ……」
 悪に関して潔癖なまでの言動を取るサトナが、嘘をつくとはどうしても思えない。そんな碧の先入観が、見事に破壊された瞬間だった。
 碧がギャップに戸惑っていると、途端にサトナの顔が真剣味を増す。
「それに今回お教えするのは、神術に不可欠な『癒しの力』……つまりは治癒の術です」
「“治癒の術”……ってことは……」
「ある程度の怪我は治すことが可能になります」
 今まで見守ってばかりで、肝心なときに役に立てずにいた。やっと、役に立てる。それを考えたら、何故か眼の奥が熱くなって。
「えへへ……」
 頬に涙が伝うのも構わず、碧は笑みを浮かべていた。
「なんだろ……すっごく嬉しい……!」
 碧が心の底から歓喜していることが分かり、サトナもつられて微笑んだ。巫女となってもう十年以上経つが、泣いて喜ばれたのは初めてだった。不思議な照れ臭さを感じる。
「よしっ! そうと決まったら早く行きましょうサトナさんっ!」
 今まで泣き笑いだったのが嘘のように、碧は明るく言い放った。それでサトナも現実に引き戻される。先ほどとは別の笑みで、そうですねと答える。
「言っときますけど完璧に修得するまで帰しませんよ?!」
「え? はぁ……」
それはむしろ私の台詞だと思うのですが……、という言葉は碧のハイテンションな声に覆い隠されてしまう。
「さぁさぁレッツ修行〜〜!!」
「…………」
 意欲的なのは良いことだが、この先大丈夫かしらと、サトナは密かに思うのだった。

 端から見れば愉快な光景をちらりと見たのち、表情を引き締める。
(奴の修行は私が責任を持って見ておこう)
 揺るぎない視線の先には、銀色の髪をした少年。こちらから表情は窺い知れない――と言っても、彼の場合は表情も何もあったものではない――が、普段以上に集中していることは確かだった。
(万が一の場合、『奴』を制御せねばならないからな……)
 一方、イチカは剣を片手に一人佇んでいた。相手の姿はない。姿どころか、気配すら感じられなかった。
 彼は知る由もないが、高等結界【遮】が解かれたことで魔族の特徴とも言える瘴気は感知しやすくなっている。それでもなお、イチカの並外れた探査網に引っかからないのだ。
(隠れたか。だがどこへ……)
 その上、他の動物たちの気配も皆無。否、あるにはあったが、皆怯えているのか身動き一つしない。仮初めとは言え人ならざる邪気である。身を潜め、息を殺していようとも、人間の何十倍もの検知能力を持つ動物たちには容易に感じ取れるのだろう。
 だが、「人間離れした」知覚能力ならばイチカとて負けてはいない。
(いくら身を隠そうともあの瘴気だ。この聖域ならば尚更、瘴気に反応して居場所を特定しやすい)
 変化は唐突に訪れた。
 迫る猛々しい殺気。場所は――
(後ろ、だと……?!)
 振り向きざまに方向転換し、勢いをつけて後方に飛ぶ。わずかに遅れて地面が砕け、拳大の破片が舞う。土煙が上がり、辺りは黄土色の霧に包まれた。
(なんて威力だ! 今のおれの倍……いや、三倍はある突き)
 戦士とは思えぬ、『卑怯』とも言える手口と圧倒的な力に気圧されながらも、イチカは冷静に分析していた。再び霧に乗じた相手の気配を探る。
(そして、速度――)
 残像すら捉えられなかった。となると、攻撃の後すぐに移動したのだろう。またしても相手は気配を絶っているようだ。戸惑いを隠せないイチカの、地面に映る影が一層濃くなったのは次の瞬間だった。瞬時に状況を把握する。
(爆風で、頭上に――!)
 反射的に腕が持ち上がり、剣で応戦する。だが、受けた衝撃は軽かった。相手の手に握られているものは、剣ではなく鞘だと気づく。その頃には、『本物』の軌跡がイチカに迫っていて――。
 肩から胸にかけての一撃。吹き出る鮮血。ぐらりと身体が傾く感覚。
 だが、痛みはなかった。それどころか傷口も、一滴の血すらもない。
(幻覚……?)
 目線を下げれば、相も変わらず異様に短い、不格好な左手があった。
(……戸惑っているな……)
 ヤレンは一連の修行を、瞬き一つせずに見ていた。
(無理もない。闘気・殺気・剣圧・振動……ここまで緻密に再現されていながら、攻撃を受けた際は無傷。『奴』の実態は私と同じく存在しない。だから物理的攻撃は効かないがこちらの攻撃も意味を成さない。つまり『分身を解く』ことが『倒す』ことに繋がる。それに――)
 目を細める。四百年前のあの日もそうだった。常軌を逸した剣技。それまで見てきたどんなものよりも異質で、しかし華麗な剣捌き。微笑みたくなるような懐かしさは、今はない。
(正統派剣術で敵と渡り合ってきたお前にとって、戦いを楽しむためだけの『奴』の剣術は手強いぞ)
前へ トップへ 次へ