第六章第五話 汝、その名は
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お前が望めば、失った物は戻ってくる
失った時の哀しみよりも大きな喜びを連れて帰ってくるんだ
そしてそれは、すぐ近くにあるものなんだ
なあ、
青い鳥は、一番身近にいただろ?
両手の人差し指と親指を付け、楕円を作る。そのまま円を移動させ、
視たい位置で止める。双眸を閉じ、魔力をその穴へと集中させれば【千里眼】の準備完了だ。充足が済んだら、瞼を開いて覗き見ればよい。だが彼の視ている場所は聖域だ。微量の魔力であろうと、感知すれば著しく障害を引き起こす。故にその障害の基となった砂嵐が、彼の視界を妨げる。元々通常の魔族以下の魔力しか持ち得ない彼にとって、この状況は少々辛い。魔力を込めようにも、下手をすれば自身が気を失ってしまう。それでも必要最小限の情報は視えたので、徐々に近付いてくる気配を背中に感じながら到着を待った。最早二人だけとなった部隊だ。気配を探らずとも誰が来るかなど分かっているはずだが、彼は偶然を装った。
「あ〜ソーちゃん。ナイスタイミング〜〜」
無論、彼が“偶然を装った”ことを分かっているソーディアスは、見え透いた物言いに関しては何も問わなかった。彼の趣味であり暇つぶしだ。言及するつもりも介入する意味もない。
「【千里眼】か。何が見えた?」
「だから“ナイスタイミング〜〜”って言ったじゃないのぉ。面白いモノよ面白いモノ! さぁ見てすぐ見て。もうすぐ魔力不足で見えなくなるから」
ソーディアスは言われたとおり、霧がかかったような円の中を視た。砂嵐の中、三つの人影が映る。途切れ途切れの映像でも、一人の人間と対峙するように立つ二人の姿は忘れ得ぬものだった。知らず息を呑む。
「どーやらイチカってば、あの痛々しー手で修行するみたいよ〜?」
その直後、光が縦横に弾け、あ、切れたという声が上がった。だがソーディアスの耳には届いていなかった。その漆黒の眼はひたすらに、映像の無くなった円の向こうを見つめていた。電波障害が、電波障害がと、壊れたように唸り続けるクラスタシア。それを横目で見ながら、ソーディアスは口を開いた。
「修行か。別にそれに対する是非はない」
そう、抗うなら抗えば良いだけのこと。自らの運命を受け入れたのなら、せいぜいそれ相応の強さを手に入れることだ。足掻き苦しんでも高みに届かなければ、それまでということである。
「問題はそれによって、どれだけ実戦における成長があるか、だ」
だが、少なくとも退屈を紛らわせるだけの戦力を身に付けてもらわなければ困る。そう考えて、彼は多少の期待を含めて言った。未熟ではあるがようやく敵を見つけたのだ。魔星に戻れば手合わせの相手などいくらでもいるが、今彼が戦いたいのは他の誰でもない。ただ一人、願っても戦うことのなかった相手。
「ごもっとも」
喚いていたかと思いきや不敵な笑みで振り返り、クラスタシアはそう返した。
微弱な魔力が聖域の結界に衝突するのを感じた。低級魔族のものか、あるいは、生まれつき魔力の少ない『剛種』と呼ばれる魔族のものか。いずれにせよ波動を感じたのは数秒ほどで、聖域内に悪影響はないようだ。ほう、と人知れず息を吐く。
獣配士と名乗る魔族が現れて以後、ヤレンは【
遮】を解いた。元々は彼女自身が後ろめたさを感じていたが故に張られた結界だ。恋人は無惨にも殺されているのに、自らは意識として存在している。その罪滅ぼしとして、魔族の気配を最小限に抑える処置を施した。それが結果的に魔族の侵入という事態を招き、負傷者をも出した。責任を感じたのだろうと思いつつも理由を訊ねたが、返ってきたのは別の答えだった。
『宿命に向き合おうという気になってな』
その言葉に首を傾げた。宿命というならむしろ、彼女の生まれ変わりや、恋人であった魔族の生まれ変わりのことを指すと思うのだ。何の宿命かと問うと、彼女は途端に寂しげな笑みを浮かべてこう言った。
『死に損なった愚かな女の宿命だ』
そして今――目の前に、恋仲であった彼らの生まれ変わりが立っている。そう、過去形だ。現在の様子は、恋仲というよりは主従のようだ。互いに距離があり、少女の方が後ろに控えている。そして前方に立つ少年の左手には、幾重にも重なった包帯。短すぎる人差し指と中指。
「お久しぶりです、アオイさん、イチカさん。どのような御用ですか?」
聞きたいことはあったが、挨拶だけで済ませた。彼らの目的は薄々分かっていた。だとすれば、ここは自分の出る幕ではない。
「『救いの巫女』に用がある」
銀髪の少年は一言、サトナが予想した通りの名詞を言い放った。深追いはせず、「今お呼びします」と言ってサトナは森の奥へと歩いていく。
しばらくの間二人きりだった。だが交わす言葉はない。話を持ち掛ける理由がない者と、話し掛ける資格がない者と。碧の視線は、自然と包帯の巻かれたイチカの左手へと移った。きっと、未だ痛むのだろう。利き手ではないから直接修行には響かないはずだ。それでも碧は罪悪感を覚えた。居たたまれなくて、どうしようもなくて。修行は魔族を倒すため、ひいてはイチカ自身と、碧のためでもある。
(無理してほしく、ない)
「気にするな」
思いがけず、前方から静かな声が聞こえた。
「お前の手じゃない」
彼なりの気遣いか、あるいは慰めか。相変わらず碧に背を向けているイチカは、根幹には気づいていないようだった。だから碧も、気づかないふりをした。
「……分かってるよ」
苦笑混じりに、そう答えた。
それから数分ののち、ヤレンがサトナを引き連れて現れた。ヤレンはその場に残ったが、サトナは戻って来るやすぐにまた別の場所へ向かった。碧は、また森林浴だろうかと思いながらその行く先を見つめる。その間に、ヤレンとイチカが会話を始めていた。
「お前にしては早い決断だったな。もう少し渋ると思っていたが?」
「おれはまだ半信半疑だがな……あんたが剣を持てるとは思えない」
確かに、と内心で相槌を打つ碧。巫女が剣で戦うというのも斬新だが、修行を付けられるほどの使い手には見えない。イチカも恐らく、同じようなことを考えたのだろう。するとヤレンは珍しく目を丸くし、イチカを凝視した。そして暫し間が空いたかと思うと、くっくっと肩を震わせて笑い始める。
「……何がおかしい」
「いや、すまんすまん、つい……」
明白なまでに、不機嫌な様相を呈したイチカがヤレンを睨みつける。しかし、それでも彼女は笑い止まない。目尻に涙すら浮かべて、必死に爆笑しそうになるのを堪えている。外見通りの大人の巫女かと思いきや、時折見せる少女のような一面。思えばヤレンがここまで笑うのを見たのは初めてかもしれない、と碧は思う。彼女のような人間でも表情が豊かだと分かって、少し安堵した。
「確かに修行をつけてやるとは言ったが、直接お前の相手をするのは私じゃない」
未だに愉快そうな表情をして、当たり前といえば当たり前のことを言うヤレン。イチカの顔が、不審そうに歪んだ。
「何……?」
「サトナ」
「はい、ヤレン様」
いつの間に戻ってきていたのか、サトナが返事をした。イチカも碧もそちらに目を遣る。そして、二人の眼が驚愕で見開かれた。
サトナは一人の少女を連れてきていた。ただ、その顔は分からない。白く、つばの広い帽子を目深に被っているからだ。それでも“少女”だと特定できるのは、同じく白いワンピースを着ているから。
忘れもしない。イチカはウイナー郊外の森で、碧は魔族との戦闘の後、少女と出会っている。
「……どちらも、見覚えがあるようだな」
ヤレンが二人の心の中を覗き見るように言った。
「それは私の分身だ。初歩的な神術ならばまあ使える。お前の傷を治したのは【
癒】と呼ばれる中位神術だ、アオイ。あとでサトナが教える」
簡潔な説明をし、イチカに向き直る。
「さて、それではイチカ……」
「……どうやらあんたは、相当におれを馬鹿にするのが好きならしいな」
自分ではないと、その次に現れたのは見た目では十もいっていないだろう少女。修行相手がその少女だとすれば、イチカが怒りを露わにするのは無理もない話だ。
「あんたがこの件に関してまともに動いてくれているとは、到底思えない」
そう言って、今すぐにでも踵を返して帰っていきそうな勢いのイチカ。碧も、少女が修行相手だと信じたわけではないが、納得できる状況でもない。
「確かに、信用しろと言ってもすぐには無理だろうな――だが忘れてもらっては困る。こちらはまだ説明の途中だ」
静かな声調が、イチカの心を留まらせた。
サトナが少女から離れ、何メートルか距離を置く。少女を挟んで、互いに向き合うように並ぶヤレンとサトナ。目配せをした後、双眸を閉じて手を組み合わせる。神術の構えだ。複雑に各自の指を絡ませ、何らかの神術を造り上げていく。一瞬の間をおいて、ヤレンは片手を、サトナは両手を同時に少女に向けた。そしてそのまま静止し、高らかに言霊を発した。
「我が名はヤレン・ドラスト・ライハント」
「その守護サトナ・フィリップ!」
「汝の魂は解き放たれた!」
「今一度、仮初めの身を以てここに降臨せよ!」
交互に言霊が発せられるたびに、少女の周囲に発生した風が勢いを増していく。微風から強風、竜巻へと強度を変え形を変え、少女の身体を地面から浮かせた。
「汝、その名は――」
「「セイウ・アランツ!!」」
そして――個人名が発せられた直後、少女の身体を破るように青年が姿を現した。肩で切り揃えられた銀色の髪、身に纏う鎧と瘴気。いつか夢で見た、イチカの前世だという魔族の姿そのものであった。目覚めるように開かれた双眸も、銀。重力に逆らって、ゆっくりと降り立つ。銀と銀の双眸がかち合う。前世と生まれ変わりが
邂逅を果たした瞬間だった。少女の残骸が青年の頬を撫で、舞い落ちる。
同時に膨れ上がった殺気が、根源的な恐怖と不安を煽った。
「っ――?!」
己の構えた剣に、相手の剣がのし掛かっていた。その表情を見て唖然とする。場違いな笑みを浮かべている。二刀流の魔剣士よりも一層深い笑みだ。友好的とすら思えるそれに、イチカは心肝から恐怖した。抗えない。歯向かえない。
「恐れるな!」
すかさず後方から叱声が飛んだ。ヤレンだ。
「歯が立たぬことを何故恐れる? 何故それを認めてしまう? お前は手向かうことすら知らぬのか! それとも……手向かうという感情すら、過去に置き忘れたか!」
――手向かうという感情すら、過去に置き忘れたか!
過去とは、何だったろうか。脳裏に、毎日のように繰り返されたある光景が甦る。
決してこちらを振り向かない背中。うっすらと血の滲んだ拳。非情なまでに鳴り響く、納屋の扉を閉める音。また、何日かは外に出られない。それでも、不思議な安堵感があった。壊れてまともな時を刻んでいない時計を見たからだ。
(……あ)
右眼が腫れ上がっているため、ぼやけて見えにくい。だが、何とか長針が見えた。
(今日は一〇分でやめてくれた。抵抗しなかったからかな)
放置されたゴミ袋から立ち込める悪臭。カビ臭く薄暗い室内。体温を奪う冷え切った床。鈍痛。激痛。倦怠感。
(そっか……母さんは僕が言うこと聞かないから殴るんだ。何にもしなきゃいいんだ。そうしたらいつか、母さんは僕を許してくれる)
信じた。信じていた。
(ハル兄と同じくらい、僕を好きでいてくれる)
ただそうなることを、信じていた。願っていた。望んでいた。
それなのに、向けられる眼差しは日を追うごとに強く険しくなっていった。
憎悪に染まった視線は、やがて殺意へと変化していった。
「う……ああ……!」
『死ねばいいのに……あんたなんて!』
「うぁあああああああーーーー!!」
『近寄りがたいよねー』
『影薄くなーい?』
『あー悪い悪いお前もいたんだっけー?』
『あんまり喋んねーから死んでんのかと思って花置いちまったー』
笑顔。笑顔。笑顔。笑顔。自分の周りは笑顔で満ちていた。嘲笑、冷笑、嗤笑、憫笑、そればかりで溢れかえっていた。彼らの笑いが、自分の存在価値を低めているように思えて仕方がなかった。
『本当は引き取る気なかったんだけど……仕方ないわね』
父方の叔母は自分を見なかった。仕方なさそうに、迷惑そうに扱うだけだった。
“自分”とは一体何なのか。“自分”の存在価値は。“自分”という人間は、一体何だというのか。
「おれ……は……おれは……!!」
「イチカ!!」
自分を呼んでくれる、誰かの声がした。
程なくして柔らかな匂いと、ぬくもりが背中を覆い隠す。首元に回された腕が怖かった。恐怖心を打ち消したのは、耳元で語りかけてくる優しい声。
「……大丈夫」
そっと、回された腕に力がこもる。不安に陥れるような動作ではなくて、あくまでも優しく、壊れ物を扱うように
抱かれた。
「この世界のどこにも、イチカを嫌ったりイチカの悪口を言ったりする人はいない。怖がる必要なんて、ないんだよ」
不安と嬉しさがない交ぜになった。確かにこの世界の人々は、自分を悪くは言わなかった。この世界に来て、変わることができたようにも思う。けれど、やはり人は信用できない。
良香以外の言葉は信用できない。それなのに。
「だから、大丈夫。安心して?」
何故彼女の言葉は、こうも容易く信用できてしまうのだろう?
答えは即座に出た。
知らなかったからだ。こんなにも優しいぬくもりを。体温だけではない温かさを。それらに付随して、初めて生まれる本当の『優しさ』を。
熱い何かが込み上げて、双眸から流れ出た。一つ、二つと、雑草に当たっては跳ね返る雫。それを見て、背後の気配が微かに息を呑んだ。
「イチカ……泣いてるの?」
――泣いている?
視界が霞むこの感覚。そう言えばこんな感覚が、昔はあったような気がする。必要ないと思っていたから、いつの間にか泣き方すら忘れてしまっていたらしい。普通は悲観的な気分の時に流れるものだったはずだが。
「……そうか……おれは、泣いているのか」
今は、そんなことはどうでもいい。
もう一つ、感じるものがあった。身体の奥底から沸き上がる何とも形容しがたい感情。それは哀しみではない、むしろその対局に位置する感情のように思えた。
「やれやれ……『喜』とそれに関わる複雑な感情、二つの感情を同時に覚醒させるとは。私以上だと思わないか、サトナ?」
「そうかもしれませんね……」
突然駆け出していった碧。彼女に抱き締められ、感情を二つ取り戻したイチカ。彼らを見つめていたヤレンは、そのように感嘆の声を上げた。サトナも温かな眼差しで、碧とイチカを見守っている。
「なかなか絵になってるじゃないか」
『救いの巫女』は、満足げに微笑んだ。
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