第六章第四話 決意と決心
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視線の先に、見慣れた白い獣人が立っていた。後ろ姿でも負傷しているのが分かる。それでもふらつくことなく立っていることに安堵を覚えた。きっと他の二人も無事だ。根拠のない安心感が、碧の心に広がっていく。兎にも角にも、怪我の程度を見なければならない。駆ける速度をさらに増して、仲間の元へ向かう。
「ラニア、白兎、ミリタムっ!!」
「あたいは大丈夫だ! それよりコイツらが……!!」
急くような口調に、これまで感じたことのない違和感を覚えた。誇り高き獣人・兎族の長である白兎。その彼女が、今まで一度たりとも見せたことのない切羽詰まった表情をしている。人を頼らない性分であるのに、嘆願するような眼差しを向けて。ただ事ではないと、碧が視線を下げる。
瞬間、息が詰まる思いがした。二人は確かにそこにいる。そこにいるが――
模作された人形のようだった。考えるまでもなく見知った顔なのに、どちらもぴくりとも動かない。重く瞼を下ろして、樹に背を預けて眠っているようにも見えた。その方がどれだけ救われただろう。
「息がねェんだ……どっちも……」
白兎が遠慮がちに発した言葉に、碧は今度こそ立ちすくんだ。膝が、唇が震えて、暫く声が出なかった。
「そ……んな……どうしよう、どうすればいいの……?!」
このまま二人の死を見届けるのか。それだけは決して赦されることではないと分かっているのに、思考がまともに働かない。焦燥と自己嫌悪だけが脳内を占め、有効な対策は打ち出せそうになかった。
「決まってンだろ」
混乱に陥っていた碧を救ったのは、白兎の力強い言葉だった。真紅の瞳に壮大な決意を宿して、いっそ爽快なほどきっぱりと言い放つ。
「あたいらでナンとかするしかねェ!」
――そうだ。
考えてみれば至極当たり前のことなのに、自分は何を悩んでいたのか。仲間である自分たちが何とかしないで誰がするのか。碧は目尻に浮かび始めていた涙を拭い去り、きっと二人を見据えた。
呼吸をしていない場合の対処法は、保健の授業で習うものだ。すなわち『人工呼吸』。その時は生涯自分には縁のないことだと思っていたため、碧は真面目に聞いていなかった。代表者が模型相手に実践しているのを見て、友人と笑い合っていた程度だ。碧は初めて過去の自分の行動を恨んだ。機会があったのもその一度だけ。勿論碧は未経験だった。
(でも、やらないよりマシっ!)
押忍、と小さく気合いを入れる。意外にもミリタムは白兎が担いでいったので、要らぬ心配をしていた碧はほっとした。仲間とはいえ、口付けとも取れる行為はそう易々とできるものではない。それは異性のみならず同性にも言えることだが、女の子同士ならとさして気にしていないようだ。ラニアに近付こうとして、制するように碧の横を通り過ぎる者がいた。
「知識のない奴がしても意味がない」
顔を上げると、イチカがラニアの側に片膝を付くところだった。
「おれがやる。お前は退がっていろ」
とてつもなく重大なことを彼は言ったが、碧の心はそれとは別の意味で高鳴っていた。知識がない、つまり未経験であることをイチカは理解していた。それが純粋に嬉しかったのだ。
(……あれ? でも今、なんて……?)
二人の姿が、教科書の図と被る。気道を確保し、鼻を親指と人差し指でつまむ。救助者が大きく息を吸い込む。そのまま傷病者の唇へ――
「っ……!」
止めに入らなかったのが幸いだった。その瞬間ばかりは、人命救助であることも忘れて反射的に顔を逸らしていた。胸の内がもやもやする。奇妙な焦りが生まれて、心臓が早鐘を打っていた。顔が熱い。何だろう、この気持ちは。
大体ラニアには婚約者がいる。しかもお互いに好き合っている仲だ。ラニアが多少恥ずかしがり屋なだけで、それくらいのことは部外者の碧にも分かることだった。イチカも碧より付き合いが長いのだから、知っていて当然だろう。それでも、自ら進んで重役を請け負った。婚約者の存在を知っていて尚。
(あれがイチカのファースト・キスだとしたら……? ラニアの命を救うために自分の初めてを投げ出した……レイトさんを敵に回しても……それって……)
無意識に視線が動く。白兎も人工呼吸の最中だった。但し、イチカのように基本に忠実なものではない。ミリタムの頭を鷲掴みにし、自分は眉間に皺を寄せている。いかにも『仕方ない』感が滲み出ている応急処置だ。だが、それでも二人は碧から見れば絵になっていた。酷く不器用ではあるが、彼らもお互いに絶対的な何かを持っていると彼女は思っているからだ。どこか空虚な思いで白兎らを見つめる碧。
白兎が勢い良く顔を上げ、睨みつけたのはまさに一瞬の動作だった。言葉は発していないのに、彼女の背後にある気配は殺気にも似た刺々しさを持っている。怯んだ碧目がけてずんずん歩いていき、その不機嫌そうな顔を極限まで近付けて。
「人・命・救・助だ」
「なっななななんのコトっ?!」
これはもう絶対に勘づいてる、と内心諦めていたが、それでも口先ではシラを切る碧。それを聞いて白兎がさらに眉間の皺を深くする。今にも何かを言いそうで言わない、だが間違いなく何か言いたそうな顔をすること数秒。
「いいか?! これはあくまでも『人命救助』だそれ以外の何でもねェ!! 分かったか勝手にヘンな解釈すンなよコルァブッ殺すぞァア?!!」
早口で一気にまくし立て、びっと親指を地面に向ける。締めとばかりに再び睨みつけたあと、再びミリタムの元へ戻っていく白兎。何かをぶつぶつ呟きながら歩いていたが、その頬が仄かに赤く染まっていることに碧は気づいた。
「……ったくあたいの手ェ煩わせやがって……いつまで寝てやがンだ起きやがれこのクソ魔法士ッ!」
「ぐぇッ!! っな、何……僕が何かしたの? なんか死にかけてたような気はするけど……」
「うるせェ! 四の五の言わず今死ね!!」
怒鳴り散らしながら先ほどミリタムを(無理矢理)起こしたように、踏みつけようとする白兎。ミリタムは病み上がりの身体でなんとかそれを避ける。一見すればいつもの喧嘩の風景だ。だが今までの流れから見ると、単なる照れ隠しのように見えなくもない。
「顔真っ赤にしちゃって……説得力ないよ、白兎ってば」
そんな碧の冷やかしの声も、今回ばかりは届いていないようだ。
そうだ、仲間なのだ。仲間だからこそ、身体を張って助けようとする。それが『大切な』仲間ならば尚更のこと。掛け替えのない仲間を失いたくないのはみんな同じなのだ――イチカもきっと、と視線をそちらに向ける。ラニアの口元に耳を当て、呼吸が戻ったことを確認する。ふっと、その表情が安堵に変わる。自分はもちろん、カイズやジラーさえ見たことがないのではないかと思うくらい穏やかな顔。碧はまた胸のどこかが痛むのを感じた。
仲間とは、何なのだろうか。今し方答えを見つけたと思っていた。だがイチカの様子を見ている限り、答えはかけ離れてしまったような気もする。ただの『仲間』に、あれほど安心しきった表情を見せるだろうか。それとも彼は、本当にラニアのことを――
葉と葉の触れ合う音がした。皆が一斉に、視線をそちらに向ける。中でもイチカの視線には、明確に殺気が伴っていた。いくら敵の目的がイチカと碧だけだとしても、侵略しに来ないという保障もない。あれ以外の魔族がいてもおかしくはないのだ。
「……!」
魔族ではなかった。だからといって、和やかな雰囲気に変えることもままならなかった。そこにいた人物は、腰を抜かして座り込んでいた。彼にしてみれば突然殺気を向けられたのだから、無理もない。
「イチカか……びっくりしたじゃないか」
今、この場で、一番遭遇したくなかった人間。
(オイオイ……こりゃ、不味いンじゃねェか?)
苦虫を噛み潰したような表情の白兎。ミリタムはその人物に見覚えがなく、きょとんと白兎と彼を見比べるだけだった。
「……レイト」
彼は――レイトは現れた時も今も、眼だけは微笑んでいる。
「それだけ凄い殺気が出せるってことは、この辺で闘ってたっていうのも君たちのことかな? リヴェル近郊で小規模な戦があったと、小耳に挟んでね」
ついつい野次馬根性で来てしまったんだ、と屈託なく笑うレイト。
彼がここに現れたのは、別段不思議なことではない。一行はレクターン王国を離れ、ひとまずウイナーに戻ろうとしていた。――ウオルクに鎧を傷つけられたこともあり、イチカの鎧を新調する必要があった。魔族との接触の可能性も考えたが、昨日今日で再び攻めてくるとは思いもしなかったのだ。道中宿に泊まり、今朝方魔族と相見えたというわけである。――ウイナーへ帰るためにはリヴェルの郊外を通らなければならない。リヴェルの街はすぐ近くに見えたから、数分足らずの距離なのだろう。
「……耳が早いな」
イチカは、そうとしか答えようがなかった。頭では、この最悪の状況をどう打破するべきか、そればかりを考えていた。
「まぁね。でも、みんな元気そうで何よりだよ。そういえば……僕のラニアはどこかな? 姿が見えないけど――」
結論は思った以上に早く出せた。隠しても意味がないし、隠しようがない。まさか白兎のように、力ずくで起こすわけにもいかない。だから彼は、静かに立ち上がった。レイトに、ラニアの現状が見えるように。
案の定、レイトの顔から笑みが消えた。
「ラニアに、何があった?」
程なくしてそう訊ねた彼の声色は、とても穏やかとは言えないものだった。碧も、イチカも、ラニアすら知らないであろうレイトの静かな怒り。
イチカは答えない。言い訳ではない確かな理由があるのに、沈黙を守ったままだ。あるいは、どんな言葉も言い訳にしかならないと思ったのかもしれない。
「答えられないのかい? 見たところ彼女だけ怪我の程度が酷いじゃないか。まさか君は、女の子のラニア一人を過酷な戦闘に参加させたっていうのかい?」
何も知らない人間がこの現状を見れば、誰でもそう言うであろう。白兎は戦闘種族・兎族の長であり、多少の怪我であれば動きに支障はない。ミリタムは一般男性と比べれば少し華奢な方だが、それでも女性と比較すれば体力はある方だ。そしてイチカと碧は不本意ながら、ヤレンの加護によってほとんどの傷は癒されている。銃士とは言え普通の町娘と大差ないラニアは、一人身を横たえている。全員が闘った。平等に見えないのは、不平等な庇護のため。イチカは自分と異世界の少女だけを治癒した巫女を思い出し、内心で舌打ちした。
一言も発さないイチカの態度に業を煮やしたのか、レイトが眉間に皺を寄せる。
「……君がそれほど非常識な人間だったというなら……そんな男を信頼して、ラニアを任せた自分がとても腹立たしいよ」
このままではいけない。考えるより先に、声が出た。
「違うんですレイトさん、イチカは――」
「悪かった」
精一杯否定しようとした。否定して、真実を伝えるつもりだった。それなのにイチカは、そんな碧の言葉を遮って一言、そう発したのだ。そして、謝罪にしては律儀すぎる最敬礼。碧は訝しげに彼を見つめた。
「ラニアのことは全部、おれの責任だ。おれが未熟なせいで、こいつをこんな目に遭わせた。反省している」
あのイチカが、頭を下げて、謝罪を。
端から見れば失礼な思考を巡らせたあと、碧は敗北を悟った。おそらく、ラニアはイチカのことが好きだろう。ただしそれは『恋愛対象』としてではなく『仲間』として。しかしイチカはどうだろうか。もし自分が同じ立場だったなら、口だけの謝罪はあっても最敬礼などしなかっただろう。決定打は、その顔。彼は心底申し訳なさそうな、悔恨の表情を浮かべていた。自分の時はどうだろうか、いや絶対にない。彼にとって忌まわしいだけの過去を思い出させるような自分には、そんなことはしない。実らないと分かっていても、イチカにとってラニアこそが恋愛対象なのだ――そう考えないと、今の険悪な空気を乗り切れそうになかった。レイトの婚約者なのだからそれくらいはして当然だ、という思いも心の底にはあったけれど。
「白兎、白兎」
「あァ?」
未だ頭を上げないイチカの数メートル後ろ。緑髪の魔法士が、獣人の少女を肘で小突いた。状況が深刻なので、二人とも普段より小声だ。
「話が飲み込めないんだけど、あの人誰?」
「はァ?! さっきから『ラニア』『ラニア』言ってる時点で分かるだろ! 婚約者だよアイツの!」
「嘘?! へぇ〜〜……ラニア、ああいう人が好みだったんだね。何考えてるのか全然分からないような顔なのに……」
「黙ってろ弾が飛んでくっぞ。気絶してても話は聞こえてるかもしンねーからな」
普通ならば有り得ないだろうことを適当にこじつけ、白兎は再び前を向いた。イチカは依然、頭を下げたまま。つまりはあの謝罪から、レイトが一言も発していないことを意味する。小さな溜め息を、白兎の耳が辛うじて捉えたのはそれから間もなくだった。
「“反省している”ねぇ……反省したって、ラニアに傷を負わせた事実は消えない。僕としてはこれ以上、君とラニアを一緒に居させたくはない」
当然と言えば当然の返答が、レイトの口から紡がれた。イチカとて、そう簡単に赦してもらえるなどとは思っていないだろう。この程度の謝罪で赦すようなら、それこそこの男を信用できない。逆に彼が今の台詞を言っていたはずだ。だが――レイトが言うことももっともだ。実際これから先、あと何度同じような事態に遭遇するか分からない。今は一命を取り留めたが、次闘ったときは全員が死ぬ可能性だってある。それならばせめて、自分たちと行動するよりは安全な彼の元で暮らした方が良いのかもしれない。いずれにしろ、次のレイトの言葉で全てが決まる。
「ラニアは僕が――」
「まっ……て……」
思いがけない声に、イチカは思わず頭を上げてそちらを見た。ふらつく足で、それでも樹にしがみつきながら懸命に立ち上がったのは、渦中の少女。
「ラニア……」
開かれた瞳には、揺るぎない決意が秘められていた。息を整え、今度はしっかりとした口調で言う。
「待って……レイト。これはあたしが悪いのよ……イチカだけの責任じゃない。みんなちゃんと戦ってた。あたしだけ体力がなかった、それだけよ」
自分に非がある、とも受け取れる言葉。まっすぐな瞳を、困惑した表情で見つめるレイト。
「だから……みんなを……イチカを……責め、ない……で……」
「ラニ――」
よろめく身体。駆け出そうとした自分の横を、通り過ぎていく紫の影。難なくその腕に抱き留められる少女を見て、悟った。それは自分の役目ではない。
「……ホントに君は、お人好しなんだから」
気を失ったラニアに微笑みかけるレイト。軽くしゃがみ、ラニアを横抱きにして持ち上げた。そのまま歩き始めるが、何とも形容しがたい空気が流れていることに気づき、振り返る。皆、レイトから視線を逸らしている。気まずいとはこのことを言うのだろう。顔を正面に戻し、再び歩き出す。暫し考えたあと、彼は至って陽気に声を掛けた。
「何してるんだい? 君たちも怪我をしているんだろう? 早く来ないと置いていくよ」
彼らにとっては予想に反した言葉だったのだろう。振り返らずとも、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているのは容易に想像できた。
「……いいのか……?」
おずおずと、小さな子供のように訊ねるイチカの声。
「いいも何も、女の子がいるじゃないか。僕は困ってる女の子は放っておけないタチなんだ」
(別に困ってねェんだけど)
白兎は心の中で毒づくが、ちらりと横を見ると、もう一人の『女の子』はほのかに頬を染めていた。それが歓喜からくるものか別のものかは分からない。何となく馬鹿馬鹿しくなって、出てきた反論は心の内に留めることにした。
「それに……君たちを置いていこうものなら、それこそラニアに撃たれちゃうからね」
レイトはもう一度振り返り、一行に笑いかけた。
「ん……」
ぼんやりと、前方の風景が映る。白い空間。天井だろうか。一度瞬きをすると、真っ白い空間が不意に何かに遮られた。徐々にその全貌が明らかになってくる。紫の髪。狐のように、終始笑みを浮かべた顔。
「やぁ、気が付いたみたいだね」
「……レイト?! どうしてこんなトコ、に……っ……」
思いがけない人の姿に身を起こすが、その反動で身体の節々に痛みが奔った。そんなラニアの様子を見て、僅かに険しい顔をするレイト。その肩に手を置き、ゆっくりとベッドに押し戻す。
「まだ起きない方がいい……全体的に傷は浅いけど油断できないからね。それに僕は君たちを保護してあげたんだ。覚えてないのかい?」
その『保護』の前に一悶着あったことには触れない。ラニアに余計な気を遣わせたくないからであろう。当のラニアは、眉間に皺を寄せて唸る。
「覚えてないわ……記憶が飛んでて。確か、魔族に襲われて……」
瞬間、眼を大きく見開く。レイトが気づく前に、彼女はその一瞬で起き上がっていた。それも酷く慌てた様子だ。
「そうよレイト! 魔族は!? 魔族はどこにっ?!」
まだ戦いは続いていると思っているのだろう、腰元を探り銃を出そうとしている。レイトは落ち着いた様子で、彼女の額に手を当てそれ以上起きることを制した。
「僕が来たときにはもういなかったよ! だいたい“保護してあげた”って言ってるのに、どうして魔族が出てくるんだい?」
わたわたと、腕を振り回す仕草を面白く感じながら、分かりよく説明するレイト。
「それは、そうだけど……ったたた……」
「言ってる側から動く」
たしなめるような言葉とは裏腹に、レイト本人は楽しそうだ。痛みで小さくなるラニアを暫し見つめ、くすくすと笑い出した。
「ホントに君は、おっちょこちょいで可愛いなぁ」
「〜〜っ」
“可愛い”の一言に反応し、頬を赤く染め上げるラニア。なお、銃はレイトが事前に取っておいたため、いつものように照れ隠しはできない。よって彼女は、恥ずかしげに俯きながらも上目遣いで睨みつけるだけだった。その仕草も、普通の男性ならば思わず抱き締めたくなるようなものなのだが、レイトは何もしない。怪我人だということで自粛しているのだ。思えば、こうして言葉を交わしたのも久しぶりだ。暫くは何よりも、この平穏を大切にしたい。
「ねぇ、ラニア」
会話が途絶え、睨むのも疲れたラニアは外を眺めていた。唐突に、レイトが口を開く。
「何?」
目元は笑っているのに、表情全体で見ると真剣な顔。おそらくその微妙な違いが分かるのは、ラニアだけであろう。ただならぬ空気を感じ取り、彼の言葉を待つ。レイトは黙って自分の両手を移動させ、ラニアの両手を包むように持ち上げた。そして、不思議そうにそれを眺めていたラニアと目線を合わせる。その瞬間、レイトの手の力が僅かに強まった。
「結婚しよう」
突然すぎるプロポーズ。いつかこんな日が来るのだとは思っていた。だが、こんなに早く、こんな時期に。
「……けっ……こん……?」
当然、ラニアは事態を飲み込めない。思考が追いついていないのだ。
「正直僕は気が気じゃなかった。婚約者の僕以外の男とラニアを行動させるなんてね」
独占意欲の強い言葉に、ラニアの肩が小さく震える。
「でも君がどうしても、って言うから……危険だと分かっていたけど、敢えて行かせてあげた。それがこの有様だ。今は軽傷で済んだけど、次はどうなるか分からない。死んでしまうことだって、あり得る」
目を伏せる。確かに、その通りだ。人外の敵との戦いは、これからも熾烈を極めるだろう。魔族か、自分たちか、どちらかが息絶えるまでに、犠牲があってもおかしくはない。今までだってそうだった。今度の戦いで犠牲が出ないとも限らない。
「君を幸せにしてあげたい。でもそれ以上に、君を危険に晒したくない」
切実な訴えが鼓膜を震わせる。嘘ではないだろう。こんなにも真摯な言葉は初めて聞いた。そして、なんて悲痛な響きだろう。今までにないほどのまっすぐな想いで、彼は自分に相応の答えを求めている。
だが、できない。今は答えることができない。シーツをきつく握り締め、断腸の思いで言葉を紡いだ。
「……ありがとう、レイト。でも――ごめんなさい」
「ラニア……」
「あたし……今が平和だったら、こんな状況じゃなかったら、跳び上がって喜んでた。でも……ダメなの。この戦いの結末を見届けるまで、イチカたちと一緒にいたい。大切な仲間が、魔族に狙われてる。あたしじゃ何の役にも立てないかもしれない、だけど、この気持ちは変わらない」
それが、想いの全て。
レイトは彼女の答えに納得がいかないようだった。唇を噛み締めて、黙り込んでいた。溜め息を吐く。その次に何を言われようと、譲るつもりなどなかった。だが意外なことに、その唇が笑みに緩む。
「そうだったね……すっかり忘れていたよ。ラニア、君は筋金入りの頑固者だってこと」
やると言い出したら聞かない。冒険が大好きで、止めても「行く」の一点張り。ラニアは幼い頃からそんな少女だった。
「そしてそんな所も、僕が君を好きになった理由の一つだってこと」
ようやく、レイトにいつもの笑顔が戻った。
「レイト……」
いつかもこんな風に笑顔で見送ってくれたことを思い出す。おまじないと言って、手の甲に口付けた彼。まるでお伽話のお姫様と王子様のような展開だと、思考が働かない頭でぼんやり思ったものだ。そう考えているうちに、あの日の光景が鮮明に浮かんできて、顔が熱くなる。きっと今、自分は真っ赤だ。勝手に赤くなるなんて頭がおかしいみたいではないかと、必死に振り払おうとするが出て行かない。俯いて隠すしかなかった。レイトはそんな彼女を見て何を思ったのか、未だ重ね合わせたままの手のひらに体重を掛ける。
「……ラニア」
「あっ、なに――」
顔を上げれば、レイトの顔が間近に迫っていて。
驚く暇もなく、ほんの一瞬唇が重ねられた。ラニア自身、片手で足りるほどしかしたことがない。そのどれもが、今のようにレイトからの不意打ちだった。呆然とするラニアに見せつけるように、自らの唇の前で人差し指を立てるレイト。
「おまじないの効力維持。平手でも飛んでくるかと思ったけど……満更でもなさそうだねぇ? もう一回しようか?」
宣言通り近付いてくる婚約者の顔。それでようやく、自分の身に何が起きたのかを自覚したラニア。羞恥で顔から湯気が出そうだ。
「っの……バカレイトーーーー!!」
実に派手な音と叫び声がレイト宅から聞こえたのは、それから間もなくのことだった。当然、庭にいた碧とイチカの元にもその音は届いている。発砲の音でなかっただけ幸いか。
「何かされたのかな、ラニア……」
「さあな」
されたとしても被害者はレイトだろうが、と心の中で付け加えるイチカ。眼を閉じて塀に寄りかかっている。何か考え事をしているのだろう、と碧は思う。だが、そろそろ本題に移ってもらいたい。何しろ碧を呼び出したのは、他でもない彼なのだ。
「あの……それで、話って?」
「……明日、『巫女の森』へ行く。信じがたいことだが、救いの巫女直々に修行をつけてくれるらしい」
口調はどこか皮肉混じりだ。眼は開かれたが、視線は横に流している。そんな小さな仕草も目に留めつつ、碧はその話がどう自分に関連があるのかを考えた。修行。それは良いことだ。強くなれば、魔族相手に対等に闘えるかもしれない。ただ、無理はしてほしくない。そう切に願った。
「――お前にも来てもらいたい」
逸らされていた視線と不意にかち合った。初めて聞く、頼むような口振り。不思議と聞き入ってしまう。
「あいつから真実を聞くのに、丁度良い機会だからな」
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