第六章第三話  それぞれの理由

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 闇は去った。先ほどまで立ち込めていた邪悪な気配は跡形もなく消え、氷結したかの如く静まり返っていたそこは、再び息を吹き返した。
 ――しかしそれは、人間界にはびこった魔族を滅ぼしたというわけではない。明らかに不利な戦いだった。攻撃への対応の速さ、技術・そして繰り出す一撃の重み。そのどれもがイチカを、彼の仲間を圧倒的に上回っていた。ヤレンが現れその身に結界を張っていなければ、全員が死んでいたはずだ。感謝しなければならないだろう。少なくとも、命を救ってくれたことに関しては。
 だが――見上げた視線の先で口元だけの笑みを浮かべている巫女を見て、素直に礼を述べる気には、イチカは到底なれなかった。静かに視線をそらすと、上方から小さな溜め息が聞こえた。
「私は感謝の言葉の一つや二つ期待していたんだがな?」
「あいにくそれ以上の不満が出てきたんでな」
 イチカはヤレンを睨みつける。銀色の瞳が憎悪と怨恨でより一層細められた。
「……なんで仲間に結界を張らなかった」
「私はそうしたつもりだが」
 両手を広げ、肩を竦めるヤレン。まるで子供のたわいない我が儘をたしなめる親のような仕草に、イチカは感情を高ぶらせた。
「一人だけだろう! あれだけ敷地の広い聖域には結界を張れて、たった四、五人の人間には張れないと言うのか!!」
 結界の特質により、張られた者は同類の結界の所在と個数を知ることができる。イチカもそれで把握したのだが、感じたのは人一人がようやく守られるほどの小規模な結界だけだった。それも、同時に感じた気配はこの巫女の生まれ変わりのもの。だからこそ赦せなかった。結局は我が身可愛さかと。
「仲間の心配も結構だが、私に不満を言うならまず自分を見てからにしろ」
 にべもなくヤレンが言い放つ。静かな声調だからこそ感じるその奥の怒りに、イチカは思わずたじろぐ。ヤレンは静かに膝を折ると、彼の左手を持ち上げた。意識であり、言ってしまえば霊体であるはずの彼女の手は、不思議と温かい。だからこそ気づけたのかもしれなかった。振り払おうとした右手は、その事実を知って所在なげに地面から浮いている。
 人差し指と中指が、なかった。第二関節から上が、いっそ見事なほど平らになっていた。
「クラスタシア・アナザントはお前を殺そうとしていた。奴の攻撃に倒れたと見せかけ、なんとか二人分の結界を張るのが精一杯だったんだ」
 ぽつり、と呟くそれは、言い訳にも自嘲にも聞こえた。イチカはぐっと口を噤む。
「……一つ、聞きたい」
 暫しの沈黙のあと、重たい口を開く。信じた訳ではない。だがそれは、最も現実味があり妙に納得できる話だったから。少なくとも、訊く価値はあると思ったのだ。
「セイウ・アランツとかいう魔族がおれの前世というのは本当か?」
 ヤレンは依然、無表情のままだった。しかしそれは常人の眼では、である。イチカは彼女が僅かに息を呑んだのを見逃さなかった。同時にその瞳が揺らいだことも。なるほどな、と彼は思う。今まで核心に触れようとしても、かわされ続けていたのはこれが理由だったのだ。何を考えていたのか、ようやく読めた。それは無関係であるはずのイチカが召喚された理由にもつながる。つまるところ――
「自分たちの生まれ変わりを異世界へ召還して、どうするつもりだった? おれの予想で悪いが、あんたは再現しようとしたんだろう。四百年前のあんたたちを」
 ヤレンは半魔の少女に敗れ封印される直前、それまでは禁忌とされてきた【神術】を使い、自らとセイウの魂を異世界へ飛ばした。そして、そちらの生活に少しでも支障を覚えた場合『アスラント』への道が開くという仕組みになっていたのである。
「……そうだ」
 短く肯定を示すヤレン。
「私たちは愛し合っていた。だがいかに相愛であろうと、人間と魔族の壁はそう易々と壊れるものではない……。ならば同じ種族としてならそれは解決するのではないか? そう考え、それぞれの魂を危険の少ない地球へ――こちらと共通点の多い国へ飛ばした。時期が来れば、再びこの世界へ喚び戻す。我々の魂を持った者同士、我々の意志を継いで惹かれ合い……」
「くだらん」
 だんだんと熱のこもった口調になり、彼女にとってはいよいよ話が佳境へ入る直前。イチカはその先を冷めた口調で遮った。
「“魂を持っているから惹かれ合う”か。馬鹿馬鹿しいにも程がある。おれはあんたの思い通りになるつもりもそれに対する関心もない」
 左手が痛まないわけではない。だが今はあまり気にならなかった。イチカは違和感のある左手を見つめ、言葉を切る。利き手でなくて良かった、これならまだ闘えるだろうとぼんやり考えた。
「この手は治るのか」
 先ほどから苦しげな表情をしている巫女に訊ねる。その表情のわけが自分にあるということをイチカは分かっていたが、詫びるつもりなどない。
「……腐りはしない。だが、一度失くした組織は二度と元には戻らないだろう」
 イチカは黙って立ち上がろうとした。それだけ訊けば十分だと思ったのだろう。その際自然に左手を使ってしまい激痛が走る。一瞬顔が苦痛に歪む。思い出したように不格好な指から出血した。結界の効力か、さほど酷くはない。本来あるはずの部位がないのだ。精神力がなければショック死してしまうような光景なのに、不思議と冷静でいられた。しっかりとした足取りで歩き出す。
「今のお前に勝ち目はないぞ」
 すがるような声。振り向けば、いつもと同じ『救いの巫女』がいた。立ち上がったときにはまだ表情を消し俯いていたのに。
「お前の意思がどうであれ、お前はセイウの魂を持った男だ。魔族もそれを嗅ぎつけたから、相当な手練れを送ってくる。それに対抗するには、お前自身が『セイウ・アランツ』にならなければならない」
「……ほう?」
 イチカは初めて彼女の話に興味を抱いた。
「私がお前を鍛えてやろう。あまり時間はないが、早ければ二、三日で強くなれる。お前次第だ、イチカ」
 まだ可能性はある。そうも聞こえる彼女の言葉に、イチカは少し安堵した。
「修行を受けるつもりがあるなら、明日の早朝、巫女の森に来い。遅れれば二度チャンスはないと思え」
 挑戦的に言い放ち、光が霧散するように消えた。いつにも増して強気な口調だと思ったのは、イチカの気のせいではないだろう。それだけその“修行”に関して自信があるということだ。
 ――答えはもう決まっている
 何かが強く心を突き動かしている。護ると決めたときから、魔族と闘っていくと誓ったときから、ずっと。
 結局は踊らされているのだ。『彼女』を護ること自体に何の嫌悪も抱かなかった。おかしな話だ。あれだけあの世界を、人間を忌み嫌っていたのに。もし『彼女』を嫌いかと訊かれたら、なんと答えるだろう。出会った当初ならば、はっきりと答えられたはずだ。躊躇いも葛藤もなく、できることならば殺してやりたいと。今はそう答えられる自信がない。それが何故なのかは、イチカ自身分からなかったが。
 左手の、指があった部分が疼く。
「イチカっ!」
 歓喜を含んだ声が前方から響く。そちらを見遣ると、息を落ち着かせながら笑顔を浮かべる碧がいた。走って来た上に、鎧には傷一つ付いていない。何故無傷なのかと考え、先ほどのヤレンの言葉を思い出す。
『二人分の結界を張るのが精一杯だった』
 外見に変化がないと判断が難しいが、あちらでも戦いがあったということはイチカにも分かる。迷いなく向かってくる少女を邪険にするような真似はしないようだ。その碧が彼の左手の異変に気づくのに時間は掛からなかった。笑顔が消え、深刻な表情に変わる。
「どうしたの、左手……?」
「魔族にやられた。かなりの強敵だったからな」
 自嘲気味に呟き、その視線を碧に向けて――ギョッとする。彼女は不格好な左手を両手で持ったまま、大粒の涙を流していた。いつの間に左手を取られていたのか不思議だったが、それよりも何故泣いているのか。
「ごめん……っなさ……あたし……全然、護ってあげられなくて……なんにも……役に立てなくて……っ」
 ――何を言っている?
 イチカは理解できなかった。本来ならばそれはイチカの台詞だ。いつかの白い少女は“護ってあげて”と言った。碧には何も告げていないはずだ。護ってもらうほど弱くはないし、立場はまるで逆だというのに、何故“護れなかった”などと言うのだろう。
 それ以前に碧はごめんなさいと言った。ここ最近頻繁に謝られていると思うのは彼の気のせいではない。そこにも矛盾を感じるのだ。謝る必要などないのに、どうして謝るのだろうと。
「……謝るな。お前が悪いわけじゃない。おれが油断していただけだ。自業自得……」
 ふと、自分に向けて「自業自得」と口走ったのはこれが初めてだと彼は思う。この少女といると、いつも思いがけない言葉が口をついて出てくる。調子を、狂わせられる。イチカは二重の意味で困惑した。そんな彼をよそに、碧は懸命に首を振る。
「結界張っておけば良かった……怖いよ、こんなの……身体の一部が()くなっちゃうなんて……こんな……」
「ほんの一部分だ。おれはこれで良かったと思う」
「良くないよ!!」
 やたらと反発する碧に、イチカは内心驚きっぱなしであった。依然、彼女の瞳からは透明な雫がこぼれ落ちている。不定期に、それでも留まることを知らない涙。涙腺が脆いのか、それとも――優しいのか。
「……ありがとう」
 涙を流してまで心配してくれたこと。そして、新鮮な毎日をくれることへの感謝が、自然と唇を動かす。イチカからすれば無意識のうちに出た言葉だったが、あまりに素直な物言いに、碧は泣くのも忘れて赤面してしまっていた。
「あ、あの、そうだ! みんな大変なの! きっと大怪我してる! 早く行こう!」
「! ああ」

 月が淡く顔を出し始める。正方形に切り抜かれた壁の縁に腰掛けながら、空を仰ぐ男がいた。容姿はどちらかといえば女の妖艶さがあるが、惜しげもなく晒された上半身は筋肉質な男らしさがある。長い薄黄色の髪は無造作に下ろされ、先ほどまで激戦の最中(さなか)にいたとは思えないほどのくつろぎようである。
「どうだった?」
「んーーー手応えバッチリ! ってとこね」
 突然の問いかけにも快活に答える。問いかけた方もそれで驚いたような素振りは見せない。
「……だろうな。お前のその姿も久しい」
 あとはその口調なんだが、と口には出さず胸中で思う。
「久々にイイ気分だったわぁ〜〜。ソーちゃんも、でしょ?」
 探るような眼。深い意味はなく単なる好奇心からのものだろう。一瞬視線を落とす。
「まあな……だがまだまだだ。おれが求めた奴の強さ、あの程度ではないはず」
「あらあら。大事な指を切り落としておいてまだ強くなれだなんて、ソーちゃんったらドSぅ」
「それしきのことで以前の力を失うようなら奴は偽者、というだけのことだ」
 訝しげに眉をひそめるが、次には頭の後ろで手を組み背後の壁にもたれかかった。おそらく、ソーディアスは予想以上に良い戦いをしてきたのだろう。指摘は厳しいが、確信がある。そう言っているようにも聞こえた。一体どんな戦闘をしてきたのだろうか。それを考えると自然と願望が湧いてきて。
「あーあ、アタシもイチカと戦いたぁーい」
 ちらりと横を窺うと、案の定、ソーディアスの纏う気が瞬時に変化した。その禍々しく冷徹な気は殺気にすら等しい。
「……見誤るなよクラスタシア。お前の相手はあくまでも魔法士だ」
「んもう、ジョーダンよ、ジョーダン! まぁあの子もまだまだお子ちゃまな分コントロールが甘いけど、将来が楽しみではあるわね〜」
 広がった殺気を押さえ込むには相当な労力と時間がかかるだろう――。そう予測していたクラスタシアの読みは外れた。拍子抜けしたように、殺気が収縮していく。
「その将来は我々が頂くのに?」
「それはそれ、これはこれ」

 やれやれ、と溜め息を吐く。大人びたことを言ってもまだ子供だからか、感情があるのかないのか判断しかねる。もしかすれば感情を取り戻しつつあるのかもしれないが――その分、言いくるめやすいのも確かだ。
 自分の聖域は、やはり安心する。これも巫女の(さが)だろうか。意識と言えどもヤレンの仮初めの身体は『体力』を消耗する。特に意識を遠くに飛ばしたときなどは、何十時間か眠らなければ動けそうもない。溜まった疲れを癒そうと、大樹に身を寄せた。しかし、軽い足音が聞こえてきて『安眠』は妨げられる。
「ヤレン様! 何故あの者を王都へ向かわせたのですか!」
「なんだ藪から棒に。お前も黙認していただろう?」
 眼を閉じていても誰だか分かる、正義に人一倍敏感な少女の声。珍しく張り上げた声は、しかしヤレンの言葉で急激に威力を失う。
「それはっ……(わたくし)にとっては不測の事態で、思考がついていかなくて……! いくら身寄りがないとは言え、悪事を働かないという保証はありません!」
「いや、大丈夫さ。あれは本当に切羽詰まった眼をしていた」
「……ですが――」
 なおも言い淀むサトナ。これはもうしばらく休めそうにないな――そう考え、ヤレンは双眸を開いた。サトナとて今は最もヤレンと近しい存在だ。だからヤレンにも『疲れ』があることは承知している。普段は気を利かせるのだが、正義に反し、納得できない出来事があった場合には話は別だ。納得いくまで理解を求めるのだ。
「信じられないのも無理はないか。だが、王都へ向かわせたのには合理的な理由がある」
「理由……ですか?」
 眼を(しばたた)かせるサトナ。ヤレンは小さくああ、と頷く。
「数十日ののち、王都が動乱に巻き込まれるのが『見え』た」
「それは……まさか魔族の……」
 サトナの顔色が見る見る変わってゆく。超高等結界【(ツイ)】によって、今より多数の魔族がアスラントに向かっているのは知っていた。だが、よりにもよって王都とは。
 レクターン王国王都セレンティア。それがヤレンの示したウオルクの目的地であり、人口はアスラント一を誇る大都市である。最大の人口を持つセレンティアを侵略すれば、なるほど魔族側には有利になるだろう。
「だからこそ、あの男に道を与えた。王国にとってもむしろ利益になる」
 実を言えば、彼女にはもう一つ未来が見えていた。どちらかと言えば、こちらの方が深刻な未来だった。だが乗り越えねばならない。まだその未来が、最悪の結果と決まったわけではないのだから。
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