第六章第二話 惑乱
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組み合わされた指に、魔力が集中する。電撃が迸るそれは、【雷】属性。この世界に存在する五大魔法の一つに属する高位魔法である。ただ、魔法の威力が高ければ高いほど術者の体力も消耗する。例によって術者であるミリタムの指はところどころ擦り切れ、血が流れていた。
「其は赫き稲妻・冥道を疾る鬼神・今
哮りを上げ万物を原始に還せ! 【
雷光撃】!!」
指し示した敵を目がけるように、鼻の下に短く細い黒髭(いわゆるちょび髭)を生やした鬼神が現れる。その先にはクラスタシアの姿。間もなく衝突するというのに行動を起こさない。そんな彼を嘲笑っているのか、終始上品な笑みを浮かべた【雷光撃】。いよいよ呑まれようというとき、クラスタシアが思い出したように顔を上げた。嘲りを嘲りで返すような、憐れみのこもった笑み。思わず躊躇しそうになるミリタムだが、ありったけの力を向けた指に注ぐ。限界に近付いていたが、そんなことに構っている余裕はないのだろう。力を緩めれば、それこそ最期だ。
クラスタシアはおもむろに右手を伸ばし、【雷光撃】の尖った鼻先に近付けた。すると魔法は、ちょうどそこから先に見えない障害物でもできたかのように進まなくなる。彼は右手のひらに魔力を集め、ぶつけることで部分的に魔法同士を相殺させたのだ。とは言え、微少な魔力のため人間には見ることができない。そのために、素手で受け止めたように錯覚してしまうのだ。かく言うミリタムもそう錯覚した一人。
(常識がまるで通じないね……)
だが、たとえ常識はずれでもこれは戦いなのだ。単なる遊びなどではなく、命すら掛けた戦闘。最悪の場合、自分の命と引き替えにしても勝たなければならないのだから。
それに、彼自身まだ奥の手は出していない。
「其は鬼神より出でし力! ――」
クラスタシアが眼を見開く。魔法は、属性によっては組み合わせることも可能なのだ。ただし組み合わせると言っても、あれこれ適当に組み合わせては爆発などの危険がある。それぞれの属性の優劣を見極めた上で初めて組み合わせることができる。それだけ魔法に精通していなければ魔法同士の融合などできはしないし、何より危険なことこの上ない。真に熟練した魔法士が使える手段なのである。
そんな高レベルな戦いを、遠目で見つめる者があった。碧である。彼女とてゆっくり観戦している暇はないはずだ。無意識のうちに起こされた行動であろう。同時にそれは、敵であるサイノアからすれば恰好の獲物。こぶし大ほどの大きさの球が、碧目がけて速度を増していく。
「アオイ!!」
魔族の狙いが彼女へと逸れたことに気づいたラニアらは叫んだ。しかし時既に遅く、振り返った碧のちょうど脇腹に命中する球体エネルギー。頼りない大きさであるが、相当な魔力を内に含んでいたらしい。標的となった碧の身体が宙に浮き、そのまま数メートル先へ飛ばされてしまった。二転三転し、それでも立ち上がろうとする碧。腕に力を込めるも、脇腹に走った激痛に負けてしまう。
「戦いの最中に余所見とは、あまり感心しないわね」
無機質な声が碧を攻撃する。生死をかけた本物の勝負。滑稽なことに、半魔とは言え魔族一人相手に三人係でも敵わない。既にいくつか無詠唱と詠唱の混ざり合った攻撃を受け、ラニアも白兎も肉体は酷く傷ついていた。それでも意識を失わず立っていられるのは、日頃の修行の賜物であろう。
「全く以て腹立たしい。この程度の人間に何故父様が……」
彼女の癖らしい――腕を組み、ラニアらよりは傷の少ない碧へと視線を移す。動かない身体を必死に這いつくばって動かし、遅鈍な動きで少しずつこちらへと向かってきている。さほど負傷していないものの、その精神力は称賛に値する。だが――これまでか。
サイノアは気づいていた。まっすぐにこちらを見据える瞳は、しかし明らかに虚ろになってきていることに。
「オイっ?!」
その時、不意に悲鳴のような声が届いた。そちらへ視線を移せば、獣人の少女へと倒れ込む人間の少女。明らかに、意識がない。どうやら限界が来たようだ。人間の身体でここまで持ち堪えたのなら、大したものだ。サイノアはむしろラニアに賞賛の眼差しを向けた。さらに視線を変える。自らの仲間と魔法士との戦いも、そろそろ決着が付きそうだ。どんな魔法を出したのか知らないが、無駄なこと。彼には生半可な魔法は通じないのだから。
一通り見回した後、サイノアは口元を僅かにつり上げた。
「……成る程ね。私たちには最初から慎重で有り続けるほどの強敵は――」
在不。
不規則に、永続的に鳴り響く金属の擦れる音。まるで幼い子供がするように、二本の剣を引きずって歩く青年がいた。彼を知る者が見れば、明らかに落胆している表情だと言うだろう。そうして彼は意味もなく歩き続けるのだ。何かを考えるわけでもなく、ただ無心に。
その足下に、いくつかの個体らしきものが転がっていた。一つは、銀の破片が飛び散った短剣らしきもの。そして残りは、誰もすぐには判別できないであろう。だがその近くに座り込む、半ば放心状態の少年を見れば自ずと予想が付くものであった。その左手の第二関節から上が無かったのである。何かに切断されたような、生々しい傷痕。普通ならば、想像もつかぬほどの激痛で悶え苦しむことだろう。だが少年は、何もかも捨てたようにその場に座り込んでいるだけだ。目の焦点なども合っていないので、何を見ているのかすら分からない。ただ一つ分かるのは――少年の額や頬から血が止めどなく流れ、鎧も深く裂け、重傷を負っていることであった。
青年が剣を持ち上げる。それから少年の首筋にその切っ先が当てられるまで、まさしく一瞬の出来事であった。それでも少年は瞼一つ動かさない。
「自分で言うのもなんだが、おれは必要以上の殺生はしない。弱者には情けをかける」
視線を一瞬たりとも離さぬまま、ソーディアスはイチカを見下ろしながら言った。
「――だが貴様は別だ。いかに弱者と言えども、仮にも『奴』の生まれ変わり」
生死をかけた戦いにしては、いやに生易しい言葉の羅列が続く。だがその口調に若干の苛立ちが混じり始めていたことに、イチカは気づいていただろうか。
ソーディアスが剣を振り上げる。次いで紡いだ言葉は、今までの調子からは想像しがたい、残酷なもの。
「故に、殺す」
これより少し前にさかのぼった、別方面。縦横によく肥えた大樹に押し付けられている緑の影。ただ押さえ付けられているだけならば、反抗の手段はいくらでもあっただろう。だが事はそう単純な問題ではなかった。相手の、クラスタシアの手は、ちょうど魔法士の首辺りを締め付けていた。小柄とは言え、男のミリタムを片手で易々と持ち上げている様は異常とも言えよう。反抗の隙など全く与えさせない力で、しかし気絶しない程度に手の力を調節しているようだ。彼が今以上の力を込めれば、ミリタムの首は治療が行き届かないほどに修復不可能となるだろう。そんな危うい状態だった。
「悪く思わないでね……?」
子供をあやすような猫撫で声。ミリタムは苦痛の表情を浮かべながら手を取り払おうと抵抗をするが、か細く見える手のどこに力があるのか、全く動かせない。加えて魔力と体力を著しく消耗している。段々と抵抗が弱くなっていき、少しずつ力を失っていく。
「でも誇りに思ってちょーだい。アンタはアタシの部屋のコレクションになれるんだから……全身キレイにして飾ってあげるわぁ」
狂気すらこもった言葉なのに、自然と意識が遠退いていき、思うように身体が動かない。クラスタシアはその様子を、悪魔のごとき笑みで眺めているのだった。
「ミリタム!!」
ただ一人、獣の血を引く白兎はまだスタミナが有り余っているのか。傷を負いながらも動き回る気力はあるようだ。逃げ回る合間にぐったりとしたミリタムを見つけ叫ぶが、殺気が迫ってくるのを感じ咄嗟に転がって回避した。立てた膝と紙一重の位置を、エネルギー球が通り過ぎていく。
「流石は獣人。逃げ足だけは速いようね」
起き上がった白兎に掛かるのは、冷たいながらも感嘆のこもった声。
「惜しい逸材だわ。どうしてそちら側にいるのかしら?」
「……へっ、勧誘か。聞き飽きたぜ」
いつかも同じような台詞を聞いたような気がして、白兎は軽く受け流す。脳裏にローブを着た、両頬に古傷のある耳の尖った魔族が一瞬出てきて、思わず頭を振る。もう二度とあんな敵も勧誘もごめんだ。白兎は白兎なりに強い意志を持っているのだ。
「それは残念ね。美味しい話だとは思わない?」
「思わねェな! てめェらに従うくれェなら、死んだ方がマシってモンだぜ!!」
両膝を開き、間合いを取る。サイノアはそれを見て、即座に引き込みの姿勢を崩した。代わりに冷めた眼差しで、右手を突き出す。先ほどまで魔族側に引き込もうとしていた者とは思えないほど、紅い瞳は一層暗く冷たい。
「ならば望み通りに死になさい」
妖しく光るエネルギー球が放たれる直前。ソーディアスの冷酷なまでの一刀が振り下ろされる直前――。太陽よりも明るき光が彼らの頭上に降り注いだ。
「馬鹿な……!!」
上空に現れた巨大な光を見て、ソーディアスは呻いた。双眸を見開き、唇は彼の苦渋を表すかのように噛み締められている。まるでその光が今、ここにあることが有り得ないとでも言うように。
光、ではない。その中に、彼は人影を見たのだ。光はそれを具象するように中央へと集まり、徐々に輪郭を形成していく。やがて具現化されたのは、一昔前の巫女服を纏った女であった。余裕とも取れる笑みを浮かべたその女は、彼自身相見えたことはないが、魔族共通の宿敵と言っても過言ではない相手。
「何故貴様が……! 『結界女』……!!」
忌々しげに吐き捨てたその言葉に、しかしヤレンは小さく肩を竦めただけであった。
「“何故”か。心外な質問だな。まさか私の意識が『巫女の森』に在ることを失念していたのか?」
「見誤るな!! おれが訊いているのは貴様の気配のことだ!!」
仲間の魔族が今の彼を見れば、誰もが口を揃えて「珍しい」と言うだろう。それほどソーディアスは感情を高ぶらせていた。死闘の邪魔をされたこともあるだろうが、何よりもかのセイウ・アランツと共に封印されたという人間の巫女が目前にいるのだ。彼にとっては魔族である前に一人の剣士として、
敵も同然の相手なのである。
ソーディアスの咆哮にも、ヤレンは微笑を浮かべて沈黙を守ったまま何も語らない。まるで、語らずともその身を以て理解できているだろうと、無言の内に語っているようだった。
同じ頃、二匹の魔族の元にも異変が訪れる。
先ほどと同程度の力を右手に込めたまま、クラスタシアは視線だけ空を仰いだ。手の先にはそのまま放っておけば事切れたであろう少年魔法士。思い出したように手の力を急激に緩め、彼は魔法士の首元から手を離した。喉元に加えられていた圧迫感が途端に消え去り、勢いよく咳き込む少年。クラスタシアはそんな少年に目もくれず、かといって特定の場所を向いているわけでもない。定まらない方角を見据えながら、同族の少女に世間話のような口調で言った。
「ノアちゃーん。アタシ、ソーちゃんのトコ行って来るわぁ。――多分、あっちがアタリだから」
何が“アタリ”だというのか、息を整えることに夢中でミリタムは判断できない。だが霞む景色の向こうに、ひと世代昔の巫女服を着た女性を見たような気がした。見たことなどないのに、頭が彼女を『救いの巫女』だと告げる。否定も肯定もできなかった。急激に意識が遠退いたためだった。
サイノアは答えに窮した。彼女の中に若干の焦りがあったのは確かだ。目前にも『結界女』と思しき巫女はいる。だが、突如として――あの光と同時に発生した気配。違う気配ではない、同じ気配が二つに分散していた。これが何を意味するのか。敵戦力の分散か。何のためか。そこまで考える余裕はなかった。クラスタシアは忠実にもサイノアの返答を待っているが、今にも飛び出していきそうだ。彼の持ち味は怪力、そして俊足。あと数秒と持つまい。
「――行きなさい」
どうせこちらには獣人だけ、取るに足らない。その意味も深層に含めて、静かに命じるサイノア。聞くやいなや、クラスタシアの姿はかき消えた。彼の移動した証拠に、思い出したように舞い上がる砂埃。高速で
奔っているのに、立ち上がるのは砂だけ。どういう原理か未だに理解できないが――今現在の主題はそちらではない。
「一匹抜けたか」
上空から降り注ぐ聞き覚えのある声に、空を見上げる。四百年前と同じ巫女服、声。その出で立ちは、間違いなく自分が大樹に封印した巫女の物であった。明日の天気を占うような声調も、あの時と何ら変わりない。
だが、決定的に違う。
「仲間を助けに行ったのだろうが、無駄なことだ。同じ肉体に当たり外れなどあるはずがない。それとも……策無く尻尾を巻いて逃げたのかな?」
くっくっ、と愉快そうに嗤う巫女。これではどちらが敵なのか分からない。サイノアは瞬き一つせず、巫女の言葉を聞いていた。怒りなど感じない。安い挑発だと分かっているからだ。静かに双眸を閉じ、数秒間瞑想した。降参だと落胆したわけでも、あるはずもない憤りを鎮めようとしているわけでもない。
決定的に違うのは、巫女の方はあの時のまま時が
膠着しているということ。
「確かに今の私達に明確な策は無い。けれど、」
見開いた瞳の色は、プラズマを凝縮したような黄金色。
「私一人で貴方を葬ることはできるわ」
その言葉が合図だったかのように。
澄み渡っていたはずの空が突如として豹変した。一部分、まるで巫女を狙うように広がった雨雲から、紅い雷が落ちたのだ。その生々しいまでの緋色は、少女の瞳から色を抜き取ったように、酷似していた。
ソーディアスはその技を一度だけ見たことがある。五十年に一度ほどの間隔で、思い出したように魔法を修得するのがサイノアの習慣であった。魔族と言えども、最初から全ての魔法を兼ね備えているわけではない。人間がその特殊な術に関して無知であるように、魔族にも未だ知り得ない魔法は存在する。また、修得できるか否かは魔族の素質にも関わってくるため、魔王であっても持ち得ない魔法は数多くある。修得に掛かる年数も、個々人の飲み込みの速さ次第なのだ。彼女はその存在を知り、人間界の時間にして僅か三時間で修得してしまった。素質があったとも考えられるし、類い希な飲み込みの速さ故かもしれない。いずれにしても――と、扱いが難しいと言われる魔法を再び眼にすることができ、畏怖にも似た感動を覚える。だがそれは、同時に一つの可能性を生んだ。
すなわち、それ相応の事態があちらにも起こっているということ。
(今のはサイノア嬢の【
紅雷】……やはり向こうにも結界女がいるのか? しかし何故だ! 何故二つ……)
答えに至ろうとする思考は、背後から感じた殺気によって中断される。振り向きざまに反射的に剣を振る。微かな手応えを感じ、跳ね返したのは直径にして五十センチほどのエネルギー球であった。完全に振り向いたとき、空中に浮かぶ巫女に焦点が定まった。愉快そうに笑っている。それはとても愉快そうに。
「どうした? 私が何もしないとでも思ったか?」
子供が自慢話をするような口調で語りかけた後、その漆黒の瞳を細めて。
「そう言えば貴様、見ぬ顔だな。何故そこにいる?」
存在を問う意味を測りかね、狼狽するソーディアス。あまりにも分かり切った質問だ。自分は魔族として、ここに在るのだ。四百年前、愚かにも魔族としての誇りを捨てたあの男を完全に滅ぼすため、ここに居る。そののち侵略する。それ以外の理由など無い。
否。本当に、そうか?
「な……何を――」
――止めるんだ!
脳内に響く自制の声。その瞬間、ソーディアスの中で何かが大きく脈打った。
「くそ……っ! 善人被りが……!!」
『あの状態』が一年以上続いていたためか『奴』の表出が頻繁になっている。そのことを失念していた。隙あらば、こうして自我を乗っ取ろうとする。早く、押さえ込まなければ。一年も野放しにしていたせいで、侵食が激しい。このままでは――。
――こんなことはもう止めろ!!
「うるさい……消えろ……!」
息が荒くなり、呼吸が乱れる。『奴』が自分を支配してしまうカウントダウンだ。それは分かっているのに、頭の中の声は止むことを知らない。聞くな。その声は悪魔の声。聞いてしまったら最後、今ある自我は永久に奪われる。
――そうやって君はいつも逃げるのか。何故逃げる? 「私」は平和を望み、この剣を取った。争いのない世を作りたかったのだろう? 誰一人として哀しみのない平和な世界を築きたかったのだろう?
「うるさい……うるさいうるさいうるさいッ!!」
言葉での反抗は無意味な物となりつつあった。黒い魂が、白く浄化されていく。白く、白く染まっていく。
(平和……争いのない、世界を……)
完全に覆い尽くされる直前、微かな水音が聞こえた。それは不定期に聴覚を刺激し、注意を向けるには十分だ。程なくして生臭い臭いが立ち込める。ともすれば嘔吐感すら覚える異臭から逃げようとして、思い留まった。この臭いを知っている。生きとし生けるものならば誰しもが内に持つ川。白い魂が急激に遠ざかっていく。まるでその“川”を恐れるように、奥底へと逃げていく。そうだ、これは。
見開いた双眸に映ったのは、生々しく地面に滴る赤い液体。その根源を探すように視線を上げれば、何かを握り締める手。液体は、手がその“何か”から絞っているようだ。何十秒そうしていただろうか。食い入るように液体を見つめ、完全に自我が戻ってきたことを理解したソーディアスは、ようやくその手に握られていた物と人物を認めた。相当の力が加えられたのか、原型を留めていないが――恐らく鼠か栗鼠といった小動物であろう。では自分を助けたと考えられるのは誰か。『奴』は極度に血を嫌う。血さえ見ることができれば、自我を保つことは可能だ。その事実を知っているのは、仲間の魔族しかいない。今現在生き残り、かつそれを知っているのは魔王を除いてただ一人。
「……クラスタシア……」
真っ直ぐに自分を見つめる瞳は、呆れにも侮蔑にも見えた。あの程度の揺さぶりで自我を失いかけたのだ。無理もない。自分にはもう、魔族として『
一魔王の僕』としての資格はない。
「すまん、クラスタシア……おれを……殺せ……!」
「なんでソーちゃんを殺す必要があるのよ?」
ソーディアスにとっては予想外の答えだった。疑いをかけるようにクラスタシアを見れば、先ほどの小動物を無造作に地面に投げ捨てている所だった。
「ついでになんで謝るのよ? 悪いのはソーちゃんなワケ? 違うでしょ。ホントーに悪いのは、勝手に出てきてソーちゃんのピュアな心を
弄くった、どっかの誰かでしょ」
強引というか、マイペースというのか。彼のそんな性格にソーディアスの命は救われた。当のクラスタシアはやはり巫女の方は見ぬまま、両手を広げ気を高める。彼を取り巻くように発せられた闘気が身体を覆い尽くしていく。真の敵など見向きもせず、敵を倒そうとしているのだ。新手の登場に、ヤレンは懐かしむように眼を細めた。
「魔星随一の好手と言われる『剛種』出身の魔族か。四百年前と全く変わっていないな……クラスタシア・アナザント?」
「気易く呼ばないでくれる? 穢らわしい」
視線など寸分も合わせず、吐き捨てるように言うクラスタシア。どこか余裕のある表情を浮かべたヤレン。もっともヤレンの方は、クラスタシアの言葉に少し不満を覚えたのか、説教じみた事を言い出した。当然というのか、クラスタシアの方は聞く耳持たずだ。一騎打ちとなるであろうこの勝負に自分は不要だ。そう決め込んだソーディアスの脳内に、不意に聞き慣れた声が響く。
【ソーちゃん。後ろに退いて。できればアタシが見えないところまで】
意味深な言葉に何かを感じ取ったのか、言われたとおり退去するソーディアス。恐らく何かの技を使うつもりなのだろう。魔族の中でも『剛種』は極端に魔力が低い。そのため、低レベルの魔法を扱えるか扱えないか、という者がほとんどだ。【
思考送信】は伝達量に応じて魔力が消耗されるため、今のように短い内容であればほとんど支障はない。そのかわり『剛種』は、少ない魔力を補うべく魔法とは別に『技』を覚える。生まれつき四肢の筋力が発達している彼らは、その修行量によりさらなる力を身に付けられる。その結果、見た目に変化はなくとも多少の力加減で地割れを起こすことも可能となる。それが『技』だ。魔法のように煌びやかではないものの、荒々しさも華、という見解で魔星に広く認められている。その荒々しさの象徴こそ、今目前にいるクラスタシアではないかとソーディアスは思う。力任せでありながら姿が「あれ」なだけに、どうも華々しく見られるようだ。実際、『一魔王の僕』の中ではクラスタシアが最も戦力になると言われていた。まさに雲の上の存在。高嶺に咲き誇る花。
――その“花”が自然破壊を手伝っているというのに
彼の性別を知っていて尚、賞賛の声を贈る者は後を絶たなかった。比喩のどれもが美しいものばかり。大多数が実際に戦うクラスタシアの姿を見たことがないのだろう。だから簡単にそんな言葉を使えるのだと、ソーディアスは人知れず冷笑を浮かべた。優に数百メートルは離れているのに、ここまで自然破壊の足音が響いている。空に浮かぶはえぐり取られた地面の塊。それらが一斉に『結界女』へと向かい、余裕の笑みは見る影もない。防御は間に合わなかったのだ。時間にして僅か数秒足らずで瓦礫の弾丸ができたのだから、無理もない。瓦礫は落ちていく『結界女』を囲むように集まり、その姿を見えなくする。クラスタシアを見遣れば、左手を握り締める動作。瓦礫と『結界女』が四散したのは同時であった。
微かに息遣いが聞こえて、視線を斜め下にずらす。『裏切り者』の生まれ変わりとされる人間だ。それにしては随分とあっさりしたやられようだと彼は思う。この人間はハズレだったのだ。怒りでも焦りでもなく、何故か同情が芽生えた。この世界に来なければ、きっともっと長生きできたでしょうにと、憐れみを込めた視線を向け、そのまま手を伸ばす。いっそのことひと思いに殺してやろう。クラスタシアなりの慰めのつもりだった。
少年に手が届く数センチ手前で、電気ショックのような衝撃を受け、思わず手を引っ込めるクラスタシア。見れば突出した人差し指と中指の爪が焼けただれている。彼はそれを見つめ、数秒後全ての答えを見つけた。
「おれが言うのも何だが、よくやったな」
ソーディアスの掛けた称賛の言葉にも反応しないクラスタシア。
「……どうした。お前の立てた手柄だろう」
「死んでないわよ」
あっけらかんとした口調で、クラスタシアは呟いた。「何?」と自らの耳を疑うソーディアスの横を通り過ぎ、どことも知れぬ方角を見据えて話し出す。
「てゆーか、死んでないっていう表現自体おかしーわね。アレはもともと生きてなんかいないのよ。四百年前あの女が滅んだことは、ノアちゃんが確認してる。今残っているのはその意識だけ……だって肉体は生まれ変わっちゃったんだから。意識だけなら分散しようとくっつこうとおかしくないでしょ?」
確かに、とソーディアスは短く相槌を打つ。だが、クラスタシアの意図することが分からない。
「さっきのと、ノアちゃんのトコにいるのが意識。諸悪の根元のアレを殺したかったら、生まれ変わった肉体ごと殺さなきゃ意味がないわ。それはイチカも同じ。まあセイウの場合は意識も何もないから変わりはないけど。――で、なんでわざわざ分身を使ってまで出てきたのか。アレの狙いは何だったのか。それにアタシたちはおマヌケなことにまるで気づいてなかったのよ」
確かにこの手は、魔法で固めたエネルギー球をあの少女目がけて放ったはず。それなのに、命中することなく軌道を反らした。これはどういうことなのか。『結界女』を倒したのだから、何の庇護も受けないはずなのに。
否――違う。“倒して”などいない。あの巫女には実体がない。実体と言えるのはむしろこの、魂を持つ少女。
なるほど、そういうことか。
サイノアは碧を円状に取り巻く結界を凝視して、全てを悟った。あの巫女は、魔族の相手をしに来たわけではない。相手をする素振りを見せ、状況に応じて分身を結界に変化させる。四百年前の
敵を目前にして、まだ生まれ変わりを狙うはずはないと踏んでの行動であろう。そう、これは彼らを守るための演出だったのだ。念入りに役者を増やして。
何故助かったのか、状況を理解できていないのだろう。だが自分を見つめたまま攻撃してこない少女を見て、碧は反攻のチャンスができたと確信した。とはいえ、体力の消耗が著しくて思ったように身体が動かない。一つ一つの関節を慎重に動かし、立ち上がる。怯えた眼差しを向けてはいけない。睨むのだ。追い詰められたような表情だけはしてはいけない。それが効いたのかどうか定かではないが、サイノアはおもむろに手を引いた。その無表情さから感情は特定できない。彼女はそのまま碧に背を向け、数歩進んだところで消えた。
イチカはまだ朦朧とした意識の中で、去っていく二匹の魔族を認めた。急激に意識が覚醒し始め、身体中にあった痛みも消えていく。状況を把握しようとして、彼の目の前に影ができた。
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