第六章第一話  死闘の果て

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 我、信不(我、信じず)
 己限信力成(己だけが信じるべき力となる)
 我刃進者宛殺為的無(我が刃はつまらぬ者を殺すためにない)
 只一人宛殺為的存在在之(ただ一人を殺すために存在しているのだ)

「【兎使法・白ノ発】!!」
 気合いの入った声が響く。同時に手のひらから生み出された光球は、目標目がけてその軌道を変えた。その先には、肩で切り揃えられた金髪に、血のような紅い瞳を持った少女。一見すれば可愛い――と言うには多少大人びているが、花でも持たせれば文句なしで絵になるような容姿だ。そんな少女と、見かけ・声とも野性的な獣人の少女が対峙していれば、十人中九人は前者の少女を庇いたくなるだろう。
 だが、そもそもこの少女は人間ではない。静かに左腕を上げ、手のひらをその光球に向けた。
「【参られよ・一片(ひとひら)の虚無】」
 感情のこもっていない詠唱だが、確かにその魔法は起動したようだ。彼女の手のひらの前に小さな霧のような物が現れ、そこに“虚無”が生まれる。光球はそんな霧などお構いなしに、魔族の少女へと向かっていく。だがいよいよ手との距離が僅かになった瞬間、光球は勢いよくその霧に飲み込まれた。当然のように少女に怪我はない。手のひらほどの大きさの霧が、その倍はあろう兎使法を吸い込んだのだ。驚く間もなく、獣人の少女は既に行動を起こしていた。光球を追って、サイノアの目前まで迫っていたのだ。霧が光球を飲み込んだ直後、白兎は脚を高く上げ蹴りを仕掛ける。完全に捕らえた――確信した白兎の脚は、しかし虚空を裂いただけであった。
「はしたないわね」
 機械音のような冷徹な声が、背後から聞こえた。事実だけを述べるような、非常に淡々とした声。
「勝手な見解で悪いけれど、女の子なら慎みなさいな。綺麗な顔が台無しになるわよ」
 血液を硝子玉に閉じこめたような血色の眼が、白兎を捕らえて離さない。それは決して『心配』だとか『懸念』といった類の表情ではない。否、その表情すら氷を思わせるものなのだが――その奥には嘲りが見え隠れしていた。
「……ヒトのこたァ言えねェと思うけどな」
 事実、サイノアは表情こそ乏しいが綺麗な顔をしている。そして、彼女の言う「慎め」という言葉も、彼女自身に言えることであり的を射ている。憎まれ口を叩きながらも、白兎にそれほど余裕はなかった。今さらながらに驚かされる。避けると思った兎使法は魔法で消された。万が一、避けなかったときの手段として自分も飛び込んでいった。それなのに手応えはなく、むしろ自分がはめられたようだ。その上この魔族の眼は、どうにも厄介でならない。何かの魔法を掛けられたように、身動きが取れないのだ。そう、まさしく「蛇に睨まれた蛙」のような。
 ――これからどうする?
 唯一の救いは、この少女が完全な魔族ではない、ということだった。それだけは確信がある。通常、魔族は詠唱無しで魔法を起動できるものなのだ。それはたとえ最下位の魔族であろうと、最上位の魔族であろうと同じこと。それがこの魔族は、短いながらも詠唱しなければ魔法を起動できないようだった。おそらくは人間とのハーフだろう。あり得ないことのように思えるが、実際はそうでもない。物好きな魔族も希にいる、ということなのだから。人間よりは早いが、詠唱の合間に隙はあるはずだ。獣人の自分にならできる。そう信じ、再び対峙したそのとき、轟音が響いた。それもすぐ近くで。
 耳と鼻が、瞬時に誰かを割り出す。もうもうと上がる煙の中に、三人の姿を認めた。
「白兎、大丈夫っ?」
「お、おうっ!」
 明るく問いかけたのは、異世界の匂いがする茶髪黒眼の少女。つられて元気な声が出る。一応手傷を負ってはいるが、そう大したものでもない。ぐっと親指を立てて、声に応える。すると、あとの二人、ミリタムとラニアも真剣な顔つきで現れた。
 それまで黙って傍観していたクラスタシアが反応したのは、無理もないことだった。
「魔法士〜〜!!」
 ぱっと顔を赤らめ、ぐっと脇を締めていかにもヲトメ的なポーズを取る。その光景にミリタムだけでなく碧もラニアも白兎も顔面蒼白。だがミリタムは状況を思い出し、すぐに表情を引き締める。
「貴方と遊んでるヒマはないんだ」
 今にも両手を広げて抱き付いてきそうなクラスタシアに、真面目な眼差しを向けるミリタム。そう、これは戦いなのだ。死闘と言っても過言ではない、重大な戦。だがそれにもクラスタシアは動じることなく、妖艶な笑みを浮かべてみせる。
「アタシもねぇ、心ない同僚のおかげでタイヘンなのよぉ。ホントは昨日みたく今スグにでも駆け寄って抱きしめてあげたいんだけどそうもいかなくて……だから、」
 一瞬、クラスタシアを取り囲む瘴気が一層濃くなった。怪訝そうに眉をひそめるミリタムを、生温い感覚が包む。それが先ほど感じたクラスタシアの瘴気だと気づくのに、数秒かかった。
 クラスタシアは、動いていない。ただ先ほどと同じように、娼婦のように(なま)めかしく微笑んでいるだけだ。完全に油断していたミリタムの鼻先を、甘い香りが掠めた。それとちょうど同時に、風が強くなる。
「アンタの首から上だけ、頂いてくわ」
「――っ?!」
 全身が総毛立った。はっきりと耳元で囁かれたそれは、あまりにも危険な響き。相手は動いていないのに、首元にしっかりと手が添えられているように思えた。息が、詰まる。
「救われよ同類・(オン)を持ちて滅びるがいい! 【滅獣(ギガ・ビースト)】!!」
 危ういところで碧の詠唱が聞こえた。無詠唱で術名のみでも【滅獣】は威力を削がれることはない。だが、詠唱を加えればより強い威力の【滅獣】となる。対獣用魔法だが、魔族にも効果は期待できる。向けられた手のひらから無数の光が飛び散り、クラスタシアを狙って飛んでいく。やがて目標を定めた光は爆発を起こして弾けるだろう――そう碧らが勝利を脳裏に描いたとき、サイノアが動いた。と言っても、右腕を上げて手のひらを光に向けただけだが。
 瞬間、光が四散した。突然の出来事に一斉に目を見張る碧たち。
 ――“半魔(ハーフ・エビル)は詠唱しないと魔法を起動できない”だと……?
 白兎は絶望感に呑まれ、悔しげに舌打ちした。常識を根底から覆した光景だった。
 否、常識などではなかった。これは、人間たちが勝手に決めつけていたことなのだ。魔族と人間が交われば、遺伝的に弱い方の性質を受け継ぐ。その為に、半魔は詠唱を以て初めて魔法を唱えられるのだと。希に魔族の性質を強く受け継いだとしても、詠唱無しで魔法を唱えることは不可能だと。
 実際はそんなに単純な話ではなかった。普通の魔族ならば、その仮説も当てはまったかもしれない。だが彼女は――サイノア・フルーレンスは魔王の血を引き継いだ者。魔力が高く、無詠唱で魔法を起動することも可能なのだ。ただしそれにはやはり制約が付きまとって、ごく限られた、威力の小さな魔法しか発動することができない。
 裏を返せば、詠唱しなくても【滅獣】程度は防げるとサイノアは判断したということになる。それを知るはずもない碧は、ただただ驚愕するばかり。
「貴方の相手はこちらよ、『結界女』。もっとも私は、貴方一人と戦う気は全くないのだけれど」
 血のように紅い瞳を冷徹に細めて、碧を一瞥するサイノア。まるで、その程度では相手にならないと言っているように。
「そこのおふた方。悪いけれど私と戦ってもらえないかしら?」
 サイノアは碧から目線を外すと、クラスタシアとミリタムの方を向いている白兎とラニアに声を掛けた。振り返った二人の表情は、ひたすらに真剣だ。何故そうやすやすと言うことを聞かなければならないのかと、無言の瞳は語っていた。その視線を受け取ってもなお、サイノアは涼しい顔をしている。
「あら怖い顔。でもこれだけは譲れないのよ。彼らを二人きりにさせてあげなさいな」
 彼女は完全に碧から注意を逸らしている。今なら攻撃できるはずだ。それなのに、碧の足は動こうとしなかった。否、動けなかったのだ。クラスタシアよりも強い瘴気を浴びて、身動きが取れなくなっているのである。
「クラスタシアにとって貴方たちは微生物以下の存在。いいえ、生物とすら思っていないでしょうね。今だって彼のことしか眼中にないわよ。物好きなこと」
 高位魔法の詠唱に入るミリタム。迎え撃つように手套を繰り出すクラスタシア。
「――はっきり言わせてもらうわ。仮に貴方たちが私を倒したとしても、彼に勝てる確率はゼロ」
「――だから?」
 初めて反論の意思を示したのは、碧だった。ようやく絞り出したのか、声が震えている。それでもサイノアは思い出したように碧を振り返った。
「確かにあたしたちは、あなたたち魔族に比べたら弱い生き物かもしれない。でもそれが何だって言うの? あたしたちは理由も分からないまま、殺されるしかないの?」
「……“理由も分からないまま”?」
 碧の言葉を反復し、意外そうに訊ね返すサイノア。
(とぼ)けて言っているのかしら? それとも……本当に知らないのか」
 詮索するような紅い瞳に碧は怯んだが、知らないものは知らない。サイノアは暫し碧を、碧の瞳を見つめていたが、不意に「そう」と呟いて視線を逸らした。彼女の眼にも、碧が苦し紛れの嘘をついた訳ではないと映ったようだ。
「予想外の収穫だわ。どうやら本物の結界女は、貴方たちに真実は伝えていないようね」
「真実……? 何を、言ってるの……!?」
「お聞きなさい、哀れな迷い人(トラベラー)。貴方とあの少年がこの世で出会ったのは偶然などではない。一つの大きな意思によって、不運にも巡り会ってしまったのよ」
 初めて聞く事実に、碧はもちろん、白兎とラニアも驚いた。魔族の、敵の言うことだ。そう簡単に信じていいはずはないのだが、不思議と否定するという考えは誰にも浮かばなかった。
「『結界女』の生まれ変わりは貴方。人間である彼女は浅はかなことに、同じく浅はかな私たちの同胞と恋に落ちた。けれど所詮は報われぬ恋情。だから彼女は生まれ変わりに全てを託したのよ。自分たちと違い、同じ種族で結ばれるように、とね。彼女は彼女の魂を持った貴方を召還した。彼女の目的は、結ばれなかった男の魂を持った者と貴方を巡り合わせること……。その為にはもう一つ、彼の魂を持った者が必要だった。彼女にとってはどちらが先でも構わなかったようだから、多少の手違いはあったかもしれないけれど」
 そこまで言って、サイノアは言葉を切った。あまりにも単純明快、分かり易すぎる説明だ。これで分からないはずはないと思ったのだろう。そして彼女の読み通り、碧は一つの答えに達した。だがそれを認めたくはなかった。もしそれを信じてしまえば、彼の立場はどうなるのか。そして、自分が彼に一目惚れしたのは、本当に自身の意思なのだろうか。それとも、ヤレンによって予め用意された感情だったのか――。
「まさか……でも、そんな……」
 サイノアの瞳が、初めて面白そうに細められた。

 先ほどよりも斬撃が重たく感じるのは、果たして錯覚なのだろうか。
 実際、ソーディアスの方はそれほど威力を強めたわけではないだろう。だがイチカは内心の困惑を払い切れていなかった。防戦の多かった先刻。それよりもさらに防戦一方の状態が続いていた。考え事をするよりも攻撃したいところだ。それでも戦いに集中できないのは、二刀流の魔族の言葉のせいなのだろう。どうして深慮する必要があろうか。敵の言うことなど信じなければいいではないか、と自身に言い聞かせても、まるで効力がない。心のどこかで、それを否定していない自分がいたからだ。
「どうした? 集中が途絶えているぞ」
 辛うじて、避けるのがやっとだった。わざと避けさせているのかもしれない、などという考えがイチカの脳裏を過ぎる。それほど今の彼は隙だらけだった。ソーディアスとて、本気になれば一瞬でイチカを殺すことができるだろう。それをしないのは、彼の中にある可能性を見込んでのことだ。
「それ程までに信じられないか? 奴の生まれ変わりであることが……我らの仲間であったことが!」
「……黙れ……!」
「――確かにおれも俄には信じられなかった。その剣を見るまではな」
 ソーディアスが勢いよく橙の剣を振り下ろし、すんでの所でイチカの剣がそれを受け止めた。金属の磨り減る音が響く。二刀のうち一刀と、銀色の刃が交わり、双方とも完全に静止する。ソーディアスは余裕の笑みを浮かべながら、イチカを――彼の剣を感慨深そうに眺めた。
「紅水晶か……間近で見るのは五百年ぶりだな」
「何が言いたい……!?」
「紛う方なきセイウ・アランツの剣だ」
 イチカが息を呑む。ソーディアスはイチカとその剣を交互に見遣り、自慢話のような口調で語った。
「奴が死んだ後だ。サイノア嬢は灰龍の腑を調べた。だがその剣だけは見つからなかったそうだ。自ら主の元へ向かったのだろう」
「ふざけたことを……!」
「……長く喋り過ぎたな」
 不意に、ソーディアスが剣を引いた。不審に思ったイチカだったが、漆黒の軌跡が目前に迫って、初めて危機に気づく。咄嗟に身を引く。しかし予想を超えた速度でそれはイチカへと向かい、額を裂いた。どろりと血が流れ出す。不覚にもそれに気を取られ、周囲への注意を怠る結果となった。
 一瞬にして、背後に殺気が迫った。気がつけば、首筋に冷たく鋭い何かが宛われていて。
「これまでか、セイウ・アランツ? 否、力を過信される余り、この世界へ召還された哀れな迷い人」
 絶望の淵に立たされながら、イチカは心の中で首を横に振る。力など、どうでも良かった。ただあの世界が、あの国が、あの人間たちが嫌いだったから、都合が良いと思っていた。そう思うこの心すらも、造られた感情なのか。こちらへ来るための台本に過ぎなかったのか。心で問いかけてみても、誰も答えをくれない。恐らくこの魔族に聞いても同じだろう。手も足も出ない愚かな人間を見て、せせら笑うだけだ。
「冥土の土産に他愛のない昔話でもしてやろう」
 ――あの頃はまだ、憧れを抱いていた。
 ただ漠然と、一つの目標に向かって努力し続ける日々。その為に己の腕を磨き、鍛え、高めてきた。それでも、無数と言える魔星の一流剣士には敵わなかった。彼はそれに向かってひたすら剣を振るっていた。一流剣士のさらに上、『超一流』と呼ぶべき剣士に出会ったのはその頃だ。肩まで伸ばした銀髪に、無機質な銀色の眼。人間はおろか、魔族ですら滅多に持ち合わせないような髪と瞳の色だった。特異な外見に釣り合うように、剣の腕も抜きん出て優れていた。彼が今まで見てきたどの剣士よりも華麗で、隙のない太刀さばきであった。彼の目標は自然と『超一流』の剣士へと変わっていった。以来、幾度となく修行を前提にした試合をその剣士に申し込む。だがその剣士は首を振らなかった。代わりに返される答えは、いつも決まっていた。毎回、同じように繰り返される傲慢な口調。
『おれ様は完璧な相手じゃなきゃ戦わない』
 彼は、今度は完璧な剣士を目指した。剣士が自分より何十年も前に魔王直属部隊に入ったと聞き、次の目標は直属部隊に入ることに変わる。完璧とは、その部隊に入ること。そう信じて、幾つもの難関試験を突破した。武力だけでなく、知識や学力も問われる直属部隊の入隊問題。何年かかったのか分からないほど彼は努力した。愚かなまでに、努力し続けた。自分でも気づかぬほど努力と時間を重ね、世間の見る目が一転していたことに気づく。いつの間にか彼は『一流剣士』の仲間入りを果たしていたのだ。だが一流では意味がなかった。彼が目指していたのは『超』一流だ。いずれか、あの剣士を超えるつもりでもいた。その為にはそれと対等の立場である魔王直属部隊に入隊する必要がある。剣術の修行を積み、学力を高めた。そうして彼は、剣士と出会った二十年後、ようやく直属部隊に名を連ねることができた。
 だが、その時にはもう何もかもが遅かった。人間界を支配するため剣士は魔王軍と共にアスラントへ向かう。その直後、魔星を裏切って人間界へ降り、人間の女と駆け落ちしようとしていたと言うのだ。彼にとってはその全てが理解しがたいことであった。何故、よりにもよって人間の女なのだ。剣士の言う“完璧”は魔星に限ってのことではなかったのか。最も嫌悪していた“完璧”でない女ではなかったのか。彼は苦悶した。今まで自分が見てきたもの、話してきたもの、信頼してきたもの、目標としてきたものは、一体何だったと言うのか!
 その答えに辿り着く前に、剣士は同胞の手によって殺された。剣士が愛した、人間の女と共に。魔星の至る所に張られた顔写真には、「裏切り者」の文字が刻まれていた。どこへ行っても傷のない写真はなかった。怨みの念をそのまま写真にぶつけたように、顔の判別が付かぬほど切り裂かれていたものもあった。彼はふと気づく。結局自分は、剣士の良いように振り回されていたのだ。そうして振り回され続けた代償がこれなのだ、と。その答えに辿り着いたとき、彼は酷くやるせない気分になった。同時に込み上げてきた感情があった。剣士は、ただ逃げていただけなのではないか。自分の成長速度に恐れを成して、巧い具合に言いくるめて逃げていただけなのではないか――。彼はそう確信した。それは、一種の勝ち誇りであった。『彼』――ソーディアスはそう信じて止まなかった。
「そうして奴の魂は結界女によって皮肉にも異世界へと飛ばされた。何らかの【神術】でも使ったのだろう……我らにとっては未だ解明できていない術だからな。だからお前は召還されたのだ。“魂を持っている”だけで才も技術もないお前を、結界女は信じたということだ」
 イチカは黙っていた。『昔話』を聞いている間に、持ち前の冷静さはほとんど取り戻せていた。早々と認めたわけではない。ただ、信じていないわけでもなかった。魔族の言う『結界女』、すなわちヤレンの口から聞くまでは、事実と認めたくはなかったのだ。それは同時にイチカの中で、今死ぬわけにはいかないという結論をも導いていた。
 静かに右腕の裾を振る。あまりにも自然で、誰の目で見ても深い意味のある動作には見えなかっただろう。それは背後の魔族も同様だ。
「……それがあいつにとっての誤算だったというわけか。良く出来た話だな」
「……何?」
 彼にとっては予想外の反応だったのか、抑えられていた殺気が突如膨れ上がった。だがその間、僅かに隙が生じる。イチカは肩当てに仕込んであった短剣を握り、振り向きざまにソーディアスの剣を弾く。そして、勢いを殺さないままその喉元を裂いた。普通の人間ならば生死に関わる多量の出血と箇所だが、相手には倒れる気配もない。それでも浅い傷とは言えないので、止めどなく溢れる血を止めるべく斬られた箇所に手を添える。
 ソーディアスは内心感嘆していた。あの状況下、精神的に圧迫され攻撃もままならなかったはず。それが今、“人間ならば”致命傷と言えるほどの手傷を負わされた。大した精神力だ。そしてもう一つ、彼の中で一つの可能性が現実となった。
「暗剣か……ずる賢い男だ」
 首の傷を押さえながら、ソーディアスが唸るように言った。イチカの瞳に、動揺はもうなかった。あるのは敵に勝とうとする強い信念だけだ。
「くだらん作り話でおれを動揺させようとしたのかどうだか知らないが、無駄だ」
 イチカの選択を嘲笑うかのように、ふっと息を吐くソーディアス。
「“信不(しんじず)”か。そう思うならそれも良いだろう。いずれかその思い込みを、悔やむべき日が訪れる」
「戯れ言だな。悔やむのは貴様だ」
 迷いはない。恐れもない。そうだ、最初から信じなければいいのだ。心の中で念じ、イチカは勝ち誇ったように言った。戯れ言を吐くその喉元を掻き切ってやればいい、そうすれば、喋ることはおろか攻撃すらできなくなるだろう。そう信じ込んだ。目の前の敵が魔族だという事実すら忘れて。
 だから彼は次の瞬間起こったことを理解できなかった。ソーディアスの口元が歪んで、姿が見えなくなる。その笑みの意味を測りかねたまま立ち尽くして、眼下に黒い影が現れるまでが、一瞬の出来事だった。無論その『黒い影』というのは、高速移動したソーディアス。魔族は種族に関係なく、空間を渡り歩くことが可能なのだ。ただし『剛種』と呼ばれる彼らのような種族は、四肢の筋肉が異常に発達している。それを利用して、瞬時に移動することができるのである。魔族という存在を熟知していないイチカにとっては、理解できぬことだらけだったが。
 軌跡が目前に迫る。橙か黒だったかは分からない。軌跡の動きが早すぎて、目で追えなかったのだ。そんな状態で、剣を持つ腕が間に合うはずもない。そもそも何の細工もしていない短剣で、魔族の剣にかなうなどという考え自体が愚かしいのである。勿論、イチカはそんなことなど考えてはいなかったろう。ただ、せめて防御しなければ。そう思って、彼は渾身の力を振り絞って咄嗟に左腕を上げた。
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