第一章第一話  見たこともない世界

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 全ては、少女のこの一言から始まったのかもしれない……。
「つまんないっ!!」
 少女の両隣には少女と同い年くらいの影が二つ。
 ほんの少し前、否、はっきり言って一、二秒前までは賑やかに談笑していた彼女の突然の声調の変わり様に、両隣の少女らは驚く。
「……どしたの、碧」
「いきなり“つまんない”って……」
 二人の少女が問う。すると少女は、どこかむくれたような表情で順に二人の少女を指差し、
「いる。……いる」
 なにやら意味が分からないが、二人には分かったらしい。
「あ〜彼氏のこと?」
「大丈夫よ、碧ちゃんならすぐに……」
「そーじゃないの! なんかもっとスゴイ冒険がしたいってゆーか……」
 一体何だというのだ。二人の少女はワケが分からないという表情をしながらも、黙って耳を傾ける。
「すんごい剣の使い手の人があたしを守ってくれて、それで……」
 いつのまにやら少女は手を胸の前で組み、明後日の方向を向いていた。二人の少女の心情を言葉に直すとしたら「また始まった」がふさわしいだろう。
「……あのねえ碧、そーゆーのは……」
 たまりかねて一人の少女が呆れ顔で言う。
「何百年も前の話だよ?」
 おずおずと、もう一人の少女が続けて言う。
「今はとても平和だし、剣っていうのも……」
「やっぱりムリかあ……」
 分かれ道で、少女――碧は、二人と別れた。
(う〜ん……せめて強い人とか、剣に興味がある人とか……)
「いるわけないよね〜……。みんなってば現代っ子だもん」
 はあ、と溜め息を吐く。何か面白いことはないかと、周りを意味もなく見渡して――「ん?」
 狭い路地。人が横歩きでやっと通れるような狭さだ。その路地の奥に、光があった。
「昨日、こんなとこなかった、よね……」
 もう十年近く、この道を通っている。こんな狭い路地など、一夜で、ましてや学校へ行っている数時間でできるものではない。碧は、興味本意で路地を覗いた。
「!?」
 風の音がしたわけでも、巨人が現れたわけでもない。それなのに、碧の身体は何かに掬われるように宙に浮き、前方から背後から、強い力に持ち上げられた。腕や足を掴まれている感覚はない。文字通り『見えない力』が、碧を奥へ、光の中へ引きずり込もうとしている。
「な、なにこれ……!」
 必死にもがくが、力は緩まない。むしろ、もがけばもがくほど、どんどん光に近づいていく。あまりの眩しさに目を閉じたその瞬間、
「きゃあああああーーーー……」
 一層大きな引力が働き、碧は光に吸い込まれた――。

「う、ん……?」
 生暖かい風と、制服越しに伝わるゴツゴツとした感触で目が覚めた。目の前には雲一つない青空。碧は二、三度瞬きし、そこが今まで自分がいた場所ではないことに気づく。
(え! 何ここ、どこ……?)
 辺りを見回す。黄土色の地面には大小様々な石が転がるばかりで、草一本生えていない。朽ちた木々の残骸らしきものも見受けられた。それ以外は何もない。見渡す限り、青と黄土色の奇妙なコントラスト。家も、電柱も、車もない。明らかに、先ほどまでいた『町』ではない。途端に心細さが襲う。住み慣れた町でないことはたしかだが、それならばここは一体どこなのか――
「……おーい兄貴! 人が倒れてるぜ!!」
「もしかしたら死んでるかもしれないぞ。この辺物騒だからなー」
 どこか遠くの方から少年の声が響く。人だ、良かった――。
 そう思って声を出そうとしても、出ない。身体を動かそうとするが、指一本動かない。
 (えっ……かっ……かな……しば……り……?)
 さらに奇妙なことに、足音はどんどん碧の元に近づいてくるのに、その姿は一向に見えない。じわりと恐怖心が沸き上がってくる。
 (もしかして……幽霊?!)
 できれば一生お目にかかりたくないと思っていたのに、まさかこんなところで。
 混乱している間にも足音はすぐそこまで来ていた。こんなデビューしたくない。強く眼を瞑る。
 足音が、止まった。
「大丈夫かー?」
 ややのほほんとした声。おそるおそる目を開けると、逆毛金髪の少年がこちらを覗き込むように見ている。驚いたことに、先ほどまで荒野が広がるばかりだと思っていたそこは、少年の姿を認めた瞬間に霧が晴れたように鮮明になった。彼の後ろには二つほど人影が見える。足もついているから、とりあえず幽霊ではないようだ。ほっと安堵した次の瞬間、碧は一瞬にして別の場所に目を奪われた。
 少年が身につけている物には、嫌と言うほど見覚えがあった。何度も何度も図書館で読み、写真も見たそれ。すなわち鎧と、腰に差した剣。
 夢のような光景だ。いやいっそのこと夢の方がいい。こんな都合のいい夢もう見られないかも。
 碧の眼が、無意識に輝く。
「師匠! この子生きてるぞ!!」
 彼女の輝いた眼を見てか、モヒカン頭で体格のいい少年が後方に向かって叫ぶ。こちらは髪を紫と灰色という微妙な色合いに染めている。派手な集団の一員のような髪型だが、目つきはそれとは不相応なほど穏やかだ。筋骨隆々とした腕をさらけ出し、幅の広い武器のようなものを斜めに背負っている。
 師匠、と呼ばれた少年が碧の視界に収まったのはその時だ。碧の眼はまた別の意味で釘付けになった。
 肩で切り揃えられた銀色の髪。切れ長の瞳も銀色。感情のうかがい知れない、どことなく物憂げな表情。
 碧のどこかで、勢いよく何かのスイッチが入った。
(か……かっこいい〜!)
 碧が恍惚とした表情で見とれているのとは裏腹に、少年の表情は険しく、憎悪に染まる。それは明らかに碧に向けられたもので、手は剣の柄を握っている。白銀の刀身が垣間見えた。
「――え?」
 感じたことのない空気の重さに思わず声が漏れた。ただ見とれていただけなのに、その少年は敵意を持って自分を見ている。否、敵意などという生易しいものではない。おそらく殺意なのだろう。勝手に震える唇や四肢が、それを物語っていた。
「兄貴! やめろ!!」
「師匠!」
 二人の少年らが止めにかかる。だが銀髪の少年は一向に殺気を解こうとせず、ただ厭悪の眼差しだけを碧に向けていた。
「っ……このコは恨むべき相手じゃないだろ!?」
 金髪の少年の叱咤で、はっとした顔に戻る。その一言で銀髪の少年は落ち着きを取り戻したらしく、剣を鞘に収めた。
「……悪かったな」
 そっぽを向いたまま、ちっとも悪びれていない無愛想な声で少年は言った。それ以上話す気配もない。二人の少年が碧の所にやってきて、申し訳なさそうに小声で言う。
「あんな兄貴だけど、許してくれよ」
「本当は優しい人なんだ」
 訳も分からず荒野に放置され、初対面にも関わらず殺されそうになって。
 怖い思いをしたのは確かだが、状況を把握し切れていないので、謝られてもあまりピンとこない、というのが碧の本音だ。だが彼らの誠意が十分すぎるほど伝わってきたのは間違いない。
「……ううん、いいよ。それより、ありがとう」
「「ふぇ?」」
「ほら、かばってくれたじゃない」
 顔を見合わせる二人。ややあって、二人は相槌を打ち、少し頬を染めた。
「「いやあ〜。当然のことをしたまでっすよ〜」」
 手を頭の後ろにやり、照れ臭そうに掻く仕草まで、二人の動きは寸分も狂っていなかった。
(うわ、気が合ってる……ていうか合いすぎてる)
 双子なのだろうか、という疑問が碧の脳裏を掠める。まじまじと二人の顔を眺めると、似ていないでもない。だが、二人から流れる雰囲気は微妙に異なっているように思えた。
「あの……ちょっと聞いてもいい?」
 身を起こしながら、碧は二人に訊ねる。すると、彼らは聞きやすいようにしゃがみ込んだ。
「ん、なんだ?」
「ここって秋葉ば……じゃなくて、アメリカ? それともヨーロッパのどこか?」
 碧の質問を受けて、見た目は純欧米人の彼らが、きょとんとした表情を浮かべる。聞いたこともない、と言いたげな顔だ。
「あめりか? よーろ……?」
「なんだか分からないけど、ここは『アスラント』で、『レイリーンライセル』の北方にある荒野だよ」
 全く聞き慣れない地名が出てきて、今度は碧の頭の中がこんがらがる。
「アス……ラン、ト? リンレー……何?」
「イヤ、リンレーじゃなくてレイリーンライセル……」
「そんな片田舎の名前分かるかよ。じゃあこれだ! 『ウイナー』なら分かるだろ?」
「ウインナー……? ワルツ?」
 金髪の少年と、モヒカンの少年は同時に顔を見合わせる。
 我ながら的外れなことを言ってしまった、と後悔の念にかられている碧の横で、二人の少年は神妙な面持ちで意見を交わしていた。
「アスラントもウイナーも分からないとなると、記憶喪失か?」
「いやでも、この子の髪の色、巫女の家系にしか表れない色だぞ? 巫女様がこんなところうろついてるワケないし……」
 (“巫女様”? “髪の色”?)
 碧の髪は生まれつき焦茶色だ。両親が外国人だとかハーフだとかというわけではなく、水泳をやっていたわけでもない。もちろん染めてもいない。学校では謂われのない疑いをかけられたこともなきにしもあらず。それでも大きな問題になったことがないのは、“人に比べて”“多少”色が明るいだけだからだ。
 (そりゃああたしはちょっと特別かもしれないけど、みんな似たような色なのに……じゃあ、やっぱりここは地球じゃない……?)
「……カイズ、ジラー。暢気に喋っている場合じゃない」
 碧が結論を出そうとしたとき、静かな声が思考を遮る。見れば鞘から剣を取り出しながら、銀髪の少年がどこか遠くを見据えていた。
 カイズ、ジラーと呼ばれた二人も瞬時に表情を引き締め、それぞれの武器に手を掛ける。金髪の少年・カイズの武器は細剣、モヒカンの少年・ジラーは金槌のようだ。二人は背中合わせに武器を構えた。
「さっきから気づいてはいたけど……増えてるぜ」
「しかもこれは、囲まれてる」
 要領を得ない会話の意味をつかみ損ねていた碧だったが、程なくして理解した。数人の息遣いや足音が聞こえるにもかかわらず、姿が一切見えないのだ。カイズらが現れる前と同じ状況だ。それにも関わらず、三人の少年は皆表情ひとつ変えていない。そんな三人を不思議に思っていると、先ほどの少年が静かに言った。
「殺されたくなかったら逃げろ。さもないと……」
 “殺されたくなかったら”?
 混乱する碧に、少年が剣の切っ先を向ける。勢いを殺すことなく、槍のように突き出す。
(殺される!?)
 思わず眼を瞑る碧。だが、感じるであろう痛みはなかった。代わりに、何かが当たるような鈍い音が聞こえた。おそるおそる眼を開ける。
 少年の剣は、碧の横、紙一重の位置にあった。その剣先の行方を目で辿って、碧は思わず息を呑む。
「……!!」
 そこには、胸を貫かれた男の姿があった。だがその瞳には恐れも悲しみもない。人形のように表情がなかった。男の手にはかぎ爪が装着されているが、振り下ろされる寸前で止まっている。あと少し遅かったなら、そのかぎ爪で碧の身は引き裂かれていただろう。
 かぎ爪男と同じように無表情に、少年は男から剣を引き抜く。真新しい血液が男の身体から伸びた。
「こいつと同じ運命を辿る」
 少年が呟くと、男は大量に血を流して倒れた。ぴくりとも動かない。
 突然、少年の背後にかぎ爪男が現れた。碧が悲鳴を上げる前に、少年は黙ったまま後ろ向きに剣を差し込む。
 寸分の狂いもなく、剣が男の胸に突き刺さる。男は声もなく倒れ、びくびくと痙攣していたが、程なくして事切れた。
「兄貴!」
 叫ぶカイズの背後に、かぎ爪男の姿。碧の側にいた少年は消え、一瞬でカイズの後ろにいたかぎ爪男を斬る。
「人の心配よりも、自分の心配をしろ。死ぬぞ」
 少年は静かに、しかしはっきりと忠告する。
「! すまねえ、兄貴!」
 カイズは礼を言うと、また襲いかかるかぎ爪男と対峙した。
(すごい、本当に優しいんだ……)
 碧が感動している間も、少年は次々とかぎ爪男を倒していく。
 真上から切り裂こうとする攻撃には、軽く身をかわし腹部を薙ぐ。
 背後から忍び寄っていた影には蹴りを入れ、振り向き際に下からすくい上げるような斬撃。現実では滅多に見られない戦闘シーンがそこにあった。
「……ん……?」
 そんな碧の背後に忍び寄る影。武器を持たない彼女は、かぎ爪男の格好の獲物と化していた。
 カイズ、ジラーが碧の危機に気づいたが、二人ともすぐに駆けつけられる距離ではなく、複数を相手にしているため身動きが取れない。
「危ねえっ!」
「避けろーっ!」
「きゃーーっ!!」
 絶体絶命の状況の中、三者三様の声が響く。ひときわ甲高い叫び声のあと、かぎ爪男は碧の目の前の地面で伸びていた。碧が咄嗟にしたこと、それは『背負い投げ』だった。
 ほっと胸をなで下ろすカイズ、ジラー、碧。しかし安堵もつかの間で、碧は今度は四人のかぎ爪男に囲まれていた。
「いやあああーーっ!!」
 半泣きになりながらも、勇ましいほどに次々と男たちをなぎ倒していく碧。
「やめてーっ!!」
 ひじ鉄。
「来ないでーっ!!」
 ビンタ。
「あたし……!」
 ハイキック。
「死んじゃうでしょーっ!?」
 チョップ。
「死なん」
 冷ややかに少年がつっこみを入れる。
「あの子、つえーな……」
「ああ……」
 碧は幼少の頃、空手と護身術を習っていた。今となっては止めてしまったものの、技術は今も健在である。そんな碧の意外性(?)のおかげか、残る三人はスムーズにかぎ爪男たちを倒していった。
 とはいえ、これでこの地が日本、否、地球でもないことが証明された。碧は、それでも撮影かもしれないと周囲を見渡し、空を見上げてもみた。しかし、ヘリコプターなどの音もしなければ他に何の気配もない。それに、現に人が死んでいるのだ。剣や、見慣れない武器を使って彼らが殺したのである。無慈悲という言葉では片付けられないほど、あっさりと。通報するべきかとも思ったが、携帯電話など持っていないし、何よりそのような雰囲気ではないような気もしていた。彼らは猟奇的というよりは、死者を悼むような目をしていたから。
 それでも、血の海となった荒野に倒れている男たちを見るのはやはり気持ちの良いことではない。碧は込み上げる吐き気をこらえつつ、少年らに聞いた。
「……あの……」
 少年は、かぎ爪男たちを哀れむように目を細めていた。カイズが口を開く。
「……南の方に食糧不足で飢えてる町があるんだ。それがさっき言ってたレイリーンライセルな」
「前まで大人しかったんだけど、最近この辺りで人を襲い始めて……死んだ人間を喰う有様だよ」
「そう、なんだ……」
 今まで聞いたことのない残酷な話に、気を失いそうになる。演劇にしても出来過ぎている。やはりここは、自分の知っている世界ではないらしい。そんな大変な時に、何故自分はこんな所へ来てしまったのだろうか、と碧は思う。
「……なあ、兄貴!」
 今までの不穏な空気を振り払うように、カイズが少年に笑いかけた。ジラーも何か言いたそうだ。
「師匠!」
 少年は二人の言いたいことが分かっているらしく、小さく溜め息を吐いた。
「……勝手にしろ」
「「やったー!!」」
 大喜びするカイズとジラー。碧は意味が分からず、二人を交互に見比べるしかない。するとその二人が碧に向き直る。
「なあ! オレたちの、仲間になってくれよ!」
「ええっ?! な、仲間って……何するの?」
「さっきみたいに、この世界で起こってる事件なんかを解決するんだ! 報酬ももらえるし実力も上がるし、いいことずくめだぞー」
「うーん……報酬も実力もいらないんだけど……」
「「ええっ?!」」
 碧が思っていた以上にショックだったようで、カイズもジラーも同じポーズで固まっている。報酬だの実力だの、なんだか昔の世界みたいだなぁ、とぼんやり考えて、はたと気付く。そういえばこの世界は、自分の知っている世界ではないのだ。目の前でおいおい泣いている二人の見た目は明らかにネイティブなのに、意味が通じないなどということはない。日本語が上手い外国人などどこにでもいるのだから、別段不思議なことではないのかもしれないが。
「“報酬も実力もいらない”って、どうやって生活していく気なんだ!?」
「生活、って……」
 この世界に住んでるわけじゃないし、と言いかけて、碧は重要なことを思い出す。
(……そっか。あたし、学校の帰りにここに来ちゃったんだっけ。どうやって帰ればいいか分かんないし、それに……)
 ちらりと、未だ名前が明らかになっていない少年を見る。
(あんなカッコイイ人に会えたんだし、いっか!)
 ちなみに少年はかぎ爪男たちの亡骸から所持品を調べていたが、そんなことは気にならないほど碧は有頂天になっていた。恋は盲目、とはこのことだろうか。それはさておき、碧はよし! と気合いを入れ、決断した。
「……それじゃあ、ちょっとだけ……頑張ってみようかな!」
「おおっ! それじゃ、自己紹介な! オレ、カイズ・グリーグ!」
「オレは、ジラー・バイオス!」
「カイズに、ジラーねっ! よろしく!!」
 先ほどの強さからは想像もつかないくらい、二人はあどけない表情で自己紹介をした。続けて少年を指さし、
「「そしてあの方が、オレたちの
『兄貴の』『師匠の』
イチカだーっ!!」」
 それぞれ違う呼び名で言ったため、その場の空気が再び険悪になる。
「……兄貴だろっ!」
「……師匠だっ!!」
(イチカ……イチカ……イチカって言うんだぁ……)
 口喧嘩を始めた二人を置いて、碧は少年の名前を脳内で反復する。女の子のような名前だと思ったが、彼になら似合う気がする。決して可愛いという意味ではなく。不思議な雰囲気と相まって、そのことがまた碧をうっとりさせていた。
「……おい」
「へ? あ、はいっ!」
 その名前の主から突然声を掛けられ、なんだろうと思いつつも次の言葉を待つ。碧から見えるのは横顔だが、見れば見るほど心臓が高鳴っていく。どこか遠くを見据えたまま、イチカが口を開いた。
「服」
「……?」
 ぽつりとたった一言。聞き流してしまいそうなほど小さな、低い声で告げると、そのまま通り過ぎる。服がどうしたかと視線を下げていくと、赤黒い何かがべっとりと付いている。
「……いや〜! 血……!!」
 かぎ爪男と戦ったときの返り血だろう。制服に大きな染みとなって、それは残っていた。
「あ、そーだ! 名前なんてゆーの?」
 現実を目の当たりにして立ち尽くす碧に、口喧嘩を止めたらしいカイズが訊ねる。しばらく呆然としていたが、もう一つの現実に呼び戻されはっとする。
「……えっ!? え〜と、あ、碧!」
 名乗った瞬間、周りの空気が微妙に変化した。笑顔だったカイズもジラーも何故かぎこちなく固まり、困惑の表情を浮かべている。
(も……もしかして……通じなかったかな……? そうだよ! だいたいみんな外国人みたいな名前してるのに、あたしってば思いきり日本人らしい名前! お父さんお母さん、もうちょっとマシな名前つけてよ〜……)
 その場にいない父や母を責めてみるが、全く意味がないことに気づく。彼女の父母とて、娘が異世界に迷い込むなど考えもしなかっただろう。
(ど、どうしよう。いっそのことそれっぽい名前言っちゃう……?)
 しばし気まずい沈黙が流れる。
「……い、いい名前じゃないか! なあカイズ?」
「へっ? あ、ああ! いい名前だ!」
「あ、ありがとう……」
(よかったー通じたみたい。でも、なんだろう。なんか……)
「あああアオイっ!」
「と、とりあえず、オレたちの街に行こう! い、いい、です、よね、師匠?!」
「お前たちの好きにすればいい」
 明らかに様子がおかしい二人に対し、イチカは相変わらずの無表情。何故かカイズとジラーは、胸をなで下ろす素振りを見せたのだった。

「おいっ、それ本当か!?」
「ああ。この眼でしっかり見たんだ」
 前方から歩いてきた男たちの声。すかさず、カイズが走り寄る。
「どうしたんだ?」
「ああ、あんたたち……」
 男たちはカイズらを知っているようだった。双方が顔を見合わせ、一人が青ざめた表情で話し始める。
「実は……前から噂にはなってたんだけど、魔王軍が空から来るのを見ちまったんだ」
「『四百年前の借りを返しに来る』って……有名な噂だったんだよ」
 口々に話す男たち。太陽の一点に陰りができ、そこから黒龍の群れが現れたという。
「“四百年前の借り”って?」
 なんだかファンタジックだなぁと思いながら碧が訊ねると、どこか神妙な面もちでジラーが答える。
「四百年前に魔王軍が攻め入ってきたんだけど、あっさりやられたらしいんだ」
「あっさり!? 誰が倒したの?」
「えーっとたしか……」
「……あれ? あの美人の娘、いないな? どうしたんだ?」
「そいつなら街で留守番だ」
 そう答えたのはイチカだった。他人と話すことはカイズとジラーに任せているのだろう……。そう思っていた碧にとって、予想外のことであった。
(美人? ってことは……イチカ、その人と付き合ってたりするのかな……)
 少々行き過ぎな思考回路だが、片思いに悪い想像はつきもの。碧の心臓の音が、徐々に大きくなっていく。苦しくて、切ない。こんな複雑な気持ちは初めてだった。
「ま、あんたたち強いから魔王軍に襲われても大丈夫だろうけど、気をつけなよ」
 そう言って男たちは去っていった。
「あいつらが言ってた美人って、姉さんのことかな」
「そーだろ?」
 沸き上がる妙な感情を抑えきれず、碧はついに一つの質問をした。
「……ねえ、その人……そんなに美人なの?」
「ん? ああ、ウイナーじゃ評判だぜ」
 やはり相当の美女らしい。そして、先ほどの会話から察するに、彼女もまたイチカらの仲間なのだろう。万人共通の美人に勝ち目はない。碧はがっくりと項垂れるが、落ち込んだって仕方ないと気を取り直す。
「ウイナー……ってさっきの……」
「そうそう。ほら、あっちに見えるだろ? オレたちの、アジトがある街さ!」
「あ、アジト? へえ〜……」
 日本ではあまり聞かない響きに、碧は感嘆する。
 小さな町の入り口が見えてきた。こぢんまりとした家々や建物が建ち並んでいる。近所の商店街に似ているが、少し違う。配色や雰囲気が日本のそれとは異質で、どちらかといえば外国風だ。
 地球と同じようで、違う世界。彼女にとっては何もかもが驚きで、新鮮そのもの。ウイナーに帰るのは数日ぶりということで、カイズもジラーもどこか楽しそうだ。誰が見ても、その光景は和やかに見えたに違いない。
 だから、誰も気づかなかった。気づけなかった。
 ――彼らの背後にいる人影に。
 まだ少し残っている理性で、一行の後を付けてきたのだろう。生き残りらしいかぎ爪男が、まさに今、斬りかかろうとした瞬間だった。 
 風船の割れるような渇いた音と同時に、突如飛んできた銃弾。皮一枚の位置を飛んでいったものだから、皆が驚いた。その行く先を目で追って、やっとかぎ爪男の存在に気づく。そのかぎ爪男は両手を挙げたままの姿勢で数秒静止し、そのまま仰向けに倒れた。
「殺気に気づかないなんて、あなた達らしくないわね」
 大人らしい女の声に、皆が声の方を見る。そして、ジラーが言った。
(あね)さん……」
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