第七章第四話  打ち砕く

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 遠くで、手招きをしている。
 喩えるならそれは、獲物が掛かるのを静かに待つ蜘蛛に似ている。
 再会などという生易しいものではない何度目かの邂逅が今、果たされようとしていた。
 しかし、互いに近づいているわけではない。ひたすらこちらの側から歩み寄り、あちらからは一歩たりとも歩を進める様子はない。
 猶予を与えているつもりなのか。これが最期だと情けをかけているつもりなのか。いずれにしても相手は、待つことを選択したようだ。
「……殊勝な連中だ」
 悟って、自然と言葉が漏れる。彼の中では呟きでしかない言葉だったが、彼の後方を歩く少女には届いていた。その声の響きが、後ろ姿が、何故かとても悲しげで、少女は真意を測りかねる。
「……ラニア。白兎。ミリタム」
 小さく溜息を吐き彼は――イチカは、やおら仲間の名を呼ぶ。きょとんとする者、何事かと身構える者、じっと見つめる者と、反応は様々だ。
「いいのか。直接は無関係だ。最悪……死ぬぞ」
「無関係なんかじゃないわよ」
 何を、と問う者はない。離脱するなら今のうちだと暗に告げている。そのことが分かったから、彼女は口を開いた。
「あたしの家族も魔物に殺されてる。あのときからあたしは関係者なのよ」
 どこか自嘲気味に語るラニア。家族を屠った魔物たちは、いつの間にかいなくなっていた。あの日この手で撃ち殺していれば、ここまで悔しさは募らなかっただろうか。問いかけても、過去を顧みても仕方がないのだから、今は友人のため、全力を注ぎたい。そう彼女は心に誓う。
「僕も再三言ってるけど、この世界の行く末を見るまでは何があっても帰らないことに決めてるからね。ヘンな魔族に目付けられたみたいだし」
 実年齢は七歳ながら、魔法の実力はエリート階級。その天才肌が災いし、「直接は無関係」だったはずが、魔族から瀕死に追い込まれるほどの猛アピールを受ける始末。この戦いに終止符を打たなければ、件の魔族は一生涯彼につきまとうだろう。それだけは避けたい。もちろん他にも理由はあるが、彼、ミリタムにはそれなりの動機がある。
「……な……ンだよ……ただの意思確認かよ……」
 これまで一言も発することなく固まり成り行きを見守っていた白い影が、なにやらぶつぶつと文句を言っている。かと思えば。
「イキナリ名前呼ぶンじゃねェよ! ビビンだろ! 魔族よりてめェの名指しのがコワいわ!」
 途端にいつもの威勢を取り戻し、猛獣のようにぎゃんぎゃん吠える。否、元はたしかに泣く子も黙る猛獣であったはずなのだが、いつの間にかよく吠えるペットのような扱いになってしまっている。名誉挽回のため、誇り高き兎族の長である彼女も戦わねばなるまい。
 本来ならば自分も無関係だと叫びたいところだが、あいにくと魔族の執念がそうさせてくれないらしい。生まれ変わりなど他人のようなものなのに、何故か恨みを買ってしまっている。皮肉なことだ。そんな捩れた問題に、仲間を巻き込みたくはなかった。
 白兎の後半の台詞が若干引っかかったものの、イチカは感謝の念を感じずにはいられなかった。皆、この理不尽で危険な戦いに身を投じようとしてくれている。心がじんわりと温かくなる。
 イチカの穏やかな表情を、碧は同じように穏やかな気持ちで見つめていた。出会った当初は冗談でなく殺気に満ち溢れていた。それと同時に、今にも消えてしまいそうな儚さが滲み出ていた。現在の彼は、というほど知り合ってから長い年月が過ぎたわけではないが、少なくとも「穏やかだ」と感じる雰囲気はここ最近になって増えてきたように思う。殺意剥き出しだったあの頃に比べれば、多少なりとも自分への接し方は優しくなってきた、ような気がする。先は長い、けれど大きな進歩だ。碧は内心ほくそ笑む。
【……ィ……アオイ……アオイ!】
 思考送信が届いたのはその時だ。『救いの巫女』のように落ち着き払った声ではない。天真爛漫な性格がそのまま表れているような声質は、かの国の姫君のもの。
【ネオン?】
【お久しぶりね。どう、ベルレーヴは? あたしも一度行ったことがあるけど、良い村でしょ】
(……またお忍びで行ったのかな……)
【ええ、そうよ】
 何故か得意げに答えるネオンの言葉に、聞こえるんだった、と苦笑いする。遠く離れていても隣で会話をしているように感じられるほど便利な術だが、その精度ゆえ思ったことは全て相手に筒抜けになる。
【うん、すっごく良い村だったよ。カイズとジラーも元気だったし】
【……そう。それは良かった】
 本当に安堵したような声。幼い頃に助けてもらった大きな恩義がある以上、重い罪を科せたくはない。それ以前に、彼らはあのときから友人同然だ。そんな想いから出た本心だった。思考送信のもう一つの利点は、良くも悪くも嘘はつけないということだ。
【それはそうと、村を出るときは言ってちょうだいね。魔王の城でもどこでも連れてってあげるから】
 冗談交じりにウィンクしている姿が目に浮かぶ。本当に彼女は気が良い。だからこそ、碧は次に伝えなければならない言葉を躊躇った。そうは言っても、考えている時点ですでに相手には丸聞こえ。
【ええーーーー?! もうベルレーヴ出ちゃったの!?】
 今までより音量が大きい。これはもう声に出していると思って間違いないだろう……と思った矢先、またもや耳をつんざくほどの声量が届く。
【あったりまえじゃない! 言ってくれれば魔法士団派遣したのにー!】
【うん……ごめん。でも帰りまでお世話になるのも……】
【何を水くさい! あたしとあなたたちの仲じゃないの!】
 よほどの大絶叫だったのか、ネオンがいる『破邪の木』の根元には大勢の人だかりができていた。国民の協力(?)によって家出王女捜索隊――もとい、レクターン王国騎士団の面々はようやく彼女を発見。その中の一人が息も絶え絶えに、しびれを切らしたように叫ぶ。
「ネオン様! いるのは分かってるんですよ!」
【やばっ見つかった。〜〜まぁいいわ、今どこにいるの? 大体の場所さえ分かれば、あとは魔法士団がなんとか見つけられるハズだから】
【あーっ大丈夫大丈夫、ホントにいいの! ちょっと別の用事あるしっ! ネオンたちを巻き込むわけにはいかないよ】
 「巻き込むわけにはいかない」。その一言に引っかかり、ネオンはただならぬ状況であることを悟る。
【……ワケありなのね。分かったわ。またあたしたちに何かできることがあったら言ってちょうだい】
【……うん、ありがとう。それじゃ……】
 ネオンは得体の知れない胸騒ぎを覚えた。碧の様子も気に掛かるが、何か、もっと大変なことが起きているのではないか。交信が途絶えたあとも、胸のざわつきは大きくなるばかりだった。これは一体なんなのか――
「ネオン様っ! 聞いておられるのですか?!」
 突然の現実からの呼び声によって、思考が遮られる。人がシリアスに浸ってるときに、と若干の苛立ちを覚えつつ、それまで身体を預けていた木の幹に力をかける。
「あーーもうっ分かっ――」
 ぐっと体重をかけ、飛び降りる。いつもやっている動作が一続きにならなかった。原因は手のひらの先の違和感。そして、聞こえた小さな音。それは、見る見るうちに大きな歪みへと形を変え、王国の象徴とも言うべき木が悲鳴を上げる。反射的に地上に着地して事なきを得たが、振り返ったネオンが目にしたのは今まで見たこともない『破邪の木』の姿だった。
 中心部に引き裂かれたような大きな空洞。その周りを取り囲む、大小様々なヒビ。四百年前の魔族降臨の際も傷一つつかなかったという『破邪の木』が、無惨な身体を晒している。
 これがご神託でないなら、何だというのか。あまりの変容にしばし言葉を失っていたネオンだが、意を決して傷だらけの表皮に触れる。瞬時に悲鳴とも懇願ともつかぬ声が彼女に流れ込むが、次第に取捨選択されていき、最も重要な情報が無機質な声で再生される。
「――……!!」
 全てを聞き終わり、力なく木にしなだれ掛かる。それは、四百年の平安が崩れることを意味していた。
「ネオン様?」
「どうなさいました、ネオン様!?」
 身内ですら、ここまで抜け殻のような彼女を見たことはないだろう。文字通りただごとではない王女の異変に兵士たちが駆け寄る。
「……ご神託が……下ったわ……」
 俯きながらようやく絞り出した声は、悔しさと悲しさで震えていた。

 イチカの「待っている」という言葉は本当だったらしい。前方、上空と言っても差し支えないほどの高度にそびえ立つ断崖に、彼らはいた。一つはすでに臨戦態勢。色も形も異なる双剣を構え、感情のうかがい知れぬ眼差しでこちらを俯瞰している。もう一つは一行とはあらぬ方角を見据えていた。一見したところは淑女のようなたおやかな表情だが、その奥には獲物を執拗につけ回す狂気を孕んでいる。一つ――ソーディアスが、息を吐くように呟いた。
「ようやくか」
 彼の言葉を受け、盛大な溜息とともにもう一つ――クラスタシアもどこか芝居じみた口調で一行に呼びかける。
「ほーんと待ちくたびれたわよぉ〜〜。修行の成果は芳しいかしら、イチカ、魔法士?」
 男のみを重視するスタンス。これまでの対峙で分かってはいるが、やはり存在そのものを否定されるのは気持ちの良いものではない。ちっ、と白兎が舌打ちする。
「相変わらずあたいらは眼中にねェってか」
「言わせておけばいいわ。イヤでも眼中に入るようにしてやるのよ」
 答えたのはラニアだった。視線をそらさぬまま愛用の銃に手をかける彼女を見て、それもそうだな、と白兎も気を引き締める。二人の会話を受けて、碧も即座に対応できるよう、神術の構えを取る。取って、ふと気付いた。二刀流の剣士と、怪力のオカマ。もう一つの脅威、半魔の少女がいない。
「結界女」
 碧の懸念を読み取ったかのように、ソーディアスが口を開く。
「サイノア嬢は別件で貴様と遊んでいる余裕はないそうだ。その代わり、」
 右手の銀色の切っ先で、虚空に円を描く。すると、円の内側の空間が暗い靄に覆われ、背景の青とは不釣り合いな呈色を醸し出す。刹那、咆哮と共に黒い影が躍り出た。
「サイノア嬢からのプレゼントだ。受け取れ」
 目視できたのは三体。サイノアが従えていた、灰色の龍だ。各々脇目もふらず、一斉に碧の元へと向かっていく。
「どこへ行くイチカ」
 駆けだそうとしたイチカの後方から、無慈悲な声が降る。
「貴様の相手は未来永劫、このおれだ」
「――そうだったな」
 旋回しながら放った一撃目は空を薙ぎ、二撃目は振り向きざまの長剣とまともに噛み合う。いずれも他に気を取られている相手には対応できないか、できても多少なりとも手傷を負うものと思われた。もちろん開始早々決着がつくなどソーディアスの意に介さないことではあったが、まるで初めから反撃のみを考えていたかのような臨機応変さは、一種無情にも感じられる。
「……恐れ入ったぞ。結界女を見捨てたとはな」
 少なくとも以前のイチカならば、人間としての情が勝っていたはず。多少の戸惑いと高揚感を隠しきれず問うと、またしても予想外の答えが返ってきた。
「……助ける必要がないからな」
 前回までは、それこそ仕方なくというように、己の意思に反しながらも碧を助けていた印象だった。今回は、そもそも“助ける”という概念がイチカから削り取られている。余計な情けを捨て、敵を倒すことだけに特化したのか。擦れ合う金属の向こう、年不相応に落ち着き払った顔つきからは、冷徹さしか感じられない。これは本当に、結界女を切り捨てたということなのか。
 ソーディアスが真意を測りかねている頃、三匹の龍の標的となった碧はしかし動じなかった。涎を垂らしながら押し合いへし合い大口を開けて向かってくる灰龍を見つめ、意識を集中させる。人間ならば皆が全く同じことを考えているということはほとんどないが、彼らは違うらしい。碧に流れ込んできた思念は、どれも彼女の頭部目がけて食らいつくというものだった。
「みんな頭が食べたいワケね! 【(トツ)】!」
 両手の人差し指と親指を合わせ、下方に向ける。地表が波打った次の瞬間、縦長の半透明な球体が大地を跳ね返り、灰龍たちの顎のあたりを直撃。三匹はもんどり打って地面へと叩きつけられる。
 先日の修行時、碧は治療用の神術だけでなく攻撃用の神術もいくつか教わっていた。一般的に神術は守護を主としているが、使いようによっては魔法のように相手を痛めつけることもできるらしい。それが今回の【突】。元々は農作業の負担を減らすために編み出された農耕用神術だったそうだ。【滅獣(ギガ・ビースト)】といい【突】といい何故神術は(【滅獣】は魔法だが)農業系が多いのかと問うたところ、サトナ曰く「神は地上の全てに無償の愛を与えてくださいました。農作を営む民がほとんどのアスラントでは自然の理です」と愛のある答え。それにしては動物ばかりがかわいそうな目に遭ってはいないか、と再三訊ねると、生きとし生けるものの生命を奪うものは神術にはなく、【突】もあくまで動物たちを在るべき場所へ帰るよう警告しているにすぎない、ということだった。たしかに叱ることも愛って言うかも、と碧は若干心にしこりを残しつつも、妙に納得したのだった。
 以上のような経緯から、痛手を負いつつも命は取られない灰龍たちは、よろよろと体制を立て直しつつあった。
「行くわよ白兎!」
「おうよ!」
 だが、彼女たちは反撃の隙を与えない。銃を斜め下方に構えたラニアと、ちゃっかり耳栓を施した白兎のタッグだ。ラニアが三発立て続けに発砲すると、白兎が三連の弾丸に向かって兎使法を引き延ばす。
「【白砲(びゃくほう)三破(さんぱ)】!」
 白兎のかけ声によって、通常の兎使法は三つに分裂。それぞれが援護射撃の役割を果たし、さらに弾丸と一体化して速度を倍増。それだけでは頼りない銃弾も、白兎の技を組み合わせることで超速の攻撃手段に変化したのだ。三つのエネルギー球は見事に命中し、辺りには灰龍の号哭が響き渡る。倒すまではいかなくとも、少女らは徐々に灰龍を圧倒しつつあった。
 ――灰龍が、人間どもに圧されている?!
 黒龍ほどではないものの、灰龍は龍族の中では次点を争う種別。下級の魔族ならばまず歯が立たず、ましてや人間に太刀打ちできる相手ではないはずだ。
「言っただろう」
 ソーディアスの心の内を盗み見るように、イチカが静かに言い放つ。
「“助ける必要がない”と」
 横薙ぎの一撃を、橙の剣の腹で受け止める。甲高い金属音が鳴り響く。もう一方の銀色の剣を振るい、反撃を試みると、他方の剣を防ぐ腕はそのままに、あろうことか反対の腕で斬撃を押しのけた。一歩間違えれば己の腕を犠牲にしかねない戦法だ。しかし、“一歩間違える”気配がない。軌跡が見えているのだと直感した。攻撃は優に数十回を越えた。前回は防戦一方、攻撃など片手で足りるほどだった。それが、短期間でこの成長。否、成長ではない。戻っているのだ。確実に、あの日のあの男へと回帰を遂げつつある。
 イチカは内心驚嘆していた。ソーディアスに、ではない。自分自身に、だ。まさかあれだけの修行で、ここまで動けるようになるとは思いもよらなかった。「あれだけ」と言っても一週間ほとんど何も口にせず、ろくに睡眠もとらなかったのだから、過酷な修行だったことは間違いない。それを差し引いても、ごく小さな動作の一つ一つが鮮明に映る。突きかと思われた片方の剣は受けずに避ける。瞬時に持ち直すのが見えたからだ。半歩後ろに下がっただけだが、先ほどまで立っていた場所はもう一方の剣と交差させながら薙ぎ払われた。
(思った通りだ)
 内心冷や汗をかいた。突きは囮だったのだ。まともに受けていればもう一方からきた斬撃との挟み撃ちに遭い、首を取られていただろう。
「どうした?」
 そんなイチカの心の機微を感じ取ったのか。ソーディアスの口調には、どこか余裕が戻ってきているようだった。否――今のイチカには理解できた。彼は未だ、実力を隠しているのだと。
「今のはほんの準備体操だ。おれを失望させてくれるなよ……イチカ」

 絶え間なくぶつかり合う剣の音、銃声、爆発、地響き。今のところは、皆無事なようだ。断続的に聞こえてくる仲間の命の音を背中で受け止めながら、ミリタムは目の前の魔族を見据える。幸いなことに、人間らしき悲鳴はまだ届いていない。一方で、雄叫びなのか、慟哭なのか、判別のつかない灰龍の鳴き声は頻繁に響く。希望的観測ではあるが、たぶん、碧たちに歩がある。徐々に小さくなっていく咆哮がその根拠だった。もちろん、実際に目にしたわけではないので安心はできないのだが。
「……いいの?」
「なにが?」
「あの龍、やられてるみたいだけど」
 核心を突くが、クラスタシアは表情を崩さない。聞いているのか、いないのか。あれだけ毛嫌いしている女性が相手なのだから、彼にとってはどうでもいいことなのかもしれない。もう少し、水を向けてみる。
「貴方の仲間も苦戦してるみたいだけど、助けに行かないの?」
「……“苦戦”?」
 くすり、と小さな笑い声が漏れる。その瞬間、否、正確にはもう少し前から、ミリタムは形容しがたい悪寒を感じていた。クラスタシアが忍び笑いを始めて、悪寒はさらに強まる。
「……何がおかしいの」
「あァらごめんなさい、気を悪くしないで」
 自らにまとわりつく不快な空気を振り払うように訊ねたため、語気が強まる。一方で謝ってはいるが、堪えきれないのか小さな笑い声は止む気配がない。
「ソーちゃんったらまだ本気出してないのねぇ。助けになんて行ったらアタシが殺されちゃうワ」
 あの二刀流の剣士が力を隠していることが、そんなに可笑しいことなのか。少なくともミリタムには理解できない。
 不意に、くすくす笑いが止んだ。
「ねェ、そんなことより。せっかくアタシたちだけなんだから、もっと二人の世界に浸りましょうよ……」
 その瞬間、悪寒は最高潮に達した。同時にミリタムは直感的に悟った。あのときと同じだ。離れているのに、首元にしっかりと手が添えられている感覚。あのときは碧の【滅獣】で難を逃れた。しかし今は。
 ドレスの裾と、長いポニーテールが視界の隅を通り過ぎた。目の前には姿はない。クラスタシアの笑みが、一層深く刻まれる。腕が伸びる。肩に触れる、直前。
 クラスタシアの腕が弾かれた。反動で仰け反る。ミリタムの背後、左斜め後方に、歪な盾――とは言い難いほど方々に穴が開き、ひび割れていたが――が出現していた。
「……良かった」
 反射的に引いた右手が宙に浮いている。クラスタシアとしては思い出したくもないことだが、似たような経験をしたことがある。戦意喪失状態のイチカに同じように手を伸ばしたところ、『死んだふり』をしたヤレンの神術に阻まれた。
「実戦までちゃんと使えるか不安だったけど、うまく作動したみたいだ」
 魔を退け、火傷のような傷をつけたこれは神術だろうか。ヒトならざる魔族ならばともかく、生粋のヒトであるミリタムが神術を発動させることは不可能ではないだろう。しかし神力のない人間の神術が、魔族に通用するのか。全くの無効であれば、クラスタシアの手は易々と脆弱な盾をすり抜けたはず。ならばこれは魔法なのか。神術と同じように、魔法は同族にもダメージを与える。ましてやこの少年は上級魔法士。あり得ない話ではない。
(でも、そんなことどーでもいいわ)
 なにしろ先ほどの行動はちょっかいでしかない。神術も、魔法も、それを上回る力で打ち砕けばいいだけのこと。だが彼は何もミリタムを殺したいわけではないのだ。
「そんなのじゃアタシは防げないわよ」
 静寂がその場を支配する。力に絶対の自信があるクラスタシアに、動揺は見えない。それでもミリタムは戦わなければならない。策はまだ尽きたわけではないのだから。
「あのヒトの言ってた別件ってなんなの?」
「さァ、なんだったかしら」
 思わぬ反撃を受けてもまだ遊びのつもりなのか、先ほどのちょっかいと同じような接触を繰り返すクラスタシア。対するミリタムは、頼りない盾をそれでも駆使して防御に回る。明らかに惚ける様子から察するに、こちらの質問に真面目に答える気はなさそうだ。ならば、と次の手に出る。
「【其は輝々たる刃・駆けたる閃光】!」
 両手の人差し指と親指で三角形を作り、詠唱を始める。【光刃(シャイン・クロウ)】の構えだ。
「ふふっ、【光刃】? 面白いじゃない。アタシとどっちが強いか力比べといきましょうか」
 以前、鬼の姿をした魔族は反撃する隙もなく光に切り刻まれた。しかし一方で、最強クラスの魔法を前にしても、物怖じするどころか喜色満面。心底冷や汗をかくが、すぐに静かな、しかし力強い声が聞こえた。
「――【歓声を、」
 女の声だ。だがただならぬ力を感じ、注意を向けないわけにはいかなかった。この力は神力。つまりは、神術。まだ子供だが、四百年前のあの巫女と同等の神力を持った異世界の少女。それを中心に、力が巡っているのが確認できた。
「【祝福を・帰還せよ・無色の民】」
 この神術を知っている。
 錆びついた記憶を呼び覚ます頃には、詠唱はすでに完成していて。
「【神々の怒り(ビッグ・バン)】」
「【光刃】」
 解き放たれた神術と、最大の威力を誇る魔法とが彼を取り囲み、爆ぜるまでは一瞬だった。
 果たして逃げる隙があったかどうか。その判断を容易に下せないほどには、ソーディアスは動揺していた。あらゆる魔法を力業で跳ね返し、【剛種】特有の脚力で回避するクラスタシアが、まともに攻撃を受けたのだ。
「動揺するんだな、あんたも」
 すぐ側で落ち着き払った声がした。防御するにはすでに遅く、左肩に奔る衝撃と痛み。振り向きざまに体制を整え、後退して距離を取る。真新しい血糊を刃の先に滴らせ、その様子を見ていたイチカが独り言のように呟く。
「……修行する前は、あんたが手を抜いてると分かってても反応するのがやっとだった。当然隙なんて見つけられるはずもなかった」
 前回はまぐれ当たりで頸部を。今回は肩部と、上腕も掠めた。確実に実力が上がってきていると感じる。
「今のおれなら、いくらでもあんたの背後を取れる」
 確信めいた口ぶりに失笑が漏れた。たかが一週間足らずで、傲慢なことを言う。その程度の期間で、超えたつもりでいる。全てを捨て、自己研鑽のためだけに費やしてきた数百年が、この少年に劣るはずはない。
 そう考えるとソーディアスは愉快で仕方がなかった。あまりにも滑稽で、笑い転げそうになった。転げ回るまではいかないものの、実際彼は異常なほど笑い続けた。気が触れたようにも見えるが、どこか意思のある笑いだ。だからイチカは、その笑いの意図するところが掴めず、ただ警戒心から剣を構え直すしかなかった。
 神と魔の融合。それは決して禁忌とされているわけではないものの、アスラント創世から今に至るまで、進んで試みようとする物好きがいなかったのは事実だ。出自は違えど、互いに言葉を力に換える【言霊】を使用するという根源の部分では軌を一にする、というやや強引なミリタムの説得により、急遽この方法を試してみることになった。試作故、どこまで通用するかは分からない。そもそも発動するのかすら危ぶまれたが、その点に関してはクリアしたようだ。問題はその威力。幸運にも、相手は一瞬にして爆発に飲み込まれた。少なくとも無傷ではないはずだが――
 もうもうと上がる煙の中から、何かが勢いよく飛び出す。致命傷ではないようだが、衣服は破れ、至る所から出血しているクラスタシアだ。普段の調子や雰囲気からは隠されていた男性的な肉体が露わになっている。
「ナメた真似してくれるじゃない……?」
 息を荒げながら、口調は何事もなかったかのような体を装う。そんな彼の姿を目の当たりにして、ミリタムは思う。正直、予想以上の出来だ。不発の可能性の方が高かった中で、十分すぎるほどの手傷を負わせた。試行錯誤を重ねれば、【光刃】を凌ぐ強力な武器になるかもしれない。すぐにでも研究に打ち込みたい気持ちを抑え、静かに言い放つ。
「悪いけど、僕らは最初から一対一で戦う気はないよ」
 そう、端から個人戦に臨もうとはしていない。個人戦に見せかけていただけのことだ。魔族の流儀からすれば卑怯なことなのかもしれないが、彼らの都合など知ったことではない。
 ミリタムの冷ややかな言葉に、しかし婀娜(あだ)っぽい笑みを一層濃くするクラスタシア。ゆらりと右手を引き上げようとして、止まった。手のひらの中央をくり抜くように開いた穴。その少し前に微かに聞こえた銃声。眼前から遠のく銃弾。
「……女の……下等生物の分際で……この、オレ(、、)の、腕を!!」
 瞬間、クラスタシアの全身から噴出した闘気は地面を穿ち、あらゆる岩石、砂礫を天空に吸い寄せ、風を荒れ狂わせ、空を黒く染めた。初めて彼と対峙したときも、挨拶代わりと言わんばかりにその力を見せつけていた。だが、あのときと決定的に違うのはその変貌ぶり。秀麗な容姿は鬼の形相と化し、結われていた髪は根本から逆立ち、筋骨隆々と盛り上がった身体のせいで華麗なドレスは布切れにその姿を変えていた。
「なっ……貴様ら!」
 ソーディアスが焦燥したように叫ぶ。
「悪いことは言わない。撤退しろ」
「はァッ?!」
 狼狽した様子から一気に冷静なそれに変わり、思いもよらぬ助言。素っ頓狂な声を上げたのは白兎であった。
「ああなってはおれでは手が付けられん。死にたければ立ち向かえ」
「てめェらが殺しに来たンだろーがよ!」
「これはおれの本意ではない」
 もはや完全なる独擅場で、突っ込みも虚しく白兎は力なく肩を落とす。
「奴もああ言っている。逃げるぞ」
「え、う、うん……」
 一方、こちらも意外性というのか、以前ならば従わなかったであろう敵の発言にもあっさりと同調するイチカに戸惑いを覚える碧。周りを見れば、他の三人も各々の方法で危険地帯から離れ去ろうとしていた。
 これまでも異様な相手ではあったが、今回は異様さと共に何か嫌な予感がする。イチカは異常事態の根源となった魔族に注意を向けつつ、どこかに身を隠しているらしい二刀流の剣士の気配も探りながら、前を向く。
 目の前に、クラスタシアがいた。何故。相手は動いていないはず。否。イチカは悟る。この土地一帯に充満した彼の力を、彼の気配だと錯覚していたのだ。この周辺全てが彼なのだ。だが気付くには遅すぎた。未だ両目をつり上げ、耳元まで引き裂けそうなほど上向いた口角、逆立った髪。鋭利な何かが彼の右半身から突き出された、とどこか他人事のように認知して――
「いやああああああああああ!!!!!」
 誰かの泣き叫ぶ声が、悲しく木霊した。
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